これから本気で恋をする

餡子

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これから本気で恋をする

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「婚約を、破棄していただきたいのです」

 久しぶりに会うなり予想もしていなかったことを告げる唇を、半ば呆然として見つめてしまった。
 唐突な申し出に絶句しか出来ない。

(なぜ?)

 頭の中は純粋な疑問符で埋め尽くされる。なにがどうしてそうなったのか、理解が出来なかった。
 貴族の間では、幼い頃に婚約をすることはよくある。
 婚姻というものは家同士の繋がりであり、当人達の希望など二の次である。その為、年齢を重ねるにつれて家の事情が変わったり、当人達の意志の方が勝ったりして婚約破棄されることも稀にはある。
 だが貴族は世間的な体面を重要視するので、一度交わした約束を反故するような真似はよほどでなければしない。
 そして現状、その「よほどのこと」が欠片も思い当たらなかった。
 それになにより、婚約破棄を申し出ている相手が問題だった。

(なぜ俺は6つも年下の、しかも格下の爵位の小娘に婚約破棄を申し出られているんだ!?)

 婚約破棄を申し出ている娘は、まだ14歳。
 ちょっと待ってほしい。意味がわからない。
 百歩譲って、上位の爵位である俺側から婚約破棄を申し出るのなら、まだ理解できる。
 だが、子爵令嬢である彼女から言われるのはありえない。それも親が言うならわかるが、本人が直接婚約破棄を申し出るのは異例過ぎる事である。

「マリアベル。ちょっと言っている意味がわからない」

 あまりに理解できない事態に頭痛がしてきて、親指でこめかみを押さえつつ思ったことを率直に述べた。
 向かいのソファに座っているマリアベルは蒼褪めて顔を強張らせており、長い睫毛に縁どられた大きな琥珀色の瞳を潤ませている。ぎゅっと唇を噛み締めて顔を俯かせた拍子に、艶やかな長い黒髪がさらりと華奢な肩から落ちていった。
 なぜ婚約破棄を申し出ている側が泣きそうになっているのか。本当に意味がわからない。

「先月、見舞いで顔を出さなかったことを怒っているのか?」

 つい先月、この娘は生死を彷徨うほどの高熱を出して寝込んだ。
 当然ながら慌てて見舞いに行ったわけだが、この娘の両親から「病気をうつしたらいけませんから」と玄関先で追い返されてしまった。
 そしてその後も心配で自分にしては足繁く訪ねてきたものの門前払いをくらい、なぜか今日まで会わせてもらえなかった。だから会えなかったのは不可抗力である。
 しかし持ってきた花だけは毎回置いていったから、この家に来たことはわかっているだろう。
 だが、この娘なら拗ねていてもおかしくない。
 とはいえ、それで婚約破棄は言い出すのはいかがなものか。怒っていても、言っていい言葉ではない。それぐらいの分別はある娘のはずだ。

「そうではありません」

 眉を顰めて問うたそれに、マリアベルは沈痛な顔をして首を横に振った。

「なら、どうしてそんなことを言い出すんだ」

 そうなると本当に心当たりがなく、溜息が口から零れ落ちていく。

(いつもの我儘……にしては様子がおかしい)

 この娘が我儘を言うのはいつものことではある。甘やかされて育った、成り上がりの子爵家の一人娘。
 父親である子爵が先代と二代で築き上げた貿易による莫大な財産さえなければ、公爵家である自分が許嫁にするような娘ではなかった。本来なら。
 しかしながら自分の両親はかなりの散財家であり、膨れ上がった借金に困り、この娘が継ぐ財産に目が眩んで婚約を申し出た。
 それが俺が12歳、この娘が6歳の時だ。
 こちらは金が欲しい。向こうは地位が欲しい。互いの利害が一致して交わされた婚約だった。勿論、当人たちの意志はない。
 だが、この娘は俺のことをいつも全身で好きだと訴えていた。時折、鬱陶しい程に。

