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序章
第一話
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ただ、ただ走っていた。
泥濘を踏んで靴が汚れるのも、木々の根に足を取られ何度も躓くのも、苦しい呼吸も無視をして。
ただ走っていた。
そうして、青年はふと立ち止まる。
自らの足跡を振り返り、口元を覆っていたマフラーを下げ大きく息を吐きだし、あがった呼吸を落ち着けた青年は、困惑した様子で周囲を見渡した。
それから、青年はそっと手のひらをこめかみを覆うバンダナに押し付ける。
「おれ、なんで走ってたんだ……?」
青年はぽつりとつぶやく。あんなに必死だったのに、どれだけ考えても自分が何故息せき切って走っていたのか全く思い出せなかった。何かを追っていたのか、もしくは何かに追われていたのか、どちらも心当たりがない。そもそも自分はどうしてここにいるのだったか。
そこまで考えて、青年は一人嘆息する。
――またいつものか……。
青年は目を閉じて、自らを落ち着けようと深呼吸をする。大丈夫だ、落ち着け、と繰り返し直近の記憶を漁る。自分の名前は分かる。ここがどこなのかも分かっている。そう、そうだ。確か、自分は何かの仕事の途中で、この森を抜けた先にあるシーズという町に向かっていたはずだ。何故走っていたのかは相変わらず記憶に靄がかかっているかのようで全く思い出せないが、それはいつものことだ。
青年は気を取り直してシーズの町に向かって一歩を踏み出す。今度は確かな歩みの一歩だった。新緑が包んだ人気のない静かな森の中。遠くで鳥の囀ずる声と、青年が枯葉を踏みしめる音が周囲に響く。しかし、それはたった一歩だけの束の間の静寂。直後、森の中に魔物が唸る声が響き渡った。その声は警戒と威嚇を孕んだ、確かな敵意。咄嗟に青年の脳裏には誰か人間が魔物に襲われているのでは、という発想がよぎる。踏み出した二歩目は、すぐに地を蹴る。青年は声のする方に向かって走り出していた。
青年は鮮やかな赤毛を上下に揺らし、地上にまで飛び出している木の根を跳ねて避け、伸びた枝は頭を低めて躱していく。数メートル先に太陽の光が差す開けた空間を見つけ、より足音を殺し、息を殺す。凝らした目に映ったのは、狼に似た四つ足の獣。それが四匹、と、それに囲まれている白髪の青年の姿だった。
「ひぇええっ! ボク食べてもおいしくないよぉ! 絶対そこに生えてるキノコとかの方がおいしく頂けるよ!」
木を背にしており、すでに逃げ道を絶たれている白髪の青年の何とも言えない悲鳴と命乞いが聞こえる。鋭く息を吸い、背中の大剣に手をかける。最も外側にいる魔物まであと五十メートル。まだ向こうは気づいていない。体勢を低くして、深く踏み込み一気に加速する。木々の陰から飛び出す瞬間、一気に大剣を引き抜き、直前に気づいた魔物が振り返る前に大剣を振り下ろす。目の前にいた魔物は地面に叩きつけられそのまま消滅していった。
「あんた何やってんだ! 毒キノコなんて触ったら危ないだろ!」
「へぇ、これ毒あるんだ!」
「危ないって! 爛れても知らないぞ!」
変わらず呑気なことを口走る白髪の青年は、「はーい」と気の抜けた返事をして赤い斑点模様のきのこに向かって伸ばしていた手を引っ込めた。言いたいことは山ほどあるが、今は大人しくしていてくれるだけで十分だ。
赤毛の青年は仲間を殺めたことで標的を変えた残り三匹の魔物を見据え、相手の出方を窺う。直後、一匹が低い咆哮と共に口をあけうなじを狙って高く飛び掛かる。その地を蹴る音を聞き分け、咄嗟に体を後ろに倒してそれを躱し、体を支えるために引いた右足を軸に体を回転させ、飛び掛かった魔物が地面に着地する前にその顔面に向けて大剣を斜めに振り上げる。衝撃で反対側へ吹き飛ぶ魔物の身体からすぐに視線を切り、振り上げた大剣を今度は顔の前に翳し、すでに飛び込んできていた別の魔物の歯を受け止める。
すると魔物は大剣を足場に後ろに飛び退いた。息をつく間もなく、今度はその場で両足を踏み切り飛び上がり、残りのもう一匹が足に食らいつこうとしていたのを避ける。そこで短く息を吸い、大剣を真下に向けて、両手で柄を握る。重力と体重を乗せ真下に突き刺し、閉じていた瞳をゆっくりと開くころには魔物は消滅していた。
これで三匹。残りは先ほど飛び退いたもう一匹のみ。
「……あれ?」
「あ、最後の一匹は逃げたよ」
そのもう一匹がいるはずの場所に顔をあげるが、そこにいたのはいつの間にか立ち上がっていた白髪の青年だった。相変わらずついさっきまで生命の危機に瀕していたような緊張感は一切ない。
