ある魔法使いのヒメゴト

月宮くるは

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第三章

第二十九話

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 肉体的なものか、精神的なものか、もしくはそのどちらともか。疲労は蓄積されているというのに、セイランの眠りは浅く、部屋の戸が開く小さな物音に反応しベッドの中で薄らと目を開ける。部屋に入ってきた人物は、足音を殺し、息を殺し、こちらに近づいてきている。音を立てないように細心の注意を払っているようだが、気配を殺せていない時点で完全に素人だ。

 これまでの日々の中で安心して深く眠ることを忘れてしまったセイランを起こすには十分すぎるほどの音と気配。そんな何者かの気配を感じながら、セイランは狸寝入りを続ける。

 最初はルピナスが様子を見に来たのだろうと思っていた。今回はこれまで以上に心配していたし、何より少し様子がおかしかったから。

 だが、足音や息遣いに耳を澄ましてみると、それがルピナスではないと気づいた。微かに床が軋む音、それから分かる歩幅と体重。明らかにルピナスのものではない。それなら他に見当がつくのはミハネくらいのものだが。

 足音は真っ直ぐこちらに近づいてくる。もうあと数歩でベッドに辿り着く。侵入者の呼吸の音がはっきりと聞こえる。

 それを聞き取った直後、セイランははっと息を飲み、咄嗟に体を翻し、ベッドの縁から自ら落ちた。セイランがベッドから落ちるのとほぼ同時に、ドスッという籠もった音がセイランが今まで眠っていた場所から聞こえた。

「くそっ……! 起きていたのか……!」

「な、どういうことだよ、なんで、おれを……!」

 ベッドの上には、短刀が突き立てられていた。直角に突き刺さったそれは、間違いなく命を狙った一刀。素人の腕力、死にはしなかったかもしれないが、それでも当たりどころが悪かったら、もし避けていなかったらと思うと、ゾッとする。

 悔しげな顔をしながら短刀を引き抜こうとしている男は、確かこの宿の店主の男。顔見知り程度ではあるが、命を狙われるような恨みを買った覚えはない。近づく時の不十分な音と気配の殺し方。近づいた時に聞こえた昂った息遣い。これから不意打ちをすることへの緊張と、隠しきれない殺気。間違いなく、殺しの素人。そんな相手がなぜ急に自分を襲う真似をしたのか、セイランには理解できなかった。

 ベッドから落ちながら受け身をとり、すぐさま身を起こしたセイランは、店主の男を見上げる。男の視線からは自分への恨みは感じない。それなのに強い殺気を向けている。

「なぜ? そんなこと自分が一番わかっているだろう!」

「そんなこと言われても……、おれ、何も……っ、!」

 わかっているも何も、セイランはこの宿には今日ルピナスとミハネに運び込まれたはずだ。宿に迷惑をかけるようなこと、まして命を狙われるようなことをした覚えはない。もしくは昔のことでも言っているのかとセイランは必死で以前利用したときのことを思いだそうとするが、店主の方は問答無用で無惨なベッドを挟んだまま魔法を使い、セイランを水球の中に閉じ込めた。

「っ、ぐ、ぅ、がはっ……」

「なんだ……? こいつ、本当に……?」

 普通ならば、これくらいの水球ならば風の魔法で引き裂くことが出来る。魔法使いでなくとも、日常生活で使う程度の風で呼吸くらいすぐに可能になる。だが、魔法が使えないセイランには、当然そんなことは出来ない。水の中から脱出するために必死でもがくが、先ほどエンジェルリーパーで受けた魔法の名残か、すぐに息がつかえて、呼吸が出来なくなる。

 苦しい。

 いやだ。

 たすけて、

「……る、ぴ……、な、す……」

「……そう、それでいいんだ」

 無意識だった。

 その名前が、最初に浮かんできて、届くはずもないのに、セイランの口は勝手に彼を呼んでいた。

 直後、水で歪んでいた視界が、瞬く間にクリアになる。水間で揺れていた体が解放され、セイランは床に倒れ込んだ。やっと吸い込めた酸素に噎せていると駆け寄ってきたミハネがセイランを助け起こし、背中を叩いて水を吐き出すのを手助けする。

