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第63話 54 一歩進んで二歩下がる

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 言われた瞬間、ギクリと全身が硬直した。

(何者であっても、って)

 これだけ至近距離にいれば、私の動揺は伝わってしまったと思う。

(待って。それって、まさか私が、女だって)

 バレてる?
 それとも、カマをかけているだけ!?
 心臓がバックン、バックン、と急激に胸を突き破りそうなほど強く早鐘を打ち出す。
 取り繕おうとしても引き攣ってしまう顔で恐る恐る兄を見れば、こちらを見つめる淡い灰青色の瞳と目が合う。
 責めているようには見えない。しかし、その胸の内の感情も読めない。凪いだ湖面のように静かな瞳。

「……私、は」

 緊張で喉がカラカラに乾いていて、擦れた声が漏れる。

(私は、この先なんて言えばいい?)

 これは、ここで、女だと告げるべきなの?
 今の話から考えれば、兄に真実を告げても処刑にはならない……ように思える。
 でもこれで私は助かっても、その周りまで助けてもらえるとは思えない。むしろ私をこういう立場に仕向けた周りに対して、制裁する方向に向かってしまう可能性がある。
 私の命だけで贖えるなら、それでいいと思っていた。でもそうではないのなら、踏み出す勇気が出ない。声が出ない。

「アルフェ。いくつか聞きたいことがある」

 固まって動けなくなっている私を見て、兄が微かに首を傾けた。
 もしここで女なのかと訊かれたら、私はきっと「違う」と言うことは出来ない。
 黙ったままでいることと、嘘を吐いて否定してしまうことは、完全に意味が違ってきてしまうから。

 実のところ、私は過去に一度として自分のことを『皇子』だと名乗ったことはなかった。

 成人前なので人前で名乗ることもなかったけれど、どうしても、という時だけ「ウィンザー王が第二子」と名乗っている。
 この国では生まれた順番が重要だから、貴族子息もそう名乗ることが多い。だから私もそれに倣う形で名乗っているのだと、周りには思われていただろう。
 でもそれは自分の中の、最低限の線引きのつもりだった。
 自分自身の口で嘘を認めてしまったら、なけなしの意地も潰れてしまうように思えたから。
 ……勿論、傍から見ればただの屁理屈でしかないのだろうけれど。

(なにを訊かれるの。なんて答えたらいいの)

 緊張で掌に冷たい汗が滲む。心臓が耳元で鳴り響いているかのようにうるさい。
 兄の口が開くのが、スローモーションのように目に映った。

「ひよこは何色だ?」

 だから投げかけられた突拍子もない質問が、一瞬理解できなくて頭が真っ白になった。

「…………ひよこ、ですか?」

 この状況でその質問をされることの意味がわからなくて、数秒の沈黙の後で絶句して聞き返す。
 だって、なんで今ひよこ!?

「ひよこだ。鶏の産むひよこのことを言っている。何色だ?」

 ひっかけ問題なのかと頭の中は混乱の嵐だけれど、聞き返した私に丁寧に質問内容を繰り返された。
 どう反芻しても、単純にひよこの色を聞かれている。
 兄はじっと私を見つめていて、辛抱強く答えを待っている。
 ただでさえ緊張している上に混乱した頭では、考えたところで何が正解かはわからない。
 いや、この答えの正解は一つしかない、はずだけど。

「黄色、です」

 だからそう答えれば、兄は当然ながら頷いた。そして続けて質問を投げかけてくる。

「なら鶏は何色だ?」
「白です。茶色の鶏も、いますけど。一般的には白が主流ではないかと」

 この状況で、ひよこと鶏が一体なんだと言うの。何かの例え話でもする気なの?
 困惑しつつ知っている範囲で答えれば、兄が呆れた眼差しで私を眺めた。

「よく知っているな。おまえはひよこも鶏も、見たことがないというのに」
「!」

 指摘されて、心臓が止まるかと思った。目を見開き、息が止まる。

(しまったッ!)

