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第81話 69 花は咲かずとも

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 ランス伯爵邸から出て、クライブと並んで町へと向かって歩いていく。町までは、たぶん歩いて10分程度。
 町へと続く広い道は綺麗な石畳で整備されており、両脇には林が広がっているので木陰が出来ている。その影を踏んで歩けば肌が焼かれる暑さは感じない。
 季節はまだ夏とはいえ湿気が少ないから不快さもなく、時折風が吹き抜けていくと心地良い。

「アルト様」
「なんですか」

 しばらく無言で歩いていたけれど、沈黙に耐え切れなかったのはクライブが先だった。
 単純に私は何を言えばいいかわからなくて無言だっただけなので、話しかけられたことに内心では少しだけほっとする。
 それでも屋敷を出てから徐々に強張ってしまった表情までは取り繕えない。足を止めずに視線だけを向けると、視界の先にいるクライブは眉根を寄せた表情で私を見つめていた。
 あの件を謝られるんだろうか。……謝られるんだろうな。
 覚悟を決めて一旦足を止めれば、クライブも足を止めた。姿勢を正し、深々と頭を下げる。

「母が無礼な真似をして申し訳ありません」

(そっち!?)

 まず謝るところはそこじゃないと思うけれど!
 しかしクライブ的に、まずそれが気になって仕方がなかったようだ。予想外のことで頭を下げられて困惑してしまう。

「かまわないと言いました。減るようなものでもありません」

 私が仏頂面なのは髪を編みこまれたからじゃないのだけど、そう見えたんだろうか。思わず溜息が零れる。
 好意でしてくれたのだとわかっているし、懐かしい思い出に浸らせてもらえたこともあって、私としては咎めるようなことではない。

「それに、結っていると涼しいです」

 普段は髪を後ろで一つに結んでいるので、このところずっと髪を下ろしているのが少し落ち着かなかった。今は後ろはそのまま下ろしているけれど両サイドを編み込みしているので、顔周りだけとはいえスッキリしている。
 素直な感想を述べれば、クライブがゆっくりと顔を上げた。私を見て、本当に怒っていないことを察したのか苦笑いをする。

「顔はあまり似ていなくても、やっぱりシークヴァルド殿下とご兄弟ですね。昔、兄君も同じことを仰いました」
「兄様も?」
「母は女の子も欲しかったようでして。昔はシークヴァルド殿下が髪を伸ばしているのをいいことに、よく母の魔の手に掛かっていました。僕とデリックはそれが嫌でずっと短くしていたのですが、なぜ嫌がらないのかと訊いた時に同じことを言われました」

 説明されて、ちょっと呆気に取られてしまった。
 というか、魔の手って……そこまで言わなくても。
 だけど普通に考えて、男なら恥ずかしいと思ってしまうものなんだろう。私は女だから髪を結われたところで何とも思わないけど。兄の場合はよく言えば寛大なんだろうけど、ただの実用性重視とも言える。

「でも今の兄様は普段から髪を結われていらっしゃらないですよね」

 結べば涼しいとわかっているにも関わらず、癖のない白銀の髪は結われることなく背に流されている。時折、下の方で適当に結ばれているのを見たこともあるけれど、陛下のようにきっちりと三つ編みにしていたりはしない。
 陛下の場合は一つで結ぶだけでは広がって纏まりがないから、日常業務の際は邪魔にならないよう三つ編みにしているのだと思うけど。

「結ぶ一手間を面倒がられているだけです。髪を伸ばしているのだって、定期的に切るのが面倒だという理由ですからね」
「似た者親子ですね。以前、陛下も同じようなことを仰っていました」

 あっちは切る時間を取るのが勿体ないという理由だった気がするけれど。
 二人ともあれほど長いにも関わらず、確固とした理由があって伸ばしているわけじゃないという点は共通している。
 それにしても兄は寛大というより、無頓着なだけな気がしてきた。洗髪する時間を考えれば、切る時間や手間なんて大したことないと思うけど。彼らの入浴は人任せだろうから、それは困っていないに違いない。
 しかしそれはそれとして、なぜ私はクライブ相手に兄と父の髪事情を話すことになっているのか……。
 クライブの話は構えるような話ではなかったので一気に気が抜けてしまった。
 立ち止まってするような話でもないので、再び歩き出そうと顔を進行方向に向けて足を踏み出す。

(このままなし崩し的に、なかったことにされるのかな)

