世界大戦は終わらない

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大正の終わり、昭和のはじまり

大正の終わり昭和の始まり07 国際紛争に始まる、東西対決

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  極東の政局が、大きく転換したのは、殲滅戦の様相となったイルクークツとチタ間の抗争であった。レーニン後の独裁体制を築いていくスターリンと、彼に追われたレフ・トロッキーなど反レーニン派との抗争であり、一言で言えば、赤軍同士の内乱であった。反レーニン派は、集団統治方式による活性化と、資本・経済の団体所有を定めた。団体方式を工場に適応した場合、工場が儲かれば、社員全員の収入が増加する。農業であれば、農業生産量の増加が、農民の収入増という形になる。

 工場の代表が工場長を含めた幹部であり、工場内で幹部が選出され、幹部の中から工場長が選出される。工場の運営は、代表を含めた幹部によって決定される。これは、農村も同じで、農村の所有権がすべての農家のモノとして、農地の開墾や耕作を実行し、収穫物を販売して利益を、農民に分配する。農民グループの代表を選出し、グループ代表から村の代表を決定する、農家の運営が幹部によって決定される。

 地域グループを習合して、地域代表を選出し、地域代表のグループから国家代表のグループが選出され、国家代表グループから、国家代表が選出される。代表グループには、軍と正教会からも選出されるため、アレクサーンドル・クリヴォシェーインが首班として指名されていた。極東ロシア共和国の国力が増加するにつれて、軍や正教会の影響が弱まり、アレクセイ・ルイコフやレフ・トロッキーが首班指名されることとなる。赤化の流れによって、教会は、寄付により成立するモノで、国家は寄付を行わないと決定され、非常に窮乏するようになっていった。正教会の支援をおこなうようになったのは、商業関連の代表は、ネップマンとなり、新たな資本家層を形成するようになった。

 極東ロシアの新興経済は、食糧の生産と炭鉱によって、大規模に拡大していった。キリル大公やピョートル・ヴラーンゲリ将軍旗下のロシア白軍が、ウクライナ戦線で敗退を重ねて、クリミア半島やオデッサに追い詰められていく中で、極東ロシア軍は、イギリス、アメリカ、日本の支援や援軍の派遣を受けて、チタ防衛戦に勝利して、派遣国家建国に成功した。

  極東ロシア軍の編成は、ロシア白軍を中心とした20万を主力としていて、各国からの駐留軍が編成とされた。さらに、チタから満洲里まで、ザバイカル鉄道都市警備局が10万を支援戦力として、兵站路の確保にあたっている。ザバイカル鉄道都市警備局は、白露軍8万と2万の工兵隊で編成されている。満洲里には、伊達順之介が率いる馬賊が居留していて、興安省北部を纏め上げて、満州里10万の市長となっていた。

 黒龍江省を中心に、地盤を持ち、遊牧から定住へ切り替えていったのが、愛新覚羅一族であり、女真族の本拠であった。愛新覚羅一族の長老善耆を家長として、大豆やジャガイモの生産を開始していて、極東地方の食糧供給源となっていた。

 清国皇帝溥儀陛下が、イギリスのレジナルド・ジョンストンを教師に迎え、昭和元年1924年に北京政変が発生し、紫禁城を追われる時、イギリスやオランダへの亡命が拒否され、黒竜江省斉斉哈爾の善耆王の下に身を寄せた。しかしながら、国際連盟の中で、選挙で斉斉哈爾市長および黒龍江省知事に任じられたことで、国際連盟事務局次長に善耆王の娘川島芳子を送り、国際連盟での利益調整を図った。

 国際連盟で最初に確認されたのが、ネルチンスク条約や愛軍アイグン条約を含め、ロシア帝国と清帝国が交わした条約の再確認であった。最終的に、鉄道敷設を含めた交通利権および地下資源については、ロマノフ家の資産扱いとなり、土地については清帝国から国際連盟に委託されたものとされた。つまり極東地域は、国際連盟の委託統治領という形になり、黒龍江省については、代表権を選挙によって善耆王が獲得して、溥儀陛下を迎えることを決定したのである。斉斉哈爾からの鉄道敷設権は、黒竜江省の権益を愛新覚羅一族が確立した結果として認可された形となっている。

 特区を含めてであるが、この地域の選挙には、首長を選ぶ権利を地域住民が保有する。しかしながら、地域における居住権は、首長に許認可権があるのである。首長は、居住権を許可することで、当該地域に選挙民を集めて勝利する事ができれば、当該地域の権益を確保することができることになる。

