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第二章 賑やかさの隣で
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「イーヴさん、今日は何だか賑やかですね」
リンネがこの街に来て数年目の春、調剤室で薬草を干していて街のにぎわいに気づいたリンネは、居間で休憩をしているイーヴの元に行ってそう言った。
「きっと今年もオペラの一座が来たんだろう。
そろそろ春だからね」
「ああ、もうそんな季節なんですね」
にっこりと笑うイーヴに、リンネも笑顔を返す。それから、君も休憩しなさいと言われたので、休憩のための珈琲を淹れに台所へと向かった。
ポットでお湯を沸かしている間に、豆を挽く。黒く煎られた豆をスプーンで測ってミルに入れ、ハンドルを回す。挽き加減はイーヴ好みの粗挽きだ。重く心地よい音とともに香ばしい匂いが立ち上る。そうしている間にお湯が沸いたので、ポットの中に挽き立ての豆を入れる。蒸気に包まれて、ほのかに甘い香りに変わった。豆を蒸らしている間に、布でできた袋が付いた漉し器をテラコッタのカップに乗せて注ぐ準備をする。ポットから珈琲を注ぐと、豆とともに琥珀色の液体が漉し器の中に入った。カップふたつ分珈琲を注いだら、あとは居間で待っているイーヴの元に持っていくだけだ。
「お待たせしました」
珈琲のはいったカップをふたつ持ってリンネが居間に戻ると、お待ちかね。と言った様子でイーヴがにっこりと笑う。
「やあやあ、うれしいね。
君が淹れる珈琲はおいしいからね」
「そうですか? 良かったです」
珈琲を淹れたり料理を作ったりする度に、イーヴはこうやって喜ぶ。それはリンネが来た日から何年も変わらなかった。さすがに大げさではないかとリンネも思ったことはあるのだが、以前何度かイーヴが淹れた珈琲を飲んだときの味を思い出すと、さもありなんと思うのだ。
珈琲を飲みながらゆったりと話をする。毎年オペラの一座が来るけれども、一体どんな事をしているのだろうとリンネは気になったのだ。
リンネはオペラを観たことがない。以前住んでいた所は小さな農村で、オペラをやれるような劇場はなかったし、もちろんオペラの一座がわざわざ通るような場所でもなかったのだ。そして、この街に来てからも、オペラの公演は夜に行われると言うことで、調剤の仕事が朝からあるので早く寝たいリンネはなかなか行けずにいたのだ。
「オペラがどんなものか、気になるかい?」
ゆっくりと珈琲を飲みながらそう訊ねるイーヴに、リンネは微かに頬を赤らめて頷く。時偶通りかかる豪奢なオペラハウスを見ても、噂に聞く華麗な舞台はリンネには想像が難しい物だ。だからこそ、一度でいいから観てみたかった。
それから一週間ほどして、オペラの公演もすでに始まり、街は日暮れ時でも賑わうようになった。日が陰りはじめた調剤室の窓から外を見る。裕福な人なのだろうか、華やかなドレスに身を包み馬車に乗る人や、華やかでこそないものの小綺麗に身なりを整えて精一杯のおしゃれをしている男女が、おしゃべりをしながら街中を歩いていく。窓から覗いて窺える範囲は限られているけれども、皆同じ方向へ歩いているのを鑑みるに、きっとオペラハウスに向かっているのだろう。
ずっとその人波を眺めていたかったけれども、こんな時間だからそろそろ夕食を作らなくてはいけない。
「リンネ、今日の晩ごはんはなんだい?」
「あ、今作ります」
調剤していた薬を手早く片付け、エプロンを外して窓辺のフックに掛ける。それから、手をよくはたいて台所に行き、台所の壁に掛けてあるエプロンをさっと被った。
今日の夕食は、ラディッシュと葉付きニンジン、アスパラガス、それに刻んだウィンナーを入れて牛乳で風味付けしたスープと、朝のうちにパン屋で買って来たバゲットをスライスした物だ。それらを作っているところを、イーヴが台所の入り口からひょっこりと覗き込む。
「パンにはね、チーズを乗せたいな」
にこにこと笑ってそういうイーヴに、リンネもにこりと笑って返す。
