世界大戦は終わらない

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大正の終わり、昭和のはじまり

大正の終わり昭和の初まり03 二大政党の流れを生んだ、税制改革

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 税制改革である。現在の税制調査会は、有名無実化して、消費増税の流れを生みだしているとも言われる。

 明治維新は、富国強兵を目指した、徹底した中央集権国家を確立した。中央集権国家は、中央が優先されるため、地方が蔑ろになる。さらに、地方官僚が中央を見るため、地方政治は官僚の質に左右される。また、中央集権国家は、地方に行くにしたがって、中央の統治体制に不満が重なり、時に暴徒となってしまうことがある。

 原政権は、「我田引鉄」で地方に線路を引き、東京中心の都市構造を大きく変化させた。地方の路線は、港湾都市を起点に開発され、各地域に大きく関与する形となった。

 地租改正。地価の3%を課税するというものです。

 明治期の日本は、地租を基準としていた。所得税や法人税が導入されましたが、所得基準が高く、非常に少ない人に対する税金であったため「名誉税」と言われたそうです。

 つまり、明治期の日本は、百姓から搾り取ることで、国家の税収としていたことになります。日露戦争で勝利した日本にとって課題となったのは、地租を中心とした税制体系の抜本的な見直しにありました。

 地租で徴収する場合、税金を払うのは地方で在り、税金を使うのは中央です。基本的に公務員とは、国家公務員でしたから、地方に不満があっても、国家には届かない状況でもありました。

 地租の徴収は、各地方で実施されていましたので、知事に権限を集中させ、地租を地方予算として作成し、中央に対して交付金を支払う形としたのです。地方では、地租ではなく、人頭税による徴収制度に変更されたのです。

 この対象になったのが、樺太道、北海道、沖縄県、台湾総督府、朝鮮総督府、関東総督府であった。知事および総督に権限を集中し、地域開発を推進する方向に舵をきったのです。

 中央交付税は、金額が中央指示による形で在り、地方予算となるが、鉄道都市整備予算は免除金額として算定される。

 地方の権限確立と、治安維持機能を確保するために、鉄道都市整備局および警備局が活用されたのです。樺太道では、豊原から敷香までの鉄道路線整備は延伸を重ね、油田が発見されていた北端の奥端オハまで延伸された。奥端オハ油田は、ロマノフ家の資産として扱われ、ロマノフ家が60%日本が40%出資して、日本が採掘権を有する会社となった。奥端オハ油田を含めた樺太の油田開発には、久原鉱業、三菱商事、大倉商事、日本石油、宝田石油が、合同出資会社北辰石油(現在の樺太石油会社)を立ち上げて、オハ、カタングリ、エハビの油田を開業し、昭和10年1933年には、年150万トンの生産量となった。奥端オハには、昭和8年1931年工兵学校が開校され、鉄道科と共に化学科が設置された。

 樺太の人口は、ロマノフ家が敷香に帝都を定めてから、ウクライナ等の旧ロシア領から多くのロシア人が脱出し、敷香に居住することになった。敷香には、ロシア帝国府が置かれた、唯一のロシア帝国領であった。上敷香には、大日本帝国陸軍樺太旅団が配され、5000人が駐屯していた。上敷香には、樺太旅団と共に、敷香工兵学校も建てられており、豊原工兵学校、大泊工兵学校と共に、樺太道鉄道都市整備局の主力となっていた。

 敷香に移住したロシア人には、ウラジミール・スミルノフが居て、敷香で酒蔵を拓き、スミルノフ・ウォッカの生産が開始される。スミルノフは、豊原や大泊にも酒蔵を増設し、ロマノフ帝室御用達として、世界に出荷されるようになった。スミルノフ・ウォッカは、ロマノフ家100%出資の帝室会社である。

 税制改革は、地租から所得から税金を納める形となり、所得税額を固定とした、人頭税形式となった。これは、人口の流動性が高く、都市人口と居住者数との乖離が進んだためである。特に樺太道では、パルプからの製紙業、炭鉱に石油採掘、石油精製といった関連産業が拡大しており、移住者による労働力確保が進められたのである。樺太の人口は、日本からの移住を含めて60万人程に対して、ロシアからの移住者が50万人となり、100万を超えていた。

 大正9年の国勢調査で、日本の人口は、55963053人であり、15歳未満36.5%、15-64歳58.3%、65歳以上5.3%であった。国家予算の実行総額が1396283303円とされ、1人あたりで25円となる。子供を含める形となるため、11122120世帯で一戸あたり5人前後となる。15歳未満は対象外とされたため、1人年8円の人頭税が、中央交付対象額とされた。人頭税の額については、各知事の権限範囲とされ、住民から不満が出た場合は、知事の罷免を可能とした。樺太道では住民の税金を10円/人とし、入国管理上の住民管理費用を含めて、10円を手数料および初年度税として納付させたのである。つまり、2円/人が地方予算の対象となり、流入した人口は、初年度は、中央交付の対象外なので、10円×人口増加分は地方予算となる。

 樺太は、急速に工業化が進展した結果、人口増が進んだ地域でもあったため、樺太の道予算は、年々増加の一途となった。






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 工場総生産が60億円(職工5人以上の工場生産額)と算定されている。農家5484563戸で米の生産量9481000トン、米1升1.5kg0.56円なので、35億となります。工業生産と合わせると、95億で漁業や不労所得等は入ってませんから、国家予算13億は総生産額に対して10%といったところでしょうか。
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 地方交付税とは、国家が税金を徴収して、地方へ交付する税金である。考え方としては、所得税から住民税に転化されるのが、地方交付金であり、住民税から所得税に交付されるのが、中央交付税である。

 尋常小学校は、日本統治領に設置され、樺太にも尋常小学校が設置された。樺太の尋常小学校は、日本語教育のみであり、ロシア系住民に対して、ロシア人学校が、ロマノフ家の資産で運用された。運用予算の半額以上が、スミルノフ・ウォッカの売り上げと言われたので、ウォッカ学校とも言われた。

 樺太に設置された、ロシア人学校は、6歳から15歳までを対象とした学校で、半義務化された初めての学校であった。ロシア人学校では、ロシア語教育の後、3年間の日本語教育が行われ、樺太の尋常小学校では、日本語教育の後、最期の3年間は、ロシア語教育が行われた。相互の語学教育は、教師側の交換制度で推進され、日本人がロシア人を教え、ロシア人が日本人を教えた。

 樺太には、ロシア正教徒が多く逃れていたこともあり、敷香にはロシア正教会も建てられた。ボリシェビキ政権によって、多くの教会が弾圧され、虐殺を受けたこともあり、多くの正教徒が、難を逃れて、極東方面に移住してきたのであった。

 正教徒と一緒に、弾圧の対象となった、ユダヤ教徒やイスラム教徒もまた、極東方面に移住してきたのです。

 樺太や北海道は、結果的に人口が増加し、中央交付金制度による、地方自治体制が確立していったのである。

 濱口首相の時は、中央が税の大半を徴収し、地方へと交付金を配布する、地方交付金制度が策定された。後に交付金比率と用途を巡る争いが、そのまま政権抗争となって、日本の国政を左右していくことになる。

 交付税率というのは、地方および中央にとっては、権力の綱引きに等しいモノであった。中央に金を集めるためには、中央交付金を増額し、地方に金をばらまくには、中央交付金を下げる必要がある。この中央交付金比率を巡る争いが、上げるか下げるかが、政権交代の流れとなっていったのである。

 中央交付金を下げるのが、原敬を代表とする政友会の流れであり、中央交付金を上げるのが、濱口雄幸を代表とする民政党の流れとなった。
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