プログラムは、魔法の呪文

Ittoh

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プログラムは、魔法の呪文

コンピュータは、計算する「人」だった

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 今は昔、計算できるというのは、一つの技能Skillであった。
 日本では、読み書きソロバンという、手習いの形で教育が始まった。

「塵劫記」という本がある。

 Kindle版で出てたので、買ってしまった。データとしては、国会図書館のデータなので、コピー代を払ったようなものである。AmazonのKindleでは、このような資料が、非常にたくさん売られている。

 日本の教育は、手習いに始まった。西洋で言えば、乗馬とかフェンシングの選手を育てるようなモノなのかもしれない。お茶、お花、剣道、柔道、陸上、水泳、どれもが、手習いに始まる。

 欧米や中国では、学問というのは、哲学に始まるから、考える人を創るというのが、教育の始まりなのだろう。



 欧米や中国という国と、日本という国が、教育に対する考え方の違いが、良く表れている。



 つまりは、日本では、理屈ではなく、計算を実行する能力が優先される。

 Computerの言葉は、算術演算をする人なので、日本での教育は、Computorを育てるということになる。

 良い悪いではなく、教育の根本が異なるというところだろう。一人の先生が、一人を面倒見るのではなく、一人の先生が数十人の面倒を見ることを前提として作られた教育システムであり、一定以上の学力を有する人を量産するための教育技法としては、非常に優秀な方法であったと言える。

 「文章が読める」
 「文章が書ける」
 「計算が出来る」

 ここまでは、全員ができるようにしよう。日本の教育法は、その先は自らが選ぶモノとなっていて、与えられるようなことは無い。



 ゆとり教育とは、本来の意味としては、その先を選ぶ時間を子供達に与えることにあった。

 結果としては、その先を選ばないまま育ってしまう子が、大量に生産されることになり、選んだこと選ばない子で格差が広がる世界となった。



 大量に詰め込んで、戦争のように競争に駆り立てたことも、戦争せずに時間を空けて、空虚にしたことも、結果としては同じことである。
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