 満洲では、鉄道路線沿線開発を、満洲鉄道都市整備局が担い、警備局が警護する形となっている。駅を中心として、インフラを整備して、都市を形成する中で、住民が首長を選び、首長が居住権を認可する。長春や哈爾濱では、張作霖、張学良を首班とする軍閥が、住民として集結し、首長選挙に勝つことで、権益を確保していたのである。日本は、鉄道沿線を中心として、大規模な土木治水工事を進めて、各都市の上下水道およびインフラ整備を進め、ジャガイモや大豆といった食料生産拠点を築いていったのである。日露戦争以降は、大連から遼陽にかけて進められた大規模土木治水工事によって、田園地帯が整備され、日本からの移民が居留して食料生産にあたっていた。

 世界大戦でロシア帝国が崩壊して以降は、ロシア帝国満洲派遣軍を組み入れて、遼陽から奉天、哈爾濱、満洲里、チタまでを征圧し、チタに極東ロシア共和国を建国したのである。

 極東地域は、独立地域である蒙古には、ロシア帝国白軍が頑張っていて、ウクライナで敗北して逃亡した、ピョートル・ヴラーンゲリ将軍等が合流した。ロシア帝国白軍は、ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフを大統領に迎えて、蒙古共和国を建国した。しかしながら、蒙古は、モンゴル系馬賊が多く居住していて、興安省を含めて、東部一帯を勢力圏とする蒙古諸部族があった。結果として、諸部族に追われるように、蒙古共和国は、次第に西方へと追いやられていったのである。興安省は、小白竜シャオパイロンが、馬賊の支援を受けて首長となり、馬賊側の利益代表者となっていたのである。

 極東ロシア共和国の右派勢力は、蒙古共和国に合流し、蒙古共和国の左派勢力が極東ロシア共和国に合流していった。

 シベリアは、陸上と言うイメージが強いが、河川航行による物流が発達した地域でもある。イギリスは、旧ロシア帝国の河川航行権を国連から委託されているが、実際に確保しているのは、アムール川流域だけである。イギリスは、ハバロフスクからニコラエフスクを中心とした河川航行によって、ハバロフスクに集まる石炭の輸送が最大の権益となっている。

 チタからウラジオストクへのシベリア鉄道権益を確保したのが、アメリカであり、ウラジオストクを拠点として確保している。ウラジオストクから哈爾濱までの鉄道権益は、日本とアメリカが共同で確保していたが、アメリカの資本投下と敷設工事は、遅れに遅れていて、哈爾濱側から鉄道敷設を進めた、日本が牡丹江まで工事を進めてしまっていた。慌ててアメリカがボグラチニから線路を敷設して、接続することに成功した。

 実際の行動はされず、資本投下すら遅れているけれど、アメリカは大陸利権を欲していて、国際連盟の会議で他国から失笑されることも多かった。これは、アメリカにとって、資本を投下する用意はできたのだが、実際に現地で働く人間を確保することが困難であったためである。

 アメリカが大陸利権を欲しがっていることから、日本は山東省利権をアメリカに売却し、ドイツとの共同開発することを提案した。アメリカの資本で、ドイツが行動する形であれば、鉄道整備が進められたのである。これは、ドイツ支援策でもあり、ドイツの赤化阻止という思惑もあった。

 日本の獅子宰相濱口雄幸は、山東省の売却資金で、山海関から天津に繋がる鉄道利権を獲得し、移住する漢人や逃亡してくるロシア人を動員し、大規模土木治水事業を推進し、開発した田畑の労働力として、農地を与えて働き手とした。皇泰島はイギリス海軍の管轄下にあったが、ロシア帝国領事館が建てられ、ロシア人への旅券発行といった業務を遂行し、上海、漢口、奉天に続いて、皇泰島にロシア領事館が世界大戦後に建てられた。

 ロシア移民の多くは、上海や奉天では、漢人や女真族の警備業務等をおこなっていた。貴族や上流階級出身者であり、英語やフランス語が出来るモノも多かったので、有色人種の代理人として、欧米の白人諸国家に対する交渉担当として、活躍する者も増えていったのである。

 ロシア帝国の大使館と領事館では、在外ロシア人達に対して、「ロマノフ家に忠誠を誓う者」という旅券を発行していた。ロシア帝国の旅券からは、そのまま変更が認められ、変更後の旅券は「ロマノフ旅券」と呼ばれた。

 ロシアだけでなく、ソビエトの侵攻によって国を追われた、数十万の難民が発生し、多くが欧州に流れ込んできて、各国政府が対応に苦慮する結果となっていた。東欧圏の日本の領事館には、ソビエトからの国外退去命令が出る中で、ピザの発行を求める人への対処を必死で発行する姿が見られた。日本のピザが発行されることで、満洲や沿海州の特区、アメリカや欧州に入国できたのである。

