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第75話 64 モード選択がしたい

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 あれからニコラス立会いの下に兄を起こしていたら、クライブが部屋へとやってきた。
 クライブの赤くなっている額を見ると苛立ちと同時に苦い気持ちが込み上げてきて、反射的に顰め面に変わってしまったのは仕方がない。
 クライブもさっきのことなどなかったフリをしてくれればいいものの、ご丁寧に濡れたタオルを差し出してくるからどうしようかと思った。
 一応タオルは受け取ったものの、私の態度はひどく硬いものに映っただろう。
 そんな私の態度を見て、クライブがちょっと狼狽えているのがわかった。あれでも多少は反省しているってことなのか……でもクライブがとち狂うのは二度目なわけだから、早々簡単に許す気にはなれない。
 頭突きしたからチャラ、とはいかない。こぶにはならなかったけど、私も痛い思いをしたのだ。

(あれのせいで兄様に変な言い訳する羽目になるしっ)

 苦し紛れに柱にぶつかったと言ったけれど、兄の微妙な表情が忘れられない。弟が真正面から柱にぶつかっていくような間抜けだと、認めたくなかったのかもしれない。
 でも私だって、好きでぶつかったわけではない。

(文句はクライブに言ってほしいのだけど!)

 どれほどそう言いたかったことか。
 しかしなぜ頭突きをするような羽目になったのか、説明できるわけもない。あの時のことが一瞬でも脳裏を過る度、なんともいえない感情が湧き上がってくる。

(もしかして私は、妃殿下の身代わりなのかも、なんて……)

 考えたくない思考が蘇り、その度に胸の奥がぎゅっと引き絞られたように苦しくなる。奥歯を噛み締めて、何度もその思考を振り切った。
 考えるな。考えてはいけない。
 そんなことを考えるぐらいなら、私は倒れてきた柱にぶつかったのだ。そう思い込んだ方が、精神衛生上マシである。
 極力クライブに触れずに苦々しい気分でその場をやり過ごし、兄に朝食を頼まれたことでほっと安堵の息が零れた。
 クライブが付いてくるかとひやひやしたけれど、兄に呼び止められていて心底安心した。代わりにニコラスが付いてきたけれど、私には護衛という名の監視が必要なのだろうから仕方ない。
 厨房に行く途中でメリッサを呼びに寄り、戻るのが遅くて心配させたことを謝りながら兄に頼まれた言伝を届けに行った。
 そうして再び兄の部屋に戻ってきたわけだけれど……。

 ――なぜか現在、私は兄が不在の客室のテラスで、メリッサとニコラスとオスカーの4人で朝食を取っていたりする。

「こんなところで朝食なんて取っていいのでしょうか……」

 兄の客室は多分この屋敷の中で一番上等な部屋だ。広いテラスからの眺めは大変よく、朝の清々しい風がほんのりと頬を撫でていくのが心地いい。
 昨夜到着した時は暗くてわからなかったけど、ランス伯爵邸は湖畔に立っている。
 2階部分にあるこの部屋のテラスから下を覗き込んだら、すぐ下は湖になっていた。壁には風で波立った水が打ち寄せていて、ここから見ると湖の中に立っているように感じる。
 目前に広がる広い湖は青空を映して青く輝き、今日は少し風があるから朝日を反射して煌めいて見える。もし風のない日なら、鏡面のように屋敷の姿が映し出されるのではないだろうか。
 この部屋の窓から見える景色は、時間と季節によって移り行く贅沢な絵画のよう。
 さすがは観光名所と名高いランス伯爵邸である。ぜひ外から全景を眺めてみたい。
 そしてその屋敷の一番いい部屋であろうテラスで、なぜか部屋の主である兄不在の状態で取る朝食……。
 謎な状況すぎる。

「シークヴァルド殿下がそうしろと仰ったのだから、ここは甘えていいんですよ。たぶんアルフェ様を正式な食事の場に呼べないお詫びも兼ねてるんだと思いますし」

 居心地悪さを感じる私の隣の席で、ニコラスが軽い声でそう答える。寡黙なオスカーは何も言わないけれど、目で同意を訴えてきた。
 現在、兄とクライブは1階でランス伯爵夫妻、そしてデリックと一緒に朝食を取っている。
 一応は立場的に侍女である私達と、護衛である近衛二名は同じ席に着くことは出来ない。その為、こうして兄達とは別に食べている。
 あちらの護衛はクライブとランス伯爵邸の私兵が受け持ってくれている為、ニコラスとオスカーもここにいる。ちなみにデリックはあくまで里帰りとして連れてきてもらったという形なので、正式な護衛には数えられない。
 今頃は兄含め、気心の知れた者同士の家族団欒を楽しんでいることだろう。

「私が呼ばれないのはわかりきったことですし、気にしていただくことではないように思うのですが」

 むしろ、完全なアウェーである場で食事を共にしろと言われる方が苦行。
 首を傾げれば、ニコラスが「兄としては複雑なんでしょうよ」と苦笑いをされた。
 私のことをやけに気にかけてくれる兄の気持ちを考えれば、なんとなくわからなくもない。甘いと思いつつも、気遣ってくれる気持ちはとても嬉しい。
 だってこんな綺麗な景色の中で朝食を食べられるなんて、まずない。とんでもなく贅沢だ。
 しかしそれはそれとして、さっきから無性に引っかかっていることがある。

