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第82話 70 本音

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 安堵から細く息が零れ落ちていく。
 自分で思っていた以上に無意識に心を押し潰していたようだ。そうではないのだと否定されたことで、一気に力が抜けた。

「妃殿下に懸想しているわけではないのなら、いいのです」

 座り込みそうになる足に力を入れる。吐息混じりの声をなんとか口から吐き出せた。
 こう言っておけば、私がこんなことを言い出したのは、もし王妃に懸想しているようなら諫めるためだったとでも思ってくれるだろう。

(私にあの人を重ねて見ているわけじゃなくて、よかった)

 しかし、今度は勘違いをしていた自分が恥ずかしくなってきた。羞恥のあまり叫び出したい衝動が込み上げてくる。それを必死に耐えた結果、仏頂面に変わった。

「でもその手癖の悪さは直しなさい。三度目はないと肝に銘じてください」

 素っ気なく言い切ると、クライブが頷くより早く視線から逃れるように踵を返した。顔を見られたくない。あまり近づくなと告げる代わりに、先程より速度を上げて歩き出す。

(……でも身代わりではないとなると、それはそれでクライブはどういうつもりなの)

 結局、思考はそこに戻ってきてしまう。解決したようで、何も解決していなかった。

(私が好き――って思えるほど、私の頭はおめでたくない)

 もしかして、と過る気持ちがないわけではない。
 だけど私の恋愛センサーがあてにならないことは、過去の経験から立証済み。
 前の生で、男友達に「大事な話があるんだけど」と真剣な顔で言われたことがある。告白!? と身構えたけれど、「おまえの友達のこと好きになったんだけど」と相談されただけだった。
 あんな少女漫画みたいな展開、現実にあるとは思わなかった。でも少女漫画と違って私は彼を好きだったわけじゃないし、そのあと快く友人を紹介した。それでも一瞬でも勘違いした自分を思い出すと猛烈に恥ずかしい。
 あの時の教訓を忘れてはいけない。勘違いをして恥をかくのはこちらなのだ。

(だいたい好きになられる要素がない)

 普段の私は、どう見てもモヤシのような少年。
 色気も、女の子らしい愛らしさも、柔らかさもない。綺麗で可愛い令嬢を見慣れているクライブが、男色家でもないのに私を好きになるとは思えない。普段の私に対して距離は近いとは思うけど、弟的な扱いでしかないと思う。
 それにクライブが私に変なちょっとかいをかけるのは、必ず私が女装している時だけ。
 そうなると、やっぱりクライブはただの女好き……
 いやでも、私だから、と言ったということは。

(つまりクライブは、女装をしている私が好みだと?)

 そこまで考えて、クライブから見えないのをいいことに顔が苦虫を噛み潰したように歪んだ。
 それはそれで複雑なものがある。急に胸がギリギリと引き絞られたような痛みを訴えてくる。
 考えてもどうにもならない、もしも、が脳裏を過ってしまう。

(もし私が、普通に女として育っていたら)

 ちょっとは報われていた可能性もあったのかも、なんて。
 とはいえ、皇女として育っていたら私は政略結婚の道具になっていただろう。安定した大国の皇女だからそう悪い嫁ぎ先に行くとは思えないけど、伯爵位でしかない近衛騎士に降嫁することは考えられない。
 それでも嫁ぎ先が決まるまでは、兄を守る騎士に淡い恋心を抱くぐらいは許されたんじゃないだろうか。冗談めかして好きだと伝えて、クライブを困らせるぐらいは出来たかもしれない。

(でも今はそれすら、許されない)

 今の私は皇子で、男ということになっていて。
 こんなにもよくしてもらっているのに素知らぬ顔で裏切って、未だ真実も告げられずにいる卑怯者。
 許されないも何も、こんな私が好きになる資格なんて最初からなかった。何度も自分に言い聞かせていたはずなのに、なんという体たらく。

(馬鹿みたい)

 もしかして母の身代わりになっているのかも、と思ったら急激に胸の中で感情が膨らんだ。見ないフリが出来なくなった。これまで必死に考えないようにしてきたのに、嫉妬心が胸に燻る想いを嫌でも思い知らせてきた。
 気づけば随分な重さになっていた心を持て余して歯噛みする。
 目を背けるには大きくなりすぎていて、だけど育てることも出来ない。かといって簡単に切り捨ててしまうことも出来そうにない。
 こんな感情、持っていても邪魔になるだけなのに。どうして自分で自分の心がコントロールできないんだろう。
 ふ、と思わず小さく笑う声が息となって零れる。
 なぜどうにもならないと感じると、いっそ笑いたくなるんだろう。笑ってでもいないと、泣きそうになるから?