 失言した! 失敗した!
 いやでもっ、女だとバレたわけじゃなくてよかった!?
 それに過去の記憶があるってバレたとしても、よく考えれば別に何も困らな……
 いや、それはそれでまずい。
 過去の記憶がある人間なんて、人間扱いされるかどうかもわからない。人は自分と違う、理解出来ない存在には脅威を抱くもの。そして時に糾弾して、排除しようとする。
 それはオタクに対して、やたら攻撃的になる一部の一般人にしかり。中世の魔女狩りにしかり。
 ここで自分が人とは違うのだと認めることは出来なかった。

「それは、本で読んだので」

 苦し紛れに、なんとか言い訳を捻り出す。
 そう、本で読んだ。それでなにもおかしくない。大丈夫、辻褄は合う。
  
「幼い頃のおまえは、図書室の本に落書きをする遊びに嵌っていた」

 するとなんとかやり過ごそうとしている私に向かって、兄が唐突に私の黒歴史を掘り起こした。
 ただでさえ動揺しているのに、子供の頃のイタズラ話まで持ち出されて、もうまともに息が出来ない。

「一応あの部屋の本はすべて希少な資料なわけだが、気づいた時には何冊かが被害に遭っていた」
「……申し訳ありません」

 兄は淡々とした表情と口調で、怒っているようには見えない。
 とはいえ、こちらは顔を引き攣らせて謝罪を口にする。
 兄の言う通り、幼い頃の私は一時期、図書室の本に落書きする遊びに嵌っていた。
 誰かからパステルを贈られて、カラフルなそれが綺麗で嬉しかったからよく覚えている。とにかく使ってみたくて仕方なかったのだ。

 それで、まぁ……図書室の本を、塗り絵に使いました。

 この世界の本はモノクロが主流で、極稀に2~3色刷りの本があるぐらい。以前の世界には当たり前にあった、フルカラーなんてものはない。
 だから塗り絵するには丁度良かったのだけど、今考えると顔から血の気の引くような所業である。悪気はなかったとはいえ希少本に塗り絵をして遊んでいたことは、子どもの悪戯では済まされない。
 だからこそ、なるべく忘れたフリをしていた黒歴史。
 それを兄に知られていたという事実に、もういろんな意味で逃げたくて仕方がない。
 
「いくらアルフェでも、さすがに見過ごすことは出来なかった。だから一度だけ、一緒にいた護衛を使って注意したことがある」

 体を強張らせ、次に何を言われるのかと身構えていたところにそう言われて、思い出した。
 塗り絵に夢中だったせいで、人に気づけなかったことが一度ある。
 大きな人にいきなり話しかけられたことに焦って、全部放り出してその場から逃げ出そうとしたけど捕まったのだ。

(あの時、兄様がいたってこと?)

 その後どうしたのかまでは記憶が曖昧だけど、たぶん落書きしては駄目だと言われたのだと思う。
 パステルは没収されてしまい、ひどくがっかりしたことだけは覚えている。しかし自分が悪いことをしたのだとはわかって、あれ以来、本に落書きするのはやめたのだ。
 でもどうして今、そんな話になるのかがわからない。

「あの当時、アルフェは動物が描かれた本を好んで見ていたな?」
「たぶん、そうだったと思います」
「あの時おまえが落書きした本のひよこはすべて黄色に塗られていたが、鶏はトサカを赤くしただけで、体は白いままだった」
「そうでしたか……?」

 その辺の記憶は飛んでいる。
 いちいち落書きした色なんて覚えていないので、眉尻を下げて首を傾けた。

「注意をさせたのがアルフェと似た年頃の子どもがいる護衛だったからか、塗り甲斐のある大きな鶏を塗らないことを不思議に思って訊いたのだ。なぜ鶏には色を塗らないのかと」

 訊かれただろうか。訊かれたかもしれないけど、なんて答えたかは覚えていない。

「そうしたらおまえは、鶏は白いから、これでいいのだと言った」

 私を見据えて言われた言葉に、目を丸くした。

(そんなこと言った!?)

