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第41話 35 このお代は高くつきます
しおりを挟む先導して降りていくクライブの頭を見つめながら、ひたすら無言で階段を下りる。
気拙いってレベルじゃない。
息をすることすら憚られる程に、お互いの間に重い沈黙が降りている。
だって、何を話せばいいのかわからない。何を話しても滑りそう。
今も必死に平然とした表情を取り繕ってはいるものの、胸の中はまだ動揺の嵐が吹き荒れている。心臓がバックンバックンと早鐘を打っているのは、けして塔の長い階段を降りているせいだけではないと思う。
あの後頷いたクライブに向かって、「では、下りましょう!」と勢いのままに告げて塔を降りているわけだけど、我ながら「では」が何にかかるのかさっぱりわからない。
とにかく、あの場で二人きりで向かい合っていることが耐えられなかった。
特にクライブからもそれに対して突っ込みはなく、素直に頷かれた。
クライブも相当動揺しているんじゃないかと思う。ただ一応、こうして歩いていても私の歩調に合わせているようだから、こちらを気遣う程度の余裕はあるみたいだ。
なんだかそれがちょっと腹立たしい。
(さっきのことなんて、全然大したことじゃないとでも思ってる!?)
……さすがに、それはないか。
きっと歩調を合わせるのは、騎士の習性として無意識にやっているとも考えられる。
(いつものクライブだったら、途中で何度か振り返ってるはずだし)
こちらを気遣うように振り返って、「大丈夫ですか」と声ぐらい掛けるはず。疲れて息を乱す私に、一度ぐらいは呆れた目を向けるはず。それどころか、クライブのことだから問答無用で私を抱え上げて降りていてもおかしくない。
だけどさっきから一度も振り返らない。
ということは、クライブだってきっと動揺していて、どんな顔で私を見ればいいのかわからないんだと思う。
(女だってバレてる、わけじゃない……よね?)
一番の問題は、そこだ。
考えるだけでキリキリと胃が痛みを訴える。
だが百万歩譲っても、クライブも一応これでも騎士。もし私が女だとわかっていれば、私は皇女になるわけで、さすがにあんな暴挙に出るとは思えない。
(男ならいいってわけでもないけど)
むしろその場合は侮辱罪で、あの場で私にぶん殴られても文句は言えなかったと思う。もし私が本当に男だったとしても、拳が届く前に止められていたのは確実だけど。
(それに女だとバレていたのなら、とっくに殺されていたはず)
考えるだけで恐ろしいけれど、そう思った方が自然だ。
そうなると、一応は女であると思われている可能性は除外してもいい気がする。
(じゃあなんで、あんなことを? 男だとわかってるのに、あんなことする理由がわからない)
考えれば考えるほど、必死に平静を装っていた顔が崩れて渋面に変わっていく。
少なくともクライブにはヒロインと恋するルートがあったわけだから、男が好きってわけではなかったと思う。少なくとも、私の知っている公式では。二次創作は別として。
でも私が知らなかっただけで、実は本当はバイだったとか?
それなら私なんかではなく、あの麗しい兄に対してどうにかなっていたはずだ。
身近に規格外の美形がいるのに、なぜこんな面倒臭い立場の、しかも色気もない棒切れみたいな子供を相手にするというのか。
もしかして、ロリコン……
いや、この国は15歳で結婚だってできるわけだから、14歳ならクライブの許容範囲内なのかもしれない。
(って、違う! 年齢以前の問題だから! 性別! 性別が問題だから!)
たとえクライブのストライクゾーンが幼女から老女までと幅広かったとしても、その前に私はクライブにとっては男であるはず。
それも皇子。
どこからどう見てもアウトな相手に、あんなことをする理由がある!?
だが少なくとも何の理由もなく、いきなりあんなことをするわけがない。きっと何かがあったはずなのだ。起爆剤になる、何かが。
(キ……を、される前に私がしていた話って、なんだった?)
衝撃が強すぎて、その前にしていた会話すらすぐには思い出せない。
どういう流れであんなことになった?
それまでは結構まじめな話をしていた気がする。少なくとも、あんなことされるような話は一切していなかったはずだ。
(確か皇子をやめてまで、何がしたいんだって訊かれて)
そう、そんな話だった気がする。それどころじゃなくて、もうすでにうろ覚えだけど。
(それで、改めて何がしたいのかを考えて)
よく考えたら生きていくための手段しか考えてなくて、生き延びてまで絶対にやりたい目的というものは、まだなかった。
まず生き延びることが第一前提だったから、いつもその先の話なんて夢物語みたいなものだった。いつも未来を幾つも思い描いては、肝心なそこへ辿り着くまでの道のりが見えなくて、途中からただの妄想になった。
今日も考えたところでやっぱり途方もなく思えてきて、途中から脱線していった覚えはある。
そしてよりによって、今日は一人で生きていくのは淋しいという方向に行ったことも、なんとなく覚えている。
そしてどうせこれは、ただの夢物語なのだから、と。
そうだ。
それなら、誰か一緒に生きてくれる人を探してもいいな、なんて。
(恋愛結婚に憧れる、みたいなことを口走ったような……?)
