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第27話 22 先生、あのね

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 結局メリッサがセインに入室許可を出したのは、生理の終わった翌日の昼だった。
 本来セインの立場ならメリッサに従う義理もない。律儀に守っていたあたり、かなり反省しているとみていい。
 別れた後で倒れたと聞いてさぞかし驚いただろうし、そのあと約1週間、全く会わせてもらえない状態は相当堪えたんじゃないだろうか。
 セインはエインズワース公爵家にも国にも全く義理も恩も責任も感じてはいないだろうけれど、少なくとも私に対しては違う。一緒に積み重ねた年月分の情を持ってくれているのはわかる。
 もし私がセインの立場だったら、この状態はストレスで胃に穴が開いていたレベルだ。

「すまなかった」

 やっと寝室から続くいつもの部屋で食事ができるようになったところで、顔を合わせるなりセインが深々と頭を下げた。
 言い訳もしなければ、頭を下げたまま上げる気配も見せずに微動だにしない。

「うん」

 数秒迷ったものの、ただ頷くだけに留めた。
 傲慢に見えるかもしれないけど、それ以外に言うべき言葉がない。
 いや、個人的にはとてもフォローしたい。あれは私にも責任がある。
 でもここで、セインには「黙っていろ」と言われたのに私がデリックに話しかけたのが悪いだとか。クライブが相手では仕方がないとか。間が悪かっただけだとか。
 そもそも私が基礎体力を鍛えるのを怠っていたから問題があるだとか。
 そう言ったところで、セインは納得しないに違いない。
 主人がどんな行動を取ろうとも、守る側はそれも想定して動くべきである。最悪の事態が起こってしまった場合に、相手が悪かった、では通用しない。
 侍従は護衛の任が専門ではないとはいっても、単身で私を街にまで連れ出したのなら、相応の覚悟をしてしかるべきだった。いや、本人はそのつもりだったのかもしれないけど、それだけの力が足りていなかった。
 きっとセインはそう考えているだろう。私がフォローを口にしたところで、受け入れられることはきっとない。

「……責めないのか」
「十分反省している人に、あえて追い打ちをかける必要はないよ」

 低く掠れた声で唸るように言われて、眉尻を下げて苦笑いする。
 ゆっくりと顔を上げたセインは、顔を強張らせたまま私を見つめる。その顔色はお世辞にもいいとは言えない。なんだかやつれて見えるし、隈も出来ている。寝込んでいた私よりもひどい顔。

(責めて詰ってもらった方が、気が楽だと思っていそう)

 でもここで私が責めてしまえば、この件はセインの中で片が付いてしまう。叱られたことで、それで終わりになってしまう。
 例えば、仕事で失敗して上司に怒られたとする。
 怒られてる時間は嫌だけど、終わってしまえばその件は済んだのだとスッキリする。反省しないわけではないけど、心にしこりは強く残らない。
 だけどそこで上司が自分を責めることなく、自分の尻拭いに奔走する姿を見せられた時。あれは本当に居た堪れなかった。あまりの申し訳なさに、絶対に二度と失敗するまいと硬く誓ったものだ。
 勿論、責任感のない人や自分が悪いと思っていない人なら、叱られなくてラッキーと思うだけなんだけど。

 しかし今のセインなら、責められない方が堪えるだろう。

 それならここは何も言わずにいた方が、セインの中でいつまでもしこりとなって残り続ける。意地悪なようだけど、それを糧に今後はより鍛錬に励んでくれればいい。
 そもそも私自身、セインばかりを責められる立場にない。短慮で、力が足りないのはお互い様なのだ。
 だからお互いにうまく消化できないものを抱え込んだまま、この失敗を胸に刻んで次に活かしていくしかない。

「でも私が強くなってほしいと言った意味は理解できたでしょう?」
「……ああ。嫌というほどわかった」
「それならいいよ。今回の件は無駄じゃなかった。そう思おう」

 それぐらい前向きじゃないと、やっていられないしね。元々楽観的なタイプではないのでかなり無理はしているけれど、微笑んでみせる。
 セインは息を呑み、何か言いかけて、だけど言葉を飲み込んだ。眉根を寄せて黙り込んだ顔を見ると、もしかして泣きそうだったのかもしれない。

