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「国号・国体」成立
日本成立 教育浸透は、「女性」教育にあり!
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「日本国現報善悪霊異記」が822年編纂とすると、「行基(668-749)」が行ったことは、権力中枢の支援によって実施された可能性が極めて高いと考えられます。権力組織にとって、仏教が権力を持つことは、否定する対象であり、仮想敵でもあります。仏教権力を否定するためにも、「行基」の行動は、地域の支配体制を確立したい、官僚機構にとっては、非常に有効な行為でありました。
「行基」が伝えた、治水土木工事の技術・技能が、民間浸透していくことで、地方での墾田開発が推進されることとなります。三世一身法が723年、墾田永年私財法が743年に施行されるのは、「行基」の推進する墾田開発の結果でもありました。つまりは、開発された墾田を私財とすることで、財を成す者達が、「行基」支援派となって、中央を動かしたこととなります。
皇后は、国家主導による社会福祉推進の旗頭であり、
日本の識字率が、非常に高い状況が、古来より続いたのは、「漢字」を「国字」とした結果、漢字の教育体制を国家が推進したことにあります。
仏教の浸透は、「文字としての漢字」が浸透することであり、「国号・国体」の浸透でもありました。
神仏習合によって、愛宕権現が「イザナミ神」に垂迹されていくことによって、垂迹の浸透は「国号・国体」の浸透ともなっていったのです。
行基は、聖武天皇の御世、大仏開眼の勧進に起用されている。皇后が行基の行動に反対の立場であったのは、光明皇后が、社会福祉事業を推進したことと被っていたためである。国策の推進上、中央集権国家主導による社会福祉事業と、民間主導による社会福祉事業の関係に等しい。日本の場合、墾田開発が国家主導から民間主導へ移行し、私有財産の確立へと繋がっていきます。
国の位置関係を基準とした地図が、行基図と呼ばれたのは、行基が確認し記録した図が「行基図」と呼ばれ、日本地図そのものの名称となっているのは、「行基」の行動そうのものが、国家権力による承認を受けていた証拠である。
皇后が好ましく思わないとしたのは、広報宣伝機関の活用が、男性主導で進んだことだと思います。
「日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)」に記載されていますが、仏僧の話を聞く相手は、母親であることが多いのです。母から子へ伝承されるためには、母親が知らなければならないのです。母が知らないことを、子に教える教育体制を築いてしまうと、母の権威に問題が生じることとなります。
「国字」を「漢字」とするにあたって、母が読み書きできる段階まで待てない状況がありました。「国分寺」と共に「国分尼寺」が建立されたのも、母親への浸透という意味合いがあったことにあります。しかしながら、国家機関として「国分尼寺」を建立できても、国家主導で女性を尼として、動かすには厳しい状況がありました。
女性の敵は、「不邪淫」という戒律です。女犯が罪となるように、男犯も罪となります。
女性が子を生さねばならぬのに、女性に対して男女の契りを禁じることは、不平等になります。
歴史ifで、平城京大極殿の主人に配偶者を迎えるとしたのは、男女の契りを仏教で認めさせることにあります。
性行為そのものは、秘するモノであっても、邪淫ではないとしなければなりません。
古代の教育指導体制は、子育てと共にありました。子供の教育したのは、「母親」であったのです。読み書き算を「子供」に教えるためには、「母親」に読み書き算を教える必要があります。
縄文から弥生の畿内政権では、「母親」が「子供」に教育指導する体制がありました。記録にはありませんが、文武共に、男女関係無く教わったと考えられます。「剣舞、舞踊は武に通ず」とあるように、「武と舞」の基本となる、足の運び手の動きは、男女関係無く教わっていたのです。今でこそ、男踊りや女踊りがありますが、縄文から弥生にそのような区別があったとは思いません。
子供の「舞と武」は「母親」に教わり、男の「武」女の「舞」に分かれます。
子供から分かれるのは、江戸期以降の現代では七五三に「象徴」される行事と成ります。乳幼児死亡率が高いことから、赤子から子供へと成長したことを祝うという風習は、縄文期からあったのだと思います。縄文期、子供の足形土器が造られたことは、成長を祝う風習があったと、推定することもできます。赤子から子供への祝いとして、足形の土器を作り、「母親」は、教育を「赤子」から「子供」へと変更することになります。
