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世界大戦は終わらない
序章09 グレーゾーンを当たり前と考える日本人は、国際会議で直接活躍できません?
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「貧乏父さんに、俺はなるッ」by 著者
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ローバート・キヨサキ著「金持ち父さん、貧乏父さん」一読してからお読みください。
欧米社会の上流階級は、基本として「金持ち父さん」の世界である。19世紀以前の日本は、「金持ち父さん」の能力を有した、「貧乏父さん」の世界であった。20世紀に変わったことは、「金持ち父さん」の能力を有しているために、そのまま「金持ち父さん」になってしまう人間が少しづつ増えていったことにあった。そして、21世紀には、能力や覚悟もなく「金持ち父さん」を目指してしまう人が、増えだしてしまったのである。
国際外交というのは、ただ会話ができるではダメであり、インテリジェンスを発揮し、相手に伝える技術・技能が必要となる。インテリジェンスが、日本人にはあったが、今はなくなったと考える人が居る。著者は「それは間違いである」と考えている。今も昔も、インテリジェンスの高いのが、日本人の特徴である。しかしながら、日本人のもうひとつの特徴として、「金持ち父さん」を嫌う傾向があることであった。
21世紀の日本には、日常会話ができるようになっただけで、インテリジェンスを相手に伝えられない状況から、少しづつ相手に伝えられる技術・技能を身に着けられるようになった。
21世紀は、ようやく日本人が、相手の国の言葉で、インテリジェンスを発揮可能な時代になった。だから、21世紀から、19世紀や20世紀を考えては、誤解を招き理解できない結果になってしまいます。
しかしながら、19世紀から20世紀の日本には、日常会話がようやくできても、インテリジェンスがあっても、相手に伝えるだけの技術・技能を培う段階には至っていなかった。非常に限られた人間が、狭義の知識範囲でインテリジェンスを発揮するのがやっとで、限られた範囲を超えると、とてもではないが対応できる状況になかったのである。これは、欧米諸国家も同じであり、20世紀は、ほとんどの国で、インテリジェンスはあっても、自分のインテリジェンスを相手の言葉で説明できる人間は、希少だったのである。つまりは、当時の国際言語である英語やフランス語をネイティブとする人が、圧倒的に有利な世界であった。
会話ができても、グローバルにはなれません。
日本が英会話の時間を増やそうと、言葉そのものを理解できなければ、外国語でのスピーチなど夢のまた夢でしかありません。会話の技術を身に着け理解しても、相手に伝える能力が無ければ、インテリジェンスは発揮できません。前提として必要な技術を身に付けない状況で、英会話だけ時間が増えても、意味は無いのです。
ヤマト民族という、縄文一万年の中で、緩やかに血縁・地縁で繋いで、構築された民族は、日本国という、世界最長の国家を築いたのです。世界最長の国家に暮らすことは、世界で最もインテリジェンスの高い民族となったのですが、インテリジェンスを発揮することと、拒否することを選べる民族にもなってしまったのです。
インテリジェンスの拒否は、インテリジェンスが無いのではなく、発揮しないとすることにあります。
歴史上、世界で最も識字率の高い国家を、千年以上(数千年かも?)維持し続けた日本は、一定のインテリジェンスを持った国でもあります。
自分からインテリジェンスを発揮すると、面倒事を解決しなければならなくなります、インテリジェンスを発揮すればするほど、面倒事が増え続けていきます。日本人は、困ったことに、どこかで自分の限界が来ると認識できる程度に、インテリジェンスの高い国なのです。つまり、インテリジェンスを発揮すれば、面倒事に振り回される人生となり、インテリジェンスを発揮しなければ、平凡に普通に暮らしていくことができる。
さて、貴方はどちらを選びますか?
