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第94話 幕間 恋心
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※クライブ視点
夏とはいえ夜の湖で泳ぐ羽目になったアルト様は、ただでさえ疲弊していたせいか高熱を出して寝込んでいる。
2日目となった今夜もまだ熱は下がらない。
昼間はメリッサ嬢が、夜は母が付いて看病していて、時折シークが様子を窺う。
はやく良くなってほしいと思う反面、このままもうしばらく何も考えず、眠らせてあげたいという気持ちが鬩ぎあっている。
しかし「随分魘されている」とシークが顰め面をしていて、それを聞いた僕も苦い顔になった。
だが僕には何もできない。あれから顔すら見られていない。
皇子ならまだしも、皇女であるならば不測の事態でもない限り僕が寝所に入ることなど許されない。せいぜい部屋の前で護衛に徹するだけだ。
それすら夜は特に母が付いているのだから心配はないし、シークが囮になっていた時と違って屋敷の護衛も強化されている。
相対していた刺客は湖に飛び込む前に手足を潰し、自害されないよう口に布を詰めてテラスに転がしておいたので、あの後で捕縛された。
焚かれた白煙は痺れ薬だったようで、吸い込む量が少なかったからか今は父も含め屋敷の兵も命に別状なく回復に向かっている。
ひとまずこれ以上襲われる可能性は低いので、今の自分は突っ立っているだけとも言える。
それでも扉越しとはいえ、傍から離れることに不安があった。
苦しげに訴えられた声が頭の中に引っかかっていて、今も離れない。
『私はこんな場所に、生まれてきたくなかった……っ』
どんな思いで、僕に向かってそれを吐き出したのか。
どこかに逃げ出してしまいたいと言いたげだった瞳の意味。
生まれてくるべきではなかったと告げられた言葉の重さ。
ふとした瞬間に纏わりついていた死の気配。
その理由を今更ながらに思い知って、何もわかっていなかった自分に歯噛みすることしか出来ない。
「クライブ。少しいいかしら」
昨夜同様、看病に当たっていた母が困った顔でアルト様が休む部屋から出てきた。
アルト様の容体に何かあったのかと全身に緊張が走る。
弾かれたように強張らせた顔を上げれば、そんな僕を見て母は少し目を瞠った。すぐに僕と同じ色をした瞳を細め、安心させるように微笑む。
「熱は少しずつ落ち着いてきているようだから大丈夫よ。ただ、ひどく心が弱っていらして」
そう言って、柔和な微笑みを崩して母が珍しく難しい顔をする。
「アルフェ様があなたに謝りたいと仰って……泣かれるの」
ほとほと困り果てたと言うように眉尻を下げた。意外なことを告げられて愕然と息を呑む。
(謝るべきは、僕の方だ)
確かに、アルト様には性別を偽られていた。ずっと騙されていた。
しかし立場を考えれば、おいそれと言えるわけがない。まして、悲痛な声で語られた話を聞いてしまった後では憤りなど抱くはずもない。
幼い心を奮い立たせ、考えつく限りに必死に抗ってきた彼女を責めるのはお門違いだ。
それに、アルト様が真実を告げられないと思えるような真似を最初にしでかしたのは、自分だ。
初めて言葉を交わした、あの日。
最後の希望のつもりでやってきていたかもしれない非力な少女に、自分はどれほどの恐怖を植え付けたことか。
けして許されることではない。
それなのにアルト様は恐怖を胸の内で押さえつけ、警戒しつつも、結局は僕を許してくれていたのだ。
立場を考えれば、あの方はもっと僕を警戒すべきだった。
自分があちら側の陣営だったとしたら、何を呑気に距離を詰められているのかと、その甘さに頭を抱えたくなったはずだ。シークが以前言っていたように詰めが甘くて、間の抜けたところがある。
でもきっとそれが精一杯な、ただの少女だったんだ。
そんな相手を、どうして責められる。
僕がもっと慎重になっていれば。
シークに釘を刺されていたにも関わらず、自分の勝手な考えで動いたりしなければ。
最初からちゃんとアルト様を信じて、親身に寄り添っていれば。
そうすればもっと早くに、彼女を取り巻く絶望的な状況から救い上げることが出来たはずなのだ。
(償わなければならないのは、僕の方だ……っ)
奥歯を噛み締める僕に気づいたのか、母が困った息子だと言いたげな目を向けてくる。
本当に図体ばかり大きくなって、中身が未熟なままの息子で恥ずかしくなってくる。
母は小さく嘆息を吐いて、やんわりと僕の背を掌で撫でた。
「本来、息子とはいえ皇女殿下の寝所にあなたを呼ぶわけにはいかないのだけど。とても見ていられないから、少しだけ顔を見せてきなさい。でも無理をさせては駄目よ」
「それは、勿論わかっています」
背を押されるまま、躊躇いつつも薄暗い部屋に踏み入った。母はアルト様に気を遣ったのか、少し開けたままの扉の脇で待つことにしたらしい。
眠りの邪魔にならないよう、小さく火が灯されているだけの部屋に一人で踏み入ることに緊張する。
罪悪感からかベッドに進む足取りは遅く、つい忍ばせてしまう。静かな部屋の中、強く脈打っている心音が響いてしまうのではないかと思えて息が詰まった。
辿り着いたベッド脇に佇み、覚悟を決めてから覗き込む。
落ち着きつつあると言われたけれど、まだ明らかに熱を帯びて上気した頬。ぎゅっと閉じられたままの目元は赤く、濡れた目尻が痛々しい。
(またそんな風に口を引き結んで……)
薄い唇に手を伸ばしかけて、そういえば皇女だった、と脳裏を過って慌てて手を引っ込める。
これまでにも気安すぎると怒られてきた。思い返せば自分の行動は皇子相手だとしても問題があったけれど、皇女相手となれば尚更に碌でもないことしかしていない。
気配で気づいたのか、睫毛が小さく震えた。閉じられていた瞳が重たげに持ち上げられる。
「クライブ?」
しばしぼんやりとしていた瞳が僕の姿を映し、ひどく怯えたような顔をした。
自分の存在がそんな顔をさせてしまうのかと思ったら胸が軋んで、声が出せなかった。
顔を強張らせながらも微かに唇が動き、ひどく擦れた声で「ごめんなさい」と苦しげに紡がれた。
その一言が、心に深く鋭く突き刺さる。
抉られたように痛くて、咄嗟に奥歯を強く噛み締めていないと情けなく泣きそうになった。
(あなたが僕に謝ることなんて、)
ない、とは言わない。
だけどそれ以上に僕が責められるべきだった。詰ってくれればよかった。「おまえが最初に余計なことをしなければ」とでも言って、怒ってくれればよかった。
それなのにその口は、「騙していて、ごめんなさい」と繰り返し謝る。
声は弱々しく、僕を見つめていた青い瞳は開けている力すらないのか力なく閉じられていく。
「気にかけてもらえる資格なんて、なかったのに」
