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第8話 6 狂犬に舐められてます
しおりを挟む嘘でしょ。
悪びれもなく私を抱え上げたまま飄々としているその顔を見るなり、一気に脳裏には過去にプレイしたゲームのシナリオが流れ込むように思い出されていく。
私としても全部覚えているわけじゃない。元々付き合いでプレイしたゲームだったし、そこまで思い入れがあったわけでもなかった。今も全キャラとルートを思い出せているとは言えない。
それでもこうして至近距離で一対一で相対すれば、本能がこの男の危険性を訴えているのか思い出されていく記憶がある。
(第一皇子がいるのなら、こいつもいるに決まってる……!)
なぜもっと早く思い出せなかったのか。
更なる焦燥と恐怖で顔から血の気が引いていく。
絶対に忘れてはいけない危険人物。
前世のゲームなんだからすべて思い出せていなかったのは仕方ないとはいえ、それでもなぜ忘れていられたんだろう。
あのゲームを攻略した人間なら、大抵このキャラのことを忘れられないと思う。
「皆のトラウマ」「どうしてそうなった」「狂犬注意」
そう言われた、本当に乙女ゲームだと理解しているのか? と訊きたくなる、極一部の嗜好の持ち主以外にはトラウマレベルのシナリオの持ち主。
見た目は女性受けしそうな、いかにも騎士といった好青年。
焦げ茶の短髪に緑の瞳を持つ彼は、第一皇子と同じ年の乳兄弟であり、片腕でもある騎士。
いつも優しげな微笑みを浮かべていて女性には等しく優しく、高身長で爽やかさとほどよい甘さを含んだ顔立ち。
その見せかけの属性は人懐っこいワンコ気質。
そう、見せかけは。
思い出せば思い出すほど、背筋に冷たい汗が滲んで伝い落ちていく。体は恐怖で震えたまま、抑えられた口も歯の根が噛み合わずにカチカチと音を立てる。
「驚かせてしまい申し訳ありません。静かにしていただけるとお約束いただけますか?」
にこりと微笑みかけてくるけど、その瞳は全く笑っていない。
ゲームではヒロイン視点だったからここまであからさまな眼差しを見たことはなかったけど、あの皆のトラウマシナリオを思い出せばこっちの方が素なんだろうと感じてしまう。
だからこそ、余計に怖い。
なんとかコクリと頷けば、やっと口から大きな手が離れていった。念を押されなくても、恐怖でうまく息すらできずに叫ぶ声なんて出せなかった。
体も床に下ろされたものの、腰が抜けた状態で力が入らずにその場にへたり込んでしまう。
いざという時の護身用の短剣一つ持っていない。持っても無駄だとセインに言われて、持たせてもらえなかった。
王族というものは実戦に立つ立場にはない上、守られる前提の存在だから自分から請わない限り剣術や武術は習わない。修練中に怪我をされても困るというものあるだろう。
だからもしここで剣を持っていたとしても、扱いなれていない人間が構えたところで、それを取られて逆に刺される危険性の方が高かったとは思う。
貴族の女性が短剣を持つのも、反撃目的ではなく害される前に自害するためのものでしかないぐらいなのだから。
王族が習うのは、相手の隙を突いて全力で逃げることだけだ。
そのために城の配置図は頭に叩き込んであり、どう行けば効率よく逃げられるのかを覚えてはいる。
だけど、この男相手にどこに繋がるかわからない場所で逃げられる気もしない。
しかも上から見下ろしてくる冷たい瞳に、逃げようという気持ちも押し潰されていく。
昔、ニュースで暴漢に襲われたという記事を見る度、正当防衛なんだからもっと相手を殺す気で抵抗すればいいのに、と思ったりしていた。
だけど実際に自分がその立場に立たされると、そんな簡単には動けないんだと思い知らされる。
当時も電車の痴漢なら無言で反撃していた私ですら、命の危機ともなると恐怖で心も体も委縮して、自分の念じたように動いてくれない。
だって下手に動いて機嫌を損ねたら、次の瞬間にはその腰に佩いた剣で切りつけられるかもしれない。
とはいえこのまま動かなかったからといって、殺されない保証もない。
──なんせ相手は、アルフェンルートを殺害するルートを持つ男なのだから。
「ランス、卿……どうして、こんな真似を?」
せめてもの足掻きで、緊張で乾いた喉を叱咤して口を開いた。
声は震えて小さかったけれど、呼びかけた相手の耳にはちゃんと届いたようだ。少し驚きに目を瞠り、すぐにその整った顔がにこりと微笑みかけてくる。
相変わらず目は笑ってないけど!
