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第三章
第三十五話
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「……お前のことが好きだからだよ。世界中の誰よりも、悲しいくらいに優しくて、折れそうなくらいに細いのに真っすぐで、今にも壊れそうなくらい強かなお前のことが、好きだからだ。……セイラン、ボクの言葉から、逃げないで? ボクはお前を受け入れた。だからお前も、ボクを受け止めてよ。……お願い、お前が、お前だけが、ボクの光なんだ」
「……、……ルピ、ナス……?」
セイランの中で大量の感情が一気に生まれ混乱してしまいそうになるのを食い止めたのは、ルピナスの最後の言葉だった。それまで強く、否定する隙も与えない口調だったルピナスが、急にセイランに縋るように小さな声を出した。
どうしてそんなに辛そうな顔をする?
苦しそうな声を出す?
「おれ、は……、おれは、分からない。好き、とかそういうの考えたことなかったから。恋とか、愛とか、……分からない。でも、……うん、あんたのことは、嫌いじゃない、と思う」
「……そう」
何か返事をしなければと、必死で絞り出した答えはルピナスの表情を明らかに曇らせた。眉根が下がった、悲しそうな顔。そのルピナスの表情が、なぜか胸に詰まる。
「う……、あのさ……あんたが暗い顔してると、なんか息が苦しいのは、あんたの魔法のせいか?」
「……、」
「さっきもそうだった。あんたとミハネさんが楽しそうにしてるの見てたら、なんか、変な感じがして……」
「ほほーん? それでそれで?」
「な、なんなんだよあんた……」
ほんの数秒前までこの世の終わりかってほどに落ち込んでいたくせに、急に元気になった。意地の汚い、下品な笑い方はこれまでで最も愉快そうに見える。何か喜ばせるようなことを言ったのだとしても、あまりにも感情の起伏が激しすぎる。ほんの少し引いているセイランに対し、ルピナスは今度は「あははっ!」と子どものように笑った。
「そうだよ、ボクの魔法だ。でもセイランもボクにおんなじ魔法かけてるんだからどっこいどっこいだよ」
「おれも? おれ、使えないって言ってるんだけど……、っん!」
ルピナスはセイランに飛びつき、その体を強く抱きしめた。ルピナスの体温が伝わってくる。サラサラした白髪が肩に落ちてくる。セイランに比べて、少し華奢な体つき。触れる度に、これに毎度毎度押し潰されていることが信じられなくなる。
「苦しい?」
「……苦しい」
「セイラン、ボクの胸に手当ててみて」
言われるがままに、ルピナスの心臓にそっと手を重ねる。手のひらを通して、セイランに伝わってきたのはトクントクンと跳ねる鼓動のリズム。絶えず伝わるその鼓動は、運動もしていないのに早くなっている。
「分かる? セイランと、いっしょ」
「おれと……?」
同じようにルピナスの手のひらが、セイランの胸に触れる。言われて初めて、自分の鼓動を意識する。そうしてまるで全速力で走った後のように、胸がドキドキしていることをセイランは初めて自覚する。それは、今触れているルピナスと同じ。
「これが、好きってことだよ」
「……好き……? 怖いじゃなくて?」
「んー……気持ちはわかるけどね。セイランは今、早く離して欲しいって思ってる?」
「思ってない」
「もっとこうしてたい?」
「……うん」
「なら、怖いんじゃなくて好きなんだよ」
息が苦しくて、心臓が震える感覚は知っていた。ギルドで聞きたくない言葉を聞いてしまった時、魔法の実験台にされた時、誰かに抱かれている時。いつも、そうだった。怖くて、苦しくて、震えていた。
――あぁ、でも、
この腕は、そうじゃない。
「おれ、ルピナスのこと好きになってもいい?」
「えー? どうしよっかなぁ」
「えっ……」
「んふふ、冗談だよ。かわいいなぁセイランは」
意地悪な笑い声、いつものルピナスの声。でも、いつもよりも幸せそうな声。それが、セイランを安心させた。全て知った上で、こうやって変わらずにいてくれる人。こんな自分を受け入れてくれる、認めてくれる人はいるのだと、セイランはその日初めて知った。
「ねぇ、セイラン。キスしてもいい?」
「……あ、う、おれ?」
「いやこの状況でお前以外に誰にするの」
「だよな、……おれ、どうすればいい?」
「あぁ、そこから動かないで」