「なぜもっと会いに来てくださらないの?」

 そう責められたことは、両手の指では足らない。
 はっきりいって、6歳も下だと恋愛対象としては見られない。
 それでも婚約以来、月に1度はご機嫌伺いに来ていた。つい先々月も、誕生日祝いに大きなぬいぐるみを持ってきた。
 そのときまでは、俺のことを好きだと全身で言っていた。

「もう14歳なのに。ぬいぐるみなんて子供っぽいわ」

 そう唇を尖らせたくせに、「ならば違うものにしよう」と取りあげようとすれば頑として渡さなかった。

「せっかく選んでくれたんですもの。これで我慢してあげます」

 憎まれ口を叩くくせに、絶対に渡すものかと綿が出そうなほどに強く抱き抱えていた。
 素直じゃない態度には内心呆れた。とはいえ、扱いなれてしまえばその態度が可愛く見えないわけでもない。
 親が決めた許嫁であり、我儘で手を焼いていたとはいえ、別にこの娘が嫌いないわけではなかった。
 最初は我儘娘の相手など面倒だと思っていたが、そのうち手のかかる妹のように思うようになった。
 それに今はまだ子供でも、成長すれば女になっていく。今の6歳差は大きいが、この娘が結婚できる18歳になったら自分は24歳。これぐらいの年齢差の夫婦など珍しくない。
 この娘が大人になれば、自分の気持ちも変わっていくのだろう。
 そう気長に構えていたけれど、マリアベルはそんなこちらの気持ちが不満だったのだろうか。

「他に好きな男でも出来たのか?」

 先々月までは俺のことが好きで、つい先月、生死の境を彷徨っていた娘が他の誰かに恋をする時間があったとは思えない。
 しかし思い当たることとしたら、これぐらいしかない。
 己の見据えられると怖いと言われる灰色の瞳を向ければ、弾かれたようにマリアベルが顔を上げた。

「そんなことあるわけがありません!」

 血相を変えて、即座に違うと言葉でも表情でも示されて、ほっと胸を撫で下ろす。
 ……いや、なぜこんな小娘の気持ちを確認して安心してしまっているのか。妹のように思っていたはずで、まだそういう意味で好きなわけではないというのに。
 内心では動揺している自分の前で、マリアベルは不意にハッと気づいたような顔をした。

「いいえ、そうです。そういうことにいたしましょう!」

 両の拳を握りしめ、またもわけのわからないことを言い出す。

(そういうことにいたしましょう、ってなんだ)

 明らかに取って付けたような理由にこちらが納得できるとでも思っているのか。
 口をへの字に曲げる俺を前にしても、マリアベルの意志は揺るがない。

「私が心変わりしたということでかまいません。それでしたら、ローレンス様のお名前に傷がつくこともありませんもの。うちはお金だけはある家ですから、私の名に傷がついても持参金目当ての者が後を絶ちません。ですから私のことはお気になさらず、婚約破棄してくださいませ」

 名案だと言わんばかりに力説されて、頭痛が増していくのを感じる。
 14歳の娘に赤裸々に貴族の婚姻事情を言われると胸まで痛くなってくる。一体誰だ、この娘に変なことを教えたのは。
 だいたい、まったく名案ではない。

「その場合、俺は14歳の小娘に捨てられた男ということになるんだが」

 不名誉にも程がある。
 こめかみを押さえたまま言えば、またもマリアベルはハッとした顔をした。先程少し綻んだ顔が、またも沈痛な表情に戻ってしまう。

「それでは、いけません……」

 そう言って肩を落とす姿を見る限りでは、俺を嫌いになったわけでもなさそうだ。迷惑を掛けたいわけでもないのだろう。
 だからこそ、こんなことを言いだした意味がわからない。

「マリアベル、君が何をしたいのかがわからない」
「婚約破棄をしたいのです」
「だから、それがなぜかと聞いている」

 椅子に座りなおして、少し身を乗り出して見据えればマリアベルがぐっと喉を詰まらせた。
 泣きそうな顔になって、ちらりと俺を見る。言い逃れは許さないと見据え続ければ、小さな唇がおずおずと開かれた。