「アルフェンルート殿下にお見知りいただけているとは光栄です」
まだ社交界に出ているわけでもない基本的に引きこもりの私が、名乗った覚えもない第一皇子陣営の人間をよく調べているものだな、と言われたように聞こえた。
選択肢を誤ったかと思いかけたけど、ゲームの記憶だけでなくアルフェンルートとしても彼の名前と顔は知っていた。
それに先日の第一皇子暗殺未遂の際にも、思い返してみれば第一皇子の傍に控えていたことを考えれば、私が調べて知っていたとしても何もおかしいことではない。
せめてその時点でちゃんと思い出せていれば!
悔やみたいところだけど、今更どうにもならないから後悔は後回し。
「シークヴァルド殿下の、有能な片腕であると聞いていますから」
なんとか彼の好感度を上げなければ、との必死の思いでぎこちなくだが少し笑いかけてみた。たぶん間違いなく引き攣っているとは思うものの、今できるせめてもの精一杯の足掻きだ。
たぶん彼なら、こう言われれば悪い気はしない。はず。いや、絶対に。
「このような若輩者には身に余るお言葉です」
彼は少し驚いた顔をした後、ふわりと笑った。さっきまでとは全然違う、ちゃんと目尻まで緩ませて。
少しでも警戒が緩めばいいとは願って言ったセリフだけど、さっきまでとは打って変わったそんな顔を見せられて絶句しなかった私を褒めてほしい。
ほら! こういうところ! こういうところが乙女ゲームのキャラじゃないんだって!
しかしながら今の私の選択肢は間違っていなかったのか、それまでは上から冷ややかな目で見下ろしていた相手が、私の前に片膝を着いた。
「既にお見知いただいているようで恐縮ですが、改めまして。ランス伯爵が第一子、クライブ・ランスと申します。シークヴァルド殿下の乳兄弟であり、近衛騎士を務めさせていただいております」
長い睫毛の影を落としながら目を伏せ、胸に手を当てて頭を垂れる。正式な王族への礼を取る姿は騎士らしく、とても様になっている。
ここが等間隔にある蝋燭の僅かな灯りだけが頼りの暗く細い廊下であることすら忘れそうな、優雅な所作だった。
けれど、その緑の瞳を開いて私の瞳を真っ向から見据えた瞬間に、やはりまだ油断なんてできないと思い知らされる。
口元は穏やかな微笑みを浮かべているのに、私を見る目はゾッとするほど暗く冷たい。
「あの方の身をお守りするのが私の役目。そしてあの方を害するものがあれば、排除するのも私の役割」
全身が戦慄した。
そう。私はこの男がそういう人間だと、知っている。
──クライブのエンドは二つある。
そして大抵の人は、最初にバッドエンドを経験させられる。
クライブのルート終盤、ヒロインと祭りに出掛けた夜。
城に帰ろうとするクライブに『まだ行かないで』『今日はありがとう』の二つの選択肢が現れる。
ここで引き留めると、お待ちかねの最後のラブイベントが発生する。
誰もがこれをトゥルーエンドだと思うだろう。私だってそう思った。
だが実はこちらを選んでしまうと、第一皇子が陰謀によって暗殺されてしまうのに間に合わなる。
クライブが戻った時には死んでいるのだ。
そしてそのことに罪の意識を苛まれたクライブは闇落ちして、陰謀の相手である第二皇子を殺害して処刑されるという、デッドエンドになる。
しかもヒロインへの最後の言葉が「君に出会わなければよかった」だ。
……闇が深すぎる。
声優の演技がまたすごくて、ヘッドフォン越しに聞いた声にはぞっとさせられた。
もはやホラー。
ちなみに選択肢でクライブを見送っておけば、第一皇子の暗殺は阻止できる。
ヒロインには「本当はあの夜もっと一緒にいたかったけど、君が引き留めないでいてくれたおかげで僕は自分の職務をまっとう出来たんだ。ありがとう」というトゥルーエンドを迎える。
そのスチルは第一皇子に誇らしげに傅く姿だった。
かっこいいけど、違うそうじゃない。と誰もが思ったはず。
もはやあれがトゥルーと言ってしまっていいのか疑問に思う。
シナリオライターの「この男の本質を理解していない女に、こいつはやらない」という無駄に強い意志すら感じた。腐女子視点で見たときは歓喜ルートだったけど、普通に乙女ゲーとしては完全にトラウマである。
ちなみに、どちらのルートも第二皇子に未来はない。
そんな第一皇子絶対至上主義者であるクライブが、敵の旗頭である私を排除出来るこんなチャンスを逃すはずがない。
(もっと早く思い出すべきだった……!)