「っそんなことはありません! 僕らがもっとはやくに気づいていれば、こんなことにはならなかった。そうすればアルト様が苦しむことなんてなかったんです……!」
そこでようやく喉から声を絞り出せた。自分でも情けない程に声が震える。
本心から告げているのに、アルト様の耳には上滑りしているようにしか思えない。
しばしの沈黙の後、「ちゃんといわなければいけないのは、私の方でした」と小さな声が返ってきた。
壊したくなかったのだと切なげに言われ、胸が引き絞られる。
「ここにきてから、ずっと、夢をみてるみたいでした」
うわごとのように、熱を帯びた吐息混じりの声が部屋に落ちる。
熱に浮かされているせいか意識が夢現なのか、それは独り言のよう。
「……夢を、みていたかった」
小さく呟かれた言葉に殴られたような心地だった。ぐらりと視界が揺らぎそうになる。
ここに来てからしていたことなんて、誰もが経験しているなんてことない休日だ。
カードゲームも、近隣の散策も、ちょっと町に降りることだって。
いや、それよりも。
ドレスを纏い、髪を結う。特別飾り立てていたわけじゃなく、むしろ侍女らしく簡素な格好だった。でも普通に少女に見える姿になること。
その姿で、兄の隣にいられる。
たったそれだけすら、この方にとってはきっと夢のようなことだった。
思い至ったそれに対し、どんな顔をすればいいのかわからない。その胸の内を想像するとうまく息が出来ない。自分の至らなさに後悔だけが襲い掛かってくる。
閉じられた瞼を押し上げ、目尻から滴が零れ落ちた。
夢の終わりを嘆くかのように。
「でももう、現実に、もどらなきゃ」
自分に言い聞かせているかのようなそれは、ほぼ吐息に近い呟きだった。嗚咽もなく、ただ静かに涙だけが溢れて落ちていく。
声を上げて泣く姿も見ていられなかったけれど、こんな風に泣く姿も見ていて胸が苦しい。
駄目だと頭の片隅では冷静にわかっていた。それなのに、気づけば手を伸ばしてしまっていた。
濡れた目尻に、恐る恐る指先を触れさせる。
さすがに今までのように躊躇いなく触れることは出来ない。そっと赤く跡が残らないよう、指の腹で涙を拭う。
緊張で指が震えないようにするのに必死だった。
その行為ひとつにすら、心臓がバクバクとうるさく脈打った。唇を引き結んでいなければ、口から心臓が飛び出してくるんじゃないかと思えるほど。
シークに「女だと知れば今までと同じようには出来ないだろう」と言われた時、内心では出来ると思っていた。
だが、実際はどうだ。出来るわけがない。
今まで自分はどんな顔で、どんな風に接していたのかすらわからなくなる。
閉じられていた瞼が震え、ここでやっと表情が涙につられて切なげに歪んだ。
「私……、」
微かに唇が動き、だけどそれはほぼ吐息でちゃんと声にはならなかった。
「──……」
唇が僕の名を呼んだように見えた。
けれど、その後に続けられた声にならない声は僕の耳まで届かない。
ただ言葉の代わりみたいに、一筋零れた涙が指先を濡らしただけだった。
(いま、何を)
言おうとしたのか。
ゴクリ、と息を呑んで見下ろした。
胸がざわりと揺れる。そんな顔をして、何をそんなに伝えたかったのか。
受け取り損ねてしまったことに妙に焦りが生まれる。
しかし既に意識は眠りの中に落ちてしまったのか、微かに開いた唇はそれ以上動かない。熱を帯びた呼吸が浅く繰り返されているだけだ。
先程よりは少し落ち着いた表情になったような気もするけれど、苦しげなことに変わりはない。この状態のアルト様を起こして聞き返すわけにもいかない。
また謝罪だったのだろうか。
そう自分に言い聞かせ、涙に濡れた指を掌に握り込む。
(本当に、女の子なんだ)
汗で首筋に張り付いた髪が目につき、その白く華奢な首にドキリとさせられる。
今まで見ていたものと変わらないはずなのに、どうしたって今までのように皇子だとは思えない。
改めて突き付けられたそれに、今更ながらに動揺が走る。
さすがにこれ以上の長居は出来ない。
出来るだけ音を立てないように身を翻すと足早に部屋を出た。
どこまで声が聞こえていたかわからないけど、待っていた母の顔を見て、こういう時になんて言ったらいいのかわからない。口を開きかけたけれど、気まずくて口ごもる。
それを理解しているのか、母は特に何も言わずにただ頷いて部屋の中へと戻っていった。
静かに閉められた扉に思わず安堵の息が漏れる。
強張っていた体から力が抜けて、一気に全身に重みが戻った。思ったよりもずっと緊張していたようだ。
思えば高貴な身分の女性の寝所に入るなど、人生において初めての経験だ。本来ならばありえることではない。
(それも、皇女だなんて)
女性だと知らされていなかったことでシークを責めたものの、思い返してみればいくつもヒントは散りばめられていた。
シークのアルト様に対する態度は、思えば弟に対するそれではなかった。
見舞に花を贈り、誕生祝いにお忍びで街に出したときは衛兵ではなく侍女の服を貸し与え、遊び相手をするときには驚くほど甘やかしていた。
そして僕が良からぬことをしたとわかれば、凍り付きそうに冷ややかな眼差しで鉄拳制裁を食らわせてきた。
やっとかまえるようになった弟が心底可愛いのだと思い込んでいたけれど、本当は妹であったならば当然の扱いだ。
むしろこれまでの自分の行動を考えれば、苦言とあの程度の制裁で済まされただけかなりの温情が与えられていたと言える。
(こんなことなら、もっと本気の拳で殴られておくべきだった)
そしてアルト様自身、皇女なのだと理解してから思い返してみれば、思い当たる節しかない。
華奢な体も、驚くほど弱い力も。どうして今まで少年だと思っていられたのだろうとすら思える。
近寄りすぎれば警戒されたし、安易に触れた時などは顔を強張らせた。離してほしいと口をへの字に曲げ、距離が近いと怒られたことは何度もある。
女装されているときに胸元に視線を向ければ、侮蔑に満ちた瞳を向けられた。
(それに……キスまでしたわけで)
アルト様は息のないシークに対しても、していたけれど。
しかしあれは必死な中にも、まるで命を吹き込むような神聖さが感じられた。自分がしたそれとは全く意味が違うことくらいはわかる。
僕のそれは、衝動的だった。
胸の内からこみ上げる熱の抑えがきかなかった。当然、そんなの言い訳ですらない。
皇子に対しても、あの行動はどうなんだとは思った。しかし男であれば、犬に舐められたようなものだと思われていると考えていた。あのときは気が済むまで殴ってくれればいいと思った。
でも少女であったというのならば、狼と二人きりの状況で殴れという方が無理がある。
逆上されて掴みかかられたら、と考えれば何もできないだろう。
思い返すと血の気が引いていく。
知らなかったとはいえ、自分のあまりにも無遠慮で無礼な態度に顔が強張る。
『──クライブは、私が女の子だった方が良かったですか?』