(なんで好きになんてなってるの)

 そもそも最初は私を殺そうとした相手なのに。あれほど警戒していたはずなのに。今も警戒する気持ちはあるはずなのに。
 これも吊り橋効果ってやつ?
 いや、それ以前に道を踏み誤っていた気もする。だけど思い返したところで後戻りも出来ない。
 ギリギリと胸が痛む。服の上から心臓を押さえれば、胸ポケットに入れていたペンが手に当たった。護身用に、と以前にクライブに貰ったペン。
 でも私はこんな風に、気にかけてもらっていい人間なんかじゃなかった。

(なんで、こんな風にしかなれなかったんだろ)

 普通に生まれたかった。
 お姫様扱いしてほしいと望んでいるわけじゃない。ただ周りがしているのと同じことをしてみたかった。
 私も生きて、周りの人たちも生きて、普通に明日が来るんだと信じられる。誰もが当たり前に過ごしている日常が欲しかっただけなのに。
 そして出来れば、今みたいにスカートを穿いて。髪も伸ばして。たまには女の子の友達と他愛もないお喋りもしてみたかった。誰かが誰かを好きだとか、立場的に適わなくても甘い夢を見てみたかった。

(普通に女の子として、生きてみたかった)

 木陰を踏んでいた足を止めた。少し距離を開け、気まずいのか黙ったまま後ろを付いてきていたクライブを振り返る。
 目が合って、クライブも足を止めた。なぜか少しだけ狼狽えた顔をする。
 そのちょっと情けない表情を見られるようになったのは、いつからだろう。こうして素の部分を垣間見せてもらえるようになった私は、今クライブの中でどんな位置にいるの。
 皇子だとわかっているはずの私に寝惚けてあんなことをしようとする程には、私が女であればいいとでも、思ったんだろうか。

「クライブは、私が女の子だった方が良かったですか?」

 込み上げてくるものに突き動かされるように、口が勝手に動いていた。
 クライブが驚きに大きく目を瞠る。口は少し開いたものの、言葉どころか呼吸も忘れて私を見つめた。

(何言ってるんだって、思ってるんだろうな)

 自分でも、何を言っているんだろうと思ってる。つい先日、もしもを語ったところで意味がないと言ったその口で、わけのわからない仮定を語るなんて。
 緊張から心臓がドクン、ドクン、と大きく脈打っている。
 こんな問いかけ、自ら地雷を踏み抜きにいっているようなものだ。今までの努力を台無しにするかもしれない問い。それをこんなにも簡単に口にする自分が信じられない。
 それなのに、一度口から零れた弱音は止まってくれなかった。

「…………私は、女に生まれたかった」

 顔だけはいつもの癖で困ったように笑ってみせたから、他愛もない「もしも」の話だと思ってもらえるだろうか。
 クライブは息を呑んで固まったまま。対応に困っているのが見て取れる。

(クライブが私を変に女扱いなんてしなければ、諦めもついたのに)

 ずっと誰かに、言いたかった。誰かに、聞いてほしかった。
 乳母にも、メル爺にも、メリッサにも、セインにも言ったことはない。そんな弱さは見せられなかった。言ったところで困らせるだけなのは目に見えている。訴えたって、誰にも現状は覆せない。
 それなら我慢するしかなかった。耐えて、耐えて、自分の中に押し込めた。だって声に出しても叶うわけもない。口に出すだけ虚しくなる。
 そう思って、誰にも告げたことのない本音。

「女であれば、兄様にこんなにも迷惑をかけることもなかった。誰も困ることはなかった」
「そんなことはアルト様のせいではないでしょう!」

 そこで漸くクライブが血相を変えた。間髪入れずに否定してくれる。けど、それに私は何も答えられない。
 笑っていなければ、と思うのに頬から感情が抜け落ちていく。

(私のせいなんだよ)

 さすがに口には出せない反論を、胸の内でだけ呟く。
 食い入るように私を見つめてくる視線が耐えられない。目線を地面に落とし、石畳の上で揺れる木漏れ日が眩しいフリをして目を閉じた。
 こうやって逃げて、逃げて、誤魔化し続けて夢の時間を引き延ばす。あと少しと言い訳しながら、いつまで私は逃げ続けられるんだろう。
 きっと逃げ切れるわけがない。限界はとっくに見えている。ずっとずっと考えているけど、どれだけ考えたって誰もが助かる道なんて思いつけない。
 いつかは清算しなければならないのだ。本当はもっと早く言わなければならなかった。
 わかっていても、いざ向き合うとなると怖くて堪らない。
 私を見る目が蔑みに変わるのを見たくない。それだけのことをしてきたのに、私だけのせいじゃない、と無責任に叫びたくなってしまう。
 どうしてこんな風にしか、生きられないの?