「くそっ、もう嗅ぎ付けたか……」

「さて、どういうつもりでボクのセイランにこんな真似してくれたわけ?」

 多勢に無勢、人数差に店主たじろむ。だからといって逃がすつもりはない様子のルピナスが店主の視線を引き付ける。店主の憎々しげな視線は、ルピナスにも向けられていた。そして店主は、ふと懐から一枚の紙を取り出し、ルピナスに突きつけた。

「とぼけるな! 揃いも揃って、気付かれていないと思ったのか? これは今日の昼に回ってきた手配書だ! 大方これのせいで町にいられなくなって逃げてきたんだろ!」

「……手配?」

「…………」

 店主が突き出した紙、それは一人の人物の姿見が載せられた手配書だった。キョトンとするセイランを尻目に、ルピナスとミハネの表情が曇る。セイランはそんな二人に気付かず、何かの間違いだろうと手配書に向けて目を凝らす。

「……お、れ?」

「あぁそうだよ。ギルド、ロベリアの構成員の一人、セイラン。お前を生け捕りにして国に突きだせば、報酬金が出る。それも百万マニー。お前が何をしたか知らないが、どんな金持ちでもお前を見逃すことはないだろうよ」

 手配書に赤字で記された名前、それは間違いなく自分の名前だった。水からは解放されたはずなのに呼吸が苦しい。息が詰まる。信じられなかった。信じたくなかった。

 赤紫の瞳が、動揺で震える。手配書には国印が記されていて、それが政府からの正式な指名手配であることを示していた。

 生け捕り? 報酬金、百万?

 思考が全く追い付かない。国がそこまでして捕まえたい手配人が、自分?

「……うそだ」

 ようやく吐き出せたのは、そんな消え入りそうな声で。震えだすセイランの体を、ミハネがそっと支える。困惑するセイランとは対照的に、ルピナスとミハネは表情こそ眉間に皺が寄っているが、変わらず冷静だった。

「だから?」

「は? うぉっ!」

 ルピナスがパチンと指を弾いた瞬間、店主が持っていた手配書に火が着き一気に燃え広がる。慌てて店主が手を離した手配書は、そのまま空中で灰になった。それは容易に見えて難しい魔法の使い方だった。自分の手の中にあるものではなく、距離のある位置にいる他人が持っているもの、それだけを燃やす炎。難しい火力の調整を遠隔で行う。それをやってのけたのは、ルピナスだった。

「セイランを捕まえるつもり? へぇ、面白いね。出来るものならやってみなよ。生憎だけど、ボクはもう、二度と誰にもセイランを傷つけさせる気はない」

 ルピナスの強い瞳が、店主を射抜く。その力強さは、まだ対等な位置にあるはずの男をたじろがせた。束の間、お互いに出方を伺うような一瞬の静寂が生まれる。

 その静寂を破ったのは、ルピナスの背後の扉を突き破る、轟音だった。

「な、……ちっ」

「き、来た!」

 ルピナスは咄嗟にその場から飛び退き、扉を破った風を纏った轟火球を躱す。明らかに素人が使えない威力の魔法。ルピナスは舌打ちをしながらセイランとミハネの元に駆け寄る。

「あれです! あいつが手配にあった男です!」

「承知しております、ここは我ら『リンドウ』にお任せを」

 店主はドタドタと扉を破った男たちの方へと走っていった。轟音に反応してようやく顔をあげたセイランの目に、こちらに、自分に向けて強い敵意を向ける五人の魔法使いの姿が映る。その全員が、明らかに素人ではない雰囲気を纏っていた。

「……違う、違う! こんなの、何かの間違い……!」

「潔白なら大人しく投降しろ。本当に間違いなら、そこで弁明するといい」

 リンドウ、というのはここから最も近くにあるギルドの名前だった。正義を理想とするそのギルドは、悪には加担しないことで有名だった。そのリンドウが動いている、ということは、あの手配書は本物だということ。現在セイランは、国から公開指名手配を受けていることを示していた。

