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第73話 63 誰かに違うと言ってほしい

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 ゴン――ッ!
 額同士が当たる鈍い音と共に痛みが走り、目の前が一瞬チカチカと明滅した。

「ッ!?」
「っ…~~!」

 思ったより勢いは出なかったけれど、それでも故意にぶつけたのだから当然痛い。反射的に生理的な涙が目尻に浮かぶ。
 お互い声にならない呻き声を上げて、けれどその痛みのおかげでどうやらクライブはやっと覚醒したようだ。

「何がっ、……アルト、さま?」

 クライブは咄嗟に半身を起こしたものの、けれどまだ私を押さえつけたままの体勢で大きく目を瞠った。
 まじまじと私を見下ろし、その顔が徐々に引き攣って狼狽を滲ませる。

「…………夢じゃ、ない?」
「現実です!」

 愕然としているクライブを涙目で睨み上げて、勢いのままに声を荒げた。

「起きたなら退きなさい!」
「え……はっ、申し訳ありません!」

 見るからに怒っている私を見下ろし、ほんの数秒困惑した後、やっと現状の体勢に思い至ったのかクライブが慌てて私から手を離した。「やってしまった」と言わんばかりに、あからさまに動揺して顔を強張らせる。
 痛む額を片手で押さえながらクライブを押しのけ、横目にその顔を睨み様にすぐさまベッドから飛び降りた。

「今すぐその寝惚けた顔を洗って、ついでに頭も冷やしなさいッ」
「!」

 心臓なんて今にも胸を破りそうなほど脈打っていて、これ以上ここにいたら動揺と怒りでおかしなことを口走りそうだった。それだけを叩きつけるように言い切ると、伸ばされた手が届くより早く脱兎の如く部屋から飛び出す。
 アルト様、と呼ぶ声が聞こえた気がしたけど振り返っている余裕はない。部屋を出た勢いのまま、それでも怒られない程度の最速の早足で廊下を突き進む。

(信じられない!)

 寝てるところを不用意に触れようとした私も悪いから、反射的に闖入者を制圧しようとしたところまでは許せた。
 けど、その後が完全にアウト。
 寝惚けていたとはいえ、もしこれが本当に夢だったとしても、起こしに来た侍女を襲うなんてありえない。そういう願望でもあるの?って言いたくなる。
 それとも平生からこういうことをしているからこそ、無意識に常と同じことをしてしまったと考えるべきか……
 だとしたら、幻滅する。

(寝起きが悪いとは聞いていたけど、こういう寝起きの悪さだとは思わなかった!)

 まだ心臓がバックン、バックン、とうるさいぐらいに鳴り響いている。
 もう、本当にありえない。今すぐクライブの寝起きの悪さを誰かと分かち合いたい。出来れば「護衛チェンジで!」って叫びたい。現実問題として無理なことはわかっているけど!
 
「アルフェ様? おはようございます」
「!? お、はようございます」

 そんなことを考えながら悶々と歩き続けていたせいか、どうやら無意識に兄の部屋の前まで来てしまっていたらしい。
 事前に教えられていた兄の客室の前に既に護衛として佇んでいたニコラスに呼び止められて、ぎょっと息を呑んだ。

「こんな朝早くにどうしました?」

 どうやら兄を起こさなければならないという意識と、クライブをどうにかしてください!と訴えたい衝動に駆られて、気づけばこんなところまで来ていたらしい。実際にそんなこと言えるわけもないというのに、我ながら相当動揺している。
 でもあんなことされたら、誰だって動揺するでしょう!?

「兄さ、シークヴァルド殿下を、起こしに来たのですが……」

 それでも咄嗟にこんなところまで来てしまった理由はなんとか口に出来た。私の返答に、ニコラスがいつもにこやかに見える顔を少し渋いものにする。

「一人で歩き回るのはどうかと思いますよ。クライブはどうしました?」
「っ寝てました!」

 ここは反省してみせるところだったのに、ただでさえ動揺している状態でクライブの名前を出されて、反射的に仏頂面になって声を荒げるという拙い対応をしてしまった。
 でも今クライブの名前を出されると、まだ冷静さを保てない。
 しかしニコラスはそんな私の反応にも驚いた様子はなく、どころか納得したような顔をした。更に、気の毒なものを見る目を私に向けてくる。

「ああ……あいつ、寝起き悪いでしょう?」
「クライブはいつもああなのですか?」

 もしかしてクライブの寝起きの悪さを知っている!?
 目を瞠れば、ニコラスが引き攣った笑みを浮かべた。どうやらこの姿の私には本当に侍女として接する気なのか、随分と砕けた態度だ。

「だいたいそうですね」

 頷かれて絶句する。
 近衛宿舎で生活している近衛なら誰もが知っているぐらい、いつもああなの!?

