琉球お爺いの綺談

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琉球お爺ぃ小話

戦国椿説景05 鎌倉幕府崩壊す

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 貨幣経済の浸透によって、鎌倉時代に貫高制が制定され、土地の評価は銭で勘定できるようになっていった。鎌倉時代に御家人の困窮が始まるのは、貨幣経済の浸透したことと、土地からの収益が鎌倉末期には頭打ちになり、相対的に御家人が貧乏になっていったことにあった。

 日本の経済システムは、国策によって制定されるモノではなく、必要に応じて勝手に構築されて、必要に応じて変化していくモノであった。このため、経済は、

 御恩と奉公を基本としているため、土地を守ることが御家人の基本であり、御家人が土地を手放す土地の売買について、鎌倉幕府は認めるわけにはいかなかった。

 土地が貨幣で評価されることは、土地の売価を見積もることが可能になり、銭に困窮する御家人にとっては、伝来の土地を手放さざるを得ない状況が生まれることになった。元寇以降は、国防に御家人が動員されることになるが、御家人にとっては、収入が増えないにも関わらず負担だけが増加する形になった。このために、御家人を救済するため、鎌倉幕府が徳政令を発布せざるをえなくなったのは、困窮した御家人が、土地を売り渡したことにあった。

 徳政令の布告理由は、幕府が安堵した土地が、売却された場合、幕府に対して御家人は奉公する義務を失う。鎌倉幕府の体制そのものが崩壊することが、緊急的な措置として、徳政令の布告となったが、御家人の困窮そのものを救うものではなかった。

 御家人が困窮する以上に、貨幣経済の浸透で困窮していったのは、公家であった。公家は、貨幣経済の浸透で、最も収入を必要としながら、荘園収入は、御家人に奪われていったのである。御家人が困窮すると、公家の荘園から収奪するようになり、訴えても幕府が取り合わなくなったのである。元寇以降は、こういった状況が加速し、ほとんどの公家は、荘園を失っていったのである。

 御家人は、徳政令が布告されても、困窮している根本が解決されていないため、土地の売却に追い込まれる結果となった。こういった流れは、鎌倉幕府の求心力が低下し、幕府に対する不信感を増大させたのである。

 最大の不満は土地訴訟が、すべて六波羅探題の御家人によって裁決されるため、公家の要望は徐々に黙殺されるようになっていったのである。公家の困窮は、皇族にもおよび、こういった状況下で即位した後醍醐帝は、公家の困窮を見かねたこともあり、倒幕の陰謀を巡らすようになったのである。

 貨幣経済の浸透は、御家人を困窮させたが、一部の御家人は交易や廻船等によって、権益が拡大して莫大な儲け出している御家人もでていたのである。北条家のように江ノ島に権益を有していて、伊豆や相模の利権が大きくなると、莫大な財貨が得られるようになっていた。和田家は、侍所として元寇以降は、鎮西探題の任に就き、彦島に権益を有して、倭寇による略奪等での収益があがるようになっていた。大陸襲撃は文永11年1274年以降、幾度か散発的に実施される程度であったが、弘安4年1281年以降は、「外ツ國勝手次第」が乱発され、半島に対しては、数百艘の船団によって、襲撃と略奪が繰り返し実施されるようになった。

 しかしながら、半島への襲撃や略奪では、裕福な地域が少ないこともあって、大きな利益にはならなかった。大陸への襲撃は、費用がかかる割に、略奪による利益が低く、結果的には大きな利益にはならなかった。弘安4年1281年以降は、元との国交が断絶状態であったため、和田家や琉球が大陸で行った銀と銅銭の交換といった、密貿易による収益が、もっとも大きな稼ぎとなっていた。