 謝ってほしいとは思うけど、あえて蒸し返したい話でもない。
 それによくよく思い返せば、濡れタオルを差し出された時に一応は「申し訳ありません」と言われた。
 あまりにも簡素な一言だったから謝罪としてカウントしていなかったけど、一応は謝罪である。
 そう考えると、いつまでも気にしている方が不審に思われるかもしれない。いっそこのまま触れないでいてくれるのなら、それはそれでいいような気もしてきた。

「それと。先日は、大変申し訳ありませんでした」

 しかし次の瞬間、私の期待は見事に裏切られた。
 歩き出そうとしたのを引き留めるように真摯な声を投げかけられて、足が地面に縫い止められたように動かなくなる。
 無意識に口をへの字に曲げて振り返れば、またも私に向かって深々と頭を下げているクライブのつむじが見えた。
 なし崩し的になかったことにしようと一度は思ったとはいえ、いざ謝られると押さえつけていた複雑な感情が込み上げてくる。文句の一言ぐらいは投げかけたい衝動に駆られても仕方ない。
 そんな言い訳を自分にしながら、引き結んでいた口を開いた。

「私は以前、その節操なしな部分を直せと言ったと思うのですが」
「はい。すべて僕の不徳の致すところです。殴られても文句は言いません」

 寝惚けていたから、という言い訳はされなかった。自分が悪いのだと全面的に認めて、頭を下げた状態のままピクリとも動かない。
 その姿を見れば、反省していることは十分見て取れる。本当は口で謝られなくても、ここ2日のクライブの私を追いかける視線を思い返せば、反省していることはわかっていた。
 責めても反論されず、微動だにせずただ謝られる姿を見ていると、寝惚けていただけの相手にまだ怒っている私の心が狭いような気になってくる。
 気づけば口から長々と嘆息が零れ落ちていった。

「殴りはしませんが……。私だったからいいようなものの、メリッサ相手に同じことをしていたらいくら私でも殴ってました」

 いや、本当は私相手でも全っ然よくはなかったけど!
 苦々しい気分で口にすると、クライブが弾かれたように顔を上げた。

「するわけないでしょう! あれは、あなただったから!」
「!」

 声を荒げて言われた言葉に、心臓がドクリと跳ねた。
 顔を上げたクライブと目が合って、「しまった」と言わんばかりの顔をされる。私は驚愕に目を見開き、食い入るようにクライブを見入ってしまった。
 ドクリ、ドクリ、と心音が急激に大きく跳ねて存在を主張してくる。

(それは、どういう意味なの)

 私なら、何をしてもいいとでも?
 否、そこまで軽んじられているとは思わない。

(でもクライブは、私が男だと思っているわけで)

 私を好きになるはずなんて、ない。だから間違っても、私だから押し倒したわけじゃない。
 背筋に冷たいものが伝い落ちるような錯覚を覚えた。
 クライブは、何も言わない。自分の失言を撤回することすら考えつけないのか、思わず口走ってしまった自分に私以上に動揺して固まっているように見える。

「クライブは、私の……」

 緊張で擦れた声が口から零れる。
 クライブも緊張しているのか、コクリ、と喉を嚥下させるのが見えた。

(私の──母が、好きなの?)

 考えないようにしていた思考がまたもや首を擡げ、私の心をぐちゃぐちゃに掻き回す。押し込めようにも今度は押し潰せない。
 一度その疑惑に行きついてしまえば、そこから頭が離れなくなる。

(……だって私は、あの人によく似ている)

 腰まで伸びた癖のない長い髪は明るい金。派手な美しさはないけれど、左右のバランスよく配置された目鼻立ちをした細面の美人。やや吊り上がり気味のアーモンド形の、私を映すことのない瞳の色は私と全く同じサファイアブルー。
 クライブから見れば母親に近い年齢とはいえ、あの人は年齢以上に若く見える。
 私は王の隣に座るあの人しか見たことはないけど、とても私という子供がいるようには見えない。
 自分の母親ながら、似ている私が言うのもなんだけど綺麗な人だと思う。

(最初にクライブが私を殺そうとしたのも、好きな女と自分以外の男の子供だったから、とか)

 そういう理由も、ほんの少しはあったんじゃないの。
 前に王都で出かけた時に私によからぬことをしてしまったのも、本当はただの女好きという理由じゃなくて。

 私があの人に似た顔をしていたからじゃないの?
 だから魔が差したとも考えられない?

