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第96話 81 聖女ではありません

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 馬車が動き出す振動が体に響く。乗り込んですぐはバクバクとうるさかった心臓は、今度は違う意味で緊張を訴えて脈打っている。
 馬車に同乗しているのは私とその隣に座るメリッサ、そして向かいに座る兄の3名のみ。
 移動している小さな個室状態の為、声が漏れたところでせいぜい聞こえるのは御者台にいるクライブまでだと思われる。
 込み入った話をするには最適な場が整ったところで、兄が「さて」と切り出した。

「何から話すべきか迷うところだが、とりあえず一番気になっていたことから聞かせてもらおうか」
「はい」

 尋問という感じではなく、ゆったりとした態度と声で語りかけてくる。
 背筋を正して頷いたものの、私の事情は既に言ってあることが全て。これ以上答えられることがあるとも思えなくて身構えた。

「まず、息の止まっていた私を蘇生させた方法に関してだ」
「私は心臓マッサージと人工呼吸をしただけです。助かるなんて、本当に運が良かったです」

 何を言われるのかと身構えていたところで、予想外な話を切り出されて思わず目を瞬かせた。
 私の中では、兄が生き返ってよかった、と既に片付いたことになっていたのでそれを指摘されたことに驚いた。

(あの状況なら心肺蘇生法は一般的な手段だと思うけど)

 小首を傾げて兄を見れば、呆れを滲ませた灰青色の瞳と目が合った。

「おまえにとって当たり前のことでも、周りの人間から見ると普通ではないことをそろそろ自覚してほしい。アルフェが行った蘇生法など、誰も知らない」

 冷静に指摘されて息が止まった。

(知らないの!?)

 思えばあのとき、クライブはただ呆然としていた。
 息をしていない兄に動顛して頭が真っ白になってしまったのかと思っていたけど、あれは処置の仕方を知らなかったから?
 動かないクライブを見て、救命処置を知らないのか、とは脳裏を過った。だから咄嗟に私が動いたわけだけど、とにかく必死だったからそこを深く考えている余裕なんてなかった。
 でも城育ちとはいえ夏にランス領に帰省していたなら湖で泳いだだろうし、あれだけ大きな湖なら年に何人かは溺れる人も出てくるはず。
 それを想定して習っていそうだけど、あのとき動かなかったということは知らなかったと考えた方が自然ではある。

(そういえば昔の蘇生法って、逆さ吊りとか鞭打ちとか、とんでもなかった気がする……)

 前に私がいた時代でも誰もが習うことではなかったし、知らなくてもおかしくはない。
 生憎と図書室では医学書関連は難しくて避けていたから、心肺蘇生法がこの世界にあったかどうかはわからない。

 兄の反応を見るに、なかった、んじゃないだろうか。

 じわり、と首筋に冷たい汗が滲む。私を見つめる眼差しが過度な期待を含んでいるように思えてきて猛烈な焦りが生まれた。

「あれは……言っておきますが、あれで万人が生き返るわけではありません。一定の条件下において、生き返る可能性がある、というだけです」
「たとえば?」
「今回のように突発的に心臓が止まった場合に限り、すぐに処置できれば生き返ることはあります。心臓が止まってから時間が経ちすぎていたら駄目です。体が毒に侵されている場合や、致命傷を負って死亡した時も無理です。重病人や老衰の場合は息を吹き返すことも稀にありますが、根本的な治療が出来なければ一時しのぎにしかなりません」

 慌てて誤解をされる前に言い募った。言い連ねていく内に、本当に奇跡に近い確率だったのだと改めて思い知らされる。
 最初、私が心臓マッサージをしても兄は息を吹き返さなかった。
 あの行為が無駄だったとは思わないけど、その後の人工呼吸で酸素を送り込んだのがよかったのか、それともクライブに変わってもらった途端に息を吹き返したということは、押す力が強すぎて電気ショック代わりになったとも考えられる。
 この辺は医学に詳しくないので想像に過ぎないけど。

「それに生き返っても、障りが出る確率も高いのです。だから兄様が息を吹き返して、今こうして話していられるのはほぼ奇跡です」

 幸いにも、兄はこれまでと変わった様子は見られない。
 あのときは途方もなく長い時間に思えていたけど、飛び降りてからは案外短い間での出来事だったのだと思う。
 クライブも飛び込んですぐに兄を引き上げてくれたこと。即座に処置に入れたこと。その行為を邪魔されなかったこと。
 そこに兄の生命力のすべてが噛み合って、ようやく成し遂げた奇跡。

(以前の私の努力も無駄じゃなかったってことなんだろうな)

 それだけでなんとなく少しだけ、報われた気がする。
 私の説明に黙って耳を傾けていた兄は暫し考えてから、口を開いた。

「なるほどな。私とて、そう簡単に誰も彼もが生き返るとは思っていない。クライブからは状況を説明されたが、やり方としては連続して心臓を圧迫して……アルフェに口づけられたら、息を吹き返すのか」
「私がくちづけっ!?」

