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第72話 62 頼むから現実を見て
しおりを挟む早朝、まだ屋敷内は静けさに包まれている中、メリッサに起こされて今日も侍女服に袖を通した。
昨日同様にいつもは後ろで一つに結んでいる髪を下ろし、カチューシャタイプのホワイトブリムを付けたら紛うことなき侍女となる。
鏡に映った自分の姿は、当然ながら違和感なく少女。
濃紺のワンピースはスタンドカラーのおかげで喉仏が無いことは隠せるので、それだけが幸いというべきか。
(仕方ないか)
この姿の私を見て第二皇子だと思う者はいない。
私自身、いったい何をしてるの?って思うレベルだから、それが唯一にして最大のメリット。
そう自分に言い聞かせて、嘆息を吐いて意識を切り替える。
(ちゃんと仕事しなきゃ)
昨夜、兄もクライブも特に何も言わずに別れたということは、侍女としての仕事を任せる気はないのだと思う。
けれど無理して連れてきてもらっている手前、出来ることはすべきである。
ただでさえお荷物なのだから、それぐらいの役には立ちたい。
「じゃあ、ちょっとクライブに聞いてくるから待っていて」
メリッサをクライブに近づける気にはなれない。
メリッサはちょっと渋る素振りを見せたものの、昨夜怒ってみせた手前、私に任せた方がいいと判断したのだろう。神妙に頷いて送り出してくれた。
部屋の扉の鍵を開けて、顔を覗かせれば扉脇に見慣れぬ衛兵が立っている。ランス伯爵家から借り受けている護衛だ。
私の顔を見て、「おはようございます。お早いですね」と朗らかに挨拶してくれる。私が誰か知らないからだろうけど、思っていたよりずっと愛想がよくてほっとした。
「おはようございます。クライブ、様を起こしにまいりたいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい。ご案内しましょうか?」
「いえ、部屋はわかっておりますので大丈夫です。ありがとう」
どうぞ、と促されるまま部屋を出て、クライブに割り振られた部屋まで歩いていく。
といっても、そこまでの距離はない。何かあればすぐに駆けつけられるよう、同じ階の部屋である。
(よく考えたら、ここがクライブの家……ここだとクライブは若様なんだよね)
さっきはいつものように呼び捨てしそうになったけれど、よく考えたらクライブはランス伯爵家の長子である。一介の侍女が呼び捨てというのも憚られて、咄嗟に様付けして正解だったかも。
ちょっともぞ痒いけど。
ランス卿と呼べばよかったと思ったけれど、この家でランス卿と呼ぶとたくさんいて紛らわしい。
それにどうやら近衛騎士はファーストネーム呼びが主流のようだ。ニコラスとオスカーも、名前でいいと言っていた。家を継がない貴族の第二子以降が多いこともあり、家名で呼ぶと紛らわしいのだろう。
近衛騎士は家の序列に関係なく、内情はわからないけど表向きは全員が等しく同列という扱いらしい。クライブのように乳兄弟という場合は別として、団長と副団長以外は上下の差がないようだ。
自分の家を重視して足を引っ張るような人間なら、そもそもなれないということなのだろう。
王家を守る騎士であるということ、家名などではなくそれこそが彼らの誇りとなっているのだと思われる。
(それならラッセルも多少は過ごしやすいのかな)
私に付いている、という時点でギスギスしてしまう部分はあるだろうけど。でも家の序列でとやかく言われないのなら、少しは安心。
そんなことを考えている内に、目的の部屋の扉の前に立った。大事な若様なはずだというのに、扉の前に護衛はいない。
まぁ、近衛騎士に護衛はいらないだろうけど。
ちょっと躊躇った後、コクリと息を呑んで扉を控えめにノックした。まだ屋敷内は静かだから、やけに響いて聞こえてドキドキする。
だが数秒待っても、返事はない。もう一度、今度はちょっと大きくノックしてみる。
「クライブ?」
ついでに控えめに声も掛けてみた。
……それでも、しばらく待っても返事はない。扉の向こうは静まり返っている。
(それでいいの、近衛騎士!?)