 自分に問いかける度、胸が息苦しいほど軋む。無意識に拳を握りしめていて、爪が自分の掌に食い込む。中途半端に口を開いてしまったけれど、そこから声が出てこない。
 クライブがもし私の母を好きだと知って、それでどうするの。
 軽蔑するの? 不敬だと責めるの?
 知ったところで、何もいいことなんてない。
 それでもここで目を背け、知らないままでいることも出来ない。
 だって私はあの人の身代わりになることだけは、死んでも許せない。

(私はまた、あの人に奪われなきゃいけないの?)

 生まれた時から、女としての人生を奪われて。私の周りにいてくれる人の命も虫けらのように軽んじられて。
 そしてこれから先、未来すらも描けないようにされているのに。
 それだけじゃ、まだ足らないの?

(あの人は、私のこの気持ちも踏み躙るの?)

 認めたくはないけど、それでも目を背けるには育ちすぎているこの胸に芽吹くものを。咲くことも種を落とすこともなく、ただ枯れ逝くだけの運命だとわかりきっているけれど、生まれてしまった感情を。
 奪って、奪って、奪い尽くしてきたくせに。
 それでも尚、なけなしのこの想いすら私から毟り取ろうというの?

(奪わないでよ)


 お願いだからこれ以上、私から何も奪っていかないで。


 ドクドクと体中を駆け巡る血の音がうるさい。そのくせ緊張と不安で顔からは血の気が引いていて、強く握りしめた指先は氷みたいに冷たい。
 呼吸も忘れて食い入るように私を見据える緑の瞳は、本当に『私』を見てくれているの?
 ここにはいない、誰かではなく。

「…………妃殿下が、好きなのですか?」

 いっそ訊かなければいいのに、自分の口からは自分の声とは思えないほど低い声が漏れていた。

(否定して……っ)

 私は、あの人の身代わりになんてなりたくない。

「……。はぁっ!?」
「!?」
 
 奥歯を噛み締めた私の前でクライブは徐々に目を瞠っていき、唐突に素っ頓狂な声を上げた。
 その声に驚いて、反射的に肩が跳ねる。

「え、なっ、なんでそうなるんですか!? なぜ僕が妃殿下に懸想していることになりました!?」

 クライブは目を白黒させながら、慌てふためいて必死に弁解してきた。
 それは図星を刺されて焦っているようにも見えるし、本当にそんなことは露ほどにも思っていないから慌てているようにも見える。
 疑心暗鬼に駆られている私には、どちらなのか読み取れない。

「だって私は……妃殿下に似ているでしょう?」
「確かに似ておいでですが、妃殿下は僕の母と似たような年齢ですよ? どうしてそんな相手に懸想すると思うのですか。やめてください。だいたい不敬でしょう!?」

 恐る恐る問いかけたそれは、クライブが冗談じゃないと言いたげに顔を引き攣らせて否定する。

(身代わりじゃ、ない? 本当に?)

 胡乱な眼差しを向けてしまう私を必死な形相で見返して、クライブが狼狽しながら必死に言い募る。

「似ているとはいってもアルト様の目元は妃殿下ほどきつくありませんし、口元はどちらかと言えば陛下に似ておられます。あのお二人は従兄妹同士ですし、元々似た系統ではありますが……耳なんて、陛下そっくりですよ」

 今度は言われたそれに驚いた。
 口元はともかく、耳まで見られているとは思わなかった。妙に気恥ずかしさを覚えて自分の手で耳を押さえて隠してしまう。
 というか、陛下の耳の形を覚えているってどういうことなの!?

「じゃあ、もしかしてクライブは……っ陛下に懸想を?」

 そんな細かいところまで見ているなんて、そうとしか思えなくて愕然としてしまう。

「そんなわけないでしょう!? どうしてそうなるんだ……っ」

 クライブが片手で頭を抱えて呻きにも似た声で唸る。
 その取り乱した姿を見れば、さすがに自分が頓珍漢なことを言ってしまったのはわかった。
 母はともかく、さすがに陛下は飛躍しすぎた。だってまさか耳に言及されると思わなかったから動揺してしまった。
 クライブは自分を落ち着かせるように一つ大きく息を吐いた。ばつが悪くて黙った私を真っ向から見据える。

「あなたは、あなたです。それ以外の何者でもありません」

 はっきりと言われたそれに、心臓がドクンと大きく脈を打った。強張っていた肩から力が抜けていく。

(私は、私)

 あの人の身代わりなんかじゃない。

(……そっか)

 だからといって、私の心に巣食ってしまった想いが叶うわけじゃないとわかっているけれど。

(まだ、消さなくていいんだ)

 これ以上成長されても困るのだけど、まだあと少しだけ、この手の中に。


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