「こんなことを言うと、頭がおかしくなったのではと、思われそうなのですが……」

 いや、今の時点でも十分おかしい。
 そう突っ込みたい気持ちを押さえて、マリアベルが話し出すのを辛抱強く待ち続ける。

「……熱に魘されている間に、未来の夢を見たのです」
「未来の?」

 突拍子もない話を持ち出されて、目を瞠って聞き返してしまった。コクリと頭を揺らしてマリアベルは頷く。

「未来と言っても、4年ほど後の話です。ローレンス様の前に、とても素敵な女性が現れます。とても可愛くて、優しくて……ローレンス様は、その方を好きになるの」

 語りだしたマリアベルは、目に涙を潤ませている。
 正直この時点で突っ込みどころしかないわけだが、常よりもマリアベルの口調が大人びているように聞こえて、黙って聞くことにする。

「私はその女性が気に入らなくて、意地悪をします。そうすると、当然ローレンス様は彼女を庇って、私のことをどんどん嫌いになっていくのです」

 語りながらマリアベルのただでさえ血の気のなかった顔が更に蒼褪めて、強張っていく。

「私は焦って、そのうち、その……その子が、いなくなればいいって。そうすれば、ローレンス様は私の元に、戻ってきてくれるって。そんなことを、思ってしまって」

 細い指が何かに縋りたいのか、ぎゅとスカートを掴んだ。震える声が、まるで罪を告白するように絞り出される。

「それで、私……招かれた夜会で、ローレンス様と睦まじくしている彼女を見てしまうの。それがどうしても、許せなくて」

 小さな唇が躊躇いを見せる。握りしめた手は白くなっていて、不意にぐしゃりと顔を歪めた。

「私はその子を、階段から……突き飛ばしてしまうんです!」

 苦しげに声を吐き出して、大きな瞳からは堪えきれずにぼろりと涙を零した。
 たかが夢の話だろうと呆れて言えないだけの鬼気迫るものがそこにはあった。気圧されて何も言えず、ただマリアベルを丸く見開いた目で見つめる。

「たまたま下にいた王子殿下が彼女を助けてくれたけど、殿下も彼女を好きで、私は殺人未遂の罪で囚われるのです。それで、ローレンス様にも婚約破棄されて……っ。私、なんてことを!」

 後悔を全身に滲ませて、ボロボロと泣き出す姿に動揺が隠せない。

「ちょっと待て、マリアベル。所詮、夢の話だろう?」
「夢だけど、夢ではないの!」

 宥めようと手を伸ばしたけれど、顔を上げたマリアベルにギッと睨まれて手が止まってしまった。

「このままでは、私は同じことをしてしまう……いえ、もっとひどいことをしてしまうわ」

 唇を噛み締めて、そしてなぜか恨みがましい目を向けられた。

「あれから考えたのです。許嫁がいる相手に言い寄る女性は悪いです。でも許嫁がいるのに女性に言い寄る男性の方が、もっと罪深いのではないかとっ」
「……あ、ああ。そう、なるか?」
「もしまた同じことになったら、私、今度はローレンス様を突き飛ばしてしまうかもしれません!」

 切迫詰まった顔でそう言われて、もはやなんて言ったらいいのかわからない。

(なぜ俺は14歳の許嫁にやってもいない浮気を糾弾され、殺害予告までされなければならないのか……)

 いや、女の細腕で突き飛ばされたところで、よほど打ちどころが悪くない限り死ぬことはないだろう。だいたい事前にこうして聞いているわけだから、億万が一にもそういう状況になれば受け身を取る。
 というか、まずそういう状況にならない。なるわけがない。
 夢の話とはいえ王子もその女を好きだというのならば、自分がそんな相手を好きになることはありえない。面倒なことにしかならないだろう。考えるまでもない。
 それにあまりにもマリアベルが真剣なので場の空気に呑まれてしまったが、所詮夢の話なのだ。
 真剣なマリアベルには悪いが、無意識に呆れた溜息が出てしまう。