(よく考えたら、セインもまだ14歳なんだよね)

 私の周りは年齢よりずっと大人に見える人が多いせいか、つい年齢を忘れがちだ。
 15歳まで義務教育で守られて、その後もまだ子供でいることを許される前世と、15歳で既に大人として扱われる世界では精神の鍛えられ方が違うのは当然だろうけれど。
 まぁ、中には年相応の人もいるけれど。例えば、アレ。

「ところでセインはランス卿の弟の、デリック? 彼とはよく話すの?」

 ずっと気になっていたことを口にする。セインが苦虫を噛み潰したような顔をした。

「向こうが突っかかってくるだけだ」

 そう言った後、すぐに表情を改めた。真剣な顔でこちらを見据える。

「でもこの1週間、やけに大人しかった。根掘り葉掘り聞いてくるんじゃないか思っていたけど、近寄ってもこなかった。思いつめた顔をしていたし、兄の方に何か言われたのは間違いないな。あいつの兄への心酔っぷりはちょっと異常な程だから」
「そう……。それなら、大丈夫そうかな」

 与えらえた情報を頭の中で整理して、小さくひとりごちる。

(クライブのこと、ちゃんと尊敬してるんだ。兄のことが好きすぎて暴走した結果があの思考、ってことなのかな)

 デリックがクライブを侮っていたわけではないのなら、改善の余地はある。
 クライブも言っていたけれど、兄の立場を想って、手助けしたくてあの考えになったのならまだ救いはある。それならあまり責めるのも可哀想だ。
 あの後で大好きな兄に絞られて十分に反省できているのなら、見込みはあるだろう。
 どちらにしろ、それに関してはもう私が関わる話でもない。
 それよりも、デリックが私のことを周囲に言いふらしていないということは、ちゃんと約束通りクライブが口止めしておいてくれたってことで安心……して、いいの? 大丈夫?
 完全に安心するにはまだ早いけど、今のところはまだ大丈夫そうだと思うしかない。

(とはいっても、クライブに見つかって兄様にバレてしまった時点でアウトなんだけど)

 そこまで考えたところで、メリッサが「セイン様はそろそろお時間ではございませんか」と退室を促してきた。
 声が冷たいので、メリッサとしてはまだ今回のことを許す気はないんだろう。早く出て行けと言わんばかりだ。
 しかし実際に時計を見れば、セインの午後の訓練の時間が迫っているのは本当である。

「待って。最後にもう一つだけ」
「?」

 踵を返しかけたセインを慌てて引き留めて手招く。ポケットから取り出した物を差し出せば、セインが不思議そうに小首を傾げながらつられて手を出した。
 その掌に、カフスボタンを落とす。
 ブラックオニキスのシンプルなデザイン。以前に誰かからか贈られてきたものの一つだけど、似合わないのでずっとお蔵入りしていたものだ。

「元々持っていたもので申し訳ないけど。私が使うよりセインの方が似合うと思うから、よければ使ってほしい。このリボンのお礼」
「俺はこんなものもらえることはしてない。それどころか……っ」

 守り切れなかったのに、と言葉が続けられる前に「それとこれは別物だから」と遮った。
 さっきの件に関しては既に話は済んでいる。それと贈られたものへのお礼は完全に別件だ。一緒に考えるものではない。

「選んでくれたのはメリッサだよ」

 つまりこれは、私とメリッサからセインへのお返しだ。
 一応、メリッサもセインからお土産を貰ってしまった形になってしまったので、渋々お礼を選ぶのに付き合ってくれた。
 というより、私にはあまりセンスがないのでほぼメリッサが選んだといっていい。
 メリッサに視線を向ければ、メリッサがにっこりと微笑んでセインを見つめる。とびっきりの笑顔だと思うけれど、メリッサから笑顔を向けられることなんてほとんどないセインは顔を引き攣らせた。
 普通の人ならこの笑顔の可愛さに頬を緩めるだろうけど、セインの場合は「文句が言えるなら言ってみろ」という無言の圧力を感じているに違いない。
 