長いスカートの裾を僅かに翻し、振り返って僕を探るように見つめた深い青い瞳。
そう問いかけられたあの時、ギクリと胸が竦んだ。
自分の中にある、卑しい熱情を見透かされているのかと思ったのだ。
「そんなわけがない」と言うべきなのに咄嗟に口は動かず、かといって馬鹿正直に頷くことなど出来ない。
いや、気づかれているならばこんな感情を抱いて申し訳ないと謝るべきじゃないのか。ちゃんと諦めるから安心してほしいと言った方がいいのかもしれない。
そう脳裏を過ったけれど、いくら諦めると言われてもそんなことを聞かされれば警戒されるに決まっている。ここは曖昧にしたまま、誤魔化すべきだと逃げの思考に走りかけた。
しかし不意打ちの問いに迷ったせいで、その間に妙な沈黙が出来てしまっていた。今更否定しても怪しさだけが残る。
ならばここはどう切り返すのが正しいのか。
返す言葉を思いつかずに、呼吸すら忘れてその場で固まってしまった。
それに対し、アルト様が何を思ったのかはわからない。
暫し僕を見つめていた青い瞳を細めると、眉尻を下げて疲れたように微かに笑んだ。
『……私は、女に生まれたかった』
その言葉に、自分は愚かにも期待したんだ。
こちらの気持ちを見透かして尚、そう言われているのだとしたら。想いが伝わったところで皇子相手にどうなるわけでもないとわかっていても、それでも「もしかして」が脳裏を過った。
一瞬でもそんな碌でもないことを考えた自分は、底なしの馬鹿だったと思う。
アルト様が考えていたことはそんなことではなくて、もっと、ずっと、重たいものだった。
必要な人なのだと告げた僕を見て、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。強く歯を噛み締めて唇を引き結んだ。
何もわかっていなかった僕が返した言葉は、どれほど薄っぺらく響いただろう。
シークではなく、僕なんかに弱音を零してしまうぐらい、きっともう限界だった。
シークに語った以上に、心を苛まれることは多々あっただろうことは想像に難くない。
アルト様は妃殿下のことには触れなかった。触れるだけ無駄だとでも言うのか。それとも口にしたくない程に、心を磨り潰されてきたのか。
思えば母親と混同されることをひどく嫌がっていた。恐怖すらしているように見えた。
本来は彼女を守るべき存在すら、敵でしかなかった。
誰も頼れず、これまでどんな想いで先も見えない中を手探りで歩き続けてきたのか。
周りにいた片手に満たない人達も、彼女が守らなければならない対象でしかなかった。
細い両腕を精一杯のばして一人で抱えてきたんだ。その首を懸けてまで、守ろうとするぐらい。
(アルト様が望まれていたことなんて、ささやかものだっただろう……っ)
命で贖わなければならないほど大それたことなど、何も考えていなかった。
望まれていたのは、誰もが当たり前に明日があると信じられる生活だけだ。
今も頭に残っているのは、歌うように告げられた言葉。
『たとえば誰かを好きになって、結婚してみるのもいいかもしれないです』
夢見るように仄かに笑って、嘯いた。
しかし思えばあれは、本当に心からの願いだったに違いない。
本来の立場であれば、誰でもいいとはいかないまでもそれなりに叶えられたであろう願い。
けれど性別を偽らざるを得なかったアルト様にとっては、途方もない夢物語。
男として育って、メリッサ嬢を好きであるとしても、女という性別故に本当の婚姻というわけにはいかない。
それにもし。もしも、心が女のままであるならば。
偽りの姿で男に恋をしたとしても、どうしたって実らないと考えるだろう。皇子という立場的にどうにも出来ない。
男にも、女にもなれない。
そんな中途半端な立ち位置だったアルト様にとって、誰もが当たり前に経験している恋一つままならない。どちらを好きになっていいのかすら、わかっていなかった可能性もある。
そんな相手に、何もわかっていなかったくせに手を出した自分は、なんて愚かなのか。
碌でもないことしかしていなかった僕に向き合い、笑いかけてくれるようになったことに呑気に心を躍らせていた。
弱音を零されたことにすら、内心では歓喜していた自分に卑しさすら覚える。
「──ひっどい顔だな、クライブ」
警備は強化しているとはいえ、この部屋付近は人払いされている。それをいいことに奥歯を砕かんばかりに噛み締めていたところで、角を曲がって現れたニコラスが呆れた声を投げかけてきた。
ゆっくりと強張らせたままの顔を上げ、八つ当たり気味に睨みつけても肩を竦められるだけだ。
「いつもへらへら笑ってるいけ好かない小僧がそんな顔するなんてね」
「へらへら笑っている顔に関しては人のことは言えないでしょう」
「俺のこれは地顔だから。おまえ、いま糸目の人間全部を敵に回したからな。背後に気をつけろよ」
こちらの気持ちを解すつもりなのか、くだらない軽口を叩く。二人だけだからか砕けた口調だ。
しかしすぐにいつも笑って見える顔が引き締められた。
「吐いたぞ」
簡潔に告げられたそれには、自分もすぐに意識を切り替えた。
今回ほど追い詰められた状態ならば、向こうも確実な手勢を送ってくるだろうという予想の元、わざわざシークが囮になってまで生け捕りにした刺客だ。
シークの拷問の掛け方は暴力よりも薬を使う方が多い。訓練されていれば暴力に訴えても吐くことはないので、心の方を壊しに行く。
今回はシーク自身が行っていることから考えても敵は粘った方だ。
あの作り物めいた顔で、心を抉る甘い言葉で、本人が守りたいものを餌に心の弱い部分に毒を染み込ませる。ただでさえ薬で弱っている相手の希望を次々に削ぎ落として追い詰めていく様は悪魔のよう。
どの道、死罪となる相手だ。それに関して同情はない。ただシークを敵に回したくないとだけ思う。
あのえげつなさをアルト様が知れば、絶対に兄に近寄らなかっただろう。だがきっとこの先もシークは彼女の前ではそんな様など露ほども見せないに違いない。
「どちらですか」
「公の方。アルフェ様がこっちに来てることは想定していなかったみたいだ。まぁ、普通はこの状況で呑気に遊びに来てるとは考えない」
「子息の方とは別件だということですか」
「そう。こっちは公で確定したから、長子に関してはセイン・エインズワースが動く。あの家に顔パスで入れるのはあの子ぐらいだしね」
意外な名前を耳に入れて目を瞠れば、「ここに来る前に殿下があの子と折衝してたから」とあっさりと言われる。愕然とした。
「そんな話、僕は聞いていません」
シーク付きの近衛は常時三人体制で組んでいて、最低でも一人は必ず付いている形になっている。
自分は近衛に上がるまでは侍従としての役割の方が強かったから、その流れで他と比べると付いている時間が今も多いとはいえ、全部の話を聞いているわけでもない。
だが、それは聞かされていてもいいことだったんじゃないのか。
