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第六章
第六十話
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煙が晴れる先にあるのは、やはり間違いなく自らの魔法によって倒れたストリキの姿だった。ストリキは完全に意識を失っているようで、動く気配はない。ミハネは重い体を動かして、未だ小さなドームの中にいる。二人に視線を写す。
「う゛ぅ……くるじぃ……」
「わぁーっ! セイランくーん! 潰れてますー!」
ミハネの目に映ったのは、力強くルピナスを抱きしめるセイランの姿だった。あまりにも強く抱きしめているせいで華奢なルピナスの体がセイランの腕の中でより小さくなっている。慌てて声を上げてミハネは二人の元へ走りだす。
「セイラン? セイラン……、もう、大丈夫だよ」
ルピナスを抱きしめるセイランはわずかに震えていた。小さく鼻をすする音も聞こえる。ルピナスは小さく身を捩り、密かにセイランの胸元を覗く。そこにあの紋章はすでになかった。セイランはあの時、確かに自らの力で動いた。庇おうとしたルピナスを制したのは、間違いなくセイランの大きな手のひらだった。無事に傀儡術は解けていると察したルピナスはひとまず安堵する。
だが、一時的とはいえ傀儡術に落ちてしまうほどの精神状態。相当な精神的な負担が襲ったことだろう。それが強い絶望と恐怖であったことは、ミハネの話からルピナスは悟っていた。
恐らく、セイランは地下牢ですべての記憶を返された。しかし、セイランはそれを受け止めきれなかったのだろう。それで、心に大きな隙を作ってしまった。故に、傀儡術に身を委ねることで自分を守ろうとした。ストリキは傀儡術に記憶操作を重ねることで、セイランから再びすべての記憶を消していた。
「……あれ?」
だが、それならば今セイランは十年前と同じく、すべての記憶を忘れた状態なのではないのか。自らストリキを打ち破ったことにより傀儡術が解かれたのは分かる。だが、記憶操作はストリキの先天術だ。例え意識を失ったところで、そう容易くは解けないはず。
何も分からないはずなのに、何故セイランは泣いているのだろう。何故今、ルピナスにこんなにも隙を見せているのだろう。ルピナスの戸惑った声に、セイランが僅かに顔を上げる。
「ルピナス、ごめん、ごめんなさい。おれ、なんでもするよ? あんたが望むこと、なんでもするから。おねがい……おれのこと、見捨てないで……」
「……なんでそんなこと言うの?」
「だって、おれ、あんたをたくさん傷つけた。あんなに一緒にいてくれたのに、側にいてくれたのに、おれは何回も忘れて……なぁ、おれ、ルピナスのこと、何回忘れた?」
ルピナスを見上げたセイランの瞳は、涙を溜めてきらきらと光っていた。ガラスとは違う、しっかりと光を宿した無垢な美しい赤紫。そんな瞳で悲しい言葉を繰り返すから、ルピナスはそっと熱の籠ったセイランの頬に手を添え、親指で頬をなぞって涙を拭いながら赤子をあやすような優しい声音で語り掛ける。
やはり、どういうわけかセイランには消されているはずの記憶が返されていた。誰よりもショックを受けているのはセイラン自身であるはずなのに。
「おれ、もう、ルピナスしかいないんだ。あんたにまで嫌われたら、おれ……」
「馬鹿だなぁ、セイラン」
「え、」
「生憎だけど、ボクはお前が何回ボクのことを忘れたかなんて覚えてない。覚えてるのは、お前がボクのことを好きになってくれた回数だけ」
ルピナスはセイランの瞳にかかっていた前髪をかきあげ、額を空気に晒すと、その額に自分の額をくっつける。二人の熱が重なった皮膚から共有される。これだけ至近距離にいてもセイランが逃げない。これまでのルピナスにとっては、それだけでも十分だった。