「……ありがとう」

 狼狽しつつ、結局セインの方が早々に折れた。
 気に入らなければ使わなければいいだけだが、きっとセインのことだから明日からでも使ってくれるだろう。
 使わないと、きっとメリッサが怖い。



 セインを送り出した後。溜息を吐きそうになるのを、すっかり冷めてしまったお茶を飲むことで誤魔化した。

(とりあえずデリックの方は今のところ何とかなってる、って言っていいのかな)

 でも先日の私の問題発言を考えると、やっぱり不安しかない。思考は堂々巡りになって、神妙な顔つきになる。
 熱のせいで何を言ったか覚えていません、と言いたいところだけど、理性のない時に言った言葉こそが本心だと思われるだけだろう。
 余計にその手は使えない。
 だからといって、第二皇子派が勝手にしでかしていることなど私の知る由ではない、と開き直るのも無責任だ。当の第二皇子なのに止められないということを、どこまで信じてもらえるかわからない。
 信じてもらえたとしても、抑止力にもならないのならそれこそ生かしておく意味はないと考えるはず。

(それなのにメル爺の元まで運んでくれたなんて。意味がわからない)

 私に手を出したら兄様に怒られるから? そんなことで堪える人には思えないけれど。
 結局、考えたところで答えは出ない。
 兄からはお見舞いの品が届いたこともあり、未だに好意的には見てもらえている、とは思う。少なくとも兄からは。

(兄様へのお返しもどうしよう)

 さくらんぼのお礼はいらないと言われたけど、そんなわけにはいかない。
 というか、報酬ってなんの報酬だったの。未だに心当たりがない。
 わからないことだらけで、またも考えすぎて熱が出そう。

(どちらにしろ、会わないわけにはいかないよね)

 会いたくはないけど、いつまでも逃げられるものでもない。むしろこれ以上、明確な答えも出ないのに悶々と悩み続ける方が精神を病みそう。
 だいたい私をどうにかするつもりだったのなら、城に連れ帰る前にどうにかしていたはず。
 自分に言い聞かせながら、カップを置いてゆっくりと席を立った。

「図書室に行ってくるよ」
「大丈夫ですか? まだお顔の色が優れませんから、もうしばらく休まれた方がよろしいのではありませんか?」
「大丈夫だよ。それにちょっとは動かないと、またメル爺に体力がなさすぎるって叱られてしまうから」

 さすがに疲労していることを隠しきれなかったせいか、メリッサが心配そうな顔で引き留めてくる。
 安心させるように微笑んでから、「行ってくる」と口にして自分で自分の背を押した。
 大丈夫。図書室に行っても会うと決まったわけじゃない。
 兄様だって、そんなに私に時間を割けるほど暇ではないだろうし。大丈夫。
 たぶんこうやって言い聞かせている時点で、全然大丈夫じゃないのだけど。


   *

 部屋の外に立っていた護衛に声を掛け、いつものように図書室の扉の前まで送ってもらった。
 護衛は図書室の中に入れる権利がないので、扉の先はいつも一人だ。

(よし!)

 自分に活を入れて、扉を守る衛兵に重厚な扉を開いてもらう。
 この中に入るのに、ここまで勇気を必要とする日が来るなんて。ちょっと泣きたくなってくる。
 警戒しながら室内に足を踏み入れると、紙とインクの嗅ぎ慣れた匂いに包まれた。
 無意識に足音を忍ばせてしまうのは、見つかりたくないという気持ちが強いからだ。
 幸い、人の気配は感じない。クライブは気配を消して近寄ってくるから油断は出来ないけど。
 中二階へと続く階段を上がり、窓の近くに設置してあるテーブルセットに腰を下ろす。
 そこでやっと無意識に詰めていた息が零れ落ちた。

(ここは私のオアシスだったのに)

