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第42話 幕間 その病には、

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※クライブ視点



 手のかかる弟が、もう一人増えたようなものだ。
 ──最初は、そう思っていた。
 あの方があんな姿で、あんな表情で、あんなことを言わなければ。ずっとそう思っていられたかもしれない。


   *

 この方は、生まれてくる性別を間違えたのではないだろうか。

 ……と、隣を歩く侍女姿をしているアルフェンルート殿下本人に聞かれでもしたら、侮蔑を孕んだ瞳で睨まれそうなことが脳裏を過った。
 実際、少しでも違和感を確認したくて無意識に何度も胸を確認してしまったところ、蔑みを隠しもしない氷柱の如き視線を向けられたばかりだ。
 この方もそんな目をすることが出来るのかと思うと同時に、そんな目をさせるほど軽蔑させたのかとも焦らされたわけだけれども。

(シークも大概だったけど、アルト様はもっとこう……普通に少女に見えるというか)

 歩く度に、肩に届くぐらいの長さの細い金糸の髪がサラサラと揺れる。こうして髪を下ろして、女物の服を纏っているだけで完全に少女に見える。
 元々中性的な容姿をしているとはいえ、普段の彼を見て少女のようだと思ったことはない。どころか、少女が好んで読む絵本に出てくる皇子みたいだと、本当にそんな人間が実在することに半ば感心していたぐらいだ。
 けれどこうして隣を歩く姿を見る限りでは、普段の少年らしさは全く感じられない。
 元々、声も中性的なのだ。もしかしたらこれでも声変わりはしているのかもしれないが、男にしては高い方である。もし少女だと言われても何の疑問もなく、耳に優しい落ち着いた声質なのだろうと思う程度だ。

 それにしても髪型と纏う服一つで、こうも印象が変わってしまうのかとつくづく驚かされた。
 兄が兄なら、やはり弟も弟だ。
 顔の系統は違うとはいえ、変なところで血の繋がりを感じる。兄弟揃って違和感がなさすぎて慄く。特にこの方は生まれながらに虚弱らしく、骨格からして頼りないせいか余計にそう見える。

(本当に女の子みたいだな)

 たとえば、もし。
 もしこの方が本当に皇女として生まれていたら、と脳裏を過った。
 もしそう生まれついてくれていたならば、王位争いなどで関係が捩れることなく、丸く納まっていたかもしれないのに。
 ……所詮はただの妄想、考えたところで意味のない話なわけだが。
 
(女装するのをあれほど嫌そうにされていたわけだから、冗談でもそんなこと言ったら今度こそ口も聞いてくれなくなりそうだな)

 侍女の服を渡された時の、盛大に引き攣った顔を思い出す。
 着替えて出てきた時の、この世の終わりのような絶望に満ちた蒼褪めた顔といったら。
 見ていて気の毒な程だった。よほど着たくなかったのだと如実に伝わってくる。
 しかしあれほど慕っている兄も女装をしたと聞いた手前、自分はしたくない、と押し切れなかったのだろう。
 この難しい年頃で女装をさせられるなんて。さぞかし屈辱的だったに違いない。
 ましてやアルト様は中性的な見た目だ。身長が伸びて喜ぶぐらいだから、年相応に少年らしい感情はあるのだろう。ただでさえ体も弱い方だから、自分の成長に劣等感を抱いている可能性もある。
 それなのにこんな恰好をさせられて、ましてや似合うなどと言われても、侮辱以外の何物でもない。
 実際、うっかり似合うと言ってしまったら冷ややかな目を向けられた。

 しかし、本当に無駄に似合ってしまっている。
 色気は全く感じないとはいえ、大人の女性になる一歩手前の、年相応の少女らしさだと言ってしまえば違和感もない。
 やはり、生まれてくる性別を誤ったとしか思えない。

(でももし皇女として生まれていれば、僕とこうして接することもなかったわけか)