 躊躇いがちに言われた突拍子もない一言のせいで、素っ頓狂な声が口から飛び出ていた。
 隣でメリッサが驚きに肩を跳ねさせたけど、私もとんでもなく動揺している。

「違うのか。クライブが、アルフェが私に口づけをしたら生き返った、と」
「あれは口づけではないです!」

 咄嗟に叫んでしまった。
 女の子らしく赤面する場所かもしれないけれど、そんな可愛い態度は取れない。どころか、誤解をされていたことに一気に血の気が引いていく。
 兄も自分が妹に唇を奪われたという事態にどんな顔をすればいいのかわからないのか、強張った顔で私を見据えている。
 違うから。待ってほしい。とんでもない誤解をしないで!

「蘇生させる為に止むを得ずしたことであって、けして兄様の唇を奪うなどという、恐れ多いことをしたわけではありません!」
「いや、私の口などどうでもいい。必要なことだったのだろう。ただこの場合、……アルフェの方が思うところがあるんじゃないのか」

 申し訳なさそうに眉尻を下げられて困惑してしまう。そんな目で見られると居た堪れなさが増す。
 私は兄の鼻を抓んで息を吹き込んだだけ。紛れもなくただの救命行為。
 とにかく必死だったから、兄の唇の感触すらまったく覚えていないレベル。

「あれは救命処置ですし、別に初めてでもな……猫と! よくしていましたから!」

 動顛していてうっかり口を滑らせそうになったことに気づき、咄嗟に誤魔化した。
 一瞬、兄の目が細くなったように見えたけど、第一王位継承者の唇が猫と同レベルに扱われたことに少し気分を害しただけだと思いたい。急に馬車が大きく揺れたので、そのせいもあるに違いない。
 それより今は、私に口づけられて生き返ったと思われていることの方が大問題。

「あのときは酸素を……ええと、自分で息が出来ない兄様の代わりに息を吹き込んだのです。やり方さえ知っていれば誰でも出来ます!」

 理系じゃないから酸素の説明が難しくて適当に濁したけど、とにかく頼むから、まかり間違っても死人を生き返らせることが出来る聖女だと勘違いするのだけは絶対にやめてほしい。
 遺体を連れてきて、片っ端からキスしてくれと言われる事態になっても困る。
 私がキスしたところで生き返らないのだから!

「あのときクライブが同じことをしていたとしても、きっと兄様は生き返りました!」
「…………、そうか」

 力説した私の前で一瞬想像してしまったのか兄が眉間を寄せ、不快さを示して盛大に顔を歪ませた。綺麗な顔は歪むと迫力が増す。ちょっと怯めば、それに気づいた兄が肩から力を抜いた。

「アルフェだから出来た、というわけではないのだな」
「違います。それを期待していただいたなら申し訳ありませんが、断じて違います」
「いや。こちらとしてはアルフェにしか出来ないと言われるより、万人が出来る処置法である方が価値としては高い。一人で救える人の数は知れている」

 兄はあっさりと言うと、安堵したかのように深く息を吐き出した。

「だがもしアルフェにしか出来ないと言われたら聖女として祭り上げられた挙句、内戦どころかおまえの取り合いで国同士の戦になりかねないところだった」

 恐ろしい可能性を示唆されて、顔が引き攣った。
 兄が言うように、もし私に本当にそんな力があったとしても自分の目に映る範囲しか救えない。
 それでも欲しがる国はきっとあるんだろう。理由は様々だろうけど、そんなものに頼らなければならない時点で、ろくでもないことはわかる。

「知っていれば誰にでも出来ることです。私が知り得る限りの処置は後で書面にしてお渡しします」

 はっきりきっぱり断言すると、兄が嘆息を吐き出した。僅かに首を傾けた拍子に癖のない白銀の髪をさらりと揺らし、こちらを窺う眼差しを向けてくる。

「その知識の価値がどれほどかわかっているか? 安易にくれてやると言っていいものではないだろう。それこそ自分こそが王に相応しいと言って立てば、誰もが支持するだろうに。女であることなど些末なことになる」

 兄も本気で言っているわけではないだろう。けれど、とんでもないことを言い出されて思わず渋面を作った。

「王には国を背負う責があり、そのためには時に非情になることも強いられるでしょう。民の恨みつらみを受けても、自分は正しいと言い切る強さも持たなければならない。知識があってもうまく活用できず、一部の人の悪意ある言葉一つで立ち竦むような私には到底無理な話です」

 自分も周りも生きたいなら、使えるものは何でも利用してしがみつくべきではある。でも、そうするには代償があまりにも大きい。これでは釣り合わない。
 兄にそれを強いてもいいのかとも思うけど、兄はこれまでそれを自覚して生きてきているはず。先がないと思って生きてきた私とは、最初から覚悟が違う。