「言ってないから。だってクライブ、アルフェ様のことになると笑っちゃうぐらい顔と態度に出すからね」
そう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
自分でも感情の制御が出来ていないのはわかる。それが仕事に支障をきたすほどだと思われているとなると、猛省しなければならない。
それは後で考えるとして、シークと既に繋がっていたとなるとセイン・エインズワースはアルト様を裏切っていたことになるんじゃないのか。
しかしシークの方から「妹の件で話がある」とでも持ちかけられたのならば、逃げ切ることは難しい。
どういうことだと目で訴えれば、「俺も詳しい内容までは知らないよ」とあっさりかわされてしまう。
「お姫様が起きたら全部わかることだ」
そう言って僅かに目を開いてアルト様が眠る部屋の扉を見やる。その顔は面白がっているようにも見えるし、いつも通りのようにも見える。
これからの都合上、ニコラスとオスカーにも皇女であると伝えられた。
オスカーは驚いていて、ひどく同情的だった。
オスカーは女性とわかれば、それまでの立場はどうあれ手を上げることなど考えもしないだろう。武骨に見えて、女性に対しては壊れ物のように扱う。
ニコラスは嫌悪もなければ、憎悪もない。だが同情しているのかと言えば、わからない。
守れと命じられれば従順に守り切るだろう。逆に切り捨てろと言われれば、多分迷わずそうする。個人的な感情は読めない。
思えば告げられた時も、ニコラスは動じなかった。とっくに気づいていたかのように。
「ニコラスはいつから気づいていたのですか」
自分は女性だなんて、まったく考えもしなかったと言うのに。
否、薄々感じ取ってはいたのだろう。これまで自分が無意識にしてきた対応を考えれば、その可能性はある。
だが、そんなことがあるわけがないという思い込みで視界を捻じ曲げ、男として見てしまっていたということなのか。
顰め面で窺えば、呆れ切った表情を向けられた。
「俺は元々女の子大好きだからさ。それなりに経験もあるし。殿下の扱い方と、女装した状態であれだけ近くで見てて、食事量とか考えると怪しいとは思ってた。シークヴァルド殿下も薄々気づいてるのわかってたと思うけど、何も言われなかったから何か考えがあるんだろうと黙ってた」
経験値故の観察眼の差かと納得しかけたところで、「でも一番は、クライブの態度だね」と続けられた。そして不意に声を潜められる。
「やたら距離が近かったろ。男相手にあれだけ距離詰めてたら怖いよ。それとおまえ、押し倒したって?」
「! なんでそれを知ってるんだッ」
誤魔化せばよかったものを、動顛して反射的に切り返してしまった。
うわぁ……と言わんばかりにニコラスが盛大に顔を引き攣らせる。
「アルフェ様もよっぽど腹に据えかねたんだろ。俺相手にぽろっと零してた。それでほぼ確信したけど、さすがに女好きな俺でも引いたから。寝惚けるにしても、相手を考えろよって思ったね。よく殿下に首跳ね飛ばされなかったな」
自分のしでかしたことを容赦なく突き付けられて、既に顔からは血の気がない。呼吸すらままならない僕を見やり、ニコラスが憐れみにも似た眼差しを向けてくる。
その頃は僕も知らなかった、などと言おうものなら、どんな目で見られるかわからなくて背筋が凍る。
言葉も忘れて固まる僕を見て、ニコラスは恐ろしい言葉を続けて投下した。
「クライブがそこまで馬鹿になるなんて、恋って怖いね」
頭を殴られたかと思うような衝撃だった。
「は……恋って、なんでそれをっ」
「なんで動揺してるんだよ。あの態度、牽制のつもりじゃなかったのか」
動顛して声を上擦らせた僕を見て、ニコラスもなぜか動揺を見せる。
「多分デリックも気づいてる。カードゲームしてるとき、死んだ魚みたいな目になってたろ。むしろ普段のクライブを知ってる俺らにどうして気づかれないと思うかな」
呆気にとられた表情を前に、もはや声が出てこない。
動揺と焦燥のあまり首筋に嫌な汗が滲む。心臓はバックンバックンと踊り狂っていて、冷静な思考なんてとても出来ない。
(そんなに僕はわかりやすかったのか?)
でもあのときはまだ皇子だと思っていた。胸の内でこそその手の感情を抱いていたとはいえ、自分ではシークの弟君として扱っていた、つもりだった。
それがニコラスだけでなく、弟にまで気づかれていたと知って眩暈すら覚える。
(嘘だろ……っ)
ならば当然シークもそう思っているわけだ。気づかないわけがない。
でも何も言わなかったのは、言うだけ無駄だと思ったからか。むしろ恋心を利用して、アルト様を守らせるつもりでいたのか。
いや、この際、周りにどう思われていようとそれはどうでもいい。
「つまりアルト様にも、気づかれていた、ということですか」
情けなくも声が震えて擦れた。問題は、そこだ。
気づかれているのではないか、と思える言葉は投げかけられた。でもそれはもっと深く、根本的な意味だったはずだ。
ごくりと緊張で乾いた喉を嚥下させれば、ニコラスは無言で僕を見つめた。いつも笑って見えるせいで感情の読み難い顔は、今は何を考えているのかわからない。
沈黙はほんの数秒か、実際には数瞬だったのかもしれない。
それは死刑宣告を待っているかのように長く感じられた。
「それを俺が言う意味はないだろ。甘ったれずに自分で考えることだね」
もたらされた言葉は、こちらの予想を裏切って素っ気なく突き放すものだった。
胸の中に落胆と安堵が鬩ぎあい、自分はひどく情けない顔をしてしまっていたと思う。憐れまれたのか、小さく溜息を吐かれる。
「まぁでも、今のアルフェ様に惚れた腫れただのにかまけてる余裕があるとは思えないけど」
確かに、その通りだ。
言われた言葉が重く胸に圧し掛かる。胸の中に冷たいものが勢いよく注ぎ込まれたかのようだった。一気に頭から足の指先までが冷えていく感覚に襲われた。
(そうだ。こんなことで揺らいでる場合じゃない)
閉ざされた扉の向こう、今もいい夢を見ているとは思えない。
そして向き合わなければならない現実は、とうとう彼女を捉えてしまった。
目を覚ませば、狂っていた歯車が動き出す。
自分を落ち着かせるように、一つ呼吸をした。
自分の中で既に消せなくなっている感情は、ひとまず胸の奥に壊さないように沈めておく。しでかしてきたことを理解しても尚、まだ燻る恋情を手放すことは出来そうにない。
指の先、既に乾いてしまっているけれど握り込んだ涙の熱が残っているかのよう。
その滴は自分の胸の中に落ちてきて、小さな水たまりとなって心に溜まっている。
(もうあんな風に泣いてほしくないんだ)
ここまで来たら、僕が力になれることなんて多分ほとんどない。
それでももし、あの手を伸ばされたら。
僕の名を、呼んだなら。
分不相応にも、応じてあげたいと思ってしまうんだ。それは償うためなんかじゃなくて。