 城の奥深くで大切に守られて、こうして外に出るにしてもたくさんの護衛を付けられていたことだろう。あえて僕が出張ることもない。
 シークとの関係が良好であったとしても、僕とはせいぜい挨拶程度で終わっていたはずだ。兄の側近とはいえ護衛の一人である自分に、皇女の目が向けられることなどない。
 そもそもただの皇女であれば、ここまで自分が気にかけることもなかった。いつかは城の外に嫁いでいかれる方で、自分には一切関係ないのだから。
 そう考えると、やはり皇女でなくてよかったと思ってしまう自分がいる。

 思った以上に、自分はこの方と接することを好ましいと思っている。
 この方の、シークを王にと望む姿勢はいつだって揺るがない。僭越ながら、勝手に同士のように感じている。この方がシークの傍らに立てば心強い存在になるだろう。
 もし皇女として生まれていれば、そもそもこんな関係になることもなかったのだ。
 そう考えれば、やはり皇子でよかったと言える。

「クライブ、ちょっとあの店を覗いてもよいですか?」
「ええ、勿論」

 そんなことを考えていたら不意にアルト様が顔を上げ、アーモンド形の深い青い瞳で僕を伺った。
 あまりにもまっすぐ見つめてくるので、内心考えていたことを見透かされるんじゃないかと焦って心臓が跳ねる。一瞬でも「皇女であればよかった」などと考えていたと悟られたら、またも冷ややかな眼差しを向けられてしまう。
 動揺を覆い隠して微笑めば、こちらの心情よりも目の前に広がる光景の方に心を奪われていたようだった。すぐに僕から視線を外し、嬉々として目当ての店に視線を向けられる。
 それにほっと息が漏れた。

 あの深い青い瞳にじっと見つめられると、時折落ち着かない気分にさせられる。
 以前は人形のような瞳だと思っていたのに。向き合って話してみれば、あの瞳はよく感情を映し出すことを知った。
 もっぱら警戒の色を向けられることが多いが、それが僅かに緩む瞬間に心が跳ねる。なまじ前科があるだけに、ほんの僅かでも気を許されるだけで嬉しい。
 逆に、視線を逸らされると胸がざわつく。
 見る価値もないと言われているような被害妄想に駆られ、なんとかこちらに視線を向けさせなくては、という感情が首を擡げる。
 あれほどのことをしでかしておきながら虫のいい話だとはわかっているが、この方に認められたいと思う。
 多少なりとも、信用されたいと願う。

 ……本当のところ、それはもしかしたら純粋は好意ではないのかもしれない。

 この方が自分が思っていたような方ではないのだと知って、胸に根付いた罪悪感をどうにか埋めたいだけなのか。
 認められることで、許されたと確認したいんだろう。そんな狡い気持ちがないわけじゃない。
 だがそれを差し引いても、この危なっかしい人を見ていると妙に手を差し伸べたくなるのだ。

「ちょっと待ちなさい!」
「わっ。なんですか」

 今も、さっさと僕を置いて歩き出していたアルト様を慌てて掴まえて引き留める。
 咄嗟に腕を掴んで引き寄せれば、ぎょっと目を剥いて見上げられた。ちゃんと掴まえられたことに内心で安堵の息が漏れる。

(あんな一瞬で、見失うかと思った)

 まさかこの自分が、護衛対象を見失いそうになるなんて。
 そう身長が高いわけでもないし、当時のシークのように誰もが目を奪われて振り返る、大輪の花を思わせる美少女というわけでもない。綺麗ではあるけれど、ひっそりと咲く花のような美しさだ。
 どちらも皇子を形容する言葉ではないが、女装をしている以上それ以外に例えようがない。そんな人がこの人波に呑まれたら、探し出すのは困難である。考えるだけで、ぞっとする。
 面白いものが見たいと強請られたから、広場に立つマルシェに連れてきたわけだが、ここが城下街の中で一番混雑する。
 最初はその人波に慄いていたから、歩き始めてもどうせすぐに揉みくちゃにされるか、人波から突き飛ばされてまともに歩けないだろうと思っていた。こんな姿ならば殿下だとわかるわけもないのだし、こういう平民の日常も人生経験だと思って体験させようと思ったのに、とんだ計算外だ。
 まさか誰にもぶつかることなく、細い体なのをいいことに器用に人の隙間を縫うように擦り抜けていくとは思わなかった。