 ソビエト赤軍の侵攻によって、バルト三国は崩壊、ソビエト-ポーランド戦争で、ポーランドという国家は消滅した。フィンランド-ソビエト戦争で、フィンランド軍が苦戦する中、欧米の支援が受けられるようになったが、国際非難を受ける中、スターリン独裁政権下のソビエト拡大が始まったのである。

 国際連盟は大正9年1920年頃から始まる、ボリシェビキ政権の拡大によって、大きく決断を迫られる結果となった。スターリン政権下のソビエト「一国社会主義」による拡大政策は、周辺諸国家を吸収拡大して、強大な共産主義国家を建国することを目標としていた。熾烈な極東ロシアとの抗争だけでなく、モンゴルのロシア白軍との抗争も継続していて、東側がイルクーツク付近で拡大が止まった。しかしながら、西の方は、バルト三国を突破、ポーランドやフィンランドへの侵攻、ウクライナのロシア白軍残党を撃滅しつつ、ルーマニアを崩壊させ、セルビアに向かって、侵攻の手を伸ばしていた。占領地には、ボリシェビキ政権を樹立して、ソビエト社会主義共和国連邦に加盟していった。

 国際連盟は、加盟国の崩壊を阻止するため、支援や義勇兵派遣が決定されたものの、世界大戦からの復興が優先され、日本から大隊規模(数百名)が、派遣される程度で、バルト三国に派遣された大隊は、ソビエト軍5万を相手に、十日間の機動防御戦闘を展開して、文字通りに全滅した。

 ソビエト軍に対して、対抗できる戦力は、ドイツ軍であったが、ドイツの国際連盟加盟と参戦には、フランスが反対して保留のままとなっていた。ドイツは、ソビエト侵攻に合わせて、ダンツィヒ回廊へ侵攻し、ドイツ共和国領土として宣言した。ドイツ軍の侵攻で、ワルシャワ郊外でソビエト軍を撃破し、ポーランド政府の救出を行い、亡命政権をベルリンで樹立した。ワルシャワから西がドイツ共和国の勢力圏となり、ワルシャワから西が、ソビエト連邦の傀儡国家となった。

 ドイツはドイツで、ドイツ系移民が多い、チェコスロバキアが国民投票でドイツ連合共和国に加盟した。ソビエトの脅威から、オーストリア、ハンガリーが加盟したが、ハンガリーでは共産革命で内乱が発生し、ドイツはパルチザンとの戦闘を強いられるようになった。

 ドイツは、国際連盟には加盟していないが、チェコスロバキア、オーストリア、ハンガリー、ポーランド亡命政権が加盟しているため、国際連盟内にドイツの加盟を認める声が増えていったのである。セルビア、ハンガリーで発生した、バルカン半島での紛争は、イタリア、トルコといった加盟国にも飛び火し、紛争の激化は止まる様子が見られなかった。

 フランスが対ドイツ講和条約保留と、ドイツ側の賠償責任追及を継続審議として、ドイツ共和国の復帰を認めたのが、昭和3年1926年であった。ソビエトの外交交渉は、遅々として進まず、イギリスやフランスが行っていた停戦交渉は、上手くいっていても、ソビエト側に都合が悪くなれば反故にされて、白紙に戻っていった。侵攻してくるソビエト赤軍は、撃退できているものの、ソビエトへの侵攻は厳しく、国際連盟側が防衛戦闘に終始する形で、状況が推移していったのである。

 防衛戦闘に参加する、国際連盟軍は、義勇兵の形で各国から応募者を募り、各国ごとに軍を編成した。フランスは、ウクライナ確保に失敗し、ルーマニアの油田権益をも失い、参加できる状況になかった。イギリスとアメリカは、支援の武器等を提供する形で、義勇兵の派遣は小規模にとどまった。義勇兵派遣の規模が大かったのが、ベルギーとオランダで、1万が動員された。日本は三千から五千が参加となっていた。

 国際連盟軍は一種の傭兵であり、各国からの供出金で運営されるが、設立初期の最大のスポンサは、ロマノフ家であり、後の愛新覚羅一族であった。「特区」からの徴収が本格化するのは、「特区」で油田が発見される昭和7年1930年頃からであり、軍の運用は厳しい状況にあった。ワルシャワに駐屯する国際連盟軍は、ドイツからの支援を受けつつ、非常に厳しい環境下で、ソビエト赤軍との抗争を継続してたのである。

 
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