ただ「好きだから」という、単純な理由でしかないんだ。
夏とはいえ夜の湖で泳ぐ羽目になったアルト様は、ただでさえ疲弊していたせいか高熱を出して寝込んでいる。
2日目となった今夜もまだ熱は下がらない。
昼間はメリッサ嬢が、夜は母が付いて看病していて、時折シークが様子を窺う。
はやく良くなってほしいと思う反面、このままもうしばらく何も考えず、眠らせてあげたいという気持ちが鬩ぎあっている。
しかし「随分魘されている」とシークが顰め面をしていて、それを聞いた僕も苦い顔になった。
だが僕には何もできない。あれから顔すら見られていない。
皇子ならまだしも、皇女であるならば不測の事態でもない限り僕が寝所に入ることなど許されない。せいぜい部屋の前で護衛に徹するだけだ。
それすら夜は特に母が付いているのだから心配はないし、シークが囮になっていた時と違って屋敷の護衛も強化されている。
相対していた刺客は湖に飛び込む前に手足を潰し、自害されないよう口に布を詰めてテラスに転がしておいたので、あの後で捕縛された。
焚かれた白煙は痺れ薬だったようで、吸い込む量が少なかったからか今は父も含め屋敷の兵も命に別状なく回復に向かっている。
ひとまずこれ以上襲われる可能性は低いので、今の自分は突っ立っているだけとも言える。
それでも扉越しとはいえ、傍から離れることに不安があった。
苦しげに訴えられた声が頭の中に引っかかっていて、今も離れない。
『私はこんな場所に、生まれてきたくなかった……っ』
どんな思いで、僕に向かってそれを吐き出したのか。
どこかに逃げ出してしまいたいと言いたげだった瞳の意味。
生まれてくるべきではなかったと告げられた言葉の重さ。
ふとした瞬間に纏わりついていた死の気配。
その理由を今更ながらに思い知って、何もわかっていなかった自分に歯噛みすることしか出来ない。
「クライブ。少しいいかしら」
昨夜同様、看病に当たっていた母が困った顔でアルト様が休む部屋から出てきた。
アルト様の容体に何かあったのかと全身に緊張が走る。
弾かれたように強張らせた顔を上げれば、そんな僕を見て母は少し目を瞠った。すぐに僕と同じ色をした瞳を細め、安心させるように微笑む。
「熱は少しずつ落ち着いてきているようだから大丈夫よ。ただ、ひどく心が弱っていらして」
そう言って、柔和な微笑みを崩して母が珍しく難しい顔をする。
「アルフェ様があなたに謝りたいと仰って……泣かれるの」
ほとほと困り果てたと言うように眉尻を下げた。意外なことを告げられて愕然と息を呑む。
(謝るべきは、僕の方だ)
確かに、アルト様には性別を偽られていた。ずっと騙されていた。
しかし立場を考えれば、おいそれと言えるわけがない。まして、悲痛な声で語られた話を聞いてしまった後では憤りなど抱くはずもない。
幼い心を奮い立たせ、考えつく限りに必死に抗ってきた彼女を責めるのはお門違いだ。
それに、アルト様が真実を告げられないと思えるような真似を最初にしでかしたのは、自分だ。
初めて言葉を交わした、あの日。
最後の希望のつもりでやってきていたかもしれない非力な少女に、自分はどれほどの恐怖を植え付けたことか。
けして許されることではない。
それなのにアルト様は恐怖を胸の内で押さえつけ、警戒しつつも、結局は僕を許してくれていたのだ。
立場を考えれば、あの方はもっと僕を警戒すべきだった。
自分があちら側の陣営だったとしたら、何を呑気に距離を詰められているのかと、その甘さに頭を抱えたくなったはずだ。シークが以前言っていたように詰めが甘くて、間の抜けたところがある。
でもきっとそれが精一杯な、ただの少女だったんだ。
そんな相手を、どうして責められる。
僕がもっと慎重になっていれば。
シークに釘を刺されていたにも関わらず、自分の勝手な考えで動いたりしなければ。
最初からちゃんとアルト様を信じて、親身に寄り添っていれば。
そうすればもっと早くに、彼女を取り巻く絶望的な状況から救い上げることが出来たはずなのだ。
(償わなければならないのは、僕の方だ……っ)
奥歯を噛み締める僕に気づいたのか、母が困った息子だと言いたげな目を向けてくる。
本当に図体ばかり大きくなって、中身が未熟なままの息子で恥ずかしくなってくる。
母は小さく嘆息を吐いて、やんわりと僕の背を掌で撫でた。
「本来、息子とはいえ皇女殿下の寝所にあなたを呼ぶわけにはいかないのだけど。とても見ていられないから、少しだけ顔を見せてきなさい。でも無理をさせては駄目よ」
「それは、勿論わかっています」
背を押されるまま、躊躇いつつも薄暗い部屋に踏み入った。母はアルト様に気を遣ったのか、少し開けたままの扉の脇で待つことにしたらしい。
眠りの邪魔にならないよう、小さく火が灯されているだけの部屋に一人で踏み入ることに緊張する。
罪悪感からかベッドに進む足取りは遅く、つい忍ばせてしまう。静かな部屋の中、強く脈打っている心音が響いてしまうのではないかと思えて息が詰まった。
辿り着いたベッド脇に佇み、覚悟を決めてから覗き込む。
落ち着きつつあると言われたけれど、まだ明らかに熱を帯びて上気した頬。ぎゅっと閉じられたままの目元は赤く、濡れた目尻が痛々しい。
(またそんな風に口を引き結んで……)
薄い唇に手を伸ばしかけて、そういえば皇女だった、と脳裏を過って慌てて手を引っ込める。
これまでにも気安すぎると怒られてきた。思い返せば自分の行動は皇子相手だとしても問題があったけれど、皇女相手となれば尚更に碌でもないことしかしていない。
気配で気づいたのか、睫毛が小さく震えた。閉じられていた瞳が重たげに持ち上げられる。
「クライブ?」
しばしぼんやりとしていた瞳が僕の姿を映し、ひどく怯えたような顔をした。
自分の存在がそんな顔をさせてしまうのかと思ったら胸が軋んで、声が出せなかった。
顔を強張らせながらも微かに唇が動き、ひどく擦れた声で「ごめんなさい」と苦しげに紡がれた。
その一言が、心に深く鋭く突き刺さる。
抉られたように痛くて、咄嗟に奥歯を強く噛み締めていないと情けなく泣きそうになった。
(あなたが僕に謝ることなんて、)
ない、とは言わない。
だけどそれ以上に僕が責められるべきだった。詰ってくれればよかった。「おまえが最初に余計なことをしなければ」とでも言って、怒ってくれればよかった。
それなのにその口は、「騙していて、ごめんなさい」と繰り返し謝る。
声は弱々しく、僕を見つめていた青い瞳は開けている力すらないのか力なく閉じられていく。
「気にかけてもらえる資格なんて、なかったのに」
「っそんなことはありません! 僕らがもっとはやくに気づいていれば、こんなことにはならなかった。そうすればアルト様が苦しむことなんてなかったんです……!」
そこでようやく喉から声を絞り出せた。自分でも情けない程に声が震える。
