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第54話 46 回れ右して帰れ
しおりを挟む自室に戻るなり、顔を強張らせたメリッサに駆け寄る形で出迎えられて嫌な予感がした。
「たった今、エインズワース公爵がお見えになられまして……アルフェンルート様に、謁見を求めておいでです」
「!」
硬い声音で告げられた全く予想もしていなかった言葉に、顔から一気に血の気が引いていく。
エインズワース公爵──すべての元凶にして、第二王妃の父。
そして、私の祖父。
だけど今日会う予定などなかったはずだ。
動揺のあまり一瞬、頭が真っ白になった。
けれど意識を飛ばしている場合ではない。早鐘を打ちだした心臓に急かされるように、すぐに我に返ると頭をフル回転させる。
(どうしていきなり……それに、今日はセインがエインズワース公爵に呼び出されて行っているはずなのに)
エインズワース公爵領は、王直轄領の隣にある。
王都周りの王直轄領は広さとしてはそこまで大きくないため、早馬ならば1日もあれば隣の領に辿り着く。
その為、セインは定期的にエインズワース公爵の元に近況報告に行っている。
メリッサから見ると、それが私を監視していると感じられるようだ。だけどセインが定期的に報告に行ってくれているからこそ、公爵本人が私の元に訪れる回数は最低限で済んでいると言っていい。適当に無難な情報を与え、私に近寄らせない。
ある意味、定期報告は私を守る為にしてくれていた。
そうでなければ、セインとてわざわざ顔を合わせたい相手ではないだろう。
昨夜はそんな相手の方から呼び出されたと、苦い顔をして言っていた。
私に関する報告は、当然ながらセイン以外からもされているのだろう。
そして私に近衛騎士がつけられたと聞けば、エインズワース公爵が動かないわけがない。
だから今日はその件で呼び出されたのだろうとは、思っていたけれど。
(一応覚悟はしていたけど、まさか直に乗り込んでくるなんて……っ)
セインと行き違いになった? 自分で呼び出しておいて、そんなわけがない。
防波堤代わりになってくれていたセインを呼び出して私から遠ざけておいて、その隙に自ら乗り込んでくる。
やりそうなことだ。
震えそうになるのを堪えて、ぐっと拳を握りしめった。硬い表情になった私を見て、メリッサが躊躇いがちに口を開く。
「いかがいたしましょう。エインズワース公爵は事前にセイン様に今日こちらに伺うと仰られていたとのことなのですが、そんなお話は聞いておりません。急なことですから、後日に改めていただきますか?」
「……いや、会うよ。向こうが事前に知らせていたと言い張る以上、連絡をちゃんと受け取れていなかったこちらにも非があることになる。断るのは失礼だ」
それにたとえ今日断っても、また明日に先送りになるだけだ。セインもすぐにはこちらに戻れないよう、たぶん向こうで足止めを食らっているはず。
だとしたら、セインが帰ってくるのを待つだけ無駄だ。
どちらにしろ、こうして直に来た以上は私が応対しなければならない。
覚悟を決めて、すぐ傍らに控えていたラッセルへと視線を向ける。
「今からエインズワース公爵に会います。ラッセルは、何を言われても動かないでいただけますか?」
あの人から、何を言われるかわからない。
一応釘を刺しておけば、私の言葉に一瞬訝しげな顔はしたものの、心得ているという代わりにラッセルが頷く。
「アルフェンルート殿下に危害を及ぼさない限りは、私が動くことはございません」
ラッセルの忍耐力はお墨付きだ。多少の嫌味を言われたところで、激昂するタイプじゃないと一先ずは安堵する。
「メリッサはここで待っていて」
「ですが」
「多分すごく疲れて帰ってくるだろうから、すぐ休めるように準備しておいてくれると助かる」
「……かしこまりました。軽く食べられるものと、お休みのご用意をしてお待ちしております」