 覚えがない。
 でも言われてみれば、昔からひよこは黄色だし、鶏は白いと思っていた。文字は読めていたから、何かで読んで知っていた可能性もある。
 でも過去の記憶を取り戻す以前に、思い返せば私はそれを知っていた、と思う。ひよこを脳裏に浮かべれば、黄色のふわふわした生き物を想像していた気がする。

(なぜ私は前の私を思い出す前から、ひよこの色も鶏の色も知ってるの?)

 だって、そんなのは当たり前のことで……

(なんでそれを当たり前だって、思ってるの?)

 自分の思考に混乱する。
 あれ? 待って。本当に、ちょっと待って。
 
(もしかして、元から記憶を持っていたり、した?)

 そう考えて思い返せば、心当たりはいくつかあったりする。
 そんな馬鹿な、と思うより、前の知識自体は最初からこの体にあったのだと考えた方が自然に思える。
 ただ前の私の意識は、新しい私には必要がなかったから、きっと底の方に沈んでいた。
 でも新しい私が耐え切れなくなって、きっと最初はピンチヒッターとして呼び起された。そしてそれはいつしか混じり合って、今の私になっているわけだけど。
 きっと元々過去から持ち込んでいた知識そのものは、最初から私の中に存在していたのだろう。
 けれど、それらの知識は何に使われるのかはわかっていなかった。そういうものを知っている、というだけのことだった。
 今は過去の記憶がある分、昔の経験に基づいて知識が紐づけされている。おかげで思い出しやすい状況になっているのだと思う。

(でもこれって、どういうこと)

 コクリ、と喉を嚥下させる。
 兄はさっき、私が何者であっても、と言った。

(そんな記憶があるってことは、私はいったい、なんなの)

 そもそも前の記憶がある時点でおかしいことはおかしいのだけど、自分がおかしいのだと素直には認めたくない。
 愕然として言葉を失っていると、兄が静かに息を吐き出した。

「公にはされていないことだが、王家にはたまに特異な者が生まれる。おまえのように、本来知りえない知識を当たり前に持っている子供もそれにあたる」

 そう言われて、ギクリと心臓が軋んだ。

(それってつまり、以前にも私と似たような転生者がいたってこと?)

 過去にもそういう人がいたというのなら、そういうのを呼び起こしやすい血筋ってことになるのだろうか。
 だとしたら私がこうなのも、理解はできる。
 理由がわかって安心するような。余計に不安が増したような。
 狼狽える私を前にして、兄がとんでもないことを口にした。

「そしてそういう者は未知なる知識をもたらすことがある。だから場合によっては、王よりも重んじられる」
「私はそんな大層な人間ではありません!」

 予想もしていなかったことを言われて、慌てて力いっぱい否定した。首も勢いよく横に振る。

(冗談じゃない!)

 私の前の生が医師だとか、看護師だとか、薬剤師だとか。料理人とか、専門的な技術者、芸術家ならともかく。

(ただの! ゲームと読書とアニメと仕事に忙しいオタクなOLだから!)

 オタクなだけに色々読み耽っていたから、人より雑学的な知識は多いと思う。特にこの世界に関しては、ゲームの知識があるから余計にだ。
 けど、お役立ち系はSNSで仕入れた情報と、ネット上の某巨大百科事典サービスの恩恵を受けていただけ。
 私自身の頭が良いわけじゃない。
 仕事は専門的と言えば専門的だったけど、資料と根気さえあれば誰でも出来る。あとはバイトしていた時の経験から、オムライスだけプロ並みに作れます、というぐらいの特技しかない。
 その程度の人間相手に、期待なんてされても困る。
 ましてや王より重んじるとか、そんな大それた存在じゃないから!