「歩くのお上手すぎるでしょう」
「普通でしょう。周りの方も似たようなものではありませんか」

 眉を顰めて言えば、言い返された。
 確かにそうだが周りは慣れているからであって、普段は城の中で籠の鳥のように育ってきた貴方とは条件が違う。街に来たのは一度だけだと言っていたが、嘘だったんじゃないかと疑いたくなってくる。
 しかし、そんなことより早く店が見たいとばかりに気がそぞろな様子を見れば、やはり街に馴染みがないのは一目瞭然だった。

(なんて性質の悪い)

 マルシェに興味津々で、しかも勝手にどこかに行ってしまいそうな子供ほど面倒なものはない。
 ましてや、相手は皇子。万が一にも見失ったりしたら、首が飛ぶ。

「手を離さないでください」

 仕方なく、手を繋いで捕獲しておく。アルト様はそれを見て息を呑み、眉尻を下げて迷惑そうな顔をした。
 しかしそれは見ないフリをして、しっかりと手を繋ぐ。
 今はもう弟のデリックも手を繋ぐ年ではないので、少し恥ずかしさはある。だが傍から見れば女性と手を繋いでいるようにしか見えないから、体面的には問題はない。
 ただアルト様の心情はそう簡単に割り切れないらしい。チラリと繋がれた手を見やり、僕を窺い、またも手を見やり、最後は口をへの字に曲げる。
 そんなに嫌なのかと思うと、こちらとしても多少は傷つく。半ば意地になって手を引けば、諦めたように息を吐かれた。
 この方は結構、感情が顔に出る。
 そういうところはあまり王族らしくない。それではやっていけないのではないかと苦言を呈したくなるけれど、いつもそうでもないらしい。
 近頃医務室で見かける彼は、大抵は澄ました顔をしている。こうなる前はよく見てきた、周囲と線引いて立ち入らせない空気を纏う。
 ならばこれは、これでも僕は気を許されているのかもしれないと思えば、注意を促すことでもない。
 むしろ優越感すら覚える。
 例えるなら、人の姿を見るとすぐ逃げていた猫が、僕には猫パンチをしてくるようになった程度ではあるけれど。懐かれているわけでは、まだない。
 それでもこうして大人しく手を繋がれているだけ、関係が改善されていっていることは感じられる。

「そういえば、兄様ももうすぐお誕生日ですよね。兄様は何がお好きなのですか?」

 何軒か露店を覗いたところで、思い出したようにアルト様が問うてきた。
 その問いかけで、ふと先日シークが言った言葉が脳裏を過った。

 ──この方が、本来知りえない知識を持っている可能性があると言っていた言葉だ。

 今でも正直、それに関しては半信半疑だ。
 ただ先日、シークが甘い物が苦手だと知ったのいつかと鎌をかけてみた時には、動揺を見せた。
 それは「甘い物が苦手そうな顔に見えた」というのを口にするのが恥ずかしかっただけとも思えるし、本当に聞かれては拙いことだったようにも見えた。
 どちらともとれるので、決定打には欠ける。
 ただ陛下が甘い物が好きなことは本当に知らなかったようだから、その知識がどこまで及んでいるのかはわからない。

「クライブ?」

 探るように見つめられたことに居心地を悪くしたのか、体を強張らせて不安げに呼ばれた。
 その頼りなげな姿からは、シークが言っていた大層な存在には見えない。それでも主人であるシークの言葉を疑うほど、落ちぶれてもいない。