 入れる人間が限られるため、人のあまり来ない静かな図書室の誰も来そうにない一角で一人で過ごす時間は、これまでの私にとって唯一羽根を伸ばせる場所だった。
 ここならば周囲の気遣う視線を気にする必要もない。平気そうな顔を取り繕わなくてもいい。
 目についた面白そうな本を読む間だけ、現実を忘れられるから好きだった。

(逃げ場所、また探さないと)

 逃げている場合じゃないことはわかっているのだけど。
 でもひたすら戦ってばかりじゃ精神が持たない。ちょっとぐらい息抜きする時間も欲しい。

(今度からはメル爺のところに行こうかな。運動がてら散歩しに来なさいって言われてるから、丁度いいかも)

 主治医のメルヴィン・スラットリー老は、エインズワース公爵の若い頃からの友人だという。
 しかしメル爺に言わせれば、

『親友? 冗談ではありませんな。ああいうのは悪友と言いますわい』

 と苦い顔をしていた。
 あんな言い方ができるってことは、逆にメル爺にとってエインズワース公爵はいい友人だったのだと思う。
 だから本来ならば最も警戒すべき相手になるはずだけど、彼は私が生まれた時からずっと私の味方になってくれていた。

『あやつも昔はあそこまでじゃなかったのですがな……奥方を亡くされてから、箍が外れたように変わってしまった。一時期は死人を生き返らせる方法を探したりと迷走しておりましたが、それがどうしてこうなったのか』

 以前に遠い目をして、苦い声で唸るようにそう言った。
 友を止められなかった己の無力さを悔いるように。

『私如きの力では奴を止められないことをお許しくだされ。老いたこの身では大したお力にはなれぬやもしれませぬが、愚かな友に代わり、この爺に出来る限り姫をお守りします故』

 そう言って、幼い私に剣を捧げてくれた。
 この城の中で、私を姫扱いしてくれたのはメル爺だけだった。
 メル爺には息子だけで娘はおらず、孫も男ばかりだから、本当は女である私の存在が可愛くて仕方ないらしい。誰も見ていないところでは、完全に孫娘のような扱いをされている。
 それがくすぐったくて恥ずかしいけど、本当の祖父みたいな存在に救われていた。
 純粋に愛してくれる存在がいるということは、なによりも私の心を守ってくれた。メル爺がいなければ、もっとずっと捻くれて育っていたと思う。

 ……ただ甘すぎるせいで、ちょっと私も弱く育ちすぎた感はあるけれど。

 世間的には体が弱いことにしているけれど、私は女として見れば一般的なはずだ。
 ただ人目を避けるために引きこもり生活していたこともあり、基礎体力が圧倒的に不足しているだけで。
 ちょっとのことで疲れるので、これは改善せねばならない。
 おかげで先日、メル爺には渋い顔で散歩を進められてしまった。

『体力を付けられたいのなら、午後の授業がない日は爺のところまで散歩に来なされ。中庭を突っ切って来られればあまり人に会うこともなく、日にも当たれて都合がよろしい』

 メル爺の在籍している医務室は騎士が訓練する広場に隣接しているから、これまではあまり近寄りたい場所ではなかった。
 だがこの際仕方がない。
 若い頃は軍医として戦場を駆け、未だに騎士に一目置かれているメル爺である。彼が傍にいる時に、私に関わってくる命知らずはいないだろう。
 そんなことをぼんやり考えているうちに、誰かが階段を上がってくる気配を感じた。条件反射でぎくりと体を竦ませる。

(でもクライブなら気配を殺してくるはずだから……違う人?)

 クライブがこんなにわかりやすくは近寄って来るとは思えない。そう思い直して少しだけ肩から力が抜ける。
 とはいえ、あまり人には会いたくないので緊張は解けない。
 クライブでないとすると、ただの資料を探しに来た役人なのだろう。その割に、足取りに迷いがないように思えて小首を傾げる。
 大抵この図書室に来る人の足取りは、千鳥足みたいにあっちをふらふら、こっちをふらふらする。
 案内図がないので、目的の書物を探すために徘徊せざるを得ないのだ。
 たまに泣きそうな顔で探している人を見かねて手伝うことはあるけれど、今日の人は慣れているのかその心配は全くなさそうである。
 ならば見つかる前に移動しようと立ち上がった。
 その途端、急に立ったせいでくらりと立ちくらみに襲われた。
 一瞬で目の前が暗く霞み、立っていられずに再びその場に腰を下ろす。

(こんな時に立ちくらみとか!)