 手配を現実のものと理解し始めたセイランの表情が、みるみるうちに絶望に染まっていく。耳を塞ぐように身を丸めるセイランに、ルピナスが寄り添う。震えさえしなくなったセイランを包み込むように抱きしめたルピナスは、そっとセイランに囁く。

「大丈夫、大丈夫だよ。ボクがお前を信じてるから、ボクはそばにいるから」

「…………」

 青ざめてたセイランがゆらりと視線をあげ、ルピナスを見上げる。

「その男から離れなさい!」

 何か会話をしていることを察知したリンドウの魔法使いの一人が、二人を引き剥がすためセイランに向け強風をぶつけようとする。が、その風は厚い火の壁によって阻まれる。魔法使いたちとの間を阻むように室内を二分した炎の向こうで、魔法使いたちが声を荒らげるのが遠く聞こえていた。

「ボクがお前を守るから、ボクと、逃げよう?」

 炎を背にしたルピナスの桃色の瞳が、やけに明るく見えた。真っ直ぐにこちらを射抜く、強い炎を宿した瞳。セイランは黙ってその瞳を見つめ返す。不思議な気分だった。

 ーー知ってる。

 ーーおれは、この瞳を、知ってる。

 まるで、ずっと前からそばにいたような、そんな居心地の良さ。それは、セイランの深い不安を、絶望を、かき消していく。

 セイランはゆっくりとルピナスに手を伸ばす。それがルピナスの頬に触れる。……まで、あとコンマ数秒だった。

 何かが爆発するような、言うなればドカーンと形容されるような、そんな爆音にびくりと肩を跳ねさせたセイランの手は止まってしまう。

「あ、申し訳ありま……」

「は? ミハネ? は? なんであと数秒待てない? え? お前そういうとこだよってボク何回言った?」

「ヒィィッ! だだだだだだってもう来ますよ! あー抜かないでください! 髪は有限なんですよ!」

 それは、ミハネが壁を突き破るために放った魔法が立てた音だった。いつの間にかセイランの服や武器、荷物の類を持っているミハネは壁に大穴を開けていた。が、セイランの動きを止めてしまったことが気に食わないルピナスは立ち上がり容赦なくミハネの跳ねっ毛を掴みぐいぐいと引っ張る。

 あまりの温度差に置いてけぼりにされたセイランはポカンと二人を見上げる。そうしていると、セイランは座っていた床が大きく揺れるのを感じた。炎の壁を突破することを諦めた魔法使いたちが、回り込んで来ている。

「もーミハネがアホなことしてるから来てるじゃん!」

「えぇ……その豪胆さ本当に羨ましいですよ……」

 ルピナスはさっさとミハネから手を離して、セイランを振り返る。未だにへたり込んだままのセイランの正面に立ったルピナスは、セイランに向けて手を差し伸べた。

「行こう、セイラン」

「え、あ……、おぁっ!」

 差し伸べられた手に、セイランはほんの一瞬戸惑ったような顔をする。その躊躇を押し切り、恐る恐る手を伸ばしていくと、ルピナスはその手を取って強引に引っ張った。そしてセイランを立ち上がらせ、ミハネの開けた風穴に向かって駆けだす。

 正直、まだ微かに不安はある。覚えのない指名手配。それも国からの、大金をかけた生け捕り命令。もしかすると、これから世界中の人間から追い回されるのかもしれない。ここから逃げてどうなるのか、先は真っ暗で何も見えない。

 三人は二階から飛び降り、風の魔法で緩やかに着地し衝撃と音を殺す。そのまま身を隠すため、宿の側の森の中へと走り込む。ルピナスは、セイランの手をしっかりと掴んでいた。絶対に離さないという強い意志がそこにある。

 この手があるなら、大丈夫。

 セイランの瞳は、暗闇の中で輝く白い光を見つめていた。
 
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