「マリアベル。ひとまず落ち着いてほしい。ただの夢だろう?」
「夢だったら、どんなによかったでしょう……っ。だからローレンス様との婚約を破棄したいのです」

 なにが「だから」なのかわからない。勘弁してほしい。
 もしや、この娘は高熱に魘された後遺症でおかしくなってしまっているのではないだろうか。子爵夫妻が会せようとしなかったのも、これが原因かと思われる。
 眉根を寄せ、どうしたものかと頭を抱えたくなる。
 ただの夢だと説き伏せてしまえばいい話だ。だが、違和感はあった。
 話し方がほんの2か月前に比べて、時々大人びているように感じられるのが引っかかる。前はもっと甘えた話し方だった。
 
「……私の言っていること、信じられないのでしょう?」

 琥珀色の瞳が責めるように俺を見つめる。

「病気で気が触れてしまったのだと、婚約破棄してくださっていいのです。これなら、ローレンス様は何も悪くありません」

 諦めたように笑う、やけに大人びた表情にドクリと心臓が跳ねた。見えない壁を打ち立てられたように感じて、胸の中で焦燥感が膨れ上がる。

「病気になったからといって許嫁を投げ出したら、俺は非情な人間扱いされるんだが」

 何とか引き留めたくて咄嗟に言えば、またもマリアベルはハッとした顔になった。「それもそうです……」と呟いて、沈みこんだ表情をする。
 言えばちゃんと理解するだけに、気が触れていると言い切るにも疑問が残る。
 黙ったままでいれば、チラリと琥珀色の瞳がこちらを窺った。しばし躊躇いを見せたものの、意を決したように口を開く。

「ローレンス様が気にされているのがお金のことなら、問題ありません。私と婚約なさったのは、うちのお金目当てなんだってわかってます。でも、ローレンス様が今育てている植物、あと数年すれば安定した富となります。うちのお金は必要なくなるのです」
「!」

 まるで未来で見てきたかのような迷いのない瞳で、マリアベルが告げた。
 ここに来てやっと、背筋が冷えるような感覚に襲われた。

(どうして、それを)

 4年前に留学先で偶然手に入れた植物の苗を、密かに自領で研究栽培している。だが、幼いマリアベルにそれを言ったことはない。子爵にもだ。
 生産が波に乗るまで、自領でも限られた人間しか知らない話である。当然ながら、マリアベルが知り得ることなどない。本来ならば。
 そこでマリアベルの夢の話が、一気に信憑性を増してきた。

(ならば、本当に予知夢を見たのだと?)

 すっと目を細めて見据えれば、マリアベルが慌てて口を開く。

「私が知っている未来はこれだけです。自分のことだけでいっぱいいっぱいでしたから、効率的な栽培法は知りません!」

 別にそういうことを聞きたかったわけじゃないが。いや、聞ければそれはそれで有り難かったが、知らないのなら仕方がない。
 言いたいことは、そういうことではない。
 真面目な顔を作り、マリアベルに向き直った。

「仮に夢が本当に未来のことだとして。未来がわかっているのなら、そうならないようにすればいいだけだろう」
「ですから、婚約破棄を」
「婚約破棄の前にやれることがあるんじゃないのか」

 どうしてそこまで飛躍するのか。それ以前に打てる手はいくらでもあるだろうに。
 呆れた目を向ければ、マリアベルは眉尻を下げる。

「彼女に嫉妬しないのは無理です」
「そもそも、俺が不貞を働く前提で話されているのが気に入らない」
「だってローレンス様、私のことなんてお好きじゃないでしょう。面倒だと思ってるくせに」

 そう言われて、ぐっと詰まった。
 確かに、今まではその通りだった。うまく誤魔化せている気でいたけれど、小さくても女というべきか。見抜かれていることを突き付けられてばつが悪い。
 そんな俺を見て、マリアベルが寂しそうに笑った。諦めたように見える態度に、じくりと胸に痛みが走る。

「私きっと、これからもっと面倒になります。貴方のことが大好きだから、振り向いてほしくて。ローレンス様は、それが重くなるのです。……だから彼女がいなくても、きっと私達はうまくいかなかった」

 遠い目をして、最後の一言は呟くように口にされた。
 まだ始まってもいないのに過去形で話されることに苦い顔になる。
 そう、まだ何も始まっていないのだ。自分にとっては。