彼なら、たとえ自分が破滅してでも私を排除する。
そして世間的には伯爵子息の勝手な暴走ということで、第一皇子陣としては伯爵家を切り捨てるだけで終わるだろう。
そして多分クライブも、それで納得してしまう。狂犬と言われるだけあって、きっと彼はぶれない。
息を止めて固まる私に向かって、大きな手が伸びてくる。
蛇に睨まれた蛙のように指先一つ動けなかった。服の上からでもわかるほど心臓がドックン、ドックンと強く早鐘を打っていることだけが時間の経過を知らせてくる。
伸びてきた節張った長い指が私の喉に絡むのを、大きく見開いた瞳でただ見ていた。
(ころされる……っ)
逃げなきゃ、とか。命乞いを、とか。
とにかく動けと頭の片隅では冷静に指令を出しているのに、恐怖に凍り付いてしまった体は動かない。
震える自分の手は石の床に頼りなく爪を立てるだけで、拳にすらならなかった。その間にも大きな掌が自分の喉を覆い、硬い指が皮膚に触れる。
(セイン……っごめん。ちゃんと言うこと聞いておけばよかった!)
心配してくれていたのに。一緒に行くと言ってくれたのに。
なんでもっと甘えておかなかったんだろう。
でも、もしセインがここにいたらセインはもう殺されていたかもしれない。それなら、私一人で済んでまだよかったのかもしれない。
(でも、私も死にたくない。死にたく、ないのに)
その間も、私を見据える緑の瞳には何の感情も浮かんでなかった。
罪悪感も、かといって憎悪もない。
ただ当然のことをするだけだと言うように、淡々とした表情と瞳。
「……ッ」
悲鳴すら、喉の奥に張り付いてちゃんと声にならなかった。
どうしてこんな時に声が出ないの!
死にたくない。死にたくない。そう念じてもどうしたらいいかわからない。
だって、体格も体力も全然違う相手を前に、右も左もわからないこんな場所でどうやって逃げればいい?
まるで悪夢の中に沈められているようだった。
走っても走っても先に進めなくて逃げられない、叫んでも声が出なくて絶望に襲われる……そんな悪夢の真っただ中にいるような。
だけど喉に絡む硬い指の腹と大きな掌の感触はリアルで、夢じゃないと思い知らせてくる。
その手の下でゴクリと喉を嚥下させる音だけがやけに響いて聞こえた。
「!」
全身が緊張で強張り、堪らずに強く目を閉じた。その拍子に目に溜まった涙が頬を伝い落ちる。
「っ……?」
だけど予想していた衝撃はいつまでも起こらなかった。
どころか、首に絡んでいた手がゆっくりと離れていく。
驚いて恐る恐る目を開けば、視線の先には心底呆れ切った顔で私を見ている緑の瞳と目が合った。
「ランス……卿?」
まだ震えは止まらないものの、舌を叱咤してなんとか疑問を絞り出す。
どうして。殺せたはずなのに。もちろん殺されたくは、なかったけど。
混乱する私の前で、クライブは苦笑してから頭を下げた。
「恐ろしい思いをさせて申し訳ありません。貴方が本当にシークヴァルド殿下に仇なすおつもりがないのか確かめさせていただきました。ご無礼をお許しください」
全く悪びれもせずそう告げられて、今度は違う意味で体が震えた。
(た、試した、って……!)