(この景色、どこかで見たことがある気がするのだけど)

 どうにも既視感が拭えない。
 とはいえ、当然ながら私はランス領に来るのは初めて。
 ならば風景画集で見たのかと考えたけど、フルカラーの本などこの国には無い。城の廊下に掛かっていた絵画が記憶に残っているのかとも考えたけれど、絵画にするとしたら普通は外観だと思う。そっちは見たことがある。
 まだ温かいパンを口に放り込み、咀嚼しながら考える。
 だいたい、こんな特別な部屋の中から見た景色を絵に出来るとは思えな……

(わかったッ! ゲームのスチルだ!)

 悶々と考えていたら、唐突に脳裏に蘇ってきた画像と目の前の景色が一致した。まるでパズルのピースが嵌ったかのように、一気に頭に浮かぶ景色がクリアになっていくのを感じる。
 思わず手に力が入り、息を呑んでまじまじと目の前に広がる景色を見つめた。
 湖の色彩。その周りの小さな森の緑。奥に小さく見える、茶色の屋根が特徴的なミニチュアのような可愛い街並み。

(そうだ、間違いない……ここがあのイベントの場所だったんだ!?)

 スチルでは、この景色の中に第一皇子の姿が追加される。
 確かゲームの中で第一皇子かクライブの好感度を上げると、避暑地に招かれるイベントが起こる。
 そこで特に第一皇子と仲が良くなると、この景色の中でお待ちかねの最終ラブイベントに突入したのだった。
 どうりで見たことがあったはずだ。なるほど、既視感の理由がわかってスッキリした。
 私としてもゲーム内容を全部覚えているわけではないから、折角なので思い出したことを脳内で整理していく。

(あのイベントが起こる前に、第一皇子がこの屋敷で刺客に襲われて……)

 しかし、思い出すと同時に不穏な気配が漂ってきた。考えながら顔が強張っていく。
 これはとんでもないことを思い出してしまった気がする。心臓がぎゅっと竦み上がり、背筋にはじわりと嫌な汗が滲む。

(でもゲームの中では、第一皇子は助かる)

 恋愛を前提とした乙女ゲームなわけだから、第一皇子が間一髪で助かるのはお約束ってやつだろう。

(というか第一皇子ルートだと、ヒロインが身を呈して助けたんじゃなかった?)

 そこで好感度がマックスになって、第一皇子とトゥルーエンドを迎える。それがこの景色のスチルだ。
 ただしそこでクライブとの好感度の方が高い場合はヒロインはクライブに助けを求めに行き、ここからクライブルートに入る。
 確かこの襲撃の時の傷が原因でランス伯爵は体調を崩し、後にクライブが爵位を継ぐか継がないか悩むイベントが発生したのだったと思う。
 その悩みに関しては、私がクライブと会って間もない頃に余計な口を挟んでしまったせいでどうなるかわからないけど……。
 クライブルートはその後の選択を誤れば、皆のトラウマエンドだ。トゥルーエンドも、トゥルーとは言いがたいものだったから乙女ゲームとしてはどっちもどっちである。
 それはともかく、メインが恋愛なのでランス伯爵のことはテキストでさらりとしか触れられていなかったから詳細まではわからない。ただ今はランス伯爵がクライブとデリックの父親だとわかっている以上、あまり楽観視していられることとも思えなくて眉根を寄せた。
 急激に細かく展開を思い出してしまって、心音がドクドクと急激に早鐘を打つ。

(これ、結構重要じゃない?)

 ヒロインと出会ってからの話だから、1年以上後の話になるわけだけど。
 だけどゲームの題材になるぐらいだから、あのイベント時だけに限らず、兄がここで刺客に襲われることは今にも起こりえる事象なのではないだろうか。むしろ珍しくもないのでは?
 そう考えると全身の血が一気に冷えていく。

(もしここで兄様が襲われた場合、私でも盾になるぐらいはたぶん出来る、はず)

 勿論死にたいわけじゃないけど、私と兄を天秤に掛けたら、兄に傾く。私は特異な存在だと兄は言ったけど、そんな大層な存在ではないことは私自身がよく知っているからそれは気にしない。
 ただそれで私が怪我をしたり、死んだりした場合は女だとバレることは免れないのは問題である。
 私と兄なら、生き残るべくは兄だ。でも兄と、私の周りを比べたら……どちらも捨てられない。まだ片方が選べない。

(百歩譲って私が死んだとしても、即死でなければ自分を命懸けで守った弟……妹の遺言ぐらいは、兄様も聞いてくれる?)