エインズワース公爵が来るときは、必ず妃殿下付きの侍女が控えている。メリッサの仕事はない。
正直なところ、メリッサに付いてもらっても守らなければいけないものが増えるだけだ。ここで待っていてくれた方が安心と言える。
そう言わなくても自分が戦力にならないとわかっているのか、メリッサは沈痛な表情で頷いた。安心させるために微笑みかけてから、踵を返して再び自室を出る。
とても今から溺愛されている祖父に会うとは思えない私の雰囲気に何かを感じ取っているのか、斜め後ろを付き従うラッセルも無言だ。
(もっとちゃんと考えておくべきだった)
ラッセルに女だとバレる危険性にばかり気を取られていて、エインズワース公爵のことを考えるのが疎かになっていた。
対エインズワース公爵に関しては近頃ずっとセインが盾になってくれていたから、甘えて油断していた。
甘かった。
自分の愚かさに歯噛みする。
エインズワース公爵が、私に近衛騎士を付けられたことをよく思うはずがない。
女であるとバレる可能性に加え、なにより王が私を気にかけているというポーズを取ること自体、彼にとっては都合が悪い。
王が私を庇護下に置いたら、私をないがしろにしたことで内乱を起こす、という手の一つを潰されることになる。
ここに来てそうなっては、さぞかし面白くないだろう。
(会って、どうするの。どうしたらいい)
応接間へと向かう道のりがやけに短く感じられた。
考えるだけの時間が圧倒的に足りない。奥歯を噛み締めていなければ、焦燥感に押し潰されて叫んでしまいそうだった。
──私が守らなければならないもの。
──私の周りで、害される危険があるもの。
頭の中でそれらを並べて、いま一番優先すべきものが何かを確認するだけで精一杯。
あっという間に滅多に使われることのない応接間の扉の前へと辿り着いてしまう。私に気づいた扉前の衛兵が、中へと声を掛ける。
重厚な気の扉が開く様は、まるで地獄の門を開かれた様な心地だった。
心臓はずっと耳元で鳴り響いているかのごとくうるさい。震えないように握り締めている手は、掌に爪が食い込んで皮膚を破りそう。
それに気づいて、ゆっくりと拳を開いた。
(震えるな……っ)
気を張っている様など見せてはいけない。
動揺していると気取らせてはいけない。
細く呼吸をして、頭の中に酸素を送り込む。
(落ち着いて。落ち着いて)
焦っても、どうしようもない。なんでもない顔をしろ。
いつも通り、ひたすら笑ってやりすごせ……!
「お待たせしました、エインズワース公」
胸の内を覆い隠して、静かに微笑みかける。
いままでずっと作ってきた顔だ。なんとかいつも通りになっているはず。
ソファに腰を下ろしていた初老の男が、私の声に反応してゆっくりと立ち上がる。こちらに向かって優雅に一礼をした。
「お時間を取っていただき光栄です、アルフェンルート殿下。連絡の行き違いがあったようで、至らぬ倅で申し訳ございません」
わざとそうしたくせに。
そう言いたいところだけど、「いいえ、セインにはいつも世話になっています」と微笑んだまま受け流す。
祖父と孫であっても、私達は基本的に他人行儀だ。私は彼に対して祖父としての情はないし、彼も私を孫ではなく王族として扱う。
ただ、彼の場合はそこに愛がないわけではない。
むしろ多分、この世で最も私を愛しているのは、この人だろう。
けれど同時に私は知っている。
例えばもしも私に弟が生まれていたら、きっと都合の悪い私という存在は、その時点で消されていただろうと。
この人は『私』だから、愛しているわけじゃない。
自分達こそが王であることを証明してくれる存在にだけ、狂った愛を注いでいるに過ぎない。
「本日はどのようなご用向きでしたか」
私が向かいのソファに腰を下ろせば、その傍ら、いつでも剣が届く場所にラッセルが影みたいに控えた。
エインズワース公爵はラッセルを全く気にした様子もなく、近衛騎士とわかる制服に身を包んでいるのに視線すら向けない。そういうところはさすがと言える。