伝染病や疫病が拡がり、手洗いとマスクが必須になると、国民に対するストレスとなる。感染リスクが、交通事故程度の確率であっても、0でなければ1で、1でなければ0という状況は変わらない。
こんな頭の悪い二者択一には、インテリジェンスを発揮させても、結果は0でなければ1、1でなければ0で変わらない。どっちも選べないなら、インテリジェンスそのものを放棄した方が、ストレスにならないのである。論理的に判断して、1と0を規定できなければ、どっちを選んでも、結論の本質は変化しない。日本でインテリジェンスを発揮しないのは、結果そのものに選択肢が無いからであり、1にも0にも説得できないからである。
太陽から受ける紫外線が、皮膚がんを発生させる可能性が、存在するのであれば、確率は0ではないが、1であるハズは無い。どこまで、紫外線対策をするのかは、個人の選択範囲であり、そこには1も0も無い。
日本のインテリジェンスは、国内では役に立たないというか、意味は無いのでゴミである。
海外では、インテリジェンスに対応しなければならないし、自分の行動基盤について、相手に説明できなければならない。しかしながら、日本人が行動基盤を相手の国の言葉で説明するのは、非常に厄介なのである。
例として、「正義の殺人」について講義を受けた時、日本人は、正義の殺人を考察するというペルソナを介して授業を受けていた。最高学府の学生は、自分自身を騙せるほどに、ペルソナを演じていた。日本人が保有するインテリジェンスとして、真っ向からぶつかるのであれば、「正義の殺人」は存在しないという前提で議論を展開し、どこまでアメリカ最高学府の教授と議論できるかを考える。英語でその説明が出来る程、英会話に習熟していなければ、ペルソナを演じて、ロールプレイに徹することになる。
もう一つ例を挙げるのであれば、「ベジタリアン」が日本で一定数以上増えない理由である。日本人には、動物と植物を食べるという行為に対して、区別が無い。精進料理というのは存在するし、千数百年前から肉食禁止という通達が出ていながら、日本では実質的な肉食妻帯が行われていた。日本の仏教が、海外の仏教と異質であるのは、本音として肉食妻帯をしても、建前として戒律を破っていないからである。さて、これを英語で説明する前に、日本語で構わないから、外国人に理解できるように説明するのに、どのくらいの時間を必要とするかである。
日本の古来からの前提条件、五戒の1と0
「殺生戒」してはいけないが1、しても良いが0
「偸盗戒」してはいけないが1、しても良いが0
「邪婬戒」してはいけないが1、しても良いが0
「妄語戒」してはいけないが1、しても良いが0
「飲酒戒」してはいけないが1、しても良いが0
例に挙げた、「正義の殺人はあるか?」が、この前提の最初である。この場合の殺生は、すべての命を対象として、日本の場合は森羅万象すべてということになる。動物を殺してないから、「ベジタリアン」は殺生していないというのは、日本では通らない。家畜とペットが別と考えるのも、殺生の範囲としては間違っていることになる。豚や鳥を殺して良くて、犬猫は殺してはいけないというのは、古来からの前提条件からすればおかしくなる話である。
「殺生戒」を律する基準を規定するのは、本人自身で在り、TPOで使い分ける程に、律する基準は変動する。何故なら、1も0も選ぶことが、突き詰めていけば行くほどに、選ぶことができない事象であることが認識できるからである。
「偸盗戒」を律する基準についても、本人自身以外に判断できない事象となる。盗むというのは、前提として所有する概念を、どのように認識しているかについて、互いの認識を確認する必要がある。誰かがゴミ箱に捨てた食い物を、別の誰かがゴミ箱から持ち出して食べた場合、厳密に言えば盗んだことになる。落とし物は、所有権が明確であれば、落とし主に返した方が良いとなっているし、落とし物を着服した場合、盗んだことになる。突き詰めて判定していく時に、どこまでが所有する権利の範囲であり、その状態がどのように変化したら、窃盗という状態に移行するのか、こういった判定を考えなければならないということである。盗んではいけないは当たり前であるが、盗んでいるという状態は、どのような状態を示すのかを明確に定義しなければならない。法律上ではなく、本人自身にとって、どういう基準であるかの明確化は、日本人が一番難しいのだと考えている。
