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第9話 7 ごきげんよう、兄様
しおりを挟む扉を抜けた先は、そこまで広くない部屋だった。
「シークヴァルド殿下。アルフェンルート殿下をお連れいたしました」
艶のある落ち着いた色目の木の執務机。その向かいには、休憩と応接用らしいソファと猫足テーブル。壁には執務机と同色の大きな書棚が並んでいて、私達が出てきたのはその書棚をスライドさせることによって現れる通路からだった。
つまり、隠し通路と言うやつだ。
そして執務机に第一皇子シークヴァルドが着いていることから、ここは第一皇子の執務室か私的な部屋の一つなのだと簡単に予想がついた。
今通ってきた隠し通路は、いざという時の避難経路なのだろう。そうとわかってはいたけど、まさかここまで私的な部屋に直接繋がるとは思ってもみなくて目を瞠った。
(これって、私が知っていいことなの?)
驚きよりも焦りの方が先に湧いてきた。
途中で何度か分岐点があったから、ここから図書室に戻る道を覚えているわけじゃない。とはいえ、通路が図書室と繋がっていると知ってしまったのはまずいのではないだろうか。
(生かして帰すつもりがないんじゃ)
顔から血の気が引いていく。
やっとこの狂犬をなんとかしたと思ったのに、まさか次の敵は第一皇子!? どう足掻いても勝てる気がしないのだけど!
思わず泣きそうになって顔が強張った。
ここを乗り越えるのが今日の目的だったと言うのに、その前に精神を削られすぎた。これ以上は許容範囲を超えている。表情を取り繕うべきだとわかっているのに、第一皇子が顔を上げるまでに間に合わなかった。
それまで座って書類に向かっていた第一皇子シークヴァルドはクライブと、その腕に抱え上げられている私の姿を見るなり胡乱に眉を寄せた。
「……なぜそんなことになっているのだ?」
開口一番、当然の疑問だと思う。
よもや直に第一皇子の部屋に入るとは思ってなかったから、下ろしてもらいそびれてしまった。
けどなぜクライブも私を抱き上げたまま入ったのか……私が逃げ出すとでも思ったのか。それとも私が第一皇子に会うなり、クライブの非道を訴えるのを阻止するためだったのか。
なんにしろ、第一皇子から見れば謎な状況に違いない。
貴方の狂犬に殺されかけて恐怖で腰を抜かして、歩けなくなったので無理矢理抱っこされて連れてこられました。
なんてこと、当然言えるわけがない。言ってやりたいけど。しかしそんなことを馬鹿正直に言おうものなら、後でクライブにどんな目に遭わされるかわからない。
咄嗟に何と答えていいものかわからず息を詰まらせた。
すると淡い灰青色の瞳がクライブを見て、私を見て、もう一度クライブを見て目を眇めた。
「クライブ。私は、くれぐれも丁重に連れてきてくれと頼んだはずだが?」
「ですからこうしてはぐれないよう、丁重にお連れしたのではありませんか」
クライブは責める眼差しにも堪えた様子は見せない。にこりと人畜無害そうな笑顔を向けた。
第一皇子至上主義のくせに、その相手に向かってこんなにも平然と言ってのけるところが恐ろしい。
「ならばなぜアルフェが泣きそうな顔になっている?」
だが長い付き合いだけあるのか、第一皇子はそんなクライブの言葉をまともに受け取った様子はなかった。しかもどうやら第一皇子は私の味方をしてくれる雰囲気である。
(ということは、あれってやっぱりクライブの独断?)
第一皇子の指示だった可能性も考えていたので、少しだけ救われた心地だった。
とはいえ、だいたいクライブがしでかしていそうなことなどわかっているとでも言いたげな態度から、第一皇子も私が脅されるのは想定はしていたんじゃないかとは思うけど。
(本気で殺すつもりだったとまでは思ってないだろうけど……と、思いたいけど)
困惑している私の前で、クライブは相変わらずにこやかな笑顔を崩さない。
「アルフェンルート殿下は暗くて狭い場所が苦手でいらっしゃるようでしたから、明るい場所に安心されて気が緩まれたのでしょう」
そう言って笑顔を張り付けたまま私の方に視線を向けてくる。その目は笑っているのに、頷けと命じる圧を感じた。ここで頷かなければ後が怖いので、気圧されるままコクリと頷く。
「はい。見たことがない場所に驚いて、情けないことに腰を抜かしてしまったのです。ランス卿の手を煩わせてしまい申し訳ありません」
引き攣りそうになる顔を必死に微笑ませる。我ながらこれ以上はないフォローだと思う。緑の瞳が満足そうに笑むのを見て、安堵と悔しさが胸の中でせめぎ合った。
いつか絶対やりかえしてやりたい!