本心から告げているのに、アルト様の耳には上滑りしているようにしか思えない。
しばしの沈黙の後、「ちゃんといわなければいけないのは、私の方でした」と小さな声が返ってきた。
壊したくなかったのだと切なげに言われ、胸が引き絞られる。
「ここにきてから、ずっと、夢をみてるみたいでした」
うわごとのように、熱を帯びた吐息混じりの声が部屋に落ちる。
熱に浮かされているせいか意識が夢現なのか、それは独り言のよう。
「……夢を、みていたかった」
小さく呟かれた言葉に殴られたような心地だった。ぐらりと視界が揺らぎそうになる。
ここに来てからしていたことなんて、誰もが経験しているなんてことない休日だ。
カードゲームも、近隣の散策も、ちょっと町に降りることだって。
いや、それよりも。
ドレスを纏い、髪を結う。特別飾り立てていたわけじゃなく、むしろ侍女らしく簡素な格好だった。でも普通に少女に見える姿になること。
その姿で、兄の隣にいられる。
たったそれだけすら、この方にとってはきっと夢のようなことだった。
思い至ったそれに対し、どんな顔をすればいいのかわからない。その胸の内を想像するとうまく息が出来ない。自分の至らなさに後悔だけが襲い掛かってくる。
閉じられた瞼を押し上げ、目尻から滴が零れ落ちた。
夢の終わりを嘆くかのように。
「でももう、現実に、もどらなきゃ」
自分に言い聞かせているかのようなそれは、ほぼ吐息に近い呟きだった。嗚咽もなく、ただ静かに涙だけが溢れて落ちていく。
声を上げて泣く姿も見ていられなかったけれど、こんな風に泣く姿も見ていて胸が苦しい。
駄目だと頭の片隅では冷静にわかっていた。それなのに、気づけば手を伸ばしてしまっていた。
濡れた目尻に、恐る恐る指先を触れさせる。
さすがに今までのように躊躇いなく触れることは出来ない。そっと赤く跡が残らないよう、指の腹で涙を拭う。
緊張で指が震えないようにするのに必死だった。
その行為ひとつにすら、心臓がバクバクとうるさく脈打った。唇を引き結んでいなければ、口から心臓が飛び出してくるんじゃないかと思えるほど。
シークに「女だと知れば今までと同じようには出来ないだろう」と言われた時、内心では出来ると思っていた。
だが、実際はどうだ。出来るわけがない。
今まで自分はどんな顔で、どんな風に接していたのかすらわからなくなる。
閉じられていた瞼が震え、ここでやっと表情が涙につられて切なげに歪んだ。
「私……、」
微かに唇が動き、だけどそれはほぼ吐息でちゃんと声にはならなかった。
「──……」
唇が僕の名を呼んだように見えた。
けれど、その後に続けられた声にならない声は僕の耳まで届かない。
ただ言葉の代わりみたいに、一筋零れた涙が指先を濡らしただけだった。
(いま、何を)
言おうとしたのか。
ゴクリ、と息を呑んで見下ろした。
胸がざわりと揺れる。そんな顔をして、何をそんなに伝えたかったのか。
受け取り損ねてしまったことに妙に焦りが生まれる。
しかし既に意識は眠りの中に落ちてしまったのか、微かに開いた唇はそれ以上動かない。熱を帯びた呼吸が浅く繰り返されているだけだ。
先程よりは少し落ち着いた表情になったような気もするけれど、苦しげなことに変わりはない。この状態のアルト様を起こして聞き返すわけにもいかない。
また謝罪だったのだろうか。
そう自分に言い聞かせ、涙に濡れた指を掌に握り込む。
(本当に、女の子なんだ)
汗で首筋に張り付いた髪が目につき、その白く華奢な首にドキリとさせられる。
今まで見ていたものと変わらないはずなのに、どうしたって今までのように皇子だとは思えない。
改めて突き付けられたそれに、今更ながらに動揺が走る。
さすがにこれ以上の長居は出来ない。
出来るだけ音を立てないように身を翻すと足早に部屋を出た。
どこまで声が聞こえていたかわからないけど、待っていた母の顔を見て、こういう時になんて言ったらいいのかわからない。口を開きかけたけれど、気まずくて口ごもる。
それを理解しているのか、母は特に何も言わずにただ頷いて部屋の中へと戻っていった。
静かに閉められた扉に思わず安堵の息が漏れる。
強張っていた体から力が抜けて、一気に全身に重みが戻った。思ったよりもずっと緊張していたようだ。
思えば高貴な身分の女性の寝所に入るなど、人生において初めての経験だ。本来ならばありえることではない。
(それも、皇女だなんて)
女性だと知らされていなかったことでシークを責めたものの、思い返してみればいくつもヒントは散りばめられていた。
シークのアルト様に対する態度は、思えば弟に対するそれではなかった。
見舞に花を贈り、誕生祝いにお忍びで街に出したときは衛兵ではなく侍女の服を貸し与え、遊び相手をするときには驚くほど甘やかしていた。
そして僕が良からぬことをしたとわかれば、凍り付きそうに冷ややかな眼差しで鉄拳制裁を食らわせてきた。
やっとかまえるようになった弟が心底可愛いのだと思い込んでいたけれど、本当は妹であったならば当然の扱いだ。
むしろこれまでの自分の行動を考えれば、苦言とあの程度の制裁で済まされただけかなりの温情が与えられていたと言える。
(こんなことなら、もっと本気の拳で殴られておくべきだった)
そしてアルト様自身、皇女なのだと理解してから思い返してみれば、思い当たる節しかない。
華奢な体も、驚くほど弱い力も。どうして今まで少年だと思っていられたのだろうとすら思える。
近寄りすぎれば警戒されたし、安易に触れた時などは顔を強張らせた。離してほしいと口をへの字に曲げ、距離が近いと怒られたことは何度もある。
女装されているときに胸元に視線を向ければ、侮蔑に満ちた瞳を向けられた。
(それに……キスまでしたわけで)
アルト様は息のないシークに対しても、していたけれど。
しかしあれは必死な中にも、まるで命を吹き込むような神聖さが感じられた。自分がしたそれとは全く意味が違うことくらいはわかる。
僕のそれは、衝動的だった。
胸の内からこみ上げる熱の抑えがきかなかった。当然、そんなの言い訳ですらない。
皇子に対しても、あの行動はどうなんだとは思った。しかし男であれば、犬に舐められたようなものだと思われていると考えていた。あのときは気が済むまで殴ってくれればいいと思った。
でも少女であったというのならば、狼と二人きりの状況で殴れという方が無理がある。
逆上されて掴みかかられたら、と考えれば何もできないだろう。
思い返すと血の気が引いていく。
知らなかったとはいえ、自分のあまりにも無遠慮で無礼な態度に顔が強張る。
『──クライブは、私が女の子だった方が良かったですか?』
長いスカートの裾を僅かに翻し、振り返って僕を探るように見つめた深い青い瞳。
そう問いかけられたあの時、ギクリと胸が竦んだ。
自分の中にある、卑しい熱情を見透かされているのかと思ったのだ。