「邪婬戒」を律する基準についても、対象となった者達が、基準を定義する必要がある。性行為して子孫をつくらなければ、生物は滅びる前提として、滅びても構わないからすべての性行為を禁止するとして、滅びの道を選ぶのが1ということになる。性行為そのものを肯定し、邪淫を律しないとすれば、性行為の範囲は際限がなくなり、すべての性行為が肯定され、これが0の世界と言うことになる。通常は1も0も選ばず、律する基準について、本人自身が範囲を規定することであり、ケースバイケースで判断することになる。
「妄語戒」を律する基準は、さらに難しいものである。言葉は、その時代によって変化し、発せられる言霊が持つ意味もまた、時それぞれに変わっていく。子供の頃に読んだ本は、今では但し書きが入らねば読むこともできないし、昔のテレビドラマには、放映できない無音が存在している。これもまた、1も0も選べず、律する基準を、本人自身が定義しなければならない。
「飲酒戒」を律する基準は、酒の範囲まで定義すれば、それこそ広範囲に及んでしまう。つまりは、酒という定義を確立しなければならず、酒を薄めた場合、どこまで薄めたら飲酒では無いのかという基準を定める必要がある。紅茶にブランデーを入れて飲む場合、ブランデーはどの量までが許されて、どの量は許されないのか、そんな判断をすることになる。これもまた、1と0の間に基準を、自分自身で規定する必要がある。
さて、仏教の五戒を、日本人が議論として展開した場合、千差万別の回答が生まれて、議論百出して纏まることは無いという結果になろう。YesとNoを定義できないのであれば、グレーゾーンを認識したうえで、ケースバイケースの対応を図るという、ありきたりの結論になる。
日本人が、世界で最も説得できない民族と認識しているのは、この1と0の矛盾を直感した上で、その時々の認識で判断し、判断結果を正しいと考えていないことにある。正しいかどうかや論理的にどうかではなく、自分がこうするんだという結論であり、正邪を超越した判断となっているからである。日本での議論が平行線となり、議論そのものが成立しなくなることが多いのは、正邪の議論より上位に、自分はこのように判断する、というのが先にあるからである。相手がどのように判断しても、自分の判断基準が変化しないのであれば、議論が議論として成立しない。
五戒という言葉に対して、上記のような説明ができるようになるのは、21世紀に入ってからであり、20世紀の時点で、日本での五戒について説明するのは、非常に困難であった。
恐らくは、20世紀より前に生まれた日本人は、自分の判断基準について、論理的に説明することができなかったと考えている。何故なら、20世紀より前の日本では、ほとんどの人間が、論理的に説明する必要性が無かったからだ。その判断結果が、1と0であり、自分自身がギロチンに掛けられようと、国そのものを焦土にしても、その判断を行ったということになる。欧米列強からすれば、日本人の判断基準が難しいため、対応が難しかったというのもあった。
五十年程考えてみて、19世紀から20世紀の日本人が、世界でどのように扱われたかを考えると、ようやく納得できるようになったのである。日本人の行動を、欧米人は、異質と感じて怯えた。
著者は日本人のことを、「世界で最も説得ができない民族である」という認識をしていて、日々できないなぁと実感している。21世紀でも、日本では議論が議論として成立しないのは、論理的に説明することではなく、相手の感情を説得しなければならないことにある。
<<<<<閑話休題>>>>>
もう30年ほど前になるか、電車の中で近くにいた、UNOというゲームについて話している中学生達の話
「UNOって友達なくすよね」
「そうそう、相手を狙うもんね」
「・・・」
著者は、この話を聞いてる時、モノポリーをプレイしている自分達が、少しおかしいのかなということを感じた。
人狼をプレイしたのは、20年ほど前になるか、最初にプレイして、最初に殺されたのは著者である。十数人でプレイしたのだが、当時の周囲が、どのように著者を見ているかを理解した。そして、参加しないと宣言した友人と話した。
「こうなると推測していれば、参加しない方が正しいだろ」
「そうですねぇ。勉強になりました」
負け抜けのゲームは、負けた人から、別のゲームを始めることができる。
つまりは、その人と著者が両方参加すると、おそらくは票が割れる。単に順番の問題、ならば、最初から票を集中させた方が、予測は簡単である。たかが、ゲームであるけれど、複数の人間に対する行動解析としては、なかなかにシビアである。21世紀になった頃、少なからずこういったゲームが可能になったというこは、日本人がゲームとリアルを切り分けることができるようになったということである。