が、いややっぱり関わりたくないとすぐに思い直す。こんな狂犬、私の手には負えませんから!
クライブは私の答えに満足できたのか、ようやく私を床の上へと下ろした。
まだ膝が笑いそうになったけど、なんとか足に力を入れて背筋を伸ばす。ようやく当初の目的であった第一皇子に向かい合い、出来るだけ優雅に一礼をした。
「お見苦しいところを見せてしまい申し訳ありません。シークヴァルド殿下、この度は私の無理なお願いをお聞きとげくださってありがとうございます」
「いや、本来ならこちらから出向かなければいけないことだった。わざわざ足を運んでもらってすまない」
言いながら第一皇子は書類を置き、立ち上がる。手でソファの方へと促され、そこでようやく私は手に何も持ってきていないことに気づいた。
(本がない!?)
なぜか手ぶらな状態になっている。贈るつもりだった本が、いつのまにか消えていた。
(うそ、待って。ちゃんと持って出たはずなのに)
確かに自室を出るときには持ってきた。お礼の贈り物を持たずに来るなんて、いくら緊張していてもそんな間抜けな真似はしない。図書室に入る時も手に持っていた記憶がある。
ならばどこに落としてきたのか。焦る頭を必死に回転させて、すぐに思い至った。
(あの時だ!)
不意に伸びてきたクライブの手に捕まった時。驚いて手を離してしまった。
あの時は本どころじゃなかったから完全に忘れていたけど、ここまで来て手ぶらな状態なことに嫌な汗が滲む。
(これじゃ手ぶらでただお礼言いにきただけの、ものすごく非常識なアホの子に思われる!)
半分とはいえ血の繋がった兄弟とはいえ、王族同士の付き合いは家族というより親戚の感覚に近い。
そもそも家族なのに、住んでいる場所が全員違う。
王と王妃は後宮の奥だけど、王は王宮の中にも私室があってそちらを利用していることが多いという。
そしてこの国では、第一王位継承者は小さな離宮が与えられる。第二以降の王位継承者はいま私が住んでいる後宮の端に住むが、現時点で私しか兄妹はいないので一人で使っているような状態。
食事もバラバラで、そんな状況では滅多に顔を合わせることもない。やり取りは日本で例えるなら中元や歳暮のように、季節の挨拶に品物を添えて書面で交わすぐらいだったりする。
実際に顔を合わすのは年に1、2度。
その為、こうして顔を合わせる場合は手土産持参は最低限の礼儀だ。ましてや連日の見舞いの花のお礼に来たのに、手ぶらなんて本来ありえない。
「アルフェ? どうした」
動揺して立ち尽くしたまま動けない私を不思議に思ったのか、第一皇子がソファに向かいかけていた足を止めた。
私の前まで来くると、頭一つ分以上は背が高いので僅かに屈む形で覗き込んでくる。切れ長の冷たく見える色彩の目に心配そうな色を乗せ、伸びてきた手が顔色を伺うように私の頬に触れた。
「!」
急に触れられたことにたじろいで、反射的にビクッと体が跳ねてしまった。
いやだって、そういう接触って慣れてないから。アルフェンルートとしては、特に。だから今の私の反応は仕方なかったと思う。
だが第一皇子にとってはそうは思われなかったようで、すぐに頬から手を離すと彼はなぜか私の前に膝を着いた。ぎょっとした私の手を取り、下から伺うようにして真剣な顔で覗き込んでくる。
「まだ体が本調子ではないのか?」
まるで姫を気遣う皇子様だ……って、この人は本当に皇子だった。
だけど私は姫じゃない。私も皇子で、この人の異母弟。そう、弟。つまり男。この人にとっては、厄介な立場でしかない存在。
そのはずなのに。
(ど、どういう状況なのコレ)
いろんな意味でこの状況に心臓が急激にバクバクと大きな音を立てる。聞こえてしまうんじゃないかと、慌てて首を横に振って一歩後ろに引きかけた。
だが手は離されないので、途方にくれながらも必死にこの場をどうにかすべく言葉をかき集める。
「いえ、体はもう大丈夫です。問題ありません。シークヴァルド殿下には大変ご心配とご迷惑をおかけしました」
それより、今この状況の方が全然大丈夫じゃない!