「アルト様の方が知ってらっしゃるのではないですか? ご兄弟なのですから」
「いままでほとんど接点がなかったのに、無茶を言わないでください」

 けれど僕の鎌かけに、今日は狼狽えることなく眉尻を下げて途方に暮れたようにぼやかれた。知っていたら苦労しない、と言わんばかりの態度は演技には見えない。
 そのことに心から安堵の息が漏れた。
 シークの言葉を疑うわけではないが、きっと杞憂なのだと思いたい自分がいる。
 ただでさえこの方は、難しい立場に立たされているのだ。これ以上余計なしがらみなど無いに越したことはない。
 そう願ってしまうのは、シークの立場を考えてのことばかりではない。
 この方自身にも、普通に幸せになってほしいと思うからだ。
 
「アルト様から贈られるものなら、なんでも喜ばれると思いますよ」

 表情を緩めて素直に答えれば、しかしアルト様は渋い顔をした。役に立たないと言わんばかりの視線を向けられて、その遠慮のない視線にはさすがに引き攣りたくなる。
 きっとこちらがどれだけ彼のことを心配しているのかなんて、考えもしないに違いない。

(でもそう思われるようなことしか、してきてない)

 自業自得なので、今はその視線に甘んじるしかない。
 とりあえず少しでも株を上げようと、普段シークが何をしているのかと訊かれたそれに答えられる範囲で答えた。
 すると少し考え込んでから、来た道を戻って、なぜかあまりここらでは見ない赤い豆を自信を持って買われた。
 僕も食材には詳しくないが、こういう場に慣れている人間にもわからないものですら、彼にはすぐに何かわかるのだろう。
 こういう時に、その知識量に舌を巻く。シークが彼を手放したくないという理由を、こういう時に垣間見る。
 これまでアルト様が興味を惹かれて見られたものは、およそ少年らしくないものだった。これぐらいの年齢の少年なら良い匂いに誘われて食い気に走りそうだが、足を止めたのは異国の細工品と、珍しい食材ばかり。
 そして結局これだけ歩いて買ったのも、小豆というこの豆だけだ。

「こちらは直接アルト様の元に送られますか?」
「はい」

 とりあえず請われるままに店主と交渉し、豆はそのまま城に届けてもらうように頼んでおく。城にツケで支払うようにしたのでサインが必要だったところ、アルト様が思い出したように胸ポケットからペンを取り出した。
 先刻、自分が誕生日祝いにと贈ったペンだ。
 インクを借り、サラサラとサインをして、書き心地にひどく満足そうな顔をされたことに安堵する。
 護身用にと渡したそれは、けれど本来の機能として役に立つことの方が多そうだ。
 でもそれはそれで、いいと思う。
 別に剣を握ることだけが戦いじゃない。細く長い指はペンを握っている方が似合う。
 彼は彼なりに、僕には立てない場所で戦うことが出来るだけの力があるのだから。
 そしてそれはきっと、なによりもシークを支えてくれるのだろう。
 
「クライブは、何か欲しいものはありますか? ペンのお礼に贈ります」

 サインを終えた後、青い瞳が僕を見上げて、予想外の言葉を口にした。
 誕生日祝いなのだから、御礼なんて無くて当たり前だ。それでも与えられることを当然とせず、気にかけてくれようとする態度には驚かされて目を瞠る。
 だが元々、返礼を期待して渡したわけでもない。あれは本当に純粋な好意からだ。
 それに対価なら、既にもらっている。

「僕はアルト様が笑ってくれただけで十分です」

 そう告げた時の、アルト様の顔といったら。
 うわぁ……、と引き攣った声がその口から漏れなかったのが不思議なぐらいだった。よくもそんな砂を吐きそうなほど甘い言葉が言えるな、と顔に書いてある。
 僕も言ってから「皇子に言う言葉ではなかったな?」とは思った。しかし本心からそう思っていたので、仕方がない。

 あのとき初めてちゃんと僕を見て、僕自身に対して笑いかけてくれたのだ。

 あんな真似をしでかした僕に心から笑いかけるなど、本来ならどう足掻いてもありえないことだったはずだ。
 それが覆された瞬間、胸の奥が一瞬で熱くなった感覚は、そう味わえるものじゃない。

「そういうわけにもいきませんから、欲しいものがあったら言ってください」

 苦い顔をしてそう言われたけど、本当に欲しいものは既にもらってしまったのだ。これ以上は、貰いすぎというものである。
 誤魔化すように微かに笑えば、アルト様は小さく溜息を吐かれる。
 そしてなぜか少しだけ、仄暗い目をした。

(!)