19世紀までの日本人は、死者を数字で見ることが理性ではできても、感情ではできないし、ゲーム上の出来事とリアルの関係を切り離すことができない人間が多かったと推定できる。盤双六というゲームがあるが、古代世界の中心であったペルシャから伝わり、天平期から主上が夢中になった遊戯であるが、庶民階級へと広がっていったが江戸期から徐々に廃れて、プレイヤーが減ったと言われているゲームである。このゲームの状況の一つに、相手をロックすることが可能なゲームであり、ゲームとリアルを分けれないと、プレイすることが難しいゲームである。江戸期の文献の中に、相手をロックすることが可能なゲームで、あえて相手をロックしないようにプレイする話があるのは、ゲームとリアルの切り分けができない相手と、実際にプレイするためのルールであったと推定している。そして、日本人の場合は、リアルの戦争であっても、このようなロックすることが可能な状況で、ロックすることを卑怯で否定するような人間でもあった。将棋の駒落ちや囲碁の置石は、ハンデキャップマッチであり、対等にするための技法である。
そろらくは今でも、純粋にゲームとリアルを切り分ける日本人は、それほど多くは無いと考えているし、ネット上で誹謗中傷が発生して、それがそのままリアルに直結しやすいのも、日本人に多くみられる傾向である。今問題になっている伝染病にかかってしまった人を、地域で村八分にして、住んでいる場所を追い出すことが現実に発生する程度には、日本人の多くが感情的に1と0を判断する国民である証左と考えている。
つまり日本人の多くは、私的な立場と公的な立場を、切り分けることができず、本音と建て前を一致させることを良いことと考えている。さらに言えば、著者は、「金持ち父さん、貧乏父さん」という本を30年ほど前に読んで、本に掲載されていたゲームを輸入して和訳して、プレイすることを他人に教えながら、「貧乏父さんを、俺は目指す」と結論付けた。なぜなら、教えていて、必死で「金持ち父さん」を頑張ろうとする人に、向いてないしなれませんと断言して言ってしまうからだ。それほどに、「金持ち父さん」に成れない人が多いのも、日本人の特徴であり、それは長所である。できれば、日本の子供たちには、「金持ち父さん」を目指すのではなく、「貧乏父さん」を目指して欲しいと著者は考えている。
私の知り合いの多くは、「金持ち父さん」を知って知識や技術を得た上で、リアルでは「貧乏父さん」を選ぶ人たちが多い。つまりは、徹底した趣味人で、金にならないことであっても、全力で支援するくらいに、「貧乏父さん」な人達である。正直に言えば、30年以上前だと、そういう人達が、集まる世界が、盤上遊戯の世界であったとも言える。
バブルが弾けた頃、ITで儲けたいと思う人は、非常に多かった。先のセミナーで、必死にゲームを頑張ろうとする人は、典型的な例であった。「金持ち父さん貧乏父さん」を読んで理解したことは、「ITで儲けたいと思う人は、儲からない」であり、「貧乏父さん」を目指すことで、ITを活用して稼げることが可能になる人が、あまりにも日本人には多すぎるであった。
「金持ち父さん」を目指して、成りあがった方は、何で「貧乏父さん」を目指すのかが理解できない。だから、「金持ち父さん」を目指すことを正しいと、様々な場所で発言し書いてしまう。
ここまで書いて理解できただろうか?「金持ち父さん」になれる人は、最初に記述したようにUNOで友達をなくすことを「考えたことも無い」人達である。著者自身は、そういった状況を理解した上で、「貧乏父さんに、俺はなるッ」と言い切るような人間を目指している。
国際社会で生きていくのに、「金持ち父さん」の考え方ができないとダメと考えている人も多いのは、欧米の政治や経済そのものが、「金持ち父さん」の考え方が、上流階級を構成し支配しているからである。
19世紀までの日本は、金持ちであっても「貧乏父さん」の国であり、それこそが、日本をここまで維持して、発展させてきたのだと考えている。確かに国際社会というのは、「金持ち父さん」な方々の世界であるが、その中で日本に住む人が目指すべき方向性としては、「金持ち父さん」がどんな人かを知り、自分も目指せる人間に育った上で、「貧乏父さんに、俺はなる」と宣言し選んでくれる日本人が多いと良いなぁと考えている。
おそらくは21世紀の間に、拡大する経済世界そのものが、現実世界から乖離し切り離されていくことになる。何故なら、現実世界そのものが、経済世界から既に乖離し始めている。現実世界で物理的なモノが、モノとして保有する経済規模に対して、世界経済そのものが拡大して仮想世界に構築されている経済世界が暴走しすぎて、あまりにも乖離している状況がある。