泥濘を踏んで靴が汚れるのも、木々の根に足を取られ何度も躓くのも、苦しい呼吸も無視をして。
ただ走っていた。
そうして、青年はふと立ち止まる。
自らの足跡を振り返り、口元を覆っていたマフラーを下げ大きく息を吐きだし、あがった呼吸を落ち着けた青年は、困惑した様子で周囲を見渡した。
それから、青年はそっと手のひらをこめかみを覆うバンダナに押し付ける。
「おれ、なんで走ってたんだ……?」
青年はぽつりとつぶやく。あんなに必死だったのに、どれだけ考えても自分が何故息せき切って走っていたのか全く思い出せなかった。何かを追っていたのか、もしくは何かに追われていたのか、どちらも心当たりがない。そもそも自分はどうしてここにいるのだったか。
そこまで考えて、青年は一人嘆息する。
――またいつものか……。
青年は目を閉じて、自らを落ち着けようと深呼吸をする。大丈夫だ、落ち着け、と繰り返し直近の記憶を漁る。自分の名前は分かる。ここがどこなのかも分かっている。そう、そうだ。確か、自分は何かの仕事の途中で、この森を抜けた先にあるシーズという町に向かっていたはずだ。何故走っていたのかは相変わらず記憶に靄がかかっているかのようで全く思い出せないが、それはいつものことだ。
青年は気を取り直してシーズの町に向かって一歩を踏み出す。今度は確かな歩みの一歩だった。新緑が包んだ人気のない静かな森の中。遠くで鳥の囀ずる声と、青年が枯葉を踏みしめる音が周囲に響く。しかし、それはたった一歩だけの束の間の静寂。直後、森の中に魔物が唸る声が響き渡った。その声は警戒と威嚇を孕んだ、確かな敵意。咄嗟に青年の脳裏には誰か人間が魔物に襲われているのでは、という発想がよぎる。踏み出した二歩目は、すぐに地を蹴る。青年は声のする方に向かって走り出していた。
青年は鮮やかな赤毛を上下に揺らし、地上にまで飛び出している木の根を跳ねて避け、伸びた枝は頭を低めて躱していく。数メートル先に太陽の光が差す開けた空間を見つけ、より足音を殺し、息を殺す。凝らした目に映ったのは、狼に似た四つ足の獣。それが四匹、と、それに囲まれている白髪の青年の姿だった。
「ひぇええっ! ボク食べてもおいしくないよぉ! 絶対そこに生えてるキノコとかの方がおいしく頂けるよ!」
木を背にしており、すでに逃げ道を絶たれている白髪の青年の何とも言えない悲鳴と命乞いが聞こえる。鋭く息を吸い、背中の大剣に手をかける。最も外側にいる魔物まであと五十メートル。まだ向こうは気づいていない。体勢を低くして、深く踏み込み一気に加速する。木々の陰から飛び出す瞬間、一気に大剣を引き抜き、直前に気づいた魔物が振り返る前に大剣を振り下ろす。目の前にいた魔物は地面に叩きつけられそのまま消滅していった。
「あんた何やってんだ! 毒キノコなんて触ったら危ないだろ!」
「へぇ、これ毒あるんだ!」
「危ないって! 爛れても知らないぞ!」
変わらず呑気なことを口走る白髪の青年は、「はーい」と気の抜けた返事をして赤い斑点模様のきのこに向かって伸ばしていた手を引っ込めた。言いたいことは山ほどあるが、今は大人しくしていてくれるだけで十分だ。
赤毛の青年は仲間を殺めたことで標的を変えた残り三匹の魔物を見据え、相手の出方を窺う。直後、一匹が低い咆哮と共に口をあけうなじを狙って高く飛び掛かる。その地を蹴る音を聞き分け、咄嗟に体を後ろに倒してそれを躱し、体を支えるために引いた右足を軸に体を回転させ、飛び掛かった魔物が地面に着地する前にその顔面に向けて大剣を斜めに振り上げる。衝撃で反対側へ吹き飛ぶ魔物の身体からすぐに視線を切り、振り上げた大剣を今度は顔の前に翳し、すでに飛び込んできていた別の魔物の歯を受け止める。
すると魔物は大剣を足場に後ろに飛び退いた。息をつく間もなく、今度はその場で両足を踏み切り飛び上がり、残りのもう一匹が足に食らいつこうとしていたのを避ける。そこで短く息を吸い、大剣を真下に向けて、両手で柄を握る。重力と体重を乗せ真下に突き刺し、閉じていた瞳をゆっくりと開くころには魔物は消滅していた。
これで三匹。残りは先ほど飛び退いたもう一匹のみ。
「……あれ?」
「あ、最後の一匹は逃げたよ」
そのもう一匹がいるはずの場所に顔をあげるが、そこにいたのはいつの間にか立ち上がっていた白髪の青年だった。相変わらずついさっきまで生命の危機に瀕していたような緊張感は一切ない。
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