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第十二章 地獄の釜
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教会で神父様に相談をしたその翌日から、医者達は街の貧しい人達を雇って野原に大きな墓穴を掘らせはじめた。その話を聞いた街の人は、遺体をまとめて埋めるだなんて。と否定的な反応だ。けれども、この太陽が照りつける時期に遺体を放置して下手に腐らせるわけにはいかない。遺体が腐れば、他の伝染病も発生しかねない。黒死病だけでも手に負えないのに、そこに加えてコレラや腸チフスなどが、例えばだけれども、流行りはじめたらこの街が生き残ることはできないのだ。
墓穴を掘っている間にも、当然患者は出続ける。その往診をするために、墓穴の管理は有志の青年達に任せ、医者は街中を歩き回った。
今日の患者は、幼い子供を抱えた母親だ。彼女の子供は、母親がおそろしい病にかかっていることがわかっているのだろうか。もう死ぬ以外に未来が無い事を知っているのだろうか。その患者は、子供に恐怖を与えまいとしているのか、苦しそうな声ひとつ出さず、気丈だった。それなのに、最後のひとくちの薬を飲んで、その胸は動かなくなってしまった。
リンネは未だに、患者の死に慣れることが出来ないでいた。死ぬ間際まで苦しんで、残していく家族の心配をして、神様に縋って信じて、そんな人が他の大勢と一緒にまとめて葬られるだなんて、やりきれなかった。
リンネは、その家の父親を呼んで、母親を担架で運ぶ手伝いをして欲しいと頼む。父親は、涙を零して承諾した。分厚い革手袋で覆われた手で、リンネは母親を担架の上に移動させる。それから、一緒に運んでいる父親に、あとで石灰を支給するから、この部屋に石灰を撒いてしばらく置いたのちに、母親が使っていた掛布を熱湯でしっかりと茹でるようにと指示をした。
「先生」
父親がぽつりと口を開く。
「家内は、天国に行けますかね」
「……ここまで頑張ったのです。きっと神様もはからってくださるでしょう」
死んだ後のことは、リンネがなにか保証できると言うことはない。神様が成すことは神様しか知らないし、本当ならば神様の言葉を伝えるのは神父様や司祭様でないといけないのだ。
遺体を運ぶ途中、開けた公園が目に入った。ここは元々、いたるところにベンチが設置されていて、街の人々の憩いの場となっていた所だ。ここでは今、沢山の洗濯物、特に掛布が沢山ひらめいていた。医者達の指示で掛布を熱湯で洗うようにと言われた遺族達が、洗った掛布を狭い軒先ではなく、この広い広場に縄を張り干しているのだ。
以前はあんなに散歩をする人がいたり、駆け回る子供がいたりしたのに、今は洗濯をした人とその手伝いの人しかいない。それ以外の人々は、黒死病がうつっては堪らないと近寄らないのだ。
よく見渡すと、忙しなく掛布を干す人と、その日暮らしをしているのだろうなという人が目に付く。以前ならその日暮らしなどというのはよくないことだと言ったかも知れないけれども、今、いつ死に到る病にかかるともわからないこの街で、未来を信じるというのが難しいというのはよくわかる。だからそう言った人を責められはしなかった。
担架を運んで墓穴のある野原へと辿り着く。そこにはすでに、大きな、それこそ何人も、何人も遺体を入れてもすぐには埋まらなそうな大きな穴があった。きっとこれが、穴ひとつあたりの限界の大きさなのだろう。他の場所ではまた男達が大きな穴を掘ろうとしていた。
「ああ、こんな所にはいるんだなぁ」
一緒に母親を運んできた父親が、また涙を流す。リンネにはかける言葉が見つからなかった。
その後、往診をする合間に何人もの遺体を運び、大きな穴へと放り込んだリンネは、次の患者の元へ行く道中で、ふと洗濯された掛布がはためく広場の中へと入っていった。
以前ここを訪れたのは、街が閉鎖される前、春になったばかりの頃だ。あの時はそう、オペラの公演がはじまったばかりで、街の人はそのことで賑わっていたっけ。そんな賑やかな雰囲気の中で、出会ったのだ。この場所で、あの歌と。
リンネは公園の中の大きな樹の元へと歩いて行く。そう、この木の下で少年のような青年が歌っていた。あれは何という歌だったのだろう。教会で聴く聖歌とは全然違っていて、小鳥の囀りのような澄んだ声で歌っていた。
彼は今どうしているのだろう。少なくとも自分の患者としては見掛けていないし、イーヴからも話を聞かないので、彼の患者にもいないのだろう。でも、他の医者の患者だとしたら? それを考えるとぞっとした。
その考えを振り払うように、リンネは木の下から離れる。嫌な考えから逃げたかったし、それにいつまでもここにいるわけにもいかない、次の往診があるのだ。
その日の往診が終わり家に帰ると、今日はイーヴの方が先に帰ってきていた。
「おかえり、リンネ君。ごはんはできているよ」
その言葉を聞いてリンネは驚く。
「えっ、イーヴさん、ごはん作れるんですか?」
慌ててマスクを外してそういうリンネに、イーヴはにやっと笑って返す。
「まぁ、パンを切ってちょっとばかり炙っただけだけどね」
「ああ、なるほど」
イーヴの言葉に、少しだけ頬が緩む。マスクとマントをいつもの場所に掛けたあと、食前の祈りをして詰め込むようにパンを食べる。お腹が空いて仕方がない。
その様子を見たのか、イーヴがリンネに言う。