なぜ時期王である異母兄が私の前に膝を着いてるの!? 私の身長がまだ低いからだとは思うけど、そこまでされると今度は私の方が頭一つ分高くなってしまう。
しかも視界の端では、クライブがひどく驚いた顔で第一皇子を見ている。その顔が驚愕から、第一皇子に何をさせているのかという批難に変わるのは時間の問題に思えた。
それは怖い。絶対に避けたい。
「いや、私の方こそ巻き込んで危険な目に遭わせてすまなかった」
「あれは私が勝手にしたことですから、シークヴァルド殿下がお気に病まれることは何もありません。私が余計なことをしなければ、きっとランス卿が適切に対応されていたことでしょう。申し訳ありませんでした」
「何を言う。アルフェが庇ってくれなければどうなっていたかわからない。感謝している」
そう言って目を細め、猫の子でも撫でるようにまたも私の頬を撫でる。整いすぎて冷たく見える容姿から勝手に体温も低いと思い込んでいたけれど、触れた手があたたかかくて驚かされた。
というか、なんでこんなにスキンシップ過多なの。そういうお国柄なの? いや、そんなわけがない。もしかして、第一皇子は家族愛に飢えてるの!?
(…………そうなのかも)
ずっと自分の命を狙っている側だと思っていた異母弟が、命がけで助けてくれた。
元々その異母弟側の刺客だということは勿論理解しているだろうけど、異母弟自身にはそんなつもりは全くない。第一皇子にとって、それは他にも代えがたいほどに嬉しいことだったのかもしれない。
(私も、第一皇子に気にかけてもらえたのは嬉しかったわけだし)
これまでずっと、自分とは全く違う世界の存在に思えていた。
だけど死にたいぐらい弱っていたときに、わざわざ見舞いに来てくれたこと。毎日欠かさず贈られてくる花。今もこうして、心配そうな眼差しで気遣ってくれる。
何か企んでいるのかも、という気持ちが全くないわけじゃない。
きっとこれで私と第一皇子が和解したからって、簡単に何もかもがうまくいくわけじゃないというのもわかっている。
私の手の届かないところで物事は進んでいって、気づいた時には手に負えない状況になることも、考えたくはないけどありうる話だと思う。
だけどお互いにそうとわかっていても、今こうして気にかけてくれることは純粋に嬉しい。
(よく考えたら、こんな機会もうないかもしれない)
今の私にできることなんて本当に少ないけど、それでもせめて自分の気持ちは伝えていくべきだと思えた。
もしかしたら、ここで告げる私の言葉をいつか思い出してもらえるかもしれない。
視線を合わせるべく屈み込んで、心配を吹き飛ばすように微笑んでみせた。
「シークヴァルド殿下に大事がなくて、本当によかったです。あの、お花も毎日ありがとうございました。とても綺麗でした」
とにかくお礼の言葉だけは言わなければ。
ぎゅっと強く手を握り返して、素直な気持ちを訴える。
「シークヴァルド殿下にお気にかけていただけて、とても嬉しかったです」
すると、目の前の冷たく見える整った美貌が僅かに和らいだ。
(わらった……!)
こんな風に、笑えるんだ。
流れる白銀の髪と切れ長の淡い灰青色の瞳、第一王妃の雪国特有の白い肌と美貌を受け継いだ異母兄は、正直なところこれまであまり人間味というものを感じさせなかった。
性格も容姿も、精巧に作られた完璧すぎる人形のごとき冷たさがあって、常に近づき難い雰囲気を醸し出していた。
だけど今、私に向かって目線を合わせて笑いかけてくる顔はひどく穏やかで優しい。
少し目を細めて口の端を僅かに吊り上げただけだけど、ちゃんと私を見て、向かい合ってくれているのがわかる。
「そうか。私も、アルフェが元気になってくれて本当によかった」
落ち着いた静かな声が耳に届いて、第一皇子も同じように思ってくれてるのが伝わってくる。嬉しくて自然と笑みが零れた。
私の笑顔を見て安堵を滲ませた第一皇子は、納得したのかやっと立ち上がってくれた。
(これで第一皇子へのお礼も無事完了! よかった……っ。本当によかった!)
本は渡せなかったけど、なんとか一応はクリアできた。
そう胸を撫で下ろしていたところで、「ところで、アルフェ」と呼びかけられた。
「はい」
顔を上げると、なぜか少し不満そうな顔をして私を見下ろしている第一皇子と目が合った。
そして何か言いたげに私をしばらく見て、口にすべきかと躊躇いを見せる。
(あっ。これはやっぱりお礼の品がないのが気に入らなかった!?)