別に緊急事態でもなんでもなく、平和な空気しかないせいだろうか。場の空気には職業柄、人一倍敏感そうではある。逆にそのせいで、特に問題がないと意識が判断して起きないのか……。
いや、起きてもらわないと困るのだけど。
自宅に帰ってきたから、安心して気が抜けているのかもしれない。でもクライブは城育ちのはずだから、そこまでこの家に馴染みがあるとも思えない。
でも極たまにしか帰らなくても、実家って妙に居心地がいいものだという気持ちもわかる。
それに兄が同室で寝たくないほど、クライブは寝起きが悪いと言っていた。
(誰しも欠点はあるものだから、仕方ないとはいえ)
目覚ましを3分ごとに数個掛けても、寝汚い人は無視して布団に縋りつく。
「起きたら目覚まし壊れてた」という人がたまにいたけど、それは壊れたんじゃなくてうるさいから無意識に壊したのだと思う。それほどに寝汚い人は残念ながら存在する。
そういえば、旅行先で全然起きない友人に手を焼いたこともあった。
朝が苦手な人というのは、揺さぶっても布団を剥いでも、絶対起きない。起きたら起きたで、しばらく機嫌が悪かったりする。
(そういうタイプじゃないといいのだけど)
溜息を吐いて、覚悟を決めてもう一度ノックした。
「クライブ。入りますよ?」
声を掛けてから、扉を開く。
鍵はかかっておらず、あっさりと開いた。覗き込んだ部屋の中は分厚いカーテンが引かれているせいでまだ薄暗い。
ベッドの上、まだ眠っているだろう塊を見つけて「クライブ」と声を掛けてみる。しかしピクリとも動かない。
これぐらいじゃ起きないよね。なんとなくわかってた。
仕方がない。嫌だけど、部屋に入って揺さぶり起こすしかない。
部屋に足を踏み入れて、ベッドに近づいていく。足音を忍ばせているわけでもないのに、それでもクライブはピクリとも動かない。
(本当に近衛騎士がこれでいいの? 気配を察して起きるところでしょう、ここは!)
私にクライブを害するつもりがないのを感じ取ってるからだろうけど、それでも他人が部屋に入ってきたら起きてほしい。
普通の人ならともかく、近衛騎士でしょう? 大丈夫なの?
「……クライブ?」
恐る恐る覗き込んだ顔は、案の定眠っていた。しかも全然起きる気配がない。まだ起きるには少し早い時間ではあるけど、そろそろ起きてもおかしくはないと思うのだけど。
口をへの字に曲げながら覗き込んだクライブの顔は、なぜかちょっと顰め面になっていた。
(疲れてるのかな……)
私がここまで傍に来ても起きないっていうのは、そういう理由もあるのだろう。
昨日は一日中移動で、きっといつも以上に気を張っていたはず。兄だけでなく私もいたから、余計に。
それにもし万が一だけど、ここで何かあればランス伯爵家に責任が問われるわけだから、色々と気になってあまり眠れなかったというのも考えられる。
そう思うと、もう少しゆっくり寝かせてあげた方がいいような気がしてきた。
(クライブに確認しなくても、兄様はもう少し時間が経ってから起こしに行けばいいし)
駄目なら扉の前で止められるはず。それにもし兄も早く起きなければならないようなら、ニコラスかオスカーが起こしてくれているだろう。
なにがなんでもここでクライブを起こしてまで聞くような用件ではない。
小さく息を吐き、起こすことは諦めて立ち去ろうと踵を返しかける。けれど顰め面なことが気になって、足を止めた。
もう一度覗き込んで確認した寝顔は、まだ険しいままだ。
(眉間、皺寄ってる)
そんな険しい顔をして寝ていたら疲れも取れなさそう。変な夢も見ていそう。
せめて眉間の皺ぐらい伸ばしていってあげようと、そっと顔に向かって手を伸ばした。
「っ!?」
けれどその手が触れる寸前、伸ばした手の手首が痛い程強く掴まれた。
(はっ!?)
悲鳴を上げる暇もなかった。
強く掴まれた手を勢いよく引っ張られ、急にぐるりと視界が回る。引かれた勢いのまま、背中からベッドに倒れ込む衝撃を感じて息が止まった。
「――っ!」
幸いベッドだったからか、背中がひどく痛んだわけではない。でもそれなりに衝撃はあって、反射的にぎゅっと固く目を瞑る。
いきなりのことにわけがわからなくて頭は真っ白だ。ほんの一瞬のことで、自分に何が起こったかすぐには理解できない。
(手、うごかないっ?)