 貧血か、ストレスか。どっちも考えられる。
 自分で思っている以上に滅入っている感じがして、それだけで落ち込みそうになる。
 やっぱりまだ本調子じゃなかったのかもしれない。焦ってここまで来てしまったけど、もうしばらく大人しくしていた方がよかった。
 ギリギリと奥歯を噛み締めていたところで、たぶんさっきの人がすぐ傍まで寄ってくる足音が聞こえてきた。
 音を立ててしまったから、体調悪そうにしている私に気づいて近寄ってきてくれたのかもしれない。
 けど今は小さな親切、大きなお世話でしかない。
 しかしそれを顔に出すわけにもいかなかった。出来るだけ普通の顔を取り繕ってから、ゆっくりと目を開けて顔を上げる。
 そして視界に入った姿を見て、予想もしていなかった人の出現に一瞬ぽかんと間抜けな顔をしてしまった。

「随分と間の抜けた顔だな」

 私を王族と思っていないかのような、無遠慮な物言い。
 モノクル越しの空色の瞳は呆れ切っている。
 忙しいはずのその人はなぜかテーブルの上に持っていた本を置くと、私の向かいの椅子に腰を下ろした。

「先生……?」
「久しぶりだな」
「はい。お久しぶりです」

 落ち着いた声でそう言われて、思わず返事をしてしまう。
 前に会ったのは私が兄を庇うよりもかなり前だったはずだから、もう数か月前になる。元々3か月に1度ぐらいしか会う機会はない人だ。
 名前は聞いたことがないから知らない。
 何度か本を探すのを手伝ったことはあるけれど、その時についでに色々と教えてくれたりするので、いつしか「先生」と呼ぶようになっていた。
 いつも忙しそうで、目的の本を手に取ると長居することなく出て行ってしまう。
 本を探す合間に話すと面白い話が聞けるのでつい話しかけてしまうけど、こちらから何か言わない限りは余計なことは口にしない。

 ちゃんと線引きを守ってくれるおかげで、あまり警戒しなくていい人だ。

 図書室に入れるぐらいだから高官のはず。なのに、装飾品が極力省かれた服は動きやすいようにいつも袖をまくり上げている。
 礼儀作法や身だしなみにうるさい城では珍しいタイプで、相当な変わり者だと思う。
 偉そうな態度だから実は偉い立場にいるのかもしれないけれど、こうして自分で資料を取りに来る辺り研究職にも見える。
 年齢は三十代後半ぐらいか。でも皇子である私を取るに足らないと言わんばかりに扱っている態度から考えると、四十過ぎにも思える。
 後ろできっちりとした三つ編みに纏められている長い金髪は、本人曰く「いちいち切るのが面倒だから長いだけだ。切る時間もない」と以前に何かの話から聞いたことがある。
 かなり忙しい人なのだと思う。

 そんな人が、なぜか私の前に陣取っている。

 見かけたからと言って、ただ声を掛けてくる人でもなかったと思うけれど。さっきの歩き方から考えても、暇ではないだろう。
 とはいえ、この人が今更私に取り入るために声を掛けてきたとは思えない。
 こういう格好をしている時点で、権力や地位に興味はなさそうだ。取り入りたいのなら、私の顔を見るなり間抜け面扱いはしない。

「あの、本を探すお手伝いが必要でしたか?」

 目的のものは既に手に入れていそうだけど、小首を傾げて問えば「いいや」と否定された。
 そしてテーブルに置いた本を1冊手に取り、ぱらぱらと捲る。そのまま読書の体勢になったのでぎょっと目を剥いた。