「ですからお互いの為にも、ここで婚約破棄いたしましょう」
「断る」

 強張りを残しながらも微笑んで言われたそれに、考えるより早く口が勝手に動いていた。

「お断りだ」

 驚きに真ん丸く見開かれた瞳を見返して、今度ははっきりと自分の意志を込めて言った。
 自分でも、意外な言葉だった。
 マリアベルが言う通り、今育てている植物は軌道に乗れば安定した富を生み出すだろう自信はある。マリアベルの家に頼る必要などなくなる。
 気が触れているかもしれない娘に拘る必要なんてない。

(それでも、こんなに手放したくないと思うなんてな)

 婚約破棄をすると言われた時、動揺した自分が最初に考えたのは金のことなんかではなかった。
 正直なところ、婚約をしている以上、自動的に自分のものになる娘だと思っていた。何の努力もしなくとも、当たり前に手に入る娘なのだと。
 会いに行けば、嬉しそうな顔をされる。少し顔を見せないだけで拗ねられるのは面倒だけど、それほど好きなのだと全身で言ってもらえる。それが当たり前のことなのだと思っていた。
 この先成長して、きっと綺麗になっても、他の誰かが手を伸ばしたところで奪われるわけがない。
 いつのまにか好かれて当然なのだと思い込んで、向けられる好意の上に胡坐をかいていた部分もある。
 こんな風に終わりが来ることもあるのだと見せつけられるまで、自分の手から零れ落ちていくことなど考えもしなかった。
 たぶんマリアベルがこんな話をしなければ、それに気づかないままでいたかもしれない。彼女が夢に見たように、他に魅力的な女性が現れたら心揺れなかったという保証もない。マリアベルの気持ちを軽んじていた。
 それでも、たかが夢でもこんな風に悩んで、思いつめる姿を見れば、自分の愚かさを思い知る。
 ……いや、まったく身に覚えのない浮気なんだが。この先も、するつもりもない浮気なんだが。

「そう言っておいて、ローレンス様は彼女のことを好きになるくせに」

 マリアベルが悔しそうに睨んでくる目が、今はとても痛い。
 それでも、婚約破棄をしないと言った俺に対するマリアベルの肩からは少し力が抜けたように感じられた。
 まだマリアベルが完全に諦めていないのなら、今度はこちらが踏ん張る番だろう。

「ならない。だいたい王子殿下もその女を好きになるんだろう? マリアベルがいなくても、そんな面倒な相手に懸想するほど馬鹿じゃない」
「恋は理屈じゃないのです。気づいた時は好きになってしまっているものなのです!」

 なるほど、その言葉は今ならばわからなくもない。だが。

「ならば賭けをしようか、マリアベル」
「賭け、ですか?」

 眉根を寄せて小首を傾げる娘に手を伸ばす。頬に触れれば、熟れた林檎のように顔を赤らめた。
 それを愛しいと思うようになったのは、いつからだっただろう。
 面倒な我儘娘だと思っていた。手のかかる妹のようだと。恋をするにはまだはやいと思いながらも、いつか必ず自分のものになると思い込んで疑ってもいなかった娘。
 そうではないのだと気づいて猛烈に焦った自分は、いつの間にかこの娘に恋をしていたに違いない。

「俺が万が一、ありえないがもしその女に現を抜かしたら、遠慮なく俺を階段から突き飛ばしてくれていい。王子に見られても、ただの痴話喧嘩で済ませる」
「痴話喧嘩で済む話ではないでしょう!?」
「その場合は、責任を取ってマリアベルが結婚してくれればいいだけだ」

 そう言えば、マリアベルが呆けた顔をしてまじまじと俺を見つめた。徐々に耳まで赤く染めて、狼狽えた表情を見せる。

「……ローレンス様が彼女を好きにならなかった場合は、どうなさるの」
「そうだな。賭けは俺の勝ちということで、結婚してくれ」

 するとマリアベルは笑い泣きするみたいな表情を見せて、「それでは賭けになりません」と少し嬉しそうな声で呟いた。



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