ある魔法使いのヒメゴト

月宮くるは

文字の大きさ
上 下
1 / 62
序章

第一話

しおりを挟む
 ただ、ただ走っていた。

 泥濘を踏んで靴が汚れるのも、木々の根に足を取られ何度も躓くのも、苦しい呼吸も無視をして。

 ただ走っていた。

 そうして、青年はふと立ち止まる。

 自らの足跡を振り返り、口元を覆っていたマフラーを下げ大きく息を吐きだし、あがった呼吸を落ち着けた青年は、困惑した様子で周囲を見渡した。

 それから、青年はそっと手のひらをこめかみを覆うバンダナに押し付ける。

「おれ、なんで走ってたんだ……?」

 青年はぽつりとつぶやく。あんなに必死だったのに、どれだけ考えても自分が何故息せき切って走っていたのか全く思い出せなかった。何かを追っていたのか、もしくは何かに追われていたのか、どちらも心当たりがない。そもそも自分はどうしてここにいるのだったか。

 そこまで考えて、青年は一人嘆息する。

 ――またいつものか……。

 青年は目を閉じて、自らを落ち着けようと深呼吸をする。大丈夫だ、落ち着け、と繰り返し直近の記憶を漁る。自分の名前は分かる。ここがどこなのかも分かっている。そう、そうだ。確か、自分は何かの仕事の途中で、この森を抜けた先にあるシーズという町に向かっていたはずだ。何故走っていたのかは相変わらず記憶に靄がかかっているかのようで全く思い出せないが、それはいつものことだ。

 青年は気を取り直してシーズの町に向かって一歩を踏み出す。今度は確かな歩みの一歩だった。新緑が包んだ人気のない静かな森の中。遠くで鳥の囀ずる声と、青年が枯葉を踏みしめる音が周囲に響く。しかし、それはたった一歩だけの束の間の静寂。直後、森の中に魔物が唸る声が響き渡った。その声は警戒と威嚇を孕んだ、確かな敵意。咄嗟に青年の脳裏には誰か人間が魔物に襲われているのでは、という発想がよぎる。踏み出した二歩目は、すぐに地を蹴る。青年は声のする方に向かって走り出していた。

 青年は鮮やかな赤毛を上下に揺らし、地上にまで飛び出している木の根を跳ねて避け、伸びた枝は頭を低めて躱していく。数メートル先に太陽の光が差す開けた空間を見つけ、より足音を殺し、息を殺す。凝らした目に映ったのは、狼に似た四つ足の獣。それが四匹、と、それに囲まれている白髪の青年の姿だった。

「ひぇええっ! ボク食べてもおいしくないよぉ! 絶対そこに生えてるキノコとかの方がおいしく頂けるよ!」

 木を背にしており、すでに逃げ道を絶たれている白髪の青年の何とも言えない悲鳴と命乞いが聞こえる。鋭く息を吸い、背中の大剣に手をかける。最も外側にいる魔物まであと五十メートル。まだ向こうは気づいていない。体勢を低くして、深く踏み込み一気に加速する。木々の陰から飛び出す瞬間、一気に大剣を引き抜き、直前に気づいた魔物が振り返る前に大剣を振り下ろす。目の前にいた魔物は地面に叩きつけられそのまま消滅していった。

「あんた何やってんだ! 毒キノコなんて触ったら危ないだろ!」

「へぇ、これ毒あるんだ!」

「危ないって! 爛れても知らないぞ!」

 変わらず呑気なことを口走る白髪の青年は、「はーい」と気の抜けた返事をして赤い斑点模様のきのこに向かって伸ばしていた手を引っ込めた。言いたいことは山ほどあるが、今は大人しくしていてくれるだけで十分だ。

 赤毛の青年は仲間を殺めたことで標的を変えた残り三匹の魔物を見据え、相手の出方を窺う。直後、一匹が低い咆哮と共に口をあけうなじを狙って高く飛び掛かる。その地を蹴る音を聞き分け、咄嗟に体を後ろに倒してそれを躱し、体を支えるために引いた右足を軸に体を回転させ、飛び掛かった魔物が地面に着地する前にその顔面に向けて大剣を斜めに振り上げる。衝撃で反対側へ吹き飛ぶ魔物の身体からすぐに視線を切り、振り上げた大剣を今度は顔の前に翳し、すでに飛び込んできていた別の魔物の歯を受け止める。

 すると魔物は大剣を足場に後ろに飛び退いた。息をつく間もなく、今度はその場で両足を踏み切り飛び上がり、残りのもう一匹が足に食らいつこうとしていたのを避ける。そこで短く息を吸い、大剣を真下に向けて、両手で柄を握る。重力と体重を乗せ真下に突き刺し、閉じていた瞳をゆっくりと開くころには魔物は消滅していた。

 これで三匹。残りは先ほど飛び退いたもう一匹のみ。

「……あれ?」

「あ、最後の一匹は逃げたよ」

 そのもう一匹がいるはずの場所に顔をあげるが、そこにいたのはいつの間にか立ち上がっていた白髪の青年だった。相変わらずついさっきまで生命の危機に瀕していたような緊張感は一切ない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。 1日2話ずつ投稿します。

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

彼は罰ゲームでおれと付き合った

和泉奏
BL
「全部嘘だったなんて、知りたくなかった」

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

キスより甘いスパイス

凪玖海くみ
BL
料理教室を営む28歳の独身男性・天宮遥は、穏やかで平凡な日々を過ごしていた。 ある日、大学生の篠原奏多が新しい生徒として教室にやってくる。 彼は遥の高校時代の同級生の弟で、ある程度面識はあるとはいえ、前触れもなく早々に――。 「先生、俺と結婚してください!」 と大胆な告白をする。 奏多の真っ直ぐで無邪気なアプローチに次第に遥は心を揺さぶられて……?

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版) 読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭 1/27 1000❤️ありがとうございます😭

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

幸せの温度

本郷アキ
BL
※ラブ度高めです。直接的な表現もありますので、苦手な方はご注意ください。 まだ産まれたばかりの葉月を置いて、両親は天国の門を叩いた。 俺がしっかりしなきゃ──そう思っていた兄、睦月《むつき》17歳の前に表れたのは、両親の親友だという浅黄陽《あさぎよう》33歳。 陽は本当の家族のように接してくれるけれど、血の繋がりのない偽物の家族は終わりにしなければならない、だってずっと家族じゃいられないでしょ? そんなのただの言い訳。 俺にあんまり触らないで。 俺の気持ちに気付かないで。 ……陽の手で触れられるとおかしくなってしまうから。 俺のこと好きでもないのに、どうしてあんなことをしたの? 少しずつ育っていった恋心は、告白前に失恋決定。 家事に育児に翻弄されながら、少しずつ家族の形が出来上がっていく。 そんな中、睦月をストーキングする男が現れて──!?

処理中です...