「最悪ではないですか……っ」
「でしょう。一応アレでも有事の際はちゃんと起きますけど、普段は全然起きないし、起きても機嫌が悪いので、寝起きのクライブには触れない方がいいですよ」

 しかし苦笑いで言われた言葉は、さっきのクライブには当てはまらなかった。
 確かに最初は怖い顔をしていたけど、私にしでかしたことは機嫌が悪かったから、というのとはちょっと違うと感じる。
 私が言いたいのは、そういうことではなくて。

「普段から、寝惚けて侍女を押し倒したりも……しますよね?」
「近衛宿舎は女人禁制だから、それはありませんけど」

 恐る恐る問いかければ、ニコラスが驚いた顔をして、さすがにそれはないと首を横に振った。そして私を上から下まで見て、僅かに眉を顰める。

「……押し倒されたんですか?」
「っ、されてません!」

 一瞬だけ、詰まってしまった。即座に否定したものの、ニコラスが驚いたように糸目を見開いた。

「寝惚けて女の子と勘違いして押し倒してもおかしくはない……けど、俺ならともかくクライブはそういうタイプじゃないはずだけどな」

 俺ならともかく、という部分も非常に気になるところだけど、独りごちるように言われたことに今度はこちらが眉を顰めた。

「クライブも女たらしでしょう? 女性慣れしているではないですか」

 今までのことを思い返すと、どう考えても女たらしでしかないのだけど。
 仏頂面で訊き返した私に対し、ニコラスは思案するように小首を傾げた。

「近衛ともなると言い寄られることは多いですけど、クライブの場合はあの立場ですから。下手に手を出そうものならあっという間に揚げ足取られて婿にされかねないので、女性に対してはかなり慎重ですよ。まぁ、それでもそつなく当たらず障らずの対応しているので、たらしといえばたらしですけど」

 そう言いながらもう一度私を上から下まで眺めて、やけに納得した顔で頷いた。

「アルフェ様は妃殿下に似てお綺麗ですし、寝惚けて箍が外れたのかもしれないですね。クライブもそういう年頃ですから。そういうときは遠慮なく殴っていいですよ」
「だからそんなことされてないと言ったでしょう!」

 押し倒された前提で話を進めるのやめてくれる!? 押し倒されたけど!
 睨みつければ、なぜかニコラスは面白そうに糸目を更に細めた。一瞬、背筋がぞわりとする。
 なんとなくだけど、ニコラスはあまり性格が良くないかもしれない。後でこの件でクライブをからかう気満々に見える。
 しかしここはいっそクライブをからかい倒してもらった方が、クライブも懲りて二度としないかもしれない?
 いやでもそれはちょっと、下手に突っ込まれると私まで迷惑してしまう。動揺して失言してしまった私が悪いとはいえ、この件に関してはこれ以上触れてほしくない。

「本当にそういうのではありません。闖入者だと勘違いされて、ちょっと脅されかけただけです」

 これは嘘じゃないので、渋い顔で堂々と弁解できる。
 クライブの奇行は寝惚けていたからで、ニコラスの言う通りお年頃ってやつだから、女の子の格好をしていればきっと誰でもよかった……と、いうことにしておきたい。
 そう思わないと、ニコラスがさっき言った言葉が妙に胸の奥で引っかかった。

(私は、あの人に似てる)

 言われ慣れた言葉だ。自分でも、母親似だと思っている。
 けれどチクリと胸に刺された棘は、不快感を残したまま消える気配がない。

(もしかしてクライブが妃殿下を好きで、これまでのことも全部、私があの人に似てたから……なんてことは)

 一瞬そんな考えが脳裏を過っただけで、背筋に悪寒が走り抜けて猛烈な嫌悪感に襲われる。
 そんなことあるわけがない、と思いたいのに一度考え出すとその思考が拭えない。
 けれどこの場でそんな思考に支配されるわけにもいかない。なんとか意識を切り替えようと、必死に笑顔を取り繕う。

「だいたい私をそういう対象として見るには、色々と足りてないでしょう? ありえないです」

 ただ細いばかりで、女性らしい柔らかさとか、愛らしさとか、そういうのが致命的に欠けている。女装をしていても、色気も皆無。

 だから私は――あの人とは、違う。

 なんとか笑顔を作ることに成功したものの、ニコラスはさりげなく私の胸を見て少し残念そうに頷いたので、引き攣りそうになった。
 だからなんでどいつもこいつも人の胸を見て判断するかな!?


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