「でしたら、エダムがあるので少し切ってバゲットに乗せて焼きましょう」
「焼いたチーズ、いいねぇ」
スープを煮ている間に、エダムチーズをナイフで切り分けバゲットに乗せる。それを四切れほど作って窯に入れる。火で熱くなっている窯の中で、チーズがじわじわと溶けていく。癖のある、けれどもお腹を刺激する香りが漂った。
スープもパンも仕上がり、リンネがイーヴに声を掛ける。
「それじゃあ、持っていくのを手伝ってくれますか」
「もちろんだとも」
今日はついうっかりして食事を作るのが遅くなってしまったから、イーヴはだいぶお腹を空かせていたのだろう。リンネも、だいぶお腹が空いているのに気がついた。
居間に料理を運び、食前の祈りをして食べ始める。あつあつのバゲットを囓るとチーズがとろりと伸びた。
チーズをこぼさないよう上手く噛みきって口の中に入れると、目の前ではイーヴが嬉しそうにチーズを伸ばしている。少し子供っぽくて行儀が悪いけれども、おいしそうに食べてもらえるのは嬉しいものだ。
そう、以前住んでいた村で、先生がおいしそうにごはんを食べてくれるのも嬉しかったなと、イーヴを見ていると時折思い出す。
「君は」
チーズを噛み切ったイーヴが言う。
「オペラを観てみたいと言っていたね」
少し前にそんな話をした事を思い出したリンネは、控えめに頷く。それから、考えをもまとめながらスープをひとくち飲んで口を開く。
「オペラというのがどんなものなのか、ずっと気になってるんです。
以前いた村ではオペラなんて噂でもほとんど聞かなかったし、この街に来てからはすごくきれいで楽しくて、そんなものだって聞いているので」
「なるほどなるほど」
納得した様に頷いたイーヴが、いたずらっぽく笑う。
「今年はオペラ歌手のなかで一番人気の人が来てるらしいから、暇が取れたら一緒に行ってみようか」
その言葉にリンネは、朝から調剤の仕事があるからと言うけれども、イーヴはそれもたまには休んでも良いだろうと、そう言った。
本当に休んでしまっても良いのかはわからなかったけれども、イーヴがいいと言うのなら、そのうち頃合いを見て一緒に見に行こうと思った。
けれども心のどこかで、それはきっと無理なことなのだろうなという気持ちも消えなかった。
リンネがこの街に来て数年目の春、調剤室で薬草を干していて街のにぎわいに気づいたリンネは、居間で休憩をしているイーヴの元に行ってそう言った。
「きっと今年もオペラの一座が来たんだろう。
そろそろ春だからね」
「ああ、もうそんな季節なんですね」
にっこりと笑うイーヴに、リンネも笑顔を返す。それから、君も休憩しなさいと言われたので、休憩のための珈琲を淹れに台所へと向かった。
ポットでお湯を沸かしている間に、豆を挽く。黒く煎られた豆をスプーンで測ってミルに入れ、ハンドルを回す。挽き加減はイーヴ好みの粗挽きだ。重く心地よい音とともに香ばしい匂いが立ち上る。そうしている間にお湯が沸いたので、ポットの中に挽き立ての豆を入れる。蒸気に包まれて、ほのかに甘い香りに変わった。豆を蒸らしている間に、布でできた袋が付いた漉し器をテラコッタのカップに乗せて注ぐ準備をする。ポットから珈琲を注ぐと、豆とともに琥珀色の液体が漉し器の中に入った。カップふたつ分珈琲を注いだら、あとは居間で待っているイーヴの元に持っていくだけだ。
「お待たせしました」
珈琲のはいったカップをふたつ持ってリンネが居間に戻ると、お待ちかね。と言った様子でイーヴがにっこりと笑う。
「やあやあ、うれしいね。
君が淹れる珈琲はおいしいからね」
「そうですか? 良かったです」
珈琲を淹れたり料理を作ったりする度に、イーヴはこうやって喜ぶ。それはリンネが来た日から何年も変わらなかった。さすがに大げさではないかとリンネも思ったことはあるのだが、以前何度かイーヴが淹れた珈琲を飲んだときの味を思い出すと、さもありなんと思うのだ。
珈琲を飲みながらゆったりと話をする。毎年オペラの一座が来るけれども、一体どんな事をしているのだろうとリンネは気になったのだ。