 その瞳の暗さに気づいて、ドクリと心臓が跳ねた。
 時折、そういう目をすることを知っている。何かを諦めるような、そんな色を宿す。
 でも今はそんな目をさせるような場面だっただろうかと考えて、思い当たる節がなくて心臓がドクドクと脈打つ速度を上げる。

「疲れましたか? 休憩しましょうか」

 そう声を掛ければ、アルト様が顔を上げた。まだ少し目は暗いように見えるものの、小さく頷かれる。
 人波を苦もなく歩いてはいたものの、疲労はそれなりにあったに違いない。きっと疲れていただけなのだと無理に理由付けして、その手を引いて歩き出す。握りしめた手は汗をかいていて、だけどやけに冷たく感じられた。
 強く握り締めたら折れてしまいそうで力は込められないけれど、離してしまわないようにと、その指先に全神経を集中させる。
 なんとなく今ここで手を離したら、どこかに消えてしまいそうな。
 そんな理由のない嫌な予感に襲われて、焦燥感に駆られる。

(なにか、引き留める言葉を掛けなければ)

「お腹は空いていませんか?」

 振り返って、けれど口にできたのはそんな面白みのない言葉でしかなかった。この年齢ならば、食べ物で釣るぐらいしか思い浮かばない。
 するとアルト様はぽかんとした後、「お腹は空いていませんが……」と言われてしまった。

「でも、喉は乾きました」

 躊躇いがちに、ちょっと困った顔で告げる。
 自分のペースで考えていたけれど、よく考えれば当たり前のことだった。元々食は細くとも、飲物は普通に飲むだろう。
 とりあえずちゃんと返事があったことに安堵して、首を巡らせて周囲の店を確認する。

「わかりました。少々お待ちください」

 マルシェから抜ける前の露店で口当たりのよさそうな果実水を二人分購入し、人波を抜けて道から逸れる。広場として開放されている木陰のベンチへ誘導してから、やっと息が吐けた。思った以上に自分も緊張していたらしい。
 アルト様はそれ以上だろう。ベンチに腰かけて、ほっと息を吐く。そこに飲物を差し出した。
 けれど少し困った顔をして、受け取ろうとした手が躊躇いを見せる。

(ああ、毒味がいるのか)

 こんな場所で毒を入れられることは考えにくいから、シークも毒味なしで口にしていたのでうっかりしていた。普通に考えれば、王族という立場に加えて虚弱な体質を思えば、用心は当然のことかもしれない。
 そう思って渡そうとしていた方の飲物を一口飲んで、問題がないか確認してからもう一度差し出す。
 だがアルト様の顔は、なぜか困惑から絶句に変わっていた。
 まるで、なぜ飲んでしまったのかと言うように。

「なぜ飲んだ方をくれるのですか」

 そして実際にそう口に出して責められた。それにはこっちが驚かされる。

「毒味は必要でしょう。それで躊躇われていたのだと思ったのですが、問題はなさそうですから、どうぞ?」

 そう言うものの、僕が口を付けた飲物を見て口をへの字に曲げている。
 人が口を付けたものが嫌だったのだろうか。でも毒味とはそういうものだし、普段からされていることをここまで嫌がる意味がわからない。

「誰もそんな心配していません。私はただ、持ち合わせがないのでどうしようかと思っただけです」

 そして全く予想もしていなかったことを言われて、まじまじと目の前の相手を見つめた。

(アルト様が、飲物代の心配……?)

