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お爺ぃ、よもやま噺
日ノ本宗教観 中村生雄著「肉食妻帯考」を読んで
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日ノ本に住まう者は、一般に仏教の国というイメージがあるが、仏教国と呼ばれる東南アジアの国々からするとかなり異質な国と言われている。同級生に近所の寺の子が居て、寺の子は、寺を継ぐと言われていた。つまりは、その寺の住職さんには、妻と子が居るのだ。これは、非常に特徴的な宗教観ということになる。
日ノ本で国家宗教における仏教化と神仏混淆は、非常に大きな変化を日ノ本における仏教にもたらしていた。
日ノ本では、出家者が、妻を娶り、肉を食べるからである。
日ノ本仏教の大きな特徴は、「肉食妻帯」にあるとされている。肉食妻帯は、仏教の戒律で禁止されている項目である。
日ノ本が戒律は、大陸の律宗から鑑真上人が渡航して、日ノ本に戒壇を開いて、授戒を行ったのが始まりとなります。
日ノ本では、尼僧は居たが、当時の戒壇では授戒できなかったとされている。戒律における女性の扱いは、キリストを処女受胎から生まれたとするキリスト教におけるマリアの扱いと同じく、非常に難しい扱いを受けていたと考えられる。
1205年における「興福寺訴状」では、“専修念仏者が、女犯肉食は成仏を妨げず“と法然、親鸞が言っていることへ糾弾が描かれているそうだ。
奏状は、専修念仏を非難する理由として、(by うぃき)
「新宗を立つる失」…正統な論拠を示すことなく、勅許も得ずして、新しい宗派を立てること。
「新像を図する失」…専修念仏の徒のみが救済されるという、根拠に乏しい図像を弄すること。
「釈尊を軽んずる失」…阿弥陀如来のみを礼拝して仏教の根本を説いた釈迦を軽んずること。
「万善を妨ぐる失」…称名念仏だけを重んじて造寺造仏などの善行を妨害すること。
「霊神に背く失」…八幡神や春日神など日本国を守護してきた神々を軽侮すること。
「浄土に暗き失」…極楽往生にまつわる種々の教えのなかで特殊で偏向した立場に拘泥すること。
「念仏を誤る失」…さまざまな念仏のなかで、もっぱら称名念仏に限って偏重すること。
「釈衆を損ずる失」…往生が決定したなどと公言して悪行をはたらくことをおそれない不心得な念仏者が多いこと。
「国土を乱る失」…国を守護すべき仏法の立場をわきまえず、正しい仏法のあり方を乱してしまうこと。
という具体的で詳細な「9か条の失」を掲げた。
狩猟漁撈を生業とし、金勘定を生業とするモノ達にとって、生きることの業をどのように考えるかということ。男女の情愛が、子孫を育み、人を存続させることをどのように考えるかが重要なのだ。
これは、様々な宗教における弾圧や争いを生み出した矛盾の一つであった。
日ノ本での仏教は、国家仏教であり、律令の中に規定されていた。国分寺、国分尼寺というのは、それぞれの国に寺と尼寺を設けることで、国家律令を教え諭す場としての性格も持っていたと考えられる。だからこそ、戒律戒壇は重要であり、授戒が国家管理であった理由でもあったのだろう。
一方で、神社との争いではなく、神仏習合の形で進められた。個人的には、ローマ帝国によるキリスト教浸透と発展の中で、キリストの聖母マリアに対する考え方の変遷に類似しているのではないかとも思う。
原始仏教における五戒は、不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒となっていて、肉食を禁じる項目は無い。日ノ本の僧尼令では、飲酒、肉食を禁じ、破った者には三十日苦役とされているが、薬膳としては食しても良いとなっていて、薬事療養は例外として規定されています。このように、時代や国情によって、戒律にも変遷が生じるのは、人の有り様であり、日ノ本の有り様としては、肉食や飲酒を極端に異端とする方が危険性が高いと判断したのだと思います。
日ノ本では、律令の規定では、天武四年四月に肉食の禁止が法令化しています。しかしながら、牛、馬、犬、猿、鶏のように農耕等で利用され儀礼に利用される動物は、食肉の範囲から外されたのではなく、四月から九月までの期間限定での禁止令であったそうです。つまりは、農耕期間中や儀礼祭典に必要とされる期間は、狩猟や肉食の禁止となっていますが、10月以降は解禁ということになります
ので、狩猟や肉食の制限は無くなります。
天平の時代になっていくと、肉食の禁止が、戒律となって流布されますが、民間での説話では、魚を食すことや、冬山で雪に閉じ込められた坊さんが、食べ物も無く観音様に祈っていると、お堂の中に狼に食い殺された猪が置かれて、坊さんが猪を食べて助かるといった説話となって、やむを得ない肉食の容認が勧められています。