「赤子」から「子供」の閾は、曖昧であり、数え年齢で三歳~七歳の間に切り替わったと考えられます。生まれ月の関係上、数えではかなりの違いがあり、五歳くらいが切り替え時期であったと推定されます。
「母親」による教育が基本であったことから「万葉仮名」が先であり、「漢文」は男親からと考えられます。ただ「漢文」は「外国語」ですから、男親ですら教えることはかなり厳しかっただろうと思います。結果として、親から教わるのではなく、「漢文」は僧侶から教わるという流れになったのです。
平安期に、仮名文字が女性文学という形で生まれ、「仮名文字」から「仮名まじり文」までを母親に習って、「漢文」が男親(僧侶)という流れが生まれます。「平仮名」が女性文字扱いされたのは、「母親」に習うという事が、教育の段階であったからです。
800年頃には、平仮や片仮名が生まれていたとされます。これは、「漢字」を「国字」とした結果として、非常に早く、「平仮名」「片仮名」が生まれたことになります。漢文をそのまま使うのではなく、「片仮名」を組み込むことで、読み下し文として用いることができます。この時期から、「男」が「片仮名」で、「女」が「平仮名」という、そんな雰囲気が生まれたのです。
漢文で用いるので、「片仮名」は、楷書が基本となります。こちらは、江戸期に「読み下し文」で確立し、蘭語の解読が進むまで伸びなかった。明治期には、英語の「読み下し文」が検討されたが、英文法には例外が多く、複雑怪奇であることから、「読み下し文」で作ることができなかった。
和文で用いるので、「平仮名」は、行書が基本となります。こちらが、一般庶民に至るまで識字率の向上に役立った。
読み書きの教育が、貴族階級で急速に浸透したのは、「万葉仮名」から「平仮名」を、女性が書けるように教育されたことにあります。平安期の流れとして、「恋文」の基本に和歌があり、恋歌を書くことから、「大人」の教育が始められています。平安期の時点で、男女問わず、和歌が書けなければ、恋人すら得られなかったことになります。
「母親」が「子供」に教えるのは、「平仮名」から「仮名まじり文」となり、和歌の読み書きとなります。子供から「男女」となって、和歌の修練は「男女共通」で「大人」の教育となります。
「男」であれば、ここから「片仮名」「読み下し文」「漢文」と習うことになりますが、なかなか厳しかったようです。
日本の識字率が高く、ほとんどの日本人が読み書きができる根本は、「母親」への教育が確立したことにありました。
「行基」が伝えた、治水土木工事の技術・技能が、民間浸透していくことで、地方での墾田開発が推進されることとなります。三世一身法が723年、墾田永年私財法が743年に施行されるのは、「行基」の推進する墾田開発の結果でもありました。つまりは、開発された墾田を私財とすることで、財を成す者達が、「行基」支援派となって、中央を動かしたこととなります。
皇后は、国家主導による社会福祉推進の旗頭であり、
日本の識字率が、非常に高い状況が、古来より続いたのは、「漢字」を「国字」とした結果、漢字の教育体制を国家が推進したことにあります。
仏教の浸透は、「文字としての漢字」が浸透することであり、「国号・国体」の浸透でもありました。
神仏習合によって、愛宕権現が「イザナミ神」に垂迹されていくことによって、垂迹の浸透は「国号・国体」の浸透ともなっていったのです。
行基は、聖武天皇の御世、大仏開眼の勧進に起用されている。皇后が行基の行動に反対の立場であったのは、光明皇后が、社会福祉事業を推進したことと被っていたためである。国策の推進上、中央集権国家主導による社会福祉事業と、民間主導による社会福祉事業の関係に等しい。日本の場合、墾田開発が国家主導から民間主導へ移行し、私有財産の確立へと繋がっていきます。
国の位置関係を基準とした地図が、行基図と呼ばれたのは、行基が確認し記録した図が「行基図」と呼ばれ、日本地図そのものの名称となっているのは、「行基」の行動そうのものが、国家権力による承認を受けていた証拠である。
皇后が好ましく思わないとしたのは、広報宣伝機関の活用が、男性主導で進んだことだと思います。
「日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)」に記載されていますが、仏僧の話を聞く相手は、母親であることが多いのです。母から子へ伝承されるためには、母親が知らなければならないのです。母が知らないことを、子に教える教育体制を築いてしまうと、母の権威に問題が生じることとなります。