リンネはオペラを観たことがない。以前住んでいた所は小さな農村で、オペラをやれるような劇場はなかったし、もちろんオペラの一座がわざわざ通るような場所でもなかったのだ。そして、この街に来てからも、オペラの公演は夜に行われると言うことで、調剤の仕事が朝からあるので早く寝たいリンネはなかなか行けずにいたのだ。
「オペラがどんなものか、気になるかい?」
ゆっくりと珈琲を飲みながらそう訊ねるイーヴに、リンネは微かに頬を赤らめて頷く。時偶通りかかる豪奢なオペラハウスを見ても、噂に聞く華麗な舞台はリンネには想像が難しい物だ。だからこそ、一度でいいから観てみたかった。
それから一週間ほどして、オペラの公演もすでに始まり、街は日暮れ時でも賑わうようになった。日が陰りはじめた調剤室の窓から外を見る。裕福な人なのだろうか、華やかなドレスに身を包み馬車に乗る人や、華やかでこそないものの小綺麗に身なりを整えて精一杯のおしゃれをしている男女が、おしゃべりをしながら街中を歩いていく。窓から覗いて窺える範囲は限られているけれども、皆同じ方向へ歩いているのを鑑みるに、きっとオペラハウスに向かっているのだろう。
ずっとその人波を眺めていたかったけれども、こんな時間だからそろそろ夕食を作らなくてはいけない。
「リンネ、今日の晩ごはんはなんだい?」
「あ、今作ります」
調剤していた薬を手早く片付け、エプロンを外して窓辺のフックに掛ける。それから、手をよくはたいて台所に行き、台所の壁に掛けてあるエプロンをさっと被った。
今日の夕食は、ラディッシュと葉付きニンジン、アスパラガス、それに刻んだウィンナーを入れて牛乳で風味付けしたスープと、朝のうちにパン屋で買って来たバゲットをスライスした物だ。それらを作っているところを、イーヴが台所の入り口からひょっこりと覗き込む。
「パンにはね、チーズを乗せたいな」
にこにこと笑ってそういうイーヴに、リンネもにこりと笑って返す。
「でしたら、エダムがあるので少し切ってバゲットに乗せて焼きましょう」
「焼いたチーズ、いいねぇ」
スープを煮ている間に、エダムチーズをナイフで切り分けバゲットに乗せる。それを四切れほど作って窯に入れる。火で熱くなっている窯の中で、チーズがじわじわと溶けていく。癖のある、けれどもお腹を刺激する香りが漂った。
スープもパンも仕上がり、リンネがイーヴに声を掛ける。
「それじゃあ、持っていくのを手伝ってくれますか」
「もちろんだとも」
今日はついうっかりして食事を作るのが遅くなってしまったから、イーヴはだいぶお腹を空かせていたのだろう。リンネも、だいぶお腹が空いているのに気がついた。
居間に料理を運び、食前の祈りをして食べ始める。あつあつのバゲットを囓るとチーズがとろりと伸びた。
チーズをこぼさないよう上手く噛みきって口の中に入れると、目の前ではイーヴが嬉しそうにチーズを伸ばしている。少し子供っぽくて行儀が悪いけれども、おいしそうに食べてもらえるのは嬉しいものだ。
そう、以前住んでいた村で、先生がおいしそうにごはんを食べてくれるのも嬉しかったなと、イーヴを見ていると時折思い出す。
「君は」
チーズを噛み切ったイーヴが言う。
「オペラを観てみたいと言っていたね」
少し前にそんな話をした事を思い出したリンネは、控えめに頷く。それから、考えをもまとめながらスープをひとくち飲んで口を開く。
「オペラというのがどんなものなのか、ずっと気になってるんです。
以前いた村ではオペラなんて噂でもほとんど聞かなかったし、この街に来てからはすごくきれいで楽しくて、そんなものだって聞いているので」
「なるほどなるほど」
納得した様に頷いたイーヴが、いたずらっぽく笑う。
「今年はオペラ歌手のなかで一番人気の人が来てるらしいから、暇が取れたら一緒に行ってみようか」
その言葉にリンネは、朝から調剤の仕事があるからと言うけれども、イーヴはそれもたまには休んでも良いだろうと、そう言った。
本当に休んでしまっても良いのかはわからなかったけれども、イーヴがいいと言うのなら、そのうち頃合いを見て一緒に見に行こうと思った。
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