私に手で促されて腰を下ろし、向き合えばいつもと同じ静かな笑みを見せた。
いつ見ても感情の読めない、笑っているのに笑っていない顔。
「近頃殿下のお加減があまり思わしくないとお聞きしまして、心配になってこうして馳せ参じたい次第です」
「確かにこのところ体調を崩しがちですが、スラットリー老に看ていただいているので問題にするほどではありません。心配かけました」
「ですが、頻繁だと伺っております。何か、お気に病まれることがあるのではございませんか?」
やっぱりそういうことか。
溜息が漏れそうになるのを、お茶を喉に流し込むことで誤魔化す。
(ここで、この人に「近衛騎士なんていらない」と言えば。ラッセルを遠ざけることは出来る)
たぶんこの人は、私からその言葉が欲しくて、ここに来た。
むしろ私があれこれ画策するより、確実に遠ざけてくれるだろう。
……だけどその遠ざける方法が、私には予想がつかない。
(陛下に表立って喧嘩を売る真似は、さすがにしないだろうけど。でも、わからない)
たとえ私から遠ざけたくとも、近衛騎士は王の直轄。エインズワース公爵といえども、自分の意志で動かすことは出来ない。
そうなれば、物理的に排除する形になるだろう。
私に近衛を付けるとこうなる、という見せしめで、たとえば強盗に襲われた風に見せかけて殺害させる、という可能性も無きにしもあらず。
それも本人だけでなく、その家族を狙う方法も考えられる。
そして私に近づけばこういう目に遭うのだと、後任も辞退させるように持っていきかねない。
そういう下劣な真似を、この人なら平然とやると思うのだ。
勿論、そんなことをすれば明らかに怪しまれる。けれど自分がそれに関わった証拠など、エインズワース公爵は一切残さないだろう。
そして王族であっても、証拠もないのに大貴族相手に表立って懐疑的な目を向けられない。
ある意味、そうしてしまえば水面下で内戦突入になるけれど。それはそれでいい、と考える可能性もないわけじゃない。
……それぐらい、何をしでかすのか読めない人なのだ。
だから私は、ここでエインズワース公爵に頼る言葉だけは絶対に言うわけにはいかない。
「いいえ。なにも?」
「ご遠慮なさらずともよろしいのですよ。貴方は私の可愛い孫でもあるのですから、甘えてくださるのは嬉しいものです」
目を細めて微笑む。その顔を見れば、誰もが孫を溺愛する祖父に見えるだろう。
でもこの人は、私に対して孫としての愛情なんて持ってはいない。
向けられる目を見ればわかる。それよりもっとずっと全身に絡みつくような、見つめられただけで総毛立ちそうな得体のしれない愛情がある。
それなのに、こういう時だけそういう言い回しをするところがいやらしいと思う。
けれどそれならそれで、こちらも孫らしく無邪気に「本当ですか?」と甘えた声を出した。
「でしたら、一つだけお願いしてもよいですか?」
「私でお役に立てることがございましたら、なんなりと仰ってください」
狂気を含んだ愛情を青い瞳に宿す。
その目は私を見ているようで、私自身を見ているわけではない。
だからこそ私は、この人が嫌いだ。
狂気的なまでの執着が怖くて、嫌悪感しか抱けない。いつだって。
今だって。
「氷がたくさんほしいのです」
だからこそ彼が望まない、まったく見当違いな言葉を口にした。
近衛騎士を退けてほしいという願いでもなく、近頃入れ替わっている自分の周りの護衛のことを気にかけるわけでもない。
目先の自分のことにだけ関心を向けている、愚かな子供を装ってみせる。
「氷……ですか。それはまた随分とお珍しい物をご所望されますな」
案の定、少し驚いて目を瞠る。
けれど実際のところ、彼のそれは演技かもしれない。私がこうしてくだらない演技をしていることも、本当は見破られていると思える。
どれだけ過去の記憶を取り戻しても、人間はそこまで成長できるものじゃない。大人になっても、自分が子供の頃に夢見ていた大人になんてなれていないように。