肩に乗っていたルピナスの頭が離れていく。軽くなると同時に温もりまで離れていって、ほんの少し寂しくなる。ルピナスの手が顎に添えられ、斜め上を向かされる。セイランを見下ろすルピナスの目は、ベッドの上で見た獣の目に変わっていた。獲物を狙う狩人の目。セイランの胸が、ゾクリと跳ねる。だが、やめて欲しくはなかった。これも、好きというものなのかなと、セイランはその目を改めて見つめ返す。
「……」
「…………?」
「あー、セイラン? 目、瞑ってもらって良い?」
「あ、そ、そっか!」
長らく見つめ続けていると、ルピナスが困った顔でセイランの瞼に触れた。セイランは言われるや否やギュッと目を瞑って身構える。ついでに身を強張らせたセイランの仕草にルピナスは笑いを堪えるために唇を噛む。セイランに気づかれないように、遠くを向いて笑って震えていた息を吐き出し、今度こそセイランに向き直る。
ルピナスは静かに顔を至近距離に近づけ、自分を重ねる前にセイランの赤い唇にフッと息を吹きかける。するとピクッと体を跳ねさせ、口がキュッと閉められる。初々しい反応をしたセイランの頬はいつの間にか唇と同じくらい赤くなっていた。それがあまりにも愛らしいから、もう少しだけいじめたくなる。だがここまで来て生殺しも可哀想だ。
ルピナスは今度こそ顔を少し横にして、セイランの熟れた赤に触れようとした。
「お二人ともー、もうすぐシャムロックですよー」
「はっ! うわぁっ!」
「ぶぇっ」
呑気な声と共に運転席と隔てていたカーテンが開けられて、驚いたセイランの目が開く。そして目の前に迫っていたルピナスの顔にもっと驚いたセイランは反射的にルピナスを突き飛ばしていた。不意打ちにルピナスは情けない声をあげて倒れこむ。「あっ」と声をあげたのはミハネだった。
「あー、私は御者様の元に戻りま」
「オーケーオーケー、そんなにここから突き落とされたかったんだ」
「ひぃぃッ! 申し訳ありません故意ではないんですぅぅっ!」
「故意だったらその首吹っ飛ばしてるんだけどぉ? 逃げるな!」
運転席へと尻尾を巻いて逃げていくミハネを、ルピナスが勢いよく追いかけていく。空いたカーテンの向こうから騒ぐ声が聞こえて、幌馬車が揺れる。さすがに、落っこちたりはしないだろう。きっと。セイランはミハネの検討を祈りつつ、ルピナスの吐息が触れた唇に触れる。
まだドキドキしている。こんなの初めてだ。
――……これが、好き、なんだ。
思い出すだけで胸がキュッとする。ルピナスの真剣な目。雄を宿した獣の目。もっと、触れていたかった。
「……光」
ルピナスは確かにそう言った。セイランにとっても、ルピナスは暗い闇に差した一筋の光だった。しかし、自分はルピナスにとってそんな存在に本当になれているのだろうか。違和感はそれだけではない。魔法が使えないことと、癒しの先天術が使えること、ギルドの男の慰み者にされていたこと。それをルピナスが知っていることは不思議ではない。だが、セイランはまだ読み書きが出来ないことをルピナスに伝えていないはずだった。
それに、先ほどからルピナスに感じていた、昔から彼を知っていたような不思議な感覚。
――もしかして、あんたは……。
セイランは自分の記憶の始まりへ遡る。
十年前の、あの日。幼いセイランはたった一人で夜の森を彷徨っていた。そこを養父、現ロベリアのギルドマスターに拾われた。その時セイランはただ一つ、自分の名前だけを憶えており、それ以外の全てを忘れてしまっていた。
記憶喪失の子ども。魔法も使えない、気味の悪い先天術を持つ、頭の悪い子ども。後遺症か物覚えが悪くて、新しいこともなかなか記憶できなかった。最初は迷子かと言っていた周囲の人間は、いつの間にかセイランを「捨て子」と呼ぶようになっていた。セイランもまた、自分は捨てられたものだと思い込んでいた。
ルピナスは、もしかすると十年前の自分、記憶を失う前の自分を知っているのではないか。自分にこの名前をつけてくれた人を、自分を捨てた人を知っているのではないか。
そんな複雑な期待が、セイランの胸を過った。
「……、……ルピ、ナス……?」
セイランの中で大量の感情が一気に生まれ混乱してしまいそうになるのを食い止めたのは、ルピナスの最後の言葉だった。それまで強く、否定する隙も与えない口調だったルピナスが、急にセイランに縋るように小さな声を出した。
どうしてそんなに辛そうな顔をする?