「ここで読まれるのですか?」
「ここにしか椅子がない」
「でしたら私は席を外しましょう」
「かまわない。別にいて困るものでもない」
「……そうですか」

 立ち上がろうとしたのに、先にそう言われて立つのも憚られる。
 ぱらり、ぱらりと時折ページを捲る音だけが響く。
 先生は本に目を落としたまま、時折別の本も見比べて、私の存在など忘れてしまったかのようだ。

(立ち去りにくい)

 もっと邪魔そうにしてくれれば、さりげなく立ち去れるのに。
 自分は本を持ってきていなかったこともあって、手持無沙汰で何をしたらいいのかわからない。
 聞えてくるのは、遠くから時計の針の動く音と紙を捲る音。
 一定間隔で聞こえてくるそれは、ふと学校の図書室を思い出した。

 勉強する人、本を読む人、中には昼寝をしている人もいた。そこでは、すぐそばに人がいるのに誰もが自分の世界に入り込んでいた。
 そこにいる人たちは知り合いでもなんでもなかったけど、一人なのに一人じゃないという安心感があった。
 それと同じで、この空間は不思議と居心地は悪くない。
 元々この人の側は緊張もするけど、嫌な感じはしない。波長が合うのかもしれない。
 単純に、我関せずな態度の人だから、気が楽なだけかもしれないけど。

 ぼんやりとページを捲る手を見つめる。
 こんなに見られていたらやりにくいだろうに、文句も言わずに淡々と読み進めていく。
 私のことなんて欠片も気にしていなさそうなその態度に、少しだけ息が吐けた。
 そのときふと、見つめていた手が違う動きを見せた。
 ポケットを探って何かを取り出す。顔を上げて私が見つめているのに気づくと、「食べるか?」と飴を差し出してくる。
 相変わらず飴を持ち歩いているらしい。ちょっと笑ってしまう。

「いただきます」

 本探しの御礼という名目はないけれど、素直に好意を受け取った。
 先生の口元が微かにだが笑って見えた。
 包み紙から取り出した飴を口に含めば、甘さが口の中にいっぱいに広がっていく。
 疲れた心を溶かす甘さ。この人が飴を持ち歩くのもわかる気がする。

(なんだかちょっと、すごく、疲れたな……)

 兄を庇って死にかけて。私が前世の記憶を思い出して、あれからまだ2か月も経っていない。
 なんだか色々ありすぎて、もっと時間が経っているような気がするけど、まだそれだけしか経っていない。
 いや、もうそんなにも過ぎてしまったというべきか。

(もうすぐ誕生日が来てしまう)

 14歳になったら、その1年後はもう成人だ。
 表舞台に立つ前になんとかしないといけない。
 そう思うのに、まだ何をどうしたらいいのかわからない。
 状況は進んでいるように見えて、実際には後退しているんじゃないのかと不安も湧いてくる。思ったように進まないし、進んでくれる気もしない。

 うまくいくどころか、失敗ばかり重ねている気がする。

 ゲームの中の私は15歳になって成人出来ていたけれど、その時にはもう第二皇子として存在していた。
 そうなったら手遅れなことはわかる。だけど回避方法が未だに見いだせない。
 大事なものを全部掬い上げる方法がわからない。
 何かを切り捨てないと、結局なにひとつ救えないんじゃないか。何もかもを欲張るから、結局はすべてを失うことになるんじゃないのか。
 ならば、何を切り捨てればいい?
 何を一番大切にしたい?
 最もいらないものは、誰?

(それは、私)

 そう自分の中で、私が囁く声がする。
 一番大事で、一番いらない。
 自分しか自分を救えないけれど、だけど大事なものを失くした自分なんて最もいらない。

(ならば私は、どうしたらいい?)