リーマンショックを受けても人々は、「金持ち父さん」ばかりが増える世界の危険性を、あまり理解はしていないようである。現状で、経済世界が弾けないのは、一般の「貧乏父さん」のような人々に至るまで、物ではないモノに価値を付け始め、経済規模の拡大を助長しているからである。現実にモノでないのに、不良品が出回ったり、通販以上のリスクを抱えていることを理解し難い人たちが、仮想世界の経済規模拡大に貢献している。
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21世紀の百年というのは、人間が仮想世界に侵食される世紀のようだ。
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「貧乏父さんに、俺はなるッ」by 著者
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ローバート・キヨサキ著「金持ち父さん、貧乏父さん」一読してからお読みください。
欧米社会の上流階級は、基本として「金持ち父さん」の世界である。19世紀以前の日本は、「金持ち父さん」の能力を有した、「貧乏父さん」の世界であった。20世紀に変わったことは、「金持ち父さん」の能力を有しているために、そのまま「金持ち父さん」になってしまう人間が少しづつ増えていったことにあった。そして、21世紀には、能力や覚悟もなく「金持ち父さん」を目指してしまう人が、増えだしてしまったのである。
国際外交というのは、ただ会話ができるではダメであり、インテリジェンスを発揮し、相手に伝える技術・技能が必要となる。インテリジェンスが、日本人にはあったが、今はなくなったと考える人が居る。著者は「それは間違いである」と考えている。今も昔も、インテリジェンスの高いのが、日本人の特徴である。しかしながら、日本人のもうひとつの特徴として、「金持ち父さん」を嫌う傾向があることであった。
21世紀の日本には、日常会話ができるようになっただけで、インテリジェンスを相手に伝えられない状況から、少しづつ相手に伝えられる技術・技能を身に着けられるようになった。
21世紀は、ようやく日本人が、相手の国の言葉で、インテリジェンスを発揮可能な時代になった。だから、21世紀から、19世紀や20世紀を考えては、誤解を招き理解できない結果になってしまいます。
しかしながら、19世紀から20世紀の日本には、日常会話がようやくできても、インテリジェンスがあっても、相手に伝えるだけの技術・技能を培う段階には至っていなかった。非常に限られた人間が、狭義の知識範囲でインテリジェンスを発揮するのがやっとで、限られた範囲を超えると、とてもではないが対応できる状況になかったのである。これは、欧米諸国家も同じであり、20世紀は、ほとんどの国で、インテリジェンスはあっても、自分のインテリジェンスを相手の言葉で説明できる人間は、希少だったのである。つまりは、当時の国際言語である英語やフランス語をネイティブとする人が、圧倒的に有利な世界であった。
会話ができても、グローバルにはなれません。
日本が英会話の時間を増やそうと、言葉そのものを理解できなければ、外国語でのスピーチなど夢のまた夢でしかありません。会話の技術を身に着け理解しても、相手に伝える能力が無ければ、インテリジェンスは発揮できません。前提として必要な技術を身に付けない状況で、英会話だけ時間が増えても、意味は無いのです。
ヤマト民族という、縄文一万年の中で、緩やかに血縁・地縁で繋いで、構築された民族は、日本国という、世界最長の国家を築いたのです。世界最長の国家に暮らすことは、世界で最もインテリジェンスの高い民族となったのですが、インテリジェンスを発揮することと、拒否することを選べる民族にもなってしまったのです。
インテリジェンスの拒否は、インテリジェンスが無いのではなく、発揮しないとすることにあります。
歴史上、世界で最も識字率の高い国家を、千年以上(数千年かも?)維持し続けた日本は、一定のインテリジェンスを持った国でもあります。
自分からインテリジェンスを発揮すると、面倒事を解決しなければならなくなります、インテリジェンスを発揮すればするほど、面倒事が増え続けていきます。日本人は、困ったことに、どこかで自分の限界が来ると認識できる程度に、インテリジェンスの高い国なのです。つまり、インテリジェンスを発揮すれば、面倒事に振り回される人生となり、インテリジェンスを発揮しなければ、平凡に普通に暮らしていくことができる。
さて、貴方はどちらを選びますか?