「国字」を「漢字」とするにあたって、母が読み書きできる段階まで待てない状況がありました。「国分寺」と共に「国分尼寺」が建立されたのも、母親への浸透という意味合いがあったことにあります。しかしながら、国家機関として「国分尼寺」を建立できても、国家主導で女性を尼として、動かすには厳しい状況がありました。
女性の敵は、「不邪淫」という戒律です。女犯が罪となるように、男犯も罪となります。
女性が子を生さねばならぬのに、女性に対して男女の契りを禁じることは、不平等になります。
歴史ifで、平城京大極殿の主人に配偶者を迎えるとしたのは、男女の契りを仏教で認めさせることにあります。
性行為そのものは、秘するモノであっても、邪淫ではないとしなければなりません。
古代の教育指導体制は、子育てと共にありました。子供の教育したのは、「母親」であったのです。読み書き算を「子供」に教えるためには、「母親」に読み書き算を教える必要があります。
縄文から弥生の畿内政権では、「母親」が「子供」に教育指導する体制がありました。記録にはありませんが、文武共に、男女関係無く教わったと考えられます。「剣舞、舞踊は武に通ず」とあるように、「武と舞」の基本となる、足の運び手の動きは、男女関係無く教わっていたのです。今でこそ、男踊りや女踊りがありますが、縄文から弥生にそのような区別があったとは思いません。
子供の「舞と武」は「母親」に教わり、男の「武」女の「舞」に分かれます。
子供から分かれるのは、江戸期以降の現代では七五三に「象徴」される行事と成ります。乳幼児死亡率が高いことから、赤子から子供へと成長したことを祝うという風習は、縄文期からあったのだと思います。縄文期、子供の足形土器が造られたことは、成長を祝う風習があったと、推定することもできます。赤子から子供への祝いとして、足形の土器を作り、「母親」は、教育を「赤子」から「子供」へと変更することになります。
「赤子」から「子供」の閾は、曖昧であり、数え年齢で三歳~七歳の間に切り替わったと考えられます。生まれ月の関係上、数えではかなりの違いがあり、五歳くらいが切り替え時期であったと推定されます。
「母親」による教育が基本であったことから「万葉仮名」が先であり、「漢文」は男親からと考えられます。ただ「漢文」は「外国語」ですから、男親ですら教えることはかなり厳しかっただろうと思います。結果として、親から教わるのではなく、「漢文」は僧侶から教わるという流れになったのです。
平安期に、仮名文字が女性文学という形で生まれ、「仮名文字」から「仮名まじり文」までを母親に習って、「漢文」が男親(僧侶)という流れが生まれます。「平仮名」が女性文字扱いされたのは、「母親」に習うという事が、教育の段階であったからです。
800年頃には、平仮や片仮名が生まれていたとされます。これは、「漢字」を「国字」とした結果として、非常に早く、「平仮名」「片仮名」が生まれたことになります。漢文をそのまま使うのではなく、「片仮名」を組み込むことで、読み下し文として用いることができます。この時期から、「男」が「片仮名」で、「女」が「平仮名」という、そんな雰囲気が生まれたのです。
漢文で用いるので、「片仮名」は、楷書が基本となります。こちらは、江戸期に「読み下し文」で確立し、蘭語の解読が進むまで伸びなかった。明治期には、英語の「読み下し文」が検討されたが、英文法には例外が多く、複雑怪奇であることから、「読み下し文」で作ることができなかった。
和文で用いるので、「平仮名」は、行書が基本となります。こちらが、一般庶民に至るまで識字率の向上に役立った。
読み書きの教育が、貴族階級で急速に浸透したのは、「万葉仮名」から「平仮名」を、女性が書けるように教育されたことにあります。平安期の流れとして、「恋文」の基本に和歌があり、恋歌を書くことから、「大人」の教育が始められています。平安期の時点で、男女問わず、和歌が書けなければ、恋人すら得られなかったことになります。
「母親」が「子供」に教えるのは、「平仮名」から「仮名まじり文」となり、和歌の読み書きとなります。子供から「男女」となって、和歌の修練は「男女共通」で「大人」の教育となります。
「男」であれば、ここから「片仮名」「読み下し文」「漢文」と習うことになりますが、なかなか厳しかったようです。
日本の識字率が高く、ほとんどの日本人が読み書きができる根本は、「母親」への教育が確立したことにありました。
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