百々五十六の小問集合

百々 五十六

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毎日記念日小説(完)

貴方の好きな言葉は? 5月18日はことばの日

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「好きな言葉ってある?」
 となりの席の女子から急に話しかけられた。
 彼女は、見定めるような目でこっちを見ている。
「世界かな」
「それはなんで?」
 間髪入れずに、食い気味に彼女が聞いてきた。
「この狭い地球を、世界ととらえて、それ以上に広いものに、宇宙という名前を与えたのが面白いから」
 彼女はくすっと笑った。
「じゃあ、早乙女さんの好きな言葉って何?」
「私の好きな言葉は、『を』」
 意外な答え。
 用言や体言を言うのかと思ったら、『を』一文字とは驚いた。
「なんで?」
「『を』という言葉一文字があるだけで、他者に影響を与えることができるからよ。もっと分かりやすく言った方が良いかしら?」
 咀嚼に時間がかかりそうな答えだ。
 ない頭を全力で回転させる前に、早乙女さんにかみ砕いてもらおうと思った。
「分かりやすく説明するために、田中君の名前を借りるわね」
 なぜ俺の名前が必要なのか分からないけれどとりあえず頷いておいた。
「例えば、田中君が走るとするじゃない?その時に、『田中君が走る。』という文章であらわされるでしょ。これは、貴方が勝手に走ってるっていうことでしょ?これに『を』を加えて、文章を整えると、『田中君を走らせる』になる。ここまでは分かる?」
 小学生向けの説明みたいに、ゆっくりと話す早乙女さん。
 今のところ、とても分かりやすい説明なので、とりあえず頷く。
「着いて来れていて偉いわ。じゃあ続きの話をするわ。『田中君を走らせる』っていう文章は、何かに影響されて田中君は走ることになる、その何かの視点からの話なわけ。分かりやすくするために、走らさせている『何か』を私だとすると、『私は、田中君を走らせる』ってなるじゃない?これって、私が、田中君の行動に影響を与えられたってことじゃない?人に影響を与える状況を『を』一つで表現できるって、素敵じゃない?」
 早乙女さんの、少し回りくどいけれど、大変分かりやすい説明を聞いて、それをさらに自分の中で咀嚼するまで少し時間がかかってしまった。
 しばらく俺が固まっていると、早乙女さんは、俺の前で手を振っていった。
「田中君大丈夫かしら?パンクしてない?このくらいの文章量でパンクするのだとしたら、もうAIに負けているわよ」
 早乙女さんにあおられて、俺は再起動した。
「人が、一生懸命早乙女さんの言っていることを理解しようとしているときに、煽らないでよ」
 渾身のツッコミは、早乙女さんにスルーされた。
「その程度の処理速度だなんて、1世代前のパソコンには確実に負けてるわね。それで、私の言ってることは、理解できたのかしら?」
「さっきから、煽りが、ほぼ罵倒みたいになってるよ早乙女さん。早乙女さんと話している間に何となく理解したよ。そんな風に言葉について考えてるってすごいね。さすが学年一の才女だね」
「おべっかはいいのよ。そう、理解できたのね。それは良かったわ。あと、煽りじゃなくて元から罵倒よ。癖だから気にしないで」
 早乙女さんとの大変頭を使う会話を終え、早乙女さんからの連続罵倒もやみ、ふと一息つく。
 外を見ると、夕暮れになっていた。
 きれいなオレンジ色の空が広がっている。
 一瞬あっけにとられて、思考が止まってしまった。
 それもそうだ、なぜなら、早乙女さんに話しかけられたのはホームルームのすぐ後。
 今日は5月だから、そんなに日は短くない。むしろ長いくらいだ。
 それなのに、この夕暮れということは、ざっと2時間くらい話していたということになる。
 会話をした記憶がほとんどない。ということは、ほぼ固まっていたということになる。
 早乙女さんもこんなに時間を使うだなんて思わなかっただろう。
 彼女はたぶん軽い気持ちで俺に話しかけてきたのであろう。それなのに俺の硬直のせいで2時間くらい拘束してしまったらしい。
 罪悪感が急激に上ってきた。
「また固まったわ。さすがにもう1時間半は、付き合いきれないわよ。そんなに時間が経ってしまったら学校が閉まってしまうもの」
 彼女のあきれたような声で俺は正気を取り戻した。
「あ、そういえば家の手伝いの約束をしてたんだ。すぐ帰らなきゃいけないんだ。早乙女さん、ごめんね、先に帰るね。それに、こんな時間まで拘束しちゃってごめん。じゃあ」
 慌てて走り出した。
 頭の中は、怒り狂ったイマジナリー母さんで、いっぱいだ。
 焦りが頭を埋め尽くしている。
 そんな中、教室を出るタイミングで、早乙女さんがボソッとつぶやいた気がした。
「そんなに逃げるように出ていかなくてもいいじゃない。」と。
 俺の耳は大変優秀なんだな。

 それからしばらくして、教室に一人取り残された早乙女さんが、
「せっかく勇気を出して話しかけたというのに。それにしても、やっぱり田中君は面白いわね。『世界』ねぇ。そんな回答初めて聞いたわ。それに、普通の人なら面倒くさい話を始めたという気持ちになって、半分聞き流すように聞くのに、田中君は頭が処理落ちするくらいには真剣に聞いてくれた。やっぱり彼はいい人ね。ちょっと興味が出てきちゃったわ。もうこんな時間なのね。教室で独り言を言ってる余裕はないわね。私も帰らなきゃ。さようなら田中君」と、言ったとか、言わなかったとか。
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