…………。何を言ってるんだ?
改めて思い返すと、私は何を言っているんだろう。馬鹿なの? 馬鹿でしょう!?
思い出すと同時に、顔が羞恥で熱くなるのがわかる。しかし熱くなった顔は、冷静になると同時に今度は血の気が引いていく。
(待って。これって、私はものすごく失礼なことしたんじゃない?)
ものすごく真面目な将来の話をしている時に、いきなり「恋愛結婚してみたいです」だなんて、突拍子もないことを相手に言われたとしたら?
(馬鹿にしているのかと、怒りたくもなる)
これはよく考えたら、「ふざけるな」と殴られてもおかしくなかった。
クライブの立場で私を殴るのは無理があるだろうけど、これはそうとう苛立たせたのではないだろうか。
(なるほど、だからあんな顔してたの!?)
あんなことを言われたら、誰だって呆然とするに決まっている。最初は怒りを通り越して、呆れが勝ったに違いない。
私だって、真面目に話していた相手にいきなりそんなこと言われたら、「何言ってるんだ、こいつ」って心底呆れると思う。冗談にしてもセンスがない。そして、話す価値もないと自分の中で線引くだろう。
きっとクライブも、それで私が真面目に話す気はないのだと、勘違いして……
(怒った?)
いきなりだったから、表情を伺う余裕もなかったけれど。
あまり思い返したくないけどなんとか思い出してみれば、あの時ちょっと怒っているように見えた。
いきなりのことに驚いて動けなかったというのもあるけれど、あの迫力に呑まれて動けなくなった部分もある。
(でも怒ったからって、あんなことする!?)
しないと思う。普通なら。せいぜい胸倉掴んで凄むぐらいではないだろうか。
それがどうしてああなった!?
(……もしかして私が、こんな格好をしていたから?)
男だとわかっているはずなのに、視覚に惑わされてしまった、と考えるしかない。
それできっと、クライブは怒ったときに女の子を黙らせる方法が、いつもあんな感じなのでは!?
唇を塞いで、とりあえずもう黙っておけ的な。
そういうアレでは!?
それできっといつもの癖で咄嗟にそうしてしまったものの、よく考えたら私は男で、しかも皇子。
それで、「やってしまった!」と思ったから、あんな愕然とした顔をした……
(それだっ!)
なんだかちょっと無理やりすぎる気もするけど、もう私の頭ではそれが限界だ。これ以上に納得いく理由なんて思いつかない。
これにしよう。これでいこう。そういうことにしておこう。
これでやっと、クライブの奇行を自分の中に落とし込める。
(本人に訊けばいいのだろうけど)
本当はこんな馬鹿なことを延々を考えるより、目の前に本人がいるのだから、問い質せば答えはすぐに手に入れられる。
でも、それは出来なかった。
だって私が考えたのとまったく違う答えが返ってきたら、どうしたらいいかわからない。
例えば、本当は私が女だとわかっていたなんて言われたりしたら。
もうどこにも逃げられない。
それを突き付けられるぐらいなら、自分の中で適当に理由を作って、それで納得するしかこの場を乗り切る方法はない。
何もなかった。
何も起こらなかった。
表面上はそうやってやりすごすしか、私には手がない。
(後はもういっそここでクライブの頭を殴り倒して、逃げるしか……っ)
目の前を歩く、無防備なクライブの頭を凝視する。
……今なら、出来るのでは?
そんな物騒な考えが脳裏を過ったところで、まるで心を読んだように先を歩くクライブが振り返った。
「アルト様」
「っはい!?」
驚愕のあまり口からはひっくり返った声が出て、反射的に後ずさった足は階段の段差に阻まれてバランスを崩す。
後ろに尻餅をつくかと衝撃に備えたものの、それより先に腕を引かれてギリギリ持ち堪えた。
だけどいっそ尻をついた方が良かった。咄嗟に助けるためだろう、腕を掴まれたせいでクライブとの距離が近い。
その顔を正面から見るのが怖くて、反射的に顔を伏せる。
「先程も思ったのですが、貴方は不測の事態に弱すぎるのではないですか?」
しかしそんな抵抗もむなしく、クライブが渋面を作って私の顔を覗き込んできた。
「!」
階段の段差の分、普段とは視線の高低が逆になる。
間近で見ると、不思議な色の瞳だった。深い森に迷い込んだようなそれは、僅かに差し込む光の加減で深緑にも新緑にも見える。
そんな色すら感じ取れるぐらいの距離に、せっかく静まりかけていた心音が再びドクンドクンと脈打つ音を響かせる。口を開いたら、心臓が飛び出してきそう。
爪の先まで心臓になってしまったみたいに音が鳴り響いて、クライブにも聞えてしまっているんじゃないかと気が気じゃない。固く握りしめた掌に冷たい汗が滲む。
「先程の件ですが」
そして終わらせてしまいたかった話を蒸し返されて、即座に顔が強張る。
そうだよね、あれで終わるわけがなかった……!