 せめてメリッサとセインだけは見逃してあげてください。そう頼めるだろうか。
 命を引っ提げて頼まれたら、断りにくいだろう。卑怯だとは思うけど、最悪の時に備えて遺言を言う練習をしておくべきなのか。

(……この年で遺言を考えるって、よく考えたら自分が可哀想になってきた)

 なぜ乙女ゲームの題材となった世界に生まれ落ちたのに、私の人生はハードモードしか選択できないのか。
 記憶があるのなら、もっとイージーモードでもよくない? それともヒントがある分、これでも十分イージーだとでも言いたいの!?
 もし神とやらが存在するなら、私の人生をいったい何だと思っているのか。ゲームで済まされないものが、ここにはあるというのに。

「アルフェ様。お口に合いませんでしたか?」
「!」

 ギリギリと胃が痛い思いに襲われて顔を盛大に顰めていたところで、不意に隣の席からメリッサに声を掛けられて我に返った。
 ハッと気づいて顔を上げれば、メリッサが心配そうな表情で私を窺っている。
 ニコラスとオスカーに至ってはとっくに食事を終えており、固まっていた私にいつから視線を向けていたのかもわからない。
 そして私の手には、無意識に握り潰されていたパンがあった。

(しまった!)

 考え事を始めると周りが見えなくなる癖、本当にどうにかしなければならない。慌てて首を横に振り、「いや、おいしいよ」と口にする。
 さっきから顔を顰めっぱなしだったので、全然説得力がない。でも出された食事自体は本当に美味しい。
 いつもは毒味された後で出されるから冷めていることが多いので、あたたかいというだけでも十分美味しい。
 それに加えて焼きたてのパンは香ばしく、サラダは新鮮で瑞々しい。チーズ入りのオムレツは濃厚で、気づけばすっかり冷めてしまっていることが残念でならない。

「特にこのオムレツが美味しいよ。生みたて卵でも使ってるのかな? 朝、鶏が鳴いていたでしょう」

 そう言いながら、一人だけ遅れてしまっている食事をせっせと口に運んだ。

(この景色に鶏の鳴声って、ミスマッチというか、逆にのどかで合っていると言うべきか)

 今朝は鶏の独特な鳴き声が聞えてきた。結構な声量で鳴く鳥だから屋敷の敷地内にいるかどうかまではわからないけど、徒歩圏内に小屋はあるように思える。
 たぶん生みたてであろう卵はとても美味しい。これでゆで卵作ってみたい。

(そうだ。ニコラスに言われた御礼、ゆで卵にしよう!)

 ゆで卵はこの国にもあるけど、よく駅の売店で売っていた旅のお供的な殻付きなのに塩味付きのゆで卵はこちらでお目にかかったことはない。
 以前、気になって作り方を調べたことがあるのでレシピはわかる。

(煮卵も美味しいけど、醤油を見たことがないからやっぱり塩味付きゆで卵かな)

 あれなら甘い物が苦手な兄も食べられるし、なにより私がこのメンバーに何かを振る舞えるのは城に戻ったら出来ないだろう。作るなら今しかない。

(そうと決まれば、後でクライブに卵と塩を譲ってもらえるか訊いてみて……)

 そこまで考えたところで、クライブの顔が脳裏に浮かんだせいでまたも無意識に力が入った。
 勝手に思い出している自分が悪いのだけど、それにしたってなんであの人はすぐに私の頭の中に登場してくるかな!?

「アルフェ様、パンは取り替えられたらいかがですか?」

 またもパンを握り潰してしまっていたせいで、あまり話さないオスカーが気遣う声を掛けてくれた。
 彼にそう言わせてしまうぐらい、私の手の中でパンは無残にもぺしゃんこである。いったい私は何をしているの……。
 溜息を吐きたい気持ちを抑え、自業自得なのでそれはちゃんと食べると首を横に振る。

「これでいいです。食べ物を粗末にするのはあまり好ましくありません。そちらのパンは、もしよければお二人でどうぞ」

 いつの間にか食べ終えてしまった二人は私に遠慮しているのか、籠に盛られた分のパンに手を付けている気配がなかった。しかし私もメリッサももう十分なので、二人に食べてもらわないと困る。

「アルフェ様はもういいんです? デリックなんて、俺らの倍は食べますよ」
「私は胃腸が弱いので、そんなに食べたら後が困ります」

 ニコラスに突っ込まれたけど、食べ盛りの思春期男子と同じ食事量を求められても困る。
 適当な言い訳を口にすれば、二人は納得したのかいそいそとパンに手を伸ばした。バターロールがたったの二口くらいで、あっという間に二人の胃袋へと消えていく。それでも食べ方が汚く見えないのが、さすが貴族子息というべきか。
 それでも二十代前半ぐらいの二人は食べても食べても足りなさそうだった。成人男子って怖いくらい食べるけど、これが普通なんだろう。
 その姿を感心しながら眺めつつ、ふとここにクライブがいなくてよかったと思った。
 
(もしここにいたら、もっと食べろって無茶ぶりされただろうな……)

 そこまで考えて、またも自分の頭を抱えたくなる。

(だから! クライブのことなんて考えたくないんだって!)

 いっそ本当に柱に頭をぶつけたら、クライブの存在ごと忘れてしまえるだろうか。
 込み上げてくる苦さを押し込むように、潰れたパンを口の中に押し込んだ。


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