「そんなわけがない」と言うべきなのに咄嗟に口は動かず、かといって馬鹿正直に頷くことなど出来ない。
いや、気づかれているならばこんな感情を抱いて申し訳ないと謝るべきじゃないのか。ちゃんと諦めるから安心してほしいと言った方がいいのかもしれない。
そう脳裏を過ったけれど、いくら諦めると言われてもそんなことを聞かされれば警戒されるに決まっている。ここは曖昧にしたまま、誤魔化すべきだと逃げの思考に走りかけた。
しかし不意打ちの問いに迷ったせいで、その間に妙な沈黙が出来てしまっていた。今更否定しても怪しさだけが残る。
ならばここはどう切り返すのが正しいのか。
返す言葉を思いつかずに、呼吸すら忘れてその場で固まってしまった。
それに対し、アルト様が何を思ったのかはわからない。
暫し僕を見つめていた青い瞳を細めると、眉尻を下げて疲れたように微かに笑んだ。
『……私は、女に生まれたかった』
その言葉に、自分は愚かにも期待したんだ。
こちらの気持ちを見透かして尚、そう言われているのだとしたら。想いが伝わったところで皇子相手にどうなるわけでもないとわかっていても、それでも「もしかして」が脳裏を過った。
一瞬でもそんな碌でもないことを考えた自分は、底なしの馬鹿だったと思う。
アルト様が考えていたことはそんなことではなくて、もっと、ずっと、重たいものだった。
必要な人なのだと告げた僕を見て、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。強く歯を噛み締めて唇を引き結んだ。
何もわかっていなかった僕が返した言葉は、どれほど薄っぺらく響いただろう。
シークではなく、僕なんかに弱音を零してしまうぐらい、きっともう限界だった。
シークに語った以上に、心を苛まれることは多々あっただろうことは想像に難くない。
アルト様は妃殿下のことには触れなかった。触れるだけ無駄だとでも言うのか。それとも口にしたくない程に、心を磨り潰されてきたのか。
思えば母親と混同されることをひどく嫌がっていた。恐怖すらしているように見えた。
本来は彼女を守るべき存在すら、敵でしかなかった。
誰も頼れず、これまでどんな想いで先も見えない中を手探りで歩き続けてきたのか。
周りにいた片手に満たない人達も、彼女が守らなければならない対象でしかなかった。
細い両腕を精一杯のばして一人で抱えてきたんだ。その首を懸けてまで、守ろうとするぐらい。
(アルト様が望まれていたことなんて、ささやかものだっただろう……っ)
命で贖わなければならないほど大それたことなど、何も考えていなかった。
望まれていたのは、誰もが当たり前に明日があると信じられる生活だけだ。
今も頭に残っているのは、歌うように告げられた言葉。
『たとえば誰かを好きになって、結婚してみるのもいいかもしれないです』
夢見るように仄かに笑って、嘯いた。
しかし思えばあれは、本当に心からの願いだったに違いない。
本来の立場であれば、誰でもいいとはいかないまでもそれなりに叶えられたであろう願い。
けれど性別を偽らざるを得なかったアルト様にとっては、途方もない夢物語。
男として育って、メリッサ嬢を好きであるとしても、女という性別故に本当の婚姻というわけにはいかない。
それにもし。もしも、心が女のままであるならば。
偽りの姿で男に恋をしたとしても、どうしたって実らないと考えるだろう。皇子という立場的にどうにも出来ない。
男にも、女にもなれない。
そんな中途半端な立ち位置だったアルト様にとって、誰もが当たり前に経験している恋一つままならない。どちらを好きになっていいのかすら、わかっていなかった可能性もある。
そんな相手に、何もわかっていなかったくせに手を出した自分は、なんて愚かなのか。
碌でもないことしかしていなかった僕に向き合い、笑いかけてくれるようになったことに呑気に心を躍らせていた。
弱音を零されたことにすら、内心では歓喜していた自分に卑しさすら覚える。
「──ひっどい顔だな、クライブ」
警備は強化しているとはいえ、この部屋付近は人払いされている。それをいいことに奥歯を砕かんばかりに噛み締めていたところで、角を曲がって現れたニコラスが呆れた声を投げかけてきた。
ゆっくりと強張らせたままの顔を上げ、八つ当たり気味に睨みつけても肩を竦められるだけだ。
「いつもへらへら笑ってるいけ好かない小僧がそんな顔するなんてね」
「へらへら笑っている顔に関しては人のことは言えないでしょう」
「俺のこれは地顔だから。おまえ、いま糸目の人間全部を敵に回したからな。背後に気をつけろよ」
こちらの気持ちを解すつもりなのか、くだらない軽口を叩く。二人だけだからか砕けた口調だ。
しかしすぐにいつも笑って見える顔が引き締められた。
「吐いたぞ」
簡潔に告げられたそれには、自分もすぐに意識を切り替えた。
今回ほど追い詰められた状態ならば、向こうも確実な手勢を送ってくるだろうという予想の元、わざわざシークが囮になってまで生け捕りにした刺客だ。
シークの拷問の掛け方は暴力よりも薬を使う方が多い。訓練されていれば暴力に訴えても吐くことはないので、心の方を壊しに行く。
今回はシーク自身が行っていることから考えても敵は粘った方だ。
あの作り物めいた顔で、心を抉る甘い言葉で、本人が守りたいものを餌に心の弱い部分に毒を染み込ませる。ただでさえ薬で弱っている相手の希望を次々に削ぎ落として追い詰めていく様は悪魔のよう。
どの道、死罪となる相手だ。それに関して同情はない。ただシークを敵に回したくないとだけ思う。
あのえげつなさをアルト様が知れば、絶対に兄に近寄らなかっただろう。だがきっとこの先もシークは彼女の前ではそんな様など露ほども見せないに違いない。
「どちらですか」
「公の方。アルフェ様がこっちに来てることは想定していなかったみたいだ。まぁ、普通はこの状況で呑気に遊びに来てるとは考えない」
「子息の方とは別件だということですか」
「そう。こっちは公で確定したから、長子に関してはセイン・エインズワースが動く。あの家に顔パスで入れるのはあの子ぐらいだしね」
意外な名前を耳に入れて目を瞠れば、「ここに来る前に殿下があの子と折衝してたから」とあっさりと言われる。愕然とした。
「そんな話、僕は聞いていません」
シーク付きの近衛は常時三人体制で組んでいて、最低でも一人は必ず付いている形になっている。
自分は近衛に上がるまでは侍従としての役割の方が強かったから、その流れで他と比べると付いている時間が今も多いとはいえ、全部の話を聞いているわけでもない。
だが、それは聞かされていてもいいことだったんじゃないのか。
「言ってないから。だってクライブ、アルフェ様のことになると笑っちゃうぐらい顔と態度に出すからね」
そう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