「君、相当疲れているようだね」
そう言われて、改めてリンネは自分が疲れていると言う事を自覚した。
「そうですね。でも、ここで諦めるわけにはいかないんです」
「……そうだね」
医者と、この街の住人達の戦いはまだ終わらない。黒死病と人間、どちらが勝つかわからないままに戦うしかないのだ。
墓穴を掘っている間にも、当然患者は出続ける。その往診をするために、墓穴の管理は有志の青年達に任せ、医者は街中を歩き回った。
今日の患者は、幼い子供を抱えた母親だ。彼女の子供は、母親がおそろしい病にかかっていることがわかっているのだろうか。もう死ぬ以外に未来が無い事を知っているのだろうか。その患者は、子供に恐怖を与えまいとしているのか、苦しそうな声ひとつ出さず、気丈だった。それなのに、最後のひとくちの薬を飲んで、その胸は動かなくなってしまった。
リンネは未だに、患者の死に慣れることが出来ないでいた。死ぬ間際まで苦しんで、残していく家族の心配をして、神様に縋って信じて、そんな人が他の大勢と一緒にまとめて葬られるだなんて、やりきれなかった。
リンネは、その家の父親を呼んで、母親を担架で運ぶ手伝いをして欲しいと頼む。父親は、涙を零して承諾した。分厚い革手袋で覆われた手で、リンネは母親を担架の上に移動させる。それから、一緒に運んでいる父親に、あとで石灰を支給するから、この部屋に石灰を撒いてしばらく置いたのちに、母親が使っていた掛布を熱湯でしっかりと茹でるようにと指示をした。
「先生」
父親がぽつりと口を開く。
「家内は、天国に行けますかね」
「……ここまで頑張ったのです。きっと神様もはからってくださるでしょう」
死んだ後のことは、リンネがなにか保証できると言うことはない。神様が成すことは神様しか知らないし、本当ならば神様の言葉を伝えるのは神父様や司祭様でないといけないのだ。
遺体を運ぶ途中、開けた公園が目に入った。ここは元々、いたるところにベンチが設置されていて、街の人々の憩いの場となっていた所だ。ここでは今、沢山の洗濯物、特に掛布が沢山ひらめいていた。医者達の指示で掛布を熱湯で洗うようにと言われた遺族達が、洗った掛布を狭い軒先ではなく、この広い広場に縄を張り干しているのだ。
以前はあんなに散歩をする人がいたり、駆け回る子供がいたりしたのに、今は洗濯をした人とその手伝いの人しかいない。それ以外の人々は、黒死病がうつっては堪らないと近寄らないのだ。
よく見渡すと、忙しなく掛布を干す人と、その日暮らしをしているのだろうなという人が目に付く。以前ならその日暮らしなどというのはよくないことだと言ったかも知れないけれども、今、いつ死に到る病にかかるともわからないこの街で、未来を信じるというのが難しいというのはよくわかる。だからそう言った人を責められはしなかった。
担架を運んで墓穴のある野原へと辿り着く。そこにはすでに、大きな、それこそ何人も、何人も遺体を入れてもすぐには埋まらなそうな大きな穴があった。きっとこれが、穴ひとつあたりの限界の大きさなのだろう。他の場所ではまた男達が大きな穴を掘ろうとしていた。
「ああ、こんな所にはいるんだなぁ」
一緒に母親を運んできた父親が、また涙を流す。リンネにはかける言葉が見つからなかった。
その後、往診をする合間に何人もの遺体を運び、大きな穴へと放り込んだリンネは、次の患者の元へ行く道中で、ふと洗濯された掛布がはためく広場の中へと入っていった。
以前ここを訪れたのは、街が閉鎖される前、春になったばかりの頃だ。あの時はそう、オペラの公演がはじまったばかりで、街の人はそのことで賑わっていたっけ。そんな賑やかな雰囲気の中で、出会ったのだ。この場所で、あの歌と。
リンネは公園の中の大きな樹の元へと歩いて行く。そう、この木の下で少年のような青年が歌っていた。あれは何という歌だったのだろう。教会で聴く聖歌とは全然違っていて、小鳥の囀りのような澄んだ声で歌っていた。
彼は今どうしているのだろう。少なくとも自分の患者としては見掛けていないし、イーヴからも話を聞かないので、彼の患者にもいないのだろう。でも、他の医者の患者だとしたら? それを考えるとぞっとした。
その考えを振り払うように、リンネは木の下から離れる。嫌な考えから逃げたかったし、それにいつまでもここにいるわけにもいかない、次の往診があるのだ。
その日の往診が終わり家に帰ると、今日はイーヴの方が先に帰ってきていた。
「おかえり、リンネ君。ごはんはできているよ」
その言葉を聞いてリンネは驚く。
「えっ、イーヴさん、ごはん作れるんですか?」
慌ててマスクを外してそういうリンネに、イーヴはにやっと笑って返す。
「まぁ、パンを切ってちょっとばかり炙っただけだけどね」
「ああ、なるほど」
イーヴの言葉に、少しだけ頬が緩む。マスクとマントをいつもの場所に掛けたあと、食前の祈りをして詰め込むようにパンを食べる。お腹が空いて仕方がない。
その様子を見たのか、イーヴがリンネに言う。
「君、相当疲れているようだね」
そう言われて、改めてリンネは自分が疲れていると言う事を自覚した。
「そうですね。でも、ここで諦めるわけにはいかないんです」
「……そうだね」
医者と、この街の住人達の戦いはまだ終わらない。黒死病と人間、どちらが勝つかわからないままに戦うしかないのだ。
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