ある魔法使いのヒメゴト

月宮くるは

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第二章

第十八話

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 ルピナスを視界に納める直前、急に周囲の音が遠くなり、セイランは驚いて顔を上げる。比喩ではなく、まるで一気に音量を下げたかのように周りの音が遠くなり全ての音がセイランの耳に届かなくなっていく。すぐそばを歩いている人々の雑踏や話し声。それらが聞こえなくなって、音のない幻覚を見ているかのような錯覚に陥る。

 話し声も。

 足音も。

 物音も。

 あの、人を馬鹿にした嘲笑交じりの声も、聞こえない。

「あ、え……?」

「セイラン」

 自分の耳がおかしくなったのかという焦燥感に駆られるセイランの耳に、ただ唯一の音が届く。それはすぐそばにいたルピナスの声だった。ルピナスの凛とした声だけが、セイランの無音の空間の中に彩りを与える。不思議な感覚の中で、そのルピナスの声がセイランにとって無性に心地が良かった。

「……どうかした?」

「え、いや、なんでもない」

 戸惑った様子のセイランに対し、ルピナスは不思議そうに首を傾げた。ルピナスの声だけが聞こえていることもあり、てっきりルピナスがまた自分の知らない術を使ったものだとセイランは思い込んでいたが、どうやらそうではないらしい。ということは、別の誰かが近くで使った術の影響を受けているのだろう。普通は狙っていない相手にまで影響が及ぶなんてそんなことほとんどないが、セイランにとってはそれが日常茶飯事だった。

 少しすれば勝手に解けるだろうと、なんでもないフリをしてルピナスの方に向き直る。幸いルピナスの声は聞こえているし、聞きたくない声が聞こえなくなったのはセイランにとってはむしろ好都合だった。

「……ねぇ、セイラン。ボクは、お前の言葉が聞きたい。誰かに惑わされないで、お前が、お前自身の本心に従って選んだ答えを聞かせて?」

「……? おれの言葉?」

 ルピナスの透き通った言葉が、セイランの身に染みていく。しかし、ルピナスの何かを知っているような口ぶりが、どこか引っかかった。昨日初めて出会ったばかりのはずなのに、この男は自分の何を知っているのだろう。そんな疑問は今さらではあったが、そう思わずにはいられなかった。

 セイランは静かに目を閉じて、変わらない無音の中でもう一度ルピナスの言葉を繰り返す。この男が何者なのかは、どうせ自分がいくら考えたって答えは出ない。でも、彼の声が、その存在が、心地良いのは真実だ。

 セイランが目を開いた先では、ルピナスの桃色の瞳が静かに彼を見つめていた。穢れのない透き通った桃色。その真っ直ぐすぎる視線に耐えられず、セイランはそっと目を逸らしてしまう。

「……あんた、もしかして優しくしたらおれが許してくれるって思ってたりしないよな?」

「えー? なんで?」

「そんな周りくどい言い方しないで、昨日みたいに意地の悪い言い方していいんだぞ。『お前のせいで立ち往生させる気?』とか、さ」

 セイランはルピナスが視線を外したまま、微かに卑屈な笑みを浮かべた。昨日までのルピナスの口ぶりからすると、恐らく近しいことを考えているであろうというのがセイランの考えだった。実際、自分のせいでこうなっているのだから。対してルピナスはいつもの感情の読めない笑みを張り付けて、セイランの視線を追うように体を傾かせた。

「思ってる、って言ったら?」

「……いいよ、そういうの。おれなんかに気を使ったりしないで。怒ってない、から」

「じゃあ許してくれたの?」

「怒ってないと許したは違うぞ?」

「だよねー……」

 ルピナスはわざとらしく肩を落として嘆息してみせる。しかしすぐにそんな落胆の表情は消え、今度はまた意地悪そうに笑う。その表情がこれから悪いことを言う合図だというのを、セイランのこの二日で学んでしまっていた。