こんなに親しくなっても、いずれは自分のことを忘れて他人にまた逆戻りしてしまう。どれだけたくさん愛しても、セイランがそれに応えてくれるようになった頃にはその愛を忘れてしまう。それが、どんなに苦しいことか。きっと理解できるものは、この世に二人といない。いなくていい。
「……確かにお前はボクのことを繰り返し忘れてしまったかもしれない。だけど、その記憶の中にあるでしょ? ボクはお前に忘れられたからって一度でもお前の側を離れたことがあった?」
「……ない」
「でしょう? ボクは諦め悪いんだ。むしろ、お前が嫌って言ってもボクはお前を手放す気はないよ」
そうしてルピナスはぎゅっとセイランを抱き締め返す。まだ体に残る痛々しい外傷に触れないように、優しく抱き締めた。
セイランの記憶がどこまで戻っているのか。ルピナスは判断しかねていた。自分のことはしっかり認識できているようだし、自分が繰り返し忘れたことを認知しているということは、十年分の記憶を取り戻した状態なのだろうか。ルピナスは様子を伺いつつ、セイランの背中を擦って落ち着ける。
「……あの、さ。セイラン、どこから思い出した……?」
「……さいしょから?」
聞き方が悪かった。セイランの思う「最初」がどこなのか分からない。それは十年前のあの日なのか、それとも初めて城でルピナスと出会った日のことなのか。セイランがすべての記憶をリセットされたのは先ほどのが三度目。二度目が十年前で、一度目がもっと以前の、天使の末裔の村から誘拐された日。
「ん……正直、よく分からないんだ。どれが最近の記憶で、どれが昔の記憶なのか。そういう前後感もだけど、自分の感情もよく分からない」
「セイラン……、大丈夫?」
「……? 大丈夫?」
セイランのこれまでの日々はきっと苦しみばかりだった。誰も手を差しのべてくれない、誰も助けてくれない真っ暗な世界。セイランが思い出したのはそんなことだろうと思ったから。それを思い出したからセイランは泣いているのだろうと、震えているのだろうと思ったから。しかし、ルピナスの想像に反して、セイランは一瞬不思議そうな顔をした後、穏やかに微笑んだ。
「う゛ぅ……くるじぃ……」
「わぁーっ! セイランくーん! 潰れてますー!」
ミハネの目に映ったのは、力強くルピナスを抱きしめるセイランの姿だった。あまりにも強く抱きしめているせいで華奢なルピナスの体がセイランの腕の中でより小さくなっている。慌てて声を上げてミハネは二人の元へ走りだす。
「セイラン? セイラン……、もう、大丈夫だよ」
ルピナスを抱きしめるセイランはわずかに震えていた。小さく鼻をすする音も聞こえる。ルピナスは小さく身を捩り、密かにセイランの胸元を覗く。そこにあの紋章はすでになかった。セイランはあの時、確かに自らの力で動いた。庇おうとしたルピナスを制したのは、間違いなくセイランの大きな手のひらだった。無事に傀儡術は解けていると察したルピナスはひとまず安堵する。
だが、一時的とはいえ傀儡術に落ちてしまうほどの精神状態。相当な精神的な負担が襲ったことだろう。それが強い絶望と恐怖であったことは、ミハネの話からルピナスは悟っていた。
恐らく、セイランは地下牢ですべての記憶を返された。しかし、セイランはそれを受け止めきれなかったのだろう。それで、心に大きな隙を作ってしまった。故に、傀儡術に身を委ねることで自分を守ろうとした。ストリキは傀儡術に記憶操作を重ねることで、セイランから再びすべての記憶を消していた。
「……あれ?」
だが、それならば今セイランは十年前と同じく、すべての記憶を忘れた状態なのではないのか。自らストリキを打ち破ったことにより傀儡術が解かれたのは分かる。だが、記憶操作はストリキの先天術だ。例え意識を失ったところで、そう容易くは解けないはず。