「私はこんな場所に、生まれてきたくなかった……っ」

 引き絞るように出した声は、心の底からの本心だった。
 本当に、私に何の恨みがあるの、神様。
 どこを向いても死亡フラグしかないこんな世界に、誰が招待してくれって頼んだ!?

「僕は!」

 不意に足音が近づいてきて、強く肩を掴まれた。驚いて目を開けば、すぐ真ん前にクライブの怖いぐらい真剣な顔がある。

「あなたに会えてよかったと、そう思っています! シークだって、あなたが生まれてくるのを待ってた」
「!」
「アルト様が邪魔だなんて思ったことは、……ない、わけではないのですが。でも今はそんなこと全く思っていません。誓ってもいい」

 クライブが途中で馬鹿正直に言い辛そうに顔を歪めた。痛いぐらい私の両肩を掴んで、重ねて否定の言葉を言い募る。緑の瞳で迷いなく見据えられて、心臓がドクリと跳ねた。

「あなたは必要な人です」

 そんな言葉を引き出して安堵している自分は、なんて傲慢で勝手なんだろう。そんな風に言ってもらえる資格なんてないというのに。
 我も忘れて込み上げてくるものを吐き出しそうになって、奥歯を強く噛み締めて潰した。

(私は何をしてるの。こんなことを言わせて)

 私が本当は何者なのかを知った時、クライブは憎悪するんだろう。
 私にこんなことを言った自分を嫌悪してしまうかもしれない。
 まっすぐに見つめられる眼差しが受け止められなくて顔を伏せる。それと同時に、肩を掴まれていた手が離れた。
 代わりに、ぎゅっと鼻を抓まれた。抓んだ指が、容赦なく私の顔を上げさせる。

「!?」

 ちょっと怒った顔をしているクライブに見据えられて怯み、無礼な手を払うことも忘れた。

「アルト様はいつも一人で勝手に思い詰め過ぎです」
「!」
「この場で僕に抱き締められたくなければ、そんな泣きそうな顔をしないでください」
「ふぁい!?」

 鼻を抓まれているせいで変な声が出た。目を白黒させて反射的に体を強張らせれば、やっとクライブが鼻から手を離した。
 咄嗟に一歩後ずされば、逃がさないと言うように手を握られた。そのままクライブは私を連行するように町に向かって歩き出す。

「ちょっ、クライブ!」
「邪魔だと思っているのなら、こんなところにまで連れてきません。口止めされてましたが、ここに来る時間を作るために兄君は何日も徹夜されてましたからね。塞ぎ込まれていては兄君の苦労が台無しです」

 意外な事実を知らされて目を瞬かせる。確かにあんなことがあった後で、よく旅行になんて行ける時間があるな、とは不思議に思っていた。
 って、そうじゃない。今はそんな話をしていたわけじゃなくて!

「アルト様のここでの役目は遊ぶことです。せめて今ぐらい、ご自分の立場を忘れてください」

 立場を忘れて遊べと言われても、そんなに甘えていいものかと罪悪感が胸を刺す。でも兄の好意を踏み躙る真似もしたくない。ならば今は遊ぶことが正解なのかもしれないけど。
 釈然としない気持ちを抱えたまま、口を一文時に引き結ぶ。
 どちらにしろ、兄に頼まれたおつかいはこなさねばならない。諦めて肩から力を抜く。それを察知したのか、隣をクライブが歩く速度を緩めた。
 私を見下ろす気配がするので顔を上げれば、クライブは真顔で私を見つめていた。

「なんですか」
「泣きそうな顔をされていないか確認しただけです」

 安堵の滲んだ顔で笑われて、ぎゅっと胸が詰まる。

「あなたを泣かせたら、後で僕が兄君に殴られます」
「何を馬鹿なことを言っているのですか。兄様がそんなことなさるわけないでしょう」

 冗談めかして言われたけれど、あの兄がそんなことで手を上げるなんて、いくらなんでも誇張しすぎだと思う。
 大仰に言うクライブを上目遣いで責めれば、クライブは何か言いたげに目を細めてから溜息を吐いた。
 

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