それはそうだ。あれだけ毎日お花を貰っていたのに、手ぶらでお礼を言いに来るだけとかありえない。礼儀知らずにもほどがある。
「あの、お礼の品もご用意していたのですが、図書室に落と、置き忘れてきてしまって……また後日、お届けします。申し訳ありません」
王族として礼儀がなってないのではないかと怒られる前に、慌てて言い募る。
動揺していたのでうっかり落としてきてしまったと言いかけたけど、たぶん誤魔化せた、と思いたい。いや、置き忘れてくるのも大概失礼ではあるけれど。でも文句はクライブに言ってほしい……。
眉尻を下げて謝罪すれば、どうやら第一皇子はお礼の品のことを言いたかったわけではないらしく少し目を瞠っていた。
そして動揺している私を見て、ふとなぜかチラリとクライブに視線を向けた。その目が若干、冷ややかに見えたのは気のせいだろうか。クライブのせいだと察してもらえたのなら嬉しい。
でもクライブに逆恨みされるのは怖いので、念のためにもう一度「ごめんなさい」と謝って、自分が悪いのだと念を押しておく。
「いや、それは気にしていない。元々怪我を負わせてしまったのもこちらの不手際だ。見舞の花では詫びにも足らないぐらいだろう」
「そんなことはありません。とても嬉しかったですから」
これは本当。毎日毎日いろいろな花束が届いて、そこまでしてくれなくていいのにと思ったりもしたけど、嬉しかったのは間違いなく本当。
顔を綻ばせれば、第一皇子もさっきと同じように笑ってくれる。異母兄相手にちょっとドキッとするのは仕方がない。こんな美形に微笑まれるなんて、免疫がないのだから。
「いや、言いたかったのは礼のことではなくて」
「はい?」
「……もう、兄様とは呼んでくれないのか?」
そう尋ねられて、頭の中が数秒間固まった。
そう、そうなのだ。思い出す度に頭を抱えたいのは、先日の呼びかけ方だ。
(混乱してたから仕方ないとはいえ、兄様呼びしてしまったんだった……!)
思い出すと一気に顔が熱を持つ。
あれからアルフェンルートの記憶が馴染んできた頃に改めて思い返して、第一皇子のことは「シークヴァルド殿下」と呼んでいたと思い至って頭を抱えた。
これまでも顔を合わせたのは年1、2度。すぐに呼び方を思い出せなかったとしても仕方ないと思ってほしい。
私の意識を取り戻したときは、異母兄弟とはいえまさかここまで溝があるとは思ってなかったのだ。だが実際、考えてみれば他人よりも遠い位置にいる人だったから、その他人行儀さに違和感もない。
それを、よりによってあの時に「兄様」……。
あの状態で兄様呼びだなんて、相手もさぞかし驚いたことだろう。
そういえば、かなり驚いた顔をしていたことを思い出して遠い目になりかける。
異母とはいえ兄なのは間違いないから恐れ多いとまでは言わないけど、猛烈に恥ずかしい。
例えるなら、いつもはぶっきらぼうに母親を「おふくろ」と呼んでいる人が、心の中では「ママン」と呼んでいて、実際に口に出してしまったそれを本人に聞かれてしまったような状況。
あのときの私はあてずっぽうに呼んだだけだけど、向こうはそうは取ってくれないだろう。そう考えると猛烈に恥ずかしい。
そしてそれを今、突き付けられている。
「その節は……失礼を、いたしました」
異母兄なのだから失礼とまではいかないとは思うけど、それ以外の言葉が思いつかなかった。赤くなった顔を隠して俯き、羞恥に震える声で謝罪の言葉を告げる。
もう忘れたいし、忘れてほしい。
「別にそう呼んでくれて構わないのだが」
しかし羞恥に打ちひしがれている私の頭上に、そんな言葉を投げかけられた。驚いて勢いよく顔を上げる。
まじまじと見上げれば、じっと私を見つめる灰青色の瞳と目が合う。その目が、なぜか期待しているように見える。
まさか、そんなわけが……
「いえ、そんなわけには」
「かまわないだろう。兄なのだから」
「それは、そうなのですが」
たじろいで辞退しようとする私に容赦なく畳みかけてくる。
いや、でもですね、私にはアラサーだった頃の記憶もあるわけでして。確かにまだ私は13歳という気持ちも勿論あるんですけど、だけど私の記憶からすると第一皇子は年齢よりずっと大人びて見えても、年下なわけで……!
「…………、兄様」
けれど期待を持って私を見つめる瞳を裏切ることは出来なかった。
絞り出したそれはか細い声になったけど、なんとかそう口にした。無性に恥ずかしくて顔が熱い。耳まで熱い。
「ああ、悪くない」
でもそう言って嬉しげに、くすぐったそうに笑った顔は年相応に見えた。
そんな異母兄をちょっと可愛いと思ってしまったのは、一生の秘密にしておこうと思う。
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