「なら、『お前のせいで立ち往生させる気?』」

「……」

「周りくどい言い方なのはセイランもでしょ? お前は、僕ならこう言うだろう、と思ってたんじゃなくて、僕にこう言って欲しかったんでしょ?」

「それは……、」

 セイランに言い返すことは出来なかった。ルピナスの言葉は、全て図星だったから。次に出すべき言葉が思い付かず、セイランは口をつぐんでしまう。そのままマフラーで口元を覆い、ルピナスの視線から逃れようと俯こうとした。しかし、ルピナスの手がそれを許さない。視線を伏せようとした瞬間に、ルピナスは両手をセイランの頬に添え強引に顔を上げさせる。

「逃げないでよ。ほら、ボクはお前の望んだ言葉をあげたよ? どうするの? 連れてってくれないの?」

 ルピナスの桃色の瞳を前に、セイランは黙って思案を続ける。それが本心なのかは分からないが、確かにルピナスはセイランが欲しかった半ば強制するような言葉を口にしてくれていた。

 リリィエに留まりたいのは、セイランだけの事情であることは間違いない。セイランの魔法耐性が低いという体質さえなければ、そもそもルピナスと共にいる必要はなかった。もしそうでなかったとしても、ルピナスはセイランに付きまとっていたかもしれないが、少なくとも移動の制限はなかっただろう。といっても、セイランがシャムロックに行くことを渋る理由は、他にあった。

「……条件が、ある」

「どうぞ?」

「ルートはおれに選ばせてもらえないか?」

「それはご自由に? ボクらよりもセイランの方がこの辺りについては詳しいだろうしね、それだけ?」

「う? あぁ……、」

 セイランが神妙な面持ちで切り出しにもかかわらず、ルピナスに軽い調子で返され拍子抜けしてしまう。てっきり「最短ルートで!」などといった無茶くらい言ってくるかと思っていたが、そこはちゃんとセイランの方を尊重するらしい。

 それでもまだ首を縦に振らないセイランが焦れったいのか、ルピナスは両頬に添えていた手を頭の横に伸ばし、ぐいとセイランの頭を自分の方に引き寄せた。そうして強引にセイランを前屈みにさせると、額と額を合わせ、至近距離で瞳を深く覗き込む。

「セイランは強いよ」

「へ……?」

「だから、大丈夫。ね?」

 ルピナスの桃色から、目が逸らせなくなる。変わらない無音の中で、その言葉は頭を、心を揺らしていく。

 何故だろうか。

 ついさっきまで、あんなに不安で仕方なかったというのに。その不安が、消えていく。ルピナスの大丈夫という言葉が何度も反芻される。

「……わかった」

 無意識のうちに、その言葉は出ていた。深く考え込む間もなく、ルピナスによって引き摺り出されたような。この感覚は初めてではない。

「あれ? な、なんで……っうわ!」

「やったー! ミハネ聞いた?」

「はい! 聞きました! よくぞ言ってくれました!」

 セイランが疑問を口にする間もなく、急に聴覚が戻る。それまでルピナスの声しか聞こえなかったのが嘘のように、周りの雑踏・雑談すべての音が鼓膜を確かに揺らしている。

 そのことに困惑するセイランを尻目に、ルピナスは側にいたミハネとニコニコと笑いあっていた。そんな二人に対し、セイランは何か言いかけた口を閉ざす。どう見ても、今さら「まだ考えたい」なんて言える状況ではない。

「そうと決まれば! 出していた依頼を下げてセイランさんを指名しなければなりませんね。一度カウンターに……」

「あ、あぁ! いえ、おれが行ってきます!」

 ギルドの内部にある依頼受付のカウンターへと向かおうとしたミハネを静止して、セイランは代わりにギルド内へと向かう。ギルドで働く者にとって依頼人は大切な顧客である。ただし、このギルドにいる多くの構成員のうち、そんなことを考えて動くのはセイランくらいだった。
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