 ──正しい道なんて、全く見えない。

「何をいきなり泣きだしてるんだ」
「え……っ?」

 目の前から驚いた声がした。顔を上げれば、絶句している先生の顔が歪んで映った。
 何度か目を瞬かせ、そこでようやく自分の目からぼろぼろと涙が零れているのに気づいた。
 こんなところでいきなり泣きだしたことに、何より自分自身が驚いた。言い訳もできずに言葉を詰まらせる。
 えっ。どうしてこんなところで、しかも人前で泣きだしているの。
 情緒不安定にも程がある。
 頭の片隅では冷静に突っ込めるのに、一度決壊した涙は止まってくれない。
 目頭が熱い。顔を伏せれば、頬を伝い落ちた涙がテーブルの上に小さな水たまりを作る。

「……この飴が、おいしくなかったから」
「泣くほどか」
「泣くほどです」

 咄嗟に口にした言い訳は、まったく言い訳にもならない言葉だった。しかもただの口実とはいえ、人から貰ったものに文句をつけるなんて失礼にも程がある。
 先生は苦虫を噛み潰した様な顔をすると、手を伸ばしてきて強引に私の濡れた頬や目尻を拭った。
 掌と指でごしごしと拭う様はお世辞にも丁寧とは言えず、摩擦で顔が赤くなるのがわかる。

「馬鹿なのか。泣くほど疲れているのなら大人しく部屋で休んでいればいいだろう」

 そして案の定、言い訳なんて信じてもらえずに本心を言い当てられてしまった。
 私の事情なんて何も知らないはずなのに、この人はこういう聡いところがあるから怖い。
 だけど安心もする。
 どうせ隠してもわかってしまうと思えば、取り繕う必要も感じない。
 極たまにしか会わない人だし、第二皇子がどういう立場にあるのかわかっていても全く興味がなさそうなこの人相手だったからこそ、きっと油断してしまった。

「いやです」
「いやですじゃない」
「だって、周りを心配させてしまう」

 私が暗い顔をしていたら、メリッサもセインも心配する。
 ただでさえ難しい立場なのに、二人を余計に不安にさせてしまう。
 まかり間違っても、二人にこんな顔を見せるわけにはいかない。

「心配させればいいだろう」

 そんな私の気も知らず、無責任に言われて思わず睨みつけた。

「いやです」
「さっきから嫌ですばかりだな、駄々っ子め。それは泣いて解決するのか?」
「しません」
「それでも泣くのか」

 はぁ、と溜息を吐かれた。面倒くさがっているのが伝わってくる。
 それでも立ち去らないあたり、案外子供が好きなのかもしれない。子供好きそうな顔はしていないけれど。
 滅多に笑わないし、どちらかと言えば感情が薄そうな冷たい顔立ちをしているのだけれど。

「……泣くと、ちょっとスッキリしますから」

 理由らしい理由なんて、それぐらいしかない。
 体の中で渦巻いてどうしようもなくなった感情を、どんな形であろうと一度は外に吐き出してしまわないと、私は私の形を保っていられないところまで来ている。

 涙は、そのサインなんだと思う。

 なんの生産性もない理由だったけど、それでもそのあたたかい両の掌は私の両目を塞ぐように押し当られた。そのまま動かない。

「それならここで泣いておけ。泣き止むぐらいまでは付き合ってやる」

 溜息混じりだったけれど、それは優しい声に聞こえた。
 ふと。
 忙しいはずのこの人がここにいたのは、もしかして様子のおかしい私を気遣ってくれたからだったんじゃないかと、今更ながらに気づいた。
 私にとって頼れる大人というのは本当に少ない。それこそメル爺しかいなかったけど、たぶんこの人のことも、私は信用しているのかもしれない。
 本探しを手伝って、お礼に飴を受け取る。その合間に私の知らない世界の話を少しだけ聞かせてもらう。
 それだけの細やかな関係だったけど。
 それでも狭い世界しか知らない私にとっては、それすら掛け替えのない繋がりだったことに気づかされる。
 そして今、そんな細い繋がりに救われている。
 自分が今までしてきたことが、けして無駄ではなかったのだと思うことが出来る。
 ……もしかしたら。
 もっと最初から私が怖がらずに周りを頼っていたら、味方になってくれる人はいたのかもしれない。
 だけど私の両手に抱え切れるものは本当に少なくて、守り切れる力がないとわかっているから、まだ名前を聞く勇気は出ないけど。

「先生、あのね」
「なんだ」
「……ありがとう」



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