「なんのことかわかりません」
しかしここで流されるわけにはいかない。
忘れるって言ったでしょう! 忘れろとも言ったでしょう! やめて! 蒸し返さないで!
もういいから。私の中ではケリが付いたから、もう何も言わないでほしい。
ぎゅっと唇を引き結び、頼むから黙っていてくれと念じて緑の瞳を睨み返す。だけどクライブも引く気配は見せない。しかし、口では「わかりました」と一度は頷いた。
そして私を見る目が、すっと細まる。
「でしたら、もう一度しましょうか?」
「っやめてください! わかりました! とりあえず話はちゃんと聞きますから!」
そう言いながら、クライブの顔が近づいてくる前に掴まれていない方の手で制止を掛けた。
心臓は壊れそうなほどに踊り狂っているし、クライブはわけがわからなくて怖いし、もう半泣きになりそうだ。
いっぱいいっぱいになりながら悲鳴のように叫べば、話を聞くと言ったからか、ようやくクライブが私の腕を離してくれた。そして自分を落ち着かせるかのように小さく息を吐いてから、私の胸ポケットに差してあったペンを指先で示す。
「では、まずは忠告なのですが。先程お渡ししたそれは、先程のような時に使ってください」
「……はい?」
「お教えしたでしょう。少しでも身の危険を感じたら、使ってください。ああいう時に使わずして、いつ使う気ですか」
「はぁ……」
眉間に皺の寄った渋い顔で淡々と使用方法を説かれ、予想外の言葉に思わず間の抜けた声が口から漏れる。
だってそれ、クライブが言っちゃうの? 「おまえが言うな」って話じゃない?
それが顔に出てしまっていたのか、クライブの渋面が更に深くなる。その顔には、深い後悔と反省が見える。
「僕はそうされても仕方のないことをしたと、そう言っているんです。不問に処すと仰ってくださった言葉は有り難いです。ですが、このさき貴方がずっと僕を警戒されるぐらいなら、ここで処罰された方がいい」
「……そう言われても。なかったことにしてくれたら、それでいいと言いました」
「それでは僕の気が済みません。それにこのままなし崩しにすれば、貴方のことだから僕から逃げ回る気がします」
行動を読まれているのが辛い。思わず顔が引き攣った。
とはいえクライブが兄の側近の騎士である以上、いつまでも逃げ回れるわけでもない。でもしばらくは逃げ回る予定でいたことは事実。
しかしそもそもの話、そこまでされるほどの事を自分がしでかしたと理解出来ているのなら、なぜ最初からそんなことをしたのかと……
いや、聞くまい。聞いてしまったら、取り返しのつかないことになる気がする。
ここは仕方なく、胸の中の形にならない悶々としたものを絞り出すように、諦めて大きく息を吐き出した。
「処罰すれば、いいのですか?」
「はい」
「なにをしても?」
「命の危険を感じたら避けてしまうかもしれませんが、ある程度までなら甘んじて受けましょう」
神妙な顔で頷き、私の前にクライブが膝を着いた。
焦げ茶色の髪を見下ろして、なんだか前にもこんなことがあった気がすると既視感を覚える。もうずいぶん前のような気がするけど、よく考えるとほんの数か月前だ。
あの時には、まさかこんなわけのわからない関係になるなんて思いもしなかった。
(前進してるのか回り道してるだけなのか、わからないけど)
とりあえず、今の私にはクライブを処罰する権利があるということはわかる。
でも空気を読めずに怒らせるようなことを言ってしまったのは、私の方。だからといってされたことが許せるわけではないけど、改めてここまでするほどかと言われると躊躇いが出る。
それにいざ「どうぞ」と言われても、殴る蹴るは抵抗がある。平手打ちは掌が痛そうだし、デコピンも結構指に衝撃が来る。
「誰かを傷つけるということは、自分にも跳ね返ってくることだと思うのです。だから私はあまり好きではありません」
「アルト様」
「なのでもし私がこの先、本当に困って助けを求めたら。一度だけでいいから、助けてください」
咎めるように私を呼んだクライブを無視して、ちょっとだけ悩んで、狡いかと思ったけどそう取引を口にした。
(例えばもしも、私が女だとわかってしまった時に)
たとえそのときの私が罪人であろうとも。仮にも皇女の唇を奪ったという事実に、クライブだって多少の罪悪感は抱くはず。
その時に、今の私の言葉がクライブの中で重石となってくれればいい。
「一度と言わず、お助けしますが」
「いいから。そう約束してください」
眉を顰めてそう言ったクライブを遮り、緑の瞳を見据える。
一度でいい。
一度だけでも見逃してくれるなら、私はそれがいい。この唇の対価がそれならば、十分すぎると言ってもいい。
「わかりました。お約束します」
クライブは不満げではあったけれど、私が引かないとわかったのか不承不承ながら頷いた。それを見届けて、私は小さく安堵の息を吐く。
今のクライブはわかっていないみたいだけど、いつかその重さを思い知る日が来るんだろう。
そう思ったら、少しだけ苦い笑みが零れた。
……なるべくなら、一生そんな日は来てほしくないところだけど。
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