マタイによる福音書15章10節「口に入るモノは人を汚さず、口から出てくるモノが人を汚す」これは、今昔物語で伝えられる、「心菩提を障う、食菩提を障へず」の説話に近似しています。心と内面が重視されて、形や外面は重視すべきではないという考え方が、法然を中心とした教えになっていったと言われています。
日ノ本では、肉食の禁止は、外面的なモノで、世俗社会の領域が規定しているモノであって、根源的なモノではないというのが、日ノ本の有り様ではないかと思います。五穀、狩猟、漁勞それぞれは、生活との関わりとして肯定すべきモノである。生きとし生けるものの生業そのものには、貴賎貧富の違いなく、在るモノを存じあげるように、容認することが、自身の有り様を肯定することのように思います。
神仏習合という考え方は、キリスト教が欧州に教えを広めるにあたって、様々な地域の神々を精霊や悪霊として変質させ、最終的には排除する方向へと進んでいきました。しかしながら、日ノ本では、寺の境内にそのまま社を残すといった形で受容することで、許容するという考え方が基本でありました。これは、宗教の有り様からすれば異質な事柄であり、「神祇不拝」を前提とすると、ありえないことだったりします。
日ノ本の宗教では、都合よく矛盾を内包させ、矛盾を超越したところに、内面の在り様として真理を置いていた様に思います。
僧の妻帯というのは、法然、親鸞に始まるわけではなく、女犯そのものは戒律に反していましたが、平安期であっても弟子への継承という形はとっていても、実子に寺を継がせることは、普通に行われていたという現実が在ります。つまりは、子供を為しているのが普通であったということになります。
これは、法で規定された事柄は、あくまでも表向きの事柄であって、戒律に規定されていても、許容されるものであったということになります。つまりは、日ノ本では、善悪の論議というのは、あくまでも相対的なモノであり、ケースバイケースで考えなければならないモノという認識をすべきなのです。
殺人、盗み、淫行、虚偽、飲酒といった事柄についても、平安期に仏僧が武装して強訴に及んだように、南北朝の戦いに僧兵が参加した様に、矛盾を内包していたことには事実である。宝蔵院流のように、仏僧が槍術を学び流派を興していることも事実である。
「白黒つけず」が、日ノ本の本質なのかもしれません。
このような、混沌の中で生きるというのは、個人的には好みなのですが、白黒をはっきりさせたい人には、歯がゆいのかもしれませんねぇ。
日ノ本で国家宗教における仏教化と神仏混淆は、非常に大きな変化を日ノ本における仏教にもたらしていた。
日ノ本では、出家者が、妻を娶り、肉を食べるからである。
日ノ本仏教の大きな特徴は、「肉食妻帯」にあるとされている。肉食妻帯は、仏教の戒律で禁止されている項目である。
日ノ本が戒律は、大陸の律宗から鑑真上人が渡航して、日ノ本に戒壇を開いて、授戒を行ったのが始まりとなります。
日ノ本では、尼僧は居たが、当時の戒壇では授戒できなかったとされている。戒律における女性の扱いは、キリストを処女受胎から生まれたとするキリスト教におけるマリアの扱いと同じく、非常に難しい扱いを受けていたと考えられる。
1205年における「興福寺訴状」では、“専修念仏者が、女犯肉食は成仏を妨げず“と法然、親鸞が言っていることへ糾弾が描かれているそうだ。
奏状は、専修念仏を非難する理由として、(by うぃき)
「新宗を立つる失」…正統な論拠を示すことなく、勅許も得ずして、新しい宗派を立てること。
「新像を図する失」…専修念仏の徒のみが救済されるという、根拠に乏しい図像を弄すること。
「釈尊を軽んずる失」…阿弥陀如来のみを礼拝して仏教の根本を説いた釈迦を軽んずること。
「万善を妨ぐる失」…称名念仏だけを重んじて造寺造仏などの善行を妨害すること。
「霊神に背く失」…八幡神や春日神など日本国を守護してきた神々を軽侮すること。
「浄土に暗き失」…極楽往生にまつわる種々の教えのなかで特殊で偏向した立場に拘泥すること。
「念仏を誤る失」…さまざまな念仏のなかで、もっぱら称名念仏に限って偏重すること。
「釈衆を損ずる失」…往生が決定したなどと公言して悪行をはたらくことをおそれない不心得な念仏者が多いこと。
「国土を乱る失」…国を守護すべき仏法の立場をわきまえず、正しい仏法のあり方を乱してしまうこと。
という具体的で詳細な「9か条の失」を掲げた。