 この方はこんな格好をしていても、紛れもなく王族だったはずだ。それがあまりにも庶民じみた考え方をすることに驚きを隠せない。
 それと同時に、呆れも湧いてくる。
 シーク相手ならば後できっちり請求もするが、さすがに年下の少年相手に、しかも今は少女の姿をしている人に、たとえお金を持っていたとしても貰うつもりはない。弟のデリックだって、飲物は僕に奢ってもらって当然だと思っているというのに。

「飲物ぐらい奢りますよ」
「クライブに奢られる理由がありません」

 しかしアルト様は眉尻を下げて引かない。まるで借りを作りたくないと言いたげだ。
 とはいえ飲物一つでそこまで警戒されると、どれだけ信用がないのかと嘆きたくなってくる。

「こういう時は子供の特権を振り翳して、感謝の言葉を言えばいいのです」

 代わりに呆れ切った眼差しを向けて言っておく。この程度、遠慮をされるようなことでもない。

「……、ありがとう」

 迫力に気圧されたのか、ぽつり、と躊躇いがちにだがお礼を口にされた。だが相変わらず眉尻は下げたままだし、手はまだ差し出されない。
 そして上目遣いで、窺うように僕を見る。
 その甘えるような眼差しに、一瞬視線を奪われた。
 いま何か強請られたら、ほいほい買い与えてしまいそうな気がする。
 けれど次の瞬間、口にされたセリフは僕の顔を引き攣らせるには十分なものだった。

「我儘を言うなら、口を付けてない方がいいです」

 そんなに嫌なのか。
 実際のところ、同じ樽から出しているわけだから、口を付けてない方を渡しても問題はない。

「駄目です。自分の立場を弁えてください」

 それでもこんな態度を取られると、ちょっと意地悪をしたくなる。
 引かずに差し出せば、諦めて飲物を手に取られた。口を付けるのに躊躇いを見せ、それでもぎゅっと目を閉じて、覚悟を決めて飲む一連の動作は見物だった。
 まさかたかが間接キスぐらいで、ここまで躊躇されるとは思わなかった。確かに毒味と言っても、直に口を付けることはない。
 そこには年相応の潔癖さが垣間見えて、自分も飲物を口にする素振りをして笑いそうになる口元を誤魔化した。

(なんというかこの方は、時々無性に弄りたくなるな)

 黙っていれば澄ましている顔が、自分の言動一つで様々な表情を見せるのを見るのが好きだったりする。
 主に困らせているし、時々怯えさせてしまったり、怒らせたりすることも多いわけだけど、時折笑う顔を垣間見せてくれるようにもなってきた。
 自分がそんな表情を引き出しているということが、自分が特別になった気がする。
 たとえば今みたいな素直な表情も見せられると、無性に可愛くて。

(……。可愛い?)

 いや、確かに面白いし、可愛い。
 でもこれではまるで、好きな子をわざとからかう子供みたいだ。
 そうと気づいて、愕然とする。
 動揺して思わず潰してしまった飲物の器を見て、アルト様がぎょっと目を剥いた。

「このコップは、飲んだ後そうして潰して捨てるものなのですか……?」

 震え声で問われたけれど、そんなわけがない。そんな風に怯える姿を見れば、無性に腕の中に囲って守りたいと思わせる。今はその格好のせいもあるのか、特にそう思わせられて動揺が加速した。
 そもそも怯えさせたのは自分なわけだから、本末転倒であるのだけど。
 しかし今はそんな突っ込みを入れている場合ではない。

(なにを馬鹿な。いくらこんな格好をしていても、中身はあのアルフェンルート殿下だぞ)

 男で、皇子だ。
 間違っても、そんな対象ではない。

 ──そんな対象では、ないはずだったんだ。

 この方がよりによってこんな姿の時に、あんな表情で、あんなことを言わなければ。
 いつの間にか自分の胸に巣食っていた感情になんて、気づかないままでいられたかもしれないのに。


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