どういうつもりなの。
胸倉を掴んで力いっぱい揺さぶってやりたい衝動が突き上げてくる。
ご無礼をお許しください、なんていわれても許せるわけがない。ここまでしておいて、そんな子犬みたいな悪びれない笑顔で許されるとでも!?
こっちは死ぬかと! 思ったのに! 本当にもうダメだって、そう思ったのに!
パクパクと口を何度が開いて、閉じて、開いて、だけど結局罵倒の言葉は出せずに閉じた。
(つまり、もしここで私が少しでも反撃していたら。きっとクライブは容赦なく私を殺していた)
なんの力もない、どうしようもなく非力で無力な存在だったからこそ、私自身は脅威にはならないと見逃された。
ここで殺しておくべきだったと後で思われるかもしれないけれど、とりあえず今はクライブの第一関門を突破した、と見ていいと思う。
まさかこんな命がけになるとは思わなかったけど!
「これで私は、シークヴァルド殿下にお会いできる権利を得たということでしょうか」
それでもせめて嫌味を言ってやりたかった。
声は震えたものの眉根を寄せてそう言えば、クライブは面白そうにちょっと眉尻を上げた。そしてやや皮肉気に口端を吊り上げる。
悪い顔だ。
こんな表情を見るのは初めてで、これが素だったのかとギリギリと奥歯を噛み締めたくなる。ぎゅっと拳を握ってまだ涙の残る目で睨み上げたが、まったく堪えた様子もないのがまた腹立たしい。
「ええ。今度はちゃんとご案内しますとも」
そう言って騎士然として手を差し出してくる。
だけど私はその手を取らなかった。取りたくなかったというのもあるけれど、それ以前に取ったところで今はあまり意味がないとわかっていたから。
「アルフェンルート殿下?」
「……腰が抜けて、立てません」
自分の弱さが恥ずかしくて顔が熱い。悔しくて奥歯を噛み締めた。
でも誰だって殺されかければ腰が抜けると思う。
過去に殺された経験を持つと言っても、それ以外は普通に平凡な毎日を繰り返していた日本人だ。王宮でも籠の鳥状態で常に守られていたのだから、こういう経験は初めてだった。先日の暗殺も私が狙われていたわけじゃないからカウントされない。
もう少し待ってほしい、と告げようと顔を上げたところで、不意に影がかかった。
「失礼」
目の前に屈みこまれ、何? と思う間もなかった。
「ぅひゃあ!」
体が宙に浮く感覚に襲われ、思わず変な声が出た。
さっき荷物のように横抱きにされた時と違い、クライブの片腕に座る形で抱え上げられれている。まるで子供を抱っこするみたい。
いや、まだ子供ではあるんだけどそこまで子供でもないので羞恥心に襲われる。
「下ろしてください!」
「歩けないのでしょう? あまりシークヴァルド殿下をお待たせするわけにも参りませんから、しばらく我慢なさってください」
「……っ」
私をこんな風にした原因のお前が言うな、と言ってやりたい。そもそも第一皇子を待たせる真似をしたのもお前だろうが、と頭を揺さぶってやりたい。
けれど言ったところで適当に聞き流されそう。それはそれで苛立ちそうで、ギリギリと奥歯を噛み締めるだけで抑えた。
そんな私を苦も無く抱え上げたまま、クライブは迷いのない足取りで通路を進んでいく。
そして数分歩いた後、抜けた先の扉を開くと急に襲い来る眩しさに目を細めた。
「……なぜそんなことになっているのだ?」
そしてそこにいた第一皇子シークヴァルドは、私たちの姿を見るなり胡乱に眉を顰めたのだった。
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