苦しそうな声を出す?
「おれ、は……、おれは、分からない。好き、とかそういうの考えたことなかったから。恋とか、愛とか、……分からない。でも、……うん、あんたのことは、嫌いじゃない、と思う」
「……そう」
何か返事をしなければと、必死で絞り出した答えはルピナスの表情を明らかに曇らせた。眉根が下がった、悲しそうな顔。そのルピナスの表情が、なぜか胸に詰まる。
「う……、あのさ……あんたが暗い顔してると、なんか息が苦しいのは、あんたの魔法のせいか?」
「……、」
「さっきもそうだった。あんたとミハネさんが楽しそうにしてるの見てたら、なんか、変な感じがして……」
「ほほーん? それでそれで?」
「な、なんなんだよあんた……」
ほんの数秒前までこの世の終わりかってほどに落ち込んでいたくせに、急に元気になった。意地の汚い、下品な笑い方はこれまでで最も愉快そうに見える。何か喜ばせるようなことを言ったのだとしても、あまりにも感情の起伏が激しすぎる。ほんの少し引いているセイランに対し、ルピナスは今度は「あははっ!」と子どものように笑った。
「そうだよ、ボクの魔法だ。でもセイランもボクにおんなじ魔法かけてるんだからどっこいどっこいだよ」
「おれも? おれ、使えないって言ってるんだけど……、っん!」
ルピナスはセイランに飛びつき、その体を強く抱きしめた。ルピナスの体温が伝わってくる。サラサラした白髪が肩に落ちてくる。セイランに比べて、少し華奢な体つき。触れる度に、これに毎度毎度押し潰されていることが信じられなくなる。
「苦しい?」
「……苦しい」
「セイラン、ボクの胸に手当ててみて」
言われるがままに、ルピナスの心臓にそっと手を重ねる。手のひらを通して、セイランに伝わってきたのはトクントクンと跳ねる鼓動のリズム。絶えず伝わるその鼓動は、運動もしていないのに早くなっている。
「分かる? セイランと、いっしょ」
「おれと……?」
同じようにルピナスの手のひらが、セイランの胸に触れる。言われて初めて、自分の鼓動を意識する。そうしてまるで全速力で走った後のように、胸がドキドキしていることをセイランは初めて自覚する。それは、今触れているルピナスと同じ。
「これが、好きってことだよ」
「……好き……? 怖いじゃなくて?」
「んー……気持ちはわかるけどね。セイランは今、早く離して欲しいって思ってる?」
「思ってない」
「もっとこうしてたい?」
「……うん」
「なら、怖いんじゃなくて好きなんだよ」
息が苦しくて、心臓が震える感覚は知っていた。ギルドで聞きたくない言葉を聞いてしまった時、魔法の実験台にされた時、誰かに抱かれている時。いつも、そうだった。怖くて、苦しくて、震えていた。
――あぁ、でも、
この腕は、そうじゃない。
「おれ、ルピナスのこと好きになってもいい?」
「えー? どうしよっかなぁ」
「えっ……」
「んふふ、冗談だよ。かわいいなぁセイランは」
意地悪な笑い声、いつものルピナスの声。でも、いつもよりも幸せそうな声。それが、セイランを安心させた。全て知った上で、こうやって変わらずにいてくれる人。こんな自分を受け入れてくれる、認めてくれる人はいるのだと、セイランはその日初めて知った。
「ねぇ、セイラン。キスしてもいい?」
「……あ、う、おれ?」
「いやこの状況でお前以外に誰にするの」
「だよな、……おれ、どうすればいい?」
「あぁ、そこから動かないで」
肩に乗っていたルピナスの頭が離れていく。軽くなると同時に温もりまで離れていって、ほんの少し寂しくなる。ルピナスの手が顎に添えられ、斜め上を向かされる。セイランを見下ろすルピナスの目は、ベッドの上で見た獣の目に変わっていた。獲物を狙う狩人の目。セイランの胸が、ゾクリと跳ねる。だが、やめて欲しくはなかった。これも、好きというものなのかなと、セイランはその目を改めて見つめ返す。