伝染病や疫病が拡がり、手洗いとマスクが必須になると、国民に対するストレスとなる。感染リスクが、交通事故程度の確率であっても、0でなければ1で、1でなければ0という状況は変わらない。
こんな頭の悪い二者択一には、インテリジェンスを発揮させても、結果は0でなければ1、1でなければ0で変わらない。どっちも選べないなら、インテリジェンスそのものを放棄した方が、ストレスにならないのである。論理的に判断して、1と0を規定できなければ、どっちを選んでも、結論の本質は変化しない。日本でインテリジェンスを発揮しないのは、結果そのものに選択肢が無いからであり、1にも0にも説得できないからである。
太陽から受ける紫外線が、皮膚がんを発生させる可能性が、存在するのであれば、確率は0ではないが、1であるハズは無い。どこまで、紫外線対策をするのかは、個人の選択範囲であり、そこには1も0も無い。
日本のインテリジェンスは、国内では役に立たないというか、意味は無いのでゴミである。
海外では、インテリジェンスに対応しなければならないし、自分の行動基盤について、相手に説明できなければならない。しかしながら、日本人が行動基盤を相手の国の言葉で説明するのは、非常に厄介なのである。
例として、「正義の殺人」について講義を受けた時、日本人は、正義の殺人を考察するというペルソナを介して授業を受けていた。最高学府の学生は、自分自身を騙せるほどに、ペルソナを演じていた。日本人が保有するインテリジェンスとして、真っ向からぶつかるのであれば、「正義の殺人」は存在しないという前提で議論を展開し、どこまでアメリカ最高学府の教授と議論できるかを考える。英語でその説明が出来る程、英会話に習熟していなければ、ペルソナを演じて、ロールプレイに徹することになる。
もう一つ例を挙げるのであれば、「ベジタリアン」が日本で一定数以上増えない理由である。日本人には、動物と植物を食べるという行為に対して、区別が無い。精進料理というのは存在するし、千数百年前から肉食禁止という通達が出ていながら、日本では実質的な肉食妻帯が行われていた。日本の仏教が、海外の仏教と異質であるのは、本音として肉食妻帯をしても、建前として戒律を破っていないからである。さて、これを英語で説明する前に、日本語で構わないから、外国人に理解できるように説明するのに、どのくらいの時間を必要とするかである。
日本の古来からの前提条件、五戒の1と0
「殺生戒」してはいけないが1、しても良いが0
「偸盗戒」してはいけないが1、しても良いが0
「邪婬戒」してはいけないが1、しても良いが0
「妄語戒」してはいけないが1、しても良いが0
「飲酒戒」してはいけないが1、しても良いが0
例に挙げた、「正義の殺人はあるか?」が、この前提の最初である。この場合の殺生は、すべての命を対象として、日本の場合は森羅万象すべてということになる。動物を殺してないから、「ベジタリアン」は殺生していないというのは、日本では通らない。家畜とペットが別と考えるのも、殺生の範囲としては間違っていることになる。豚や鳥を殺して良くて、犬猫は殺してはいけないというのは、古来からの前提条件からすればおかしくなる話である。
「殺生戒」を律する基準を規定するのは、本人自身で在り、TPOで使い分ける程に、律する基準は変動する。何故なら、1も0も選ぶことが、突き詰めていけば行くほどに、選ぶことができない事象であることが認識できるからである。
「偸盗戒」を律する基準についても、本人自身以外に判断できない事象となる。盗むというのは、前提として所有する概念を、どのように認識しているかについて、互いの認識を確認する必要がある。誰かがゴミ箱に捨てた食い物を、別の誰かがゴミ箱から持ち出して食べた場合、厳密に言えば盗んだことになる。落とし物は、所有権が明確であれば、落とし主に返した方が良いとなっているし、落とし物を着服した場合、盗んだことになる。突き詰めて判定していく時に、どこまでが所有する権利の範囲であり、その状態がどのように変化したら、窃盗という状態に移行するのか、こういった判定を考えなければならないということである。盗んではいけないは当たり前であるが、盗んでいるという状態は、どのような状態を示すのかを明確に定義しなければならない。法律上ではなく、本人自身にとって、どういう基準であるかの明確化は、日本人が一番難しいのだと考えている。
「邪婬戒」を律する基準についても、対象となった者達が、基準を定義する必要がある。性行為して子孫をつくらなければ、生物は滅びる前提として、滅びても構わないからすべての性行為を禁止するとして、滅びの道を選ぶのが1ということになる。性行為そのものを肯定し、邪淫を律しないとすれば、性行為の範囲は際限がなくなり、すべての性行為が肯定され、これが0の世界と言うことになる。通常は1も0も選ばず、律する基準について、本人自身が範囲を規定することであり、ケースバイケースで判断することになる。