「おまえにとっては当たり前で大したことがない知識でも、私達から見ればそういうわけじゃないこともあるだろう」
「本当に、そんな大それた存在ではないのですっ」

 必死な否定にもかかわらず、過度な期待に泣きそうになる。実際、動揺のあまり目頭が熱くなった。何度も首を横に振って、違うのだと訴える。
 すると兄の手が伸びてきて、「落ち着け」と両手で挟みこむように頬を捉えられた。
 整いすぎた顔に間近から覗き込まれ、ぐっと喉を詰まらせる。
 目を逸らしたいのに逸らせない距離で、「最後に一つ聞かせてくれ」と言われたので黙って見つめ返した。

「一応訊くが、アルフェは王になる気はあるか?」
「ありません。無理です。出来ません」

 潜めた声で問われた問いを、間髪入れずに全否定した。
 無理です。絶対に、無理です! 女であることを差し引いても、無理ですから!

「だろうな。アルフェには向いていないと、私も思う」

 はっきりきっぱりと言い切った私を見て、ふ、と兄が体から力を抜いたように見えた。私の頬から手を離し、僅かに苦笑いをする。

「幸い、たぶんまだエインズワース公爵も気づいてはいない。気づいていたらとっくに祭り上げられていただろうからな」

 そのことに今更ながらに気づいてゾッとした。
 よかった、まだ気づかれてなくて!

「とにかくアルフェがどう思っていようと、おまえは守らねばならない対象ということだ」

 そんな対象じゃないと繰り返し言いたいところだけど、これ以上何かを口にしても墓穴を掘りそうだったから黙ったままでいた。
 でも私が納得していないのが伝わったのか、兄が私の頬を抓んで引っ張った。

「可愛くない顔をするな。ひとまず、自分がそういう存在なのだと頭に入れておけ」
「……はい」

 眉根を寄せながらも頷けば、兄はそれでよしとしたのか、手を離して立ち上がった。

「ランス領の件は改めて連絡する」

 そう言いおいてから扉の外で待機していたクライブとメル爺に声を掛けて、退出の旨を告げる。慌てて自分も立ち上がって、見送るべく一緒に歩き出した。
 その間も必死にどうすべきか考えているけど、予想外のことが起こりすぎて頭がまとまらない。

(なんでこんなことになっちゃってるの……?)

 女だとバレる、バレない以前の話になってきてしまった。
 たとえばこれで私が女だとわかったとしても、処刑は回避された気がする。
 でもそのせいで、私の周りの処刑率が跳ね上がってしまったように思える。
 兄を信用していないわけじゃない。
 信用しているからこそ、私を守るためにどういう手段を取るかが読めなくて身動きが取れない。

(それに私が特別な存在だって思われてるってことは、女だとわかっても王位って回ってきたりする?)

 過去の王族の一覧を頭の中で思い返してみても、そういうことはなかったように思える。
 だが秘されていることならば、目に見えてわかるような形で残すとは思えない。そうなると、ここで私が女だと告げても、王位争いが収まるとは思えない。
 むしろ激化しそう。
 私が女だと告げれば、きっと兄も黙ったままというわけにはいかないはず。そうなれば当然、周囲は王位簒奪を目論んだ私を処刑しようとするだろう。
 でも兄はそれを守るために、私がどういう存在かを公表しかねない。
 実際は私は何の役に立たないわけだけど、私がどう思うかじゃない。周りが私をどう見るか、なのだ。
 となると、女であっても私を立てたい者が出てきかねない。
 そうなった場合、兄は更に板挟み状態になってしまいかねないのでは?

(これって、兄様に女だと告げる方がまずいことにならない?)

 元々頭の出来がいいわけじゃないので、もはやなにを選び取ればいいのかわからなくなって途方に暮れてしまう。
 一周回って、元に戻ってきてない?
 どころか、一歩進んで二歩下がってるんじゃない!?


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