「それに知識だけでも私が持っていると公になれば、困った事態になりかねないではありませんか」

 王家には特殊な子どもが生まれることがあると言っていたけれど、同時に兄は知っているのは上層部だけで、世間には秘されているとも言っていた。
 さっき言っていたように、下手に公にすれば他国から余計なちょっかいをかけられる可能性が出てくるからなのだと考えられる。
 ならばこれを盾にして自分の生存を望むことは、得策とは言えない。

「だいたい私は……ずるをしているのです。ただ最初からそうと知っていた、それだけなのです。自分で努力して勝ち得たものではありません」

 心肺蘇生法に関しては以前の私の努力も勿論あるのだけど、それだって教えてもらったことに過ぎない。
 自分で考えたわけではなく、先人が積み上げてきた知識を深く考えずに「そういうもの」として享受していただけ。
 原理まで理解しているわけでもないから、中途半端な付け焼き刃の知識。
 私自身が、優れているわけではない。

(本来ここに生まれた私が持ちえなかったものを利用するのは、ずるい)

 まっすぐに兄の目を見られなくて視線を足の上に置いている自分の手に落とした。すると兄が何度目かわからない溜息を吐き出すのが聞こえた。

「馬鹿だな」

 自分でも馬鹿なのは認めるけれど、呆れた声でしみじみと言われるとさすがに傷つく。
 上目遣いに見れば、視線の先には凪いだ湖面のように静かな瞳で私を見つめる兄がいた。

「あのとき、アルフェは私を見殺しにすることが出来た」
「!」
「陛下と妃殿下がこのさき子を設けるとは思えないし、王位争いを避けるために一夫一婦制となった法を改正するにしても時間が掛かる。庶子には王位継承権は与えられないとなれば、アルフェが唯一の王族ということになる。そうなれば、誰もおまえを処罰することは出来なくなったはずだ。アルフェが王になるわけではないが、誰かを娶り、生まれた子が次の王になる」
「兄様を見殺しにすると言う選択肢は、私にはありません」

 冗談でも言っていいことじゃない。
 そんな気持ちを込めて兄を強く見据えれば、微かに兄が笑った。

「そうだな。アルフェはそれを選ばなかった」

 頷いて、優しい目を私に向ける。

「知識というのは、どう使うかなのだと私は考えている。元々持っていた、ということには実は重きは置いていない。どんな知識だろうと、ただ持っているだけなら宝の持ち腐れだ。アルフェがそれを、私を生かすために使ったということに意味がある」

 小さくて招かれ、体を少し前に出せば伸びてきた手が私の頭に乗せられた。小さな子どもを褒めるように、兄の掌が私の頭を愛しげに撫でる。

「私はそれを評価する。二度もアルフェに助けられたことを、けして忘れはしない」

 穏やかに微笑んで言われた言葉に、撫でられる手の温かさに、ぎゅっと息苦しいほど胸が詰まった。けれど嫌な苦しさじゃない。
 兄がこんな顔を私に向けてくれるのは、この言葉を与えてくれるのは、私が自分で勝ち取ったものなのだ。
 私の選択が、全部が全部間違えていたわけじゃないと言われているようで鼻の奥がツンと滲みた。

「……その対価としてメリッサとセインを密かに逃していただけると言ってくださるのでしたら、それは有り難く受け取ります」
「アルフェはもう少し欲張りになってもいい」

 今ならば、と欲を出して強請れば、兄が苦く笑った。

「実のところ、アルフェもその周りも助ける方法はある。王家側におまえが皇子であると偽らなければならない理由があればいい話で、それはあるのだ」
「それは、どういう……」

 兄の手が名残惜し気に離れていったので、座り直した。兄も座り直すと、薄い灰青色の瞳で私を見据えた。
 その表情は先程と打って変わって厳しく、心臓がドクリと大きく跳ねた。

「ただ、ここから先は出来ればアルフェには聞かせたくない話だ。胸が悪くなるようなことで、聞けば間違いなく傷つく」

 傷つく、という言葉に心が竦み上がる。だけどそれを知らなければ、どうにも動けないのだということもわかる。
 こくり、と急速に乾いたように感じる喉を嚥下させた。心臓が胸の下でドクンドクンと不安を訴えて脈打っている。怖いか怖くないかと言われれば、当然怖い。
 だけど。
 
(もう私は、何も知らないまま踊らされるのは嫌)

 きっとこれは、いつかは向き合わなければならないことなのだ。
 息を吸い込むと、覚悟を決めて口を開いた。

「聞かせてください」

 告げた私を見て、兄の視線がゆっくりと私の隣へと向けられた。
 つられて視線を向ければ、メリッサが強張った顔で私を見つめていた。不意に隣から伸びてきた手が、そっと私の手を握る。その指先は冷たく、緊張していることが伝わってくる。

「メリッサ?」
「ここからは、私がお話しさせていただきます。私が知りうるすべてを」

 メリッサが榛色の瞳を伏せ、囁くような声で告げた。

「アルフェンルート様が、お生まれになった時のことを」


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