「妄語戒」を律する基準は、さらに難しいものである。言葉は、その時代によって変化し、発せられる言霊が持つ意味もまた、時それぞれに変わっていく。子供の頃に読んだ本は、今では但し書きが入らねば読むこともできないし、昔のテレビドラマには、放映できない無音が存在している。これもまた、1も0も選べず、律する基準を、本人自身が定義しなければならない。
「飲酒戒」を律する基準は、酒の範囲まで定義すれば、それこそ広範囲に及んでしまう。つまりは、酒という定義を確立しなければならず、酒を薄めた場合、どこまで薄めたら飲酒では無いのかという基準を定める必要がある。紅茶にブランデーを入れて飲む場合、ブランデーはどの量までが許されて、どの量は許されないのか、そんな判断をすることになる。これもまた、1と0の間に基準を、自分自身で規定する必要がある。
さて、仏教の五戒を、日本人が議論として展開した場合、千差万別の回答が生まれて、議論百出して纏まることは無いという結果になろう。YesとNoを定義できないのであれば、グレーゾーンを認識したうえで、ケースバイケースの対応を図るという、ありきたりの結論になる。
日本人が、世界で最も説得できない民族と認識しているのは、この1と0の矛盾を直感した上で、その時々の認識で判断し、判断結果を正しいと考えていないことにある。正しいかどうかや論理的にどうかではなく、自分がこうするんだという結論であり、正邪を超越した判断となっているからである。日本での議論が平行線となり、議論そのものが成立しなくなることが多いのは、正邪の議論より上位に、自分はこのように判断する、というのが先にあるからである。相手がどのように判断しても、自分の判断基準が変化しないのであれば、議論が議論として成立しない。
五戒という言葉に対して、上記のような説明ができるようになるのは、21世紀に入ってからであり、20世紀の時点で、日本での五戒について説明するのは、非常に困難であった。
恐らくは、20世紀より前に生まれた日本人は、自分の判断基準について、論理的に説明することができなかったと考えている。何故なら、20世紀より前の日本では、ほとんどの人間が、論理的に説明する必要性が無かったからだ。その判断結果が、1と0であり、自分自身がギロチンに掛けられようと、国そのものを焦土にしても、その判断を行ったということになる。欧米列強からすれば、日本人の判断基準が難しいため、対応が難しかったというのもあった。
五十年程考えてみて、19世紀から20世紀の日本人が、世界でどのように扱われたかを考えると、ようやく納得できるようになったのである。日本人の行動を、欧米人は、異質と感じて怯えた。
著者は日本人のことを、「世界で最も説得ができない民族である」という認識をしていて、日々できないなぁと実感している。21世紀でも、日本では議論が議論として成立しないのは、論理的に説明することではなく、相手の感情を説得しなければならないことにある。
<<<<<閑話休題>>>>>
もう30年ほど前になるか、電車の中で近くにいた、UNOというゲームについて話している中学生達の話
「UNOって友達なくすよね」
「そうそう、相手を狙うもんね」
「・・・」
著者は、この話を聞いてる時、モノポリーをプレイしている自分達が、少しおかしいのかなということを感じた。
人狼をプレイしたのは、20年ほど前になるか、最初にプレイして、最初に殺されたのは著者である。十数人でプレイしたのだが、当時の周囲が、どのように著者を見ているかを理解した。そして、参加しないと宣言した友人と話した。
「こうなると推測していれば、参加しない方が正しいだろ」
「そうですねぇ。勉強になりました」
負け抜けのゲームは、負けた人から、別のゲームを始めることができる。
つまりは、その人と著者が両方参加すると、おそらくは票が割れる。単に順番の問題、ならば、最初から票を集中させた方が、予測は簡単である。たかが、ゲームであるけれど、複数の人間に対する行動解析としては、なかなかにシビアである。21世紀になった頃、少なからずこういったゲームが可能になったというこは、日本人がゲームとリアルを切り分けることができるようになったということである。
19世紀までの日本人は、死者を数字で見ることが理性ではできても、感情ではできないし、ゲーム上の出来事とリアルの関係を切り離すことができない人間が多かったと推定できる。盤双六というゲームがあるが、古代世界の中心であったペルシャから伝わり、天平期から主上が夢中になった遊戯であるが、庶民階級へと広がっていったが江戸期から徐々に廃れて、プレイヤーが減ったと言われているゲームである。このゲームの状況の一つに、相手をロックすることが可能なゲームであり、ゲームとリアルを分けれないと、プレイすることが難しいゲームである。江戸期の文献の中に、相手をロックすることが可能なゲームで、あえて相手をロックしないようにプレイする話があるのは、ゲームとリアルの切り分けができない相手と、実際にプレイするためのルールであったと推定している。そして、日本人の場合は、リアルの戦争であっても、このようなロックすることが可能な状況で、ロックすることを卑怯で否定するような人間でもあった。将棋の駒落ちや囲碁の置石は、ハンデキャップマッチであり、対等にするための技法である。