何も分からないはずなのに、何故セイランは泣いているのだろう。何故今、ルピナスにこんなにも隙を見せているのだろう。ルピナスの戸惑った声に、セイランが僅かに顔を上げる。
「ルピナス、ごめん、ごめんなさい。おれ、なんでもするよ? あんたが望むこと、なんでもするから。おねがい……おれのこと、見捨てないで……」
「……なんでそんなこと言うの?」
「だって、おれ、あんたをたくさん傷つけた。あんなに一緒にいてくれたのに、側にいてくれたのに、おれは何回も忘れて……なぁ、おれ、ルピナスのこと、何回忘れた?」
ルピナスを見上げたセイランの瞳は、涙を溜めてきらきらと光っていた。ガラスとは違う、しっかりと光を宿した無垢な美しい赤紫。そんな瞳で悲しい言葉を繰り返すから、ルピナスはそっと熱の籠ったセイランの頬に手を添え、親指で頬をなぞって涙を拭いながら赤子をあやすような優しい声音で語り掛ける。
やはり、どういうわけかセイランには消されているはずの記憶が返されていた。誰よりもショックを受けているのはセイラン自身であるはずなのに。
「おれ、もう、ルピナスしかいないんだ。あんたにまで嫌われたら、おれ……」
「馬鹿だなぁ、セイラン」
「え、」
「生憎だけど、ボクはお前が何回ボクのことを忘れたかなんて覚えてない。覚えてるのは、お前がボクのことを好きになってくれた回数だけ」
ルピナスはセイランの瞳にかかっていた前髪をかきあげ、額を空気に晒すと、その額に自分の額をくっつける。二人の熱が重なった皮膚から共有される。これだけ至近距離にいてもセイランが逃げない。これまでのルピナスにとっては、それだけでも十分だった。
こんなに親しくなっても、いずれは自分のことを忘れて他人にまた逆戻りしてしまう。どれだけたくさん愛しても、セイランがそれに応えてくれるようになった頃にはその愛を忘れてしまう。それが、どんなに苦しいことか。きっと理解できるものは、この世に二人といない。いなくていい。
「……確かにお前はボクのことを繰り返し忘れてしまったかもしれない。だけど、その記憶の中にあるでしょ? ボクはお前に忘れられたからって一度でもお前の側を離れたことがあった?」
「……ない」
「でしょう? ボクは諦め悪いんだ。むしろ、お前が嫌って言ってもボクはお前を手放す気はないよ」
そうしてルピナスはぎゅっとセイランを抱き締め返す。まだ体に残る痛々しい外傷に触れないように、優しく抱き締めた。
セイランの記憶がどこまで戻っているのか。ルピナスは判断しかねていた。自分のことはしっかり認識できているようだし、自分が繰り返し忘れたことを認知しているということは、十年分の記憶を取り戻した状態なのだろうか。ルピナスは様子を伺いつつ、セイランの背中を擦って落ち着ける。
「……あの、さ。セイラン、どこから思い出した……?」
「……さいしょから?」
聞き方が悪かった。セイランの思う「最初」がどこなのか分からない。それは十年前のあの日なのか、それとも初めて城でルピナスと出会った日のことなのか。セイランがすべての記憶をリセットされたのは先ほどのが三度目。二度目が十年前で、一度目がもっと以前の、天使の末裔の村から誘拐された日。
「ん……正直、よく分からないんだ。どれが最近の記憶で、どれが昔の記憶なのか。そういう前後感もだけど、自分の感情もよく分からない」
「セイラン……、大丈夫?」
「……? 大丈夫?」
セイランのこれまでの日々はきっと苦しみばかりだった。誰も手を差しのべてくれない、誰も助けてくれない真っ暗な世界。セイランが思い出したのはそんなことだろうと思ったから。それを思い出したからセイランは泣いているのだろうと、震えているのだろうと思ったから。しかし、ルピナスの想像に反して、セイランは一瞬不思議そうな顔をした後、穏やかに微笑んだ。
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