嫌犬3rd

藤和

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第二章 外国語は難しい

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 ある日のこと、悠希が朝の散歩から帰ってぼんやりしていると、突然携帯電話が鳴り始めた。近頃は友人達との連絡もメールが多いので、通話の着信が来たことに驚いたけれども、慌てて携帯電話を開いて着信を取った。
「はい、もしもし」
 耳に当ててそう話し掛けると、電話の向こう側から女の子の情けない声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん助けて~……」
「どうしたの匠、なにがあったの?」
 妹の匠からきた突然のヘルプに悠希は戸惑う。匠も大学生になり、もしかして大学で変な輩に付きまとわれているのだろうかと心配していると、こういうことだった。
「外国語の課題がどうしてもわかんなくって、お兄ちゃんにも手伝って欲しいの……」
「外国語?」
 そういえば、匠は大学で外国語を専攻していたなと言う事を思い出す。外国語は確かに難しい。けれども、悠希も外国語ができるかと言われるとそこは怪しいところだ。
 とりあえず何語の課題なのかを訊くことにする。
「外国語ってことは、エスペラントじゃないよね?
何語の課題なの?」
 すると、電話越しにぺらぺらと紙がめくれる音がしてからこう聞こえてきた。
「ポルトガル語と中国語なんだけど」
 それを聞いて、悠希は匠に宥めるように言う。
「そのふたつならお父さんに訊いた方が良いんじゃないかな。お父さん、仕事で使ってるはずだから」
「でも、お父さんに訊いても要領を得ないんだもん」
「わかる」
 そう、いくら父親がその辺りの語学に堪能だとしても、教えることが得意かどうかはまた別問題なのだ。父親は話をするときにどうしてもふんわりしがちなので、それが匠にはわかりづらいのだろう。
 匠の泣き言を聞くだけ聞いて、悠希は鎌谷と一緒に実家へと向かった。

 実家について、とりあえずお昼ごはんを食べてから匠の課題を見る。勉強をするという意気込みがあるのか単純に邪魔なだけなのか、隣に座っている匠は紫紺の長い髪をお団子に纏め上げている。そのお団子を左右に振りながら、匠はわからないわからないと言う。
「うーん、僕もわかるかどうかわからないけど、とりあえずやってみようか」
 匠から課題のテキストを借りて見ていると、匠とは反対側の隣から鎌谷が覗き込んで言う。
「見た感じ、これ完全に初心者向けじゃん?
順を追ってやってけばなんとかなんねえ?」
 そう、日本人の初心者向けテキストなので、読み方はわからないにしろ順を追っていけば何とかなりそうだ。
「じゃあ匠、僕と一緒に頭からやっていってみようか」
「お兄ちゃんがわかりにやってくれない?」
「自分でやらなきゃダメ」
 ふくれっ面をする匠を見ながら鎌谷は、悠希もただ妹に甘いだけでなくて、厳しくすることもあるんだよなと思った。

 ふたりと一匹で課題を進めることしばらく、だいぶテキストが埋まってきた。そこにノックの音が聞こえてきた。
「みんな、おやつもってきたよ」
 そう言って部屋の中に入ってきたのは、青くて長い髪を匠のようにお団子にまとめている小柄な女性。
「お母さん、今日のおやつなに?」
「この前福島から届いたアレ」
「ああ、ま……ま……まあいいやアレね」
 匠がお菓子の名前を思い出せないているうちに、母親は長方形の焼き菓子の乗った皿とお茶の入ったグラスをふたつ、机の上に置く。それから、書き込みの増えた課題のテキストを見て言った。
「あら、だいぶ進んだじゃん」
「お兄ちゃんの助けもだいぶあり」
 そう言われて、悠希は照れたように笑う。それを見て、匠が悠希にこう言う。
「お兄ちゃんも外国語やれば良いのに」
 それに対して、悠希は困ったようにこう返す。
「うーん、書くだけなら出来るかなって思うけど、喋るのができないんだよね」
 すると、後ろから母親もこう言う。
「そもそも悠希は日本語でも口下手なんだから難しいでしょ」
 核心を突いた言葉に悠希はぐうの音も出ない。
 とりあえずと、課題もきりの良いところまで進んだので、おやつを食べる事にした。

 おやつを食べ終わり、椅子の上で匠が伸びをしている。
「あー、ずっと椅子に座ってるから背中固まってきちゃった」
「確かに、僕もちょっと肩にきてる」
 悠希も肘を広げながらそう言うと、鎌谷がぽんと悠希の背中を叩いてこう言った。
「それじゃあちょっと気分転換に散歩でも行くか?
体もほぐれるし丁度良いだろ」
 それを聞いて、悠希も匠も賛同する。悠希が匠に、外に出るのに何か用意はあるかと訊ねると、小さいポシェットを出して来てそれにスマートフォンとICカードを入れ、こう答えた。
「これと、あとは色つきリップを塗れば大丈夫」
 準備万端となった所で、ふたりと一匹は階段を降りて一階に行き、そのまま玄関から散歩へと出かけた。

 どこを散歩するかという相談もなく、ふたりと一匹は自然と近所の親水公園へと足を運んだ。歩道が整備されていて歩きやすいだけでなく、葉の茂った木が程良く植わっているので、心地よく歩けるからだ。
 川のそばを歩きながら、匠がぽつりと言った。
「お兄ちゃんが外国語できないの、ほんと意外だな」
「そう?」
 なぜ意外と思うのかがわからないと言った様子の悠希が、匠にこう返す。
「僕は短大でエスペラント取ったから、外国語はやったことないんだよね」
 すると匠が、伺うように悠希の顔を覗き込んでくる。
「また大学に行く気はないの?」
 それもまた予想外の言葉だ。悠希はやや驚きながらも、もう一度大学に行きたいかを少し考える。
「行くとしたら、自分でお金を貯めてからかな」
 それは無難な回答だと、悠希は思ったのだろう。そのまま匠にこう訊ね返した。
「匠は、学校は楽しい?」
 するとにっこりと笑って匠が言う。
「学校は楽しいよ」
「ずっと?」
「うん、小学校の時からずっと」
 そのやりとりを聞いて、鎌谷は悠希の学生時代のことを思い出していた。悠希は高校と大学は良い友人に恵まれていたけれども、中学を卒業するまでは、執拗な嫌がらせを受けていた。きっと悠希にとって学校というのは、楽しいとは言い切れない物なのだろうと鎌谷は思っている。けれども、悠希と十歳も年の離れた匠は、そのことを知らないのだ。
 匠の言葉に、悠希はなにを思ったのだろう。少しだけ寂しそうに笑ってこう言った。
「僕はやっと、小説家として生活していけそうだから、その仕事が安定してからなら、通信制の大学に入ってもいいかも知れないね」
「通信制かぁ」
 通信制の大学と言われても匠はピンと来ないようだけれども、鎌谷はなんとなく安心する。通信制の大学なら人間関係で滅多なことはないだろうし、悠希は自分ひとりでもしっかりと課題をこなす感覚が昔からある。だから通信制大学はきっと向いているだろう。
 これからまた悠希が大学に入るのか、そんな話は気がついたら流れ去っていて、今日の晩ごはんの話へと移り変わっていた。
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