ようやく少しだけ意識が戻ったところで、咄嗟に起き上がろうとした。けれど両の手首が押さえつけられていることに今更気づいて、一気に血の気が引いていく。
無意識に強く閉じていた目を恐る恐る開ければ、予想もしない事態が自分の身に起こっていた。
「クライブ……っ?」
私の上に覆いかぶさるような形で、私を抑えつけているクライブがいた。
寝ぼけているのかどこか虚ろな緑の瞳と目が合って、息が止まる。
「お、きたのですか」
何とか絞り出した私の声は、驚愕のせいで擦れていた。
私を見下ろすクライブはやけに怖い顔をしたままで、急激に心臓が慌ただしく脈打ち出す。
(大丈夫? ちゃんと起きてる!? 私が誰だかわかってるッ!?)
やっぱりさすが騎士というべきか。悪意はなかったけど、さすがに触ろうとしたら気づいて起きるんだ。
動揺している頭が冷静さを取り戻そうとしているのか、そんなどうでもいい思考が脳裏を過っていく。
その間も心臓は驚愕にバックンバックンと跳ねまくっていて、私の体は緊張に強張って動けない。そうでなくても、ベッドに押さえつけられていて動けない。
そして私をベッドに縫い止めているクライブは、やっと少し驚いた顔になった。
「……アルト様?」
寝起きで声は擦れて、いつもよりずっと低い。聞いたことのない声に、ちょっとたじろいでしまう。
でも一応は私だと、やっと理解したらしい。
クライブはどうやら条件反射で闖入者を制圧したものの、まだ寝ぼけているのか、私に呼びかけている割に自分のしたことは理解できていなさそう。
だって全然、私を解放してくれる気配がない。
強く握り締められて押し付けられている手首は痛い程で、ありえない体勢に私は緊張しすぎて全然動けない。
「なぜ、ここに」
「お、起こしに……」
単にクライブを起こして、兄をいつ起こしたらいいか聞きたかっただけなのですが!
というか、早急に退いてほしいのだけど!
そう言いたいのに、クライブは私に覆いかぶさったまま動かないせいで動顛していて、上擦った声でそれだけしか言えなかった。
「あなたが、僕を?」
不思議そうに問われて、なんとか頷く。
そう、単に起こしに来ただけだから! わかったなら離して!
「…………。なんだ、夢か」
しかししばしの沈黙の後、独りごちるように低い声でクライブは呟いた。
(夢じゃないけど!?)
現実! 紛れもなくこれは現実だから! まだ寝ぼけてるの!?
私が起こしに来るのはまったくもって想定外だったかもしれないけど、クライブが押さえつけてる私の手とか、いくら細いといってもちゃんと質感があるでしょう!?
頼むから、夢で片付けないで!
頭の中では怒涛の如く反論できるのに、現実では全く声が出ない。
私を見据えるクライブの緑の瞳が妙に虚ろに見えて、喉が詰まって呼吸すら憚られる。
「夢なら……いいか」
なにが夢ならいいわけ!?
聞き返す余裕もなかった。私を押さえつけた状態で、なぜか私を見据えたままクライブの顔が近づいてくる。
獲物に定まられてしまったように感じて、心臓がドクリと大きく跳ねた。緊張で全身が硬直する。
この体勢で、そう来るってことは……待って! 冗談でしょう!?
(なんで……っ)
呼吸が止まる。
心音がうるさい。
時間としては、ほんの数秒だったのだと思う。
息すらかかりそうなほどの距離に迫るクライブを見上げて、大きく目を見開く。
(私だって、わかってるはずで)
私の名を呼んだのだから、ちゃんと理解しているはず。
いやでも夢だと思ってるってことは、私の顔した侍女が夢に現れたとでも思ってる!?
夢なんだから、何してもいいや的な。この際、女なら何でもいいか的な。
……そういえば、クライブ。
前も私が侍女の格好してるからって、とち狂ってキスしてきたことが、あった。
女の子の格好してたらなんでもいいわけ!? この節操無しッ!
「っいいかげん、目を覚ましなさい!」
そう思い至ると同時に、無性に怒りが込み上げてきた。
それまで凍り付いていた体に力が入り、なんとか動かせる。
手首は掴まれたままだから腹筋と首に力を入れると、出来る限りの力で、クライブの額めがけて頭突きした。
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