「……」
「…………?」
「あー、セイラン? 目、瞑ってもらって良い?」
「あ、そ、そっか!」
長らく見つめ続けていると、ルピナスが困った顔でセイランの瞼に触れた。セイランは言われるや否やギュッと目を瞑って身構える。ついでに身を強張らせたセイランの仕草にルピナスは笑いを堪えるために唇を噛む。セイランに気づかれないように、遠くを向いて笑って震えていた息を吐き出し、今度こそセイランに向き直る。
ルピナスは静かに顔を至近距離に近づけ、自分を重ねる前にセイランの赤い唇にフッと息を吹きかける。するとピクッと体を跳ねさせ、口がキュッと閉められる。初々しい反応をしたセイランの頬はいつの間にか唇と同じくらい赤くなっていた。それがあまりにも愛らしいから、もう少しだけいじめたくなる。だがここまで来て生殺しも可哀想だ。
ルピナスは今度こそ顔を少し横にして、セイランの熟れた赤に触れようとした。
「お二人ともー、もうすぐシャムロックですよー」
「はっ! うわぁっ!」
「ぶぇっ」
呑気な声と共に運転席と隔てていたカーテンが開けられて、驚いたセイランの目が開く。そして目の前に迫っていたルピナスの顔にもっと驚いたセイランは反射的にルピナスを突き飛ばしていた。不意打ちにルピナスは情けない声をあげて倒れこむ。「あっ」と声をあげたのはミハネだった。
「あー、私は御者様の元に戻りま」
「オーケーオーケー、そんなにここから突き落とされたかったんだ」
「ひぃぃッ! 申し訳ありません故意ではないんですぅぅっ!」
「故意だったらその首吹っ飛ばしてるんだけどぉ? 逃げるな!」
運転席へと尻尾を巻いて逃げていくミハネを、ルピナスが勢いよく追いかけていく。空いたカーテンの向こうから騒ぐ声が聞こえて、幌馬車が揺れる。さすがに、落っこちたりはしないだろう。きっと。セイランはミハネの検討を祈りつつ、ルピナスの吐息が触れた唇に触れる。
まだドキドキしている。こんなの初めてだ。
――……これが、好き、なんだ。
思い出すだけで胸がキュッとする。ルピナスの真剣な目。雄を宿した獣の目。もっと、触れていたかった。
「……光」
ルピナスは確かにそう言った。セイランにとっても、ルピナスは暗い闇に差した一筋の光だった。しかし、自分はルピナスにとってそんな存在に本当になれているのだろうか。違和感はそれだけではない。魔法が使えないことと、癒しの先天術が使えること、ギルドの男の慰み者にされていたこと。それをルピナスが知っていることは不思議ではない。だが、セイランはまだ読み書きが出来ないことをルピナスに伝えていないはずだった。
それに、先ほどからルピナスに感じていた、昔から彼を知っていたような不思議な感覚。
――もしかして、あんたは……。
セイランは自分の記憶の始まりへ遡る。
十年前の、あの日。幼いセイランはたった一人で夜の森を彷徨っていた。そこを養父、現ロベリアのギルドマスターに拾われた。その時セイランはただ一つ、自分の名前だけを憶えており、それ以外の全てを忘れてしまっていた。
記憶喪失の子ども。魔法も使えない、気味の悪い先天術を持つ、頭の悪い子ども。後遺症か物覚えが悪くて、新しいこともなかなか記憶できなかった。最初は迷子かと言っていた周囲の人間は、いつの間にかセイランを「捨て子」と呼ぶようになっていた。セイランもまた、自分は捨てられたものだと思い込んでいた。
ルピナスは、もしかすると十年前の自分、記憶を失う前の自分を知っているのではないか。自分にこの名前をつけてくれた人を、自分を捨てた人を知っているのではないか。
そんな複雑な期待が、セイランの胸を過った。
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