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第五章 ミモザの砂糖漬け
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三人で朝を迎えるようになってひとつきほどが経った。リンネが畑で世話と収穫をし、ミカエルが研究室で灰を沈殿させているフラスコの様子を見て処理をした後。夜が明けて朝食の準備が揃った頃に、いつもよりもきちんと身嗜みを整えたジジが食卓に現れた。
「おや、そんなにかしこまってどうしたんだい?」
朝の挨拶をして専用の倚子に座るジジにミカエルがそう問いかけると、機嫌良く笑ってこう言った。
「そろそろ他の街に行く時期なんでね。今日の明るいうちにこの村を出るよ」
それを聞いたリンネは、寂しそうな顔をして口を開く。
「そういえば、もうひとつき経ちますね。
ジジさんにもお仕事はあるのはわかりますけど、いざいなくなるとなると寂しいです……」
しょんぼりしてしまったリンネに、ジジはにやにやと笑いかける。
「寂しいって言ってくれんのはありがたいけどさ、あんまお前さん達に厄介になるわけにもいかんしねぇ。
俺が来てから朝飯の時間遅くなってるから、朝の仕事中腹減るだろ」
そんなことは。と言いかけたリンネが、ちらりとミカエルの方を見る。リンネ自身は朝の仕事中にお腹が空くと言うことはほとんど無いのだが、ミカエルはお腹を空かせているのではないかと思ったのだ。
ミカエルがくすりと笑って言う。
「まぁ、朝はそこまでお腹が空くわけでもないけれど、君が寝坊してくると、さすがにつらい物があるかな」
「おっと、こいつぁ手厳しいね。ははっ」
ふたりのやりとりを聞いて、リンネも思わず笑顔になる。
みんなで食前のお祈りをして、朝食を食べながら談笑していたけれども、やはりどことなく寂しさがちらつく。ジジがここに来るのは、これが最後なわけでもないのに。
「さて、ジジに豆の香油を渡せるのは今期ではこれが最後かな?」
朝食後、三人はミカエルの実験室で香油が蒸留されていく様を見ていた。
蒸留器の中に詰め込まれたハーブたちは、爽やかであったり甘かったり、様々な香りを放ちながら蒸されていく。小さい瓶に少しずつ溜まる香油と、大きな器にとめどなく注がれる蒸留水。ミカエルやジジたちが必要とするのは僅かばかりに採れる香油の方だけれども、蒸留水は他の村人たちに売ったり、時として食糧や生活雑貨と交換することもある。
蒸留器から水も油も滴らなくなると、ミカエルはいくつか有る香油の入った瓶を手に取り、それをジジに渡した。
「はい、豆の香油だよ」
「ああ、値段はいつも通りかな?」
「いつも通りで」
そのやりとりを見ながら、リンネは蒸留水をいくつもの瓶に分けて注ぎ、栓をしていく。いつもなら冷めてからゆっくりと作業をするのだが、この日は村長の娘が蒸留水を買いに来るというので、それに間に合わせるためだ。
蒸留水の瓶詰めが終わり、ミカエルとジジの取引も終わった頃、玄関の方からミカエルを呼ぶ声が聞こえた。
「おや、もう患者さんが来る時間かな?」
思ったよりも早く人が来たと思っているのか、ミカエルはきょとんとした顔をしている。それに対し、リンネはくすりと笑ってこう言った。
「あの声は村長さんのところの娘さんですよ。今日蒸留水を買いに来ることになっていたでしょう?」
「ああ、村長の娘さんか。それだと待たせるのは良くないね」
リンネとミカエルとで蒸留水が詰まった瓶を籠に入れて持ち、玄関へと向かう。ジジも玄関からすぐそこにある食卓の倚子に腰掛けた。
「おはようございます。今日は蒸留水をお求めなんですよね」
玄関を開けてリンネがそう言うと、玄関前に立っている村長の娘が嬉しそうに頷いた。