経験の分、多少見える物やわかることがあるとはいっても、平和な世界に生きていたから、いざこういう場に立たされると弱い。
それでも、出来ないでは済まされないのだ。
ここで自分の周りの護衛のことなど、なんら気にかけていないという態度を取っておかねば、裏で勝手に何をしでかされるかわかったものではない。
「近頃は暑さに体がついていかないので、部屋に常設できるぐらいほしいのです。城にはあまり余分がないので、困っていたのです」
「わかりました。用意させましょう。それだけでよろしいのですか?」
「ええ。ありがとう」
冷凍庫なんてないこの世界で、それがどれだけ無茶な我儘を言っているのかわからないフリをして、無邪気に微笑んでみせる。
それでも彼は大抵、私の我儘は叶える。頼んでいなくても勝手に色々と贈ってくるぐらいだ。
そうやってご機嫌取りをして、外の世界よりここが一番居心地がいい場所なのだと思わせる。
それに体に負担がきていると言えば、エインズワース公爵も出来ないとは言わない。
私の体が弱いというのはただの設定なわけだけど、メル爺はエインズワース公爵にもそうなのだと信じさせている。
これを使わない手はない。
周りのことより自分の体調しか心配していないとアピールしておけば、一旦はやり過ごせる、はず。
私の足りない頭じゃ、これぐらいが限界だ。
「確かにいくら近衛騎士がついておられても、気候には到底かないませんからな」
そう思ったところで、直球勝負を投げかけられて心臓が止まりそうになった。
近衛騎士の件を持ち出しつつも、エインズワース公爵の目はラッセルに向けられることはない。私の動揺を一瞬でも見逃すまいと、私を見つめている。
やっぱり、そう簡単に誤魔化されてはくれないか……!
(ここが正念場!)
引き攣りそうになる頬を叱咤して、今日一番のとびっきりの笑顔を作ってみせる。
「ええ。ですが近衛が傍にいれば安心して休んでいられますし、心強くはあります」
それは『今まで見向きもしてくれなかった父親が、気にかけてくれたことが心底嬉しい』とでも言うように。
「陛下のお心遣いには、感謝しなければなりません」
これまでに一度も見せたことのない満面の笑みを、向けてみせた。
そんな私を見て、一瞬エインズワース公爵が目を瞠る。
これが吉と出るか、凶と出るか。
正直なところわからない。
孫である私の笑顔如きで心を揺らす人でないことはわかりきっているから、それには全く期待していない。
「陛下にも、そのようにお伝えしています」
肝心なのは、ここだ。
近衛騎士の配属を嬉しいと陛下自身に告げたということは、私自身はラッセルを排除したいとは考えていない。そう陛下が知っている、ということになる。
実はそんなこと一言も告げていないけれど。
いくらエインズワース公爵でも、そこまでは調べられない。
この状況でラッセルを排除すれば、疑いの目を向けられるのが誰か。
いったい誰が、何の目的で、そのようなことをしたのか。
そうせねばならなかったのは、なぜなのか。
ただでさえ後ろ暗い腹を探られることになる。
──そう考えるはずだ。
「左様ですか。アルフェンルート殿下がご満足されているのでしたら、なによりです」
私の腹の底は見えているのではないかとも思うけれど、この程度ではエインズワース公爵は動揺も不快さすら見せなかった。
いつもの薄い微笑を浮かべ、「それでは殿下のお元気なお姿も見られたことですし、今日のところはこれで失礼いたしましょう」と言うと、ゆっくりと立ち上がる。
聞きたいことは聞けた、ということだろう。
それが彼の望んだ答えではなかったとしても、とりあえず今は引いてくれるらしい。
「ごきげんよう。エインズワース公」
一礼する姿をソファに座ったまま見上げ、王族の子供らしい無邪気さと傲慢さを見せつけて送り出した。
(出来れば二度と、お会いしたくないです)
そう心の中で付け足して。
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