自分でも感情の制御が出来ていないのはわかる。それが仕事に支障をきたすほどだと思われているとなると、猛省しなければならない。
それは後で考えるとして、シークと既に繋がっていたとなるとセイン・エインズワースはアルト様を裏切っていたことになるんじゃないのか。
しかしシークの方から「妹の件で話がある」とでも持ちかけられたのならば、逃げ切ることは難しい。
どういうことだと目で訴えれば、「俺も詳しい内容までは知らないよ」とあっさりかわされてしまう。
「お姫様が起きたら全部わかることだ」
そう言って僅かに目を開いてアルト様が眠る部屋の扉を見やる。その顔は面白がっているようにも見えるし、いつも通りのようにも見える。
これからの都合上、ニコラスとオスカーにも皇女であると伝えられた。
オスカーは驚いていて、ひどく同情的だった。
オスカーは女性とわかれば、それまでの立場はどうあれ手を上げることなど考えもしないだろう。武骨に見えて、女性に対しては壊れ物のように扱う。
ニコラスは嫌悪もなければ、憎悪もない。だが同情しているのかと言えば、わからない。
守れと命じられれば従順に守り切るだろう。逆に切り捨てろと言われれば、多分迷わずそうする。個人的な感情は読めない。
思えば告げられた時も、ニコラスは動じなかった。とっくに気づいていたかのように。
「ニコラスはいつから気づいていたのですか」
自分は女性だなんて、まったく考えもしなかったと言うのに。
否、薄々感じ取ってはいたのだろう。これまで自分が無意識にしてきた対応を考えれば、その可能性はある。
だが、そんなことがあるわけがないという思い込みで視界を捻じ曲げ、男として見てしまっていたということなのか。
顰め面で窺えば、呆れ切った表情を向けられた。
「俺は元々女の子大好きだからさ。それなりに経験もあるし。殿下の扱い方と、女装した状態であれだけ近くで見てて、食事量とか考えると怪しいとは思ってた。シークヴァルド殿下も薄々気づいてるのわかってたと思うけど、何も言われなかったから何か考えがあるんだろうと黙ってた」
経験値故の観察眼の差かと納得しかけたところで、「でも一番は、クライブの態度だね」と続けられた。そして不意に声を潜められる。
「やたら距離が近かったろ。男相手にあれだけ距離詰めてたら怖いよ。それとおまえ、押し倒したって?」
「! なんでそれを知ってるんだッ」
誤魔化せばよかったものを、動顛して反射的に切り返してしまった。
うわぁ……と言わんばかりにニコラスが盛大に顔を引き攣らせる。
「アルフェ様もよっぽど腹に据えかねたんだろ。俺相手にぽろっと零してた。それでほぼ確信したけど、さすがに女好きな俺でも引いたから。寝惚けるにしても、相手を考えろよって思ったね。よく殿下に首跳ね飛ばされなかったな」
自分のしでかしたことを容赦なく突き付けられて、既に顔からは血の気がない。呼吸すらままならない僕を見やり、ニコラスが憐れみにも似た眼差しを向けてくる。
その頃は僕も知らなかった、などと言おうものなら、どんな目で見られるかわからなくて背筋が凍る。
言葉も忘れて固まる僕を見て、ニコラスは恐ろしい言葉を続けて投下した。
「クライブがそこまで馬鹿になるなんて、恋って怖いね」
頭を殴られたかと思うような衝撃だった。
「は……恋って、なんでそれをっ」
「なんで動揺してるんだよ。あの態度、牽制のつもりじゃなかったのか」
動顛して声を上擦らせた僕を見て、ニコラスもなぜか動揺を見せる。
「多分デリックも気づいてる。カードゲームしてるとき、死んだ魚みたいな目になってたろ。むしろ普段のクライブを知ってる俺らにどうして気づかれないと思うかな」
呆気にとられた表情を前に、もはや声が出てこない。
動揺と焦燥のあまり首筋に嫌な汗が滲む。心臓はバックンバックンと踊り狂っていて、冷静な思考なんてとても出来ない。
(そんなに僕はわかりやすかったのか?)
でもあのときはまだ皇子だと思っていた。胸の内でこそその手の感情を抱いていたとはいえ、自分ではシークの弟君として扱っていた、つもりだった。
それがニコラスだけでなく、弟にまで気づかれていたと知って眩暈すら覚える。
(嘘だろ……っ)
ならば当然シークもそう思っているわけだ。気づかないわけがない。
でも何も言わなかったのは、言うだけ無駄だと思ったからか。むしろ恋心を利用して、アルト様を守らせるつもりでいたのか。
いや、この際、周りにどう思われていようとそれはどうでもいい。
「つまりアルト様にも、気づかれていた、ということですか」
情けなくも声が震えて擦れた。問題は、そこだ。
気づかれているのではないか、と思える言葉は投げかけられた。でもそれはもっと深く、根本的な意味だったはずだ。
ごくりと緊張で乾いた喉を嚥下させれば、ニコラスは無言で僕を見つめた。いつも笑って見えるせいで感情の読み難い顔は、今は何を考えているのかわからない。
沈黙はほんの数秒か、実際には数瞬だったのかもしれない。
それは死刑宣告を待っているかのように長く感じられた。
「それを俺が言う意味はないだろ。甘ったれずに自分で考えることだね」
もたらされた言葉は、こちらの予想を裏切って素っ気なく突き放すものだった。
胸の中に落胆と安堵が鬩ぎあい、自分はひどく情けない顔をしてしまっていたと思う。憐れまれたのか、小さく溜息を吐かれる。
「まぁでも、今のアルフェ様に惚れた腫れただのにかまけてる余裕があるとは思えないけど」
確かに、その通りだ。
言われた言葉が重く胸に圧し掛かる。胸の中に冷たいものが勢いよく注ぎ込まれたかのようだった。一気に頭から足の指先までが冷えていく感覚に襲われた。
(そうだ。こんなことで揺らいでる場合じゃない)
閉ざされた扉の向こう、今もいい夢を見ているとは思えない。
そして向き合わなければならない現実は、とうとう彼女を捉えてしまった。
目を覚ませば、狂っていた歯車が動き出す。
自分を落ち着かせるように、一つ呼吸をした。
自分の中で既に消せなくなっている感情は、ひとまず胸の奥に壊さないように沈めておく。しでかしてきたことを理解しても尚、まだ燻る恋情を手放すことは出来そうにない。
指の先、既に乾いてしまっているけれど握り込んだ涙の熱が残っているかのよう。
その滴は自分の胸の中に落ちてきて、小さな水たまりとなって心に溜まっている。
(もうあんな風に泣いてほしくないんだ)
ここまで来たら、僕が力になれることなんて多分ほとんどない。
それでももし、あの手を伸ばされたら。
僕の名を、呼んだなら。
分不相応にも、応じてあげたいと思ってしまうんだ。それは償うためなんかじゃなくて。
ただ「好きだから」という、単純な理由でしかないんだ。
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