どの香りの物が良いのか娘に香りを聞かせ、選ばせる。何本も有る瓶の中から選ばれた二本を、リンネはお代を受け取ってから娘に差し出した。
「できたてで熱いのでお気をつけ下さい」
「はい、ありがとうございます」
娘が籠を差し出したので、リンネはその中に瓶を入れようとする。すると、籠の中にずんぐりとした小瓶が入っていた。
これもどこかで買ってきたのだろうかと思っていると、娘がこう言った。
「あの、この中に入っているミモザの砂糖漬け、良かったら召し上がって下さい」
「え? よろしいんですか?」
「はい。いつもお世話になっているので……」
「そうですか。それではありがたくいただきますね」
にっこりと笑ってミモザの瓶を受け取り、かわりに蒸留水の入った瓶を籠に入れる。重かったのだろうか、籠を持った腕を少し沈ませてから、娘は頭を下げて足早に帰っていった。
その様子を見たリンネは、忙しい中わざわざ来てくれたのかとありがたく思いながら、家の中に居るふたりに声を掛ける。
「ミモザの砂糖漬けをいただいたので、ちょっと休憩して食べませんか?」
それを聞いて、ミカエルは嬉しそうに言う。
「いいね。それじゃあワインに浮かべていただこうか」
すぐさまに倚子から立ち上がり、ミカエルは台所の暗所に置かれたワインと、食器棚に並べられたコップを三つ取りだしテーブルの上に並べる。それから、コップの中にワインが注がれると、リンネが小瓶の蓋を開け、スプーンでミモザをひとすくいずつ浮かべた。
ミモザの香りと砂糖とで甘く風味づけられたワインを三人で飲む。半分ほど飲んだ頃合いだろうか、突然ジジがこう言った。
「ところでねぇ、リンネ君。お前さん以外の人にもミモザを分けたってぇのはあの子に言わない方が良い」
それを聞いて、リンネは勿論ミカエルもきょとんとしている。ふたりの様子を見ても、ジジはにやにやするばかりで理由を語らない。
そうしている内に全員のコップが空になって、ジジもそろそろここを出ると言う事になった。
荷物を持ったジジが村から去るのを見送った後、家に帰ったリンネが植物の本を開くと、ミモザの花言葉が書かれていた。
「おや、そんなにかしこまってどうしたんだい?」
朝の挨拶をして専用の倚子に座るジジにミカエルがそう問いかけると、機嫌良く笑ってこう言った。
「そろそろ他の街に行く時期なんでね。今日の明るいうちにこの村を出るよ」
それを聞いたリンネは、寂しそうな顔をして口を開く。
「そういえば、もうひとつき経ちますね。
ジジさんにもお仕事はあるのはわかりますけど、いざいなくなるとなると寂しいです……」
しょんぼりしてしまったリンネに、ジジはにやにやと笑いかける。
「寂しいって言ってくれんのはありがたいけどさ、あんまお前さん達に厄介になるわけにもいかんしねぇ。
俺が来てから朝飯の時間遅くなってるから、朝の仕事中腹減るだろ」
そんなことは。と言いかけたリンネが、ちらりとミカエルの方を見る。リンネ自身は朝の仕事中にお腹が空くと言うことはほとんど無いのだが、ミカエルはお腹を空かせているのではないかと思ったのだ。
ミカエルがくすりと笑って言う。
「まぁ、朝はそこまでお腹が空くわけでもないけれど、君が寝坊してくると、さすがにつらい物があるかな」
「おっと、こいつぁ手厳しいね。ははっ」
ふたりのやりとりを聞いて、リンネも思わず笑顔になる。
みんなで食前のお祈りをして、朝食を食べながら談笑していたけれども、やはりどことなく寂しさがちらつく。ジジがここに来るのは、これが最後なわけでもないのに。
「さて、ジジに豆の香油を渡せるのは今期ではこれが最後かな?」
朝食後、三人はミカエルの実験室で香油が蒸留されていく様を見ていた。