そろらくは今でも、純粋にゲームとリアルを切り分ける日本人は、それほど多くは無いと考えているし、ネット上で誹謗中傷が発生して、それがそのままリアルに直結しやすいのも、日本人に多くみられる傾向である。今問題になっている伝染病にかかってしまった人を、地域で村八分にして、住んでいる場所を追い出すことが現実に発生する程度には、日本人の多くが感情的に1と0を判断する国民である証左と考えている。
つまり日本人の多くは、私的な立場と公的な立場を、切り分けることができず、本音と建て前を一致させることを良いことと考えている。さらに言えば、著者は、「金持ち父さん、貧乏父さん」という本を30年ほど前に読んで、本に掲載されていたゲームを輸入して和訳して、プレイすることを他人に教えながら、「貧乏父さんを、俺は目指す」と結論付けた。なぜなら、教えていて、必死で「金持ち父さん」を頑張ろうとする人に、向いてないしなれませんと断言して言ってしまうからだ。それほどに、「金持ち父さん」に成れない人が多いのも、日本人の特徴であり、それは長所である。できれば、日本の子供たちには、「金持ち父さん」を目指すのではなく、「貧乏父さん」を目指して欲しいと著者は考えている。
私の知り合いの多くは、「金持ち父さん」を知って知識や技術を得た上で、リアルでは「貧乏父さん」を選ぶ人たちが多い。つまりは、徹底した趣味人で、金にならないことであっても、全力で支援するくらいに、「貧乏父さん」な人達である。正直に言えば、30年以上前だと、そういう人達が、集まる世界が、盤上遊戯の世界であったとも言える。
バブルが弾けた頃、ITで儲けたいと思う人は、非常に多かった。先のセミナーで、必死にゲームを頑張ろうとする人は、典型的な例であった。「金持ち父さん貧乏父さん」を読んで理解したことは、「ITで儲けたいと思う人は、儲からない」であり、「貧乏父さん」を目指すことで、ITを活用して稼げることが可能になる人が、あまりにも日本人には多すぎるであった。
「金持ち父さん」を目指して、成りあがった方は、何で「貧乏父さん」を目指すのかが理解できない。だから、「金持ち父さん」を目指すことを正しいと、様々な場所で発言し書いてしまう。
ここまで書いて理解できただろうか?「金持ち父さん」になれる人は、最初に記述したようにUNOで友達をなくすことを「考えたことも無い」人達である。著者自身は、そういった状況を理解した上で、「貧乏父さんに、俺はなるッ」と言い切るような人間を目指している。
国際社会で生きていくのに、「金持ち父さん」の考え方ができないとダメと考えている人も多いのは、欧米の政治や経済そのものが、「金持ち父さん」の考え方が、上流階級を構成し支配しているからである。
19世紀までの日本は、金持ちであっても「貧乏父さん」の国であり、それこそが、日本をここまで維持して、発展させてきたのだと考えている。確かに国際社会というのは、「金持ち父さん」な方々の世界であるが、その中で日本に住む人が目指すべき方向性としては、「金持ち父さん」がどんな人かを知り、自分も目指せる人間に育った上で、「貧乏父さんに、俺はなる」と宣言し選んでくれる日本人が多いと良いなぁと考えている。
おそらくは21世紀の間に、拡大する経済世界そのものが、現実世界から乖離し切り離されていくことになる。何故なら、現実世界そのものが、経済世界から既に乖離し始めている。現実世界で物理的なモノが、モノとして保有する経済規模に対して、世界経済そのものが拡大して仮想世界に構築されている経済世界が暴走しすぎて、あまりにも乖離している状況がある。
リーマンショックを受けても人々は、「金持ち父さん」ばかりが増える世界の危険性を、あまり理解はしていないようである。現状で、経済世界が弾けないのは、一般の「貧乏父さん」のような人々に至るまで、物ではないモノに価値を付け始め、経済規模の拡大を助長しているからである。現実にモノでないのに、不良品が出回ったり、通販以上のリスクを抱えていることを理解し難い人たちが、仮想世界の経済規模拡大に貢献している。
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21世紀の百年というのは、人間が仮想世界に侵食される世紀のようだ。
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