狩猟漁撈を生業とし、金勘定を生業とするモノ達にとって、生きることの業をどのように考えるかということ。男女の情愛が、子孫を育み、人を存続させることをどのように考えるかが重要なのだ。
これは、様々な宗教における弾圧や争いを生み出した矛盾の一つであった。
日ノ本での仏教は、国家仏教であり、律令の中に規定されていた。国分寺、国分尼寺というのは、それぞれの国に寺と尼寺を設けることで、国家律令を教え諭す場としての性格も持っていたと考えられる。だからこそ、戒律戒壇は重要であり、授戒が国家管理であった理由でもあったのだろう。
一方で、神社との争いではなく、神仏習合の形で進められた。個人的には、ローマ帝国によるキリスト教浸透と発展の中で、キリストの聖母マリアに対する考え方の変遷に類似しているのではないかとも思う。
原始仏教における五戒は、不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒となっていて、肉食を禁じる項目は無い。日ノ本の僧尼令では、飲酒、肉食を禁じ、破った者には三十日苦役とされているが、薬膳としては食しても良いとなっていて、薬事療養は例外として規定されています。このように、時代や国情によって、戒律にも変遷が生じるのは、人の有り様であり、日ノ本の有り様としては、肉食や飲酒を極端に異端とする方が危険性が高いと判断したのだと思います。
日ノ本では、律令の規定では、天武四年四月に肉食の禁止が法令化しています。しかしながら、牛、馬、犬、猿、鶏のように農耕等で利用され儀礼に利用される動物は、食肉の範囲から外されたのではなく、四月から九月までの期間限定での禁止令であったそうです。つまりは、農耕期間中や儀礼祭典に必要とされる期間は、狩猟や肉食の禁止となっていますが、10月以降は解禁ということになります
ので、狩猟や肉食の制限は無くなります。
天平の時代になっていくと、肉食の禁止が、戒律となって流布されますが、民間での説話では、魚を食すことや、冬山で雪に閉じ込められた坊さんが、食べ物も無く観音様に祈っていると、お堂の中に狼に食い殺された猪が置かれて、坊さんが猪を食べて助かるといった説話となって、やむを得ない肉食の容認が勧められています。
マタイによる福音書15章10節「口に入るモノは人を汚さず、口から出てくるモノが人を汚す」これは、今昔物語で伝えられる、「心菩提を障う、食菩提を障へず」の説話に近似しています。心と内面が重視されて、形や外面は重視すべきではないという考え方が、法然を中心とした教えになっていったと言われています。
日ノ本では、肉食の禁止は、外面的なモノで、世俗社会の領域が規定しているモノであって、根源的なモノではないというのが、日ノ本の有り様ではないかと思います。五穀、狩猟、漁勞それぞれは、生活との関わりとして肯定すべきモノである。生きとし生けるものの生業そのものには、貴賎貧富の違いなく、在るモノを存じあげるように、容認することが、自身の有り様を肯定することのように思います。
神仏習合という考え方は、キリスト教が欧州に教えを広めるにあたって、様々な地域の神々を精霊や悪霊として変質させ、最終的には排除する方向へと進んでいきました。しかしながら、日ノ本では、寺の境内にそのまま社を残すといった形で受容することで、許容するという考え方が基本でありました。これは、宗教の有り様からすれば異質な事柄であり、「神祇不拝」を前提とすると、ありえないことだったりします。
日ノ本の宗教では、都合よく矛盾を内包させ、矛盾を超越したところに、内面の在り様として真理を置いていた様に思います。
僧の妻帯というのは、法然、親鸞に始まるわけではなく、女犯そのものは戒律に反していましたが、平安期であっても弟子への継承という形はとっていても、実子に寺を継がせることは、普通に行われていたという現実が在ります。つまりは、子供を為しているのが普通であったということになります。
これは、法で規定された事柄は、あくまでも表向きの事柄であって、戒律に規定されていても、許容されるものであったということになります。つまりは、日ノ本では、善悪の論議というのは、あくまでも相対的なモノであり、ケースバイケースで考えなければならないモノという認識をすべきなのです。
殺人、盗み、淫行、虚偽、飲酒といった事柄についても、平安期に仏僧が武装して強訴に及んだように、南北朝の戦いに僧兵が参加した様に、矛盾を内包していたことには事実である。宝蔵院流のように、仏僧が槍術を学び流派を興していることも事実である。
「白黒つけず」が、日ノ本の本質なのかもしれません。
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