蒸留器の中に詰め込まれたハーブたちは、爽やかであったり甘かったり、様々な香りを放ちながら蒸されていく。小さい瓶に少しずつ溜まる香油と、大きな器にとめどなく注がれる蒸留水。ミカエルやジジたちが必要とするのは僅かばかりに採れる香油の方だけれども、蒸留水は他の村人たちに売ったり、時として食糧や生活雑貨と交換することもある。
蒸留器から水も油も滴らなくなると、ミカエルはいくつか有る香油の入った瓶を手に取り、それをジジに渡した。
「はい、豆の香油だよ」
「ああ、値段はいつも通りかな?」
「いつも通りで」
そのやりとりを見ながら、リンネは蒸留水をいくつもの瓶に分けて注ぎ、栓をしていく。いつもなら冷めてからゆっくりと作業をするのだが、この日は村長の娘が蒸留水を買いに来るというので、それに間に合わせるためだ。
蒸留水の瓶詰めが終わり、ミカエルとジジの取引も終わった頃、玄関の方からミカエルを呼ぶ声が聞こえた。
「おや、もう患者さんが来る時間かな?」
思ったよりも早く人が来たと思っているのか、ミカエルはきょとんとした顔をしている。それに対し、リンネはくすりと笑ってこう言った。
「あの声は村長さんのところの娘さんですよ。今日蒸留水を買いに来ることになっていたでしょう?」
「ああ、村長の娘さんか。それだと待たせるのは良くないね」
リンネとミカエルとで蒸留水が詰まった瓶を籠に入れて持ち、玄関へと向かう。ジジも玄関からすぐそこにある食卓の倚子に腰掛けた。
「おはようございます。今日は蒸留水をお求めなんですよね」
玄関を開けてリンネがそう言うと、玄関前に立っている村長の娘が嬉しそうに頷いた。
どの香りの物が良いのか娘に香りを聞かせ、選ばせる。何本も有る瓶の中から選ばれた二本を、リンネはお代を受け取ってから娘に差し出した。
「できたてで熱いのでお気をつけ下さい」
「はい、ありがとうございます」
娘が籠を差し出したので、リンネはその中に瓶を入れようとする。すると、籠の中にずんぐりとした小瓶が入っていた。
これもどこかで買ってきたのだろうかと思っていると、娘がこう言った。
「あの、この中に入っているミモザの砂糖漬け、良かったら召し上がって下さい」
「え? よろしいんですか?」
「はい。いつもお世話になっているので……」
「そうですか。それではありがたくいただきますね」
にっこりと笑ってミモザの瓶を受け取り、かわりに蒸留水の入った瓶を籠に入れる。重かったのだろうか、籠を持った腕を少し沈ませてから、娘は頭を下げて足早に帰っていった。
その様子を見たリンネは、忙しい中わざわざ来てくれたのかとありがたく思いながら、家の中に居るふたりに声を掛ける。
「ミモザの砂糖漬けをいただいたので、ちょっと休憩して食べませんか?」
それを聞いて、ミカエルは嬉しそうに言う。
「いいね。それじゃあワインに浮かべていただこうか」
すぐさまに倚子から立ち上がり、ミカエルは台所の暗所に置かれたワインと、食器棚に並べられたコップを三つ取りだしテーブルの上に並べる。それから、コップの中にワインが注がれると、リンネが小瓶の蓋を開け、スプーンでミモザをひとすくいずつ浮かべた。
ミモザの香りと砂糖とで甘く風味づけられたワインを三人で飲む。半分ほど飲んだ頃合いだろうか、突然ジジがこう言った。
「ところでねぇ、リンネ君。お前さん以外の人にもミモザを分けたってぇのはあの子に言わない方が良い」
それを聞いて、リンネは勿論ミカエルもきょとんとしている。ふたりの様子を見ても、ジジはにやにやするばかりで理由を語らない。
そうしている内に全員のコップが空になって、ジジもそろそろここを出ると言う事になった。
荷物を持ったジジが村から去るのを見送った後、家に帰ったリンネが植物の本を開くと、ミモザの花言葉が書かれていた。
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