 困ったことに、こういった密貿易船も、倭寇の襲撃対象であったため、倭寇同士の抗争も多かったのである。

 貨幣経済の利益を最大限に享受したのは、瀬戸内海の海運事業をおこなっていた水軍衆であり、京洛への水運事業を担当していた渡辺党であった。堆肥作りによって、米の収穫が増加したことから、大量の魚が蝦夷で買い付けられ、日ノ本各地に運ばれたのである。こういった堆肥の購入にも貨幣が必要であり、困窮する御家人がますます困窮し、裕福な御家人がますます裕福になるという流れが生まれたのである。御家人の格差拡大は、そのまま鎌倉幕府の統制力低下となり、困窮する御家人の不満は溜まる一方であった。さらに裕福な御家人に対して、襲撃をおこなって稼ぐ、「悪党」のような新興武装集団も現れるようになったのである。

 こういった御家人の格差からの不満もあり、特に有力御家人の北条家や和田家が、探題職といった役職を寡占するようになると、御家人の格差が拡大し、不満がからの抗争が増加していったのである。

 後醍醐帝の即位と、護良内親王の斎王就任は、こういった不満が鬱屈する中で生じた事件であり、難波斎宮院の創設による天皇家と皇族による収益固めは、公家衆にとっても歓迎できない面があったのである。

 鎌倉幕府崩壊は、様々な事件の集積によって、鎌倉幕府に統制が弱まり、有力御家人の反発から始まった。新田義貞による鎌倉襲撃は、北条家と和田家の内部抗争直後であり、敗北した和田幸盛が下総で再起を図り、撤退した三浦正幸を追って、北条高時が戦力を移動させていた間隙を突かれたモノでもあった。鎌倉襲撃に成功した新田義貞は、北条高時を討ち、将軍府を炎上させ、将軍頼宗と旗本を務めていた浅利衆を自害に追い込んだのである。頼宗の嫡女頼之は、乳母めのとであった和田唯を頼り、下総に逃亡した。

 新田義貞による鎌倉襲撃と将軍府炎上は、多くの御家人衆から反発を受け、新田義貞が孤立する結果を招いた。新田義貞の襲撃まで、御家人衆にとっては、直接将軍を敵としたのでなく、御家人の窮乏を訴え、有力御家人による専横に対する反発であったのである。このため、頼宗の嫡女頼之が逃げた下総には、鎌倉を襲撃した御家人衆まで参集し、10万を超える軍が集まったのである。新田義貞の下に集まったのは、二万程であった。頼之による鎌倉への逆襲の中で、新田義貞は苦しい戦いを強いられたが、援軍として難波斎宮院斎王から征東大将軍に任じられた護子内親王が、足利尊氏や遠江の井伊、駿河の藤原を率いて、錦の御旗を持って参陣したことで、さらに逆転したのである。激戦の中で、和田幸盛ら有力御家人が討ち取られ、頼之は常陸の古河に逃げ込まざるを得なくなったのである。

 難波斎宮院斎王として護子内親王が難波宮に戻り、関東公方には足利尊氏が任じられ、新田義貞は北陸公方に任じられた。これを不服とした、新田義貞が京洛に戻りみかどに直訴して、宗良親王が征夷大将軍に任じられ、宗良親王より関東公方に任じられた。鎌倉府に入った足利尊氏、高崎に戻って幕府を開いた新田義貞、征夷大将軍を継承した、古河の源頼之、三人の公方が関東に鼎立することになった。

 尊氏と帝の確執は、この新田義貞の処遇を巡って始まり、護子斎王と帝の確執が、戦乱を拡大し激化させたのである。尊氏が上洛の軍を発して鎌倉を発つと、帝は難波宮へ移り、事実上の幽閉状態となった。花園上皇の院宣によって、足利尊氏が征夷大将軍に、護良斎王を鎮西大将軍、賀茂斎院の光子斎王を鎮南大将軍に任じられたことで、帝は激怒して難波宮から全国に足利尊氏追討の院宣を発した。護良斎王と光子斎王については、不問とされている。光子斎王は、花園上皇の嫡孫であり、難波斎宮院に対して賀茂斎院が斎王に求めた相手であった。これは、難波斎宮院と賀茂斎院の確執の始まりと言われている。

 伊勢斎宮は、別格扱いであったが、賀茂斎院と難波斎宮院は、賀茂斎院の司十二家から難波斎宮院の司に四家が移ったため、賀茂斎院からすれば分家扱いであった。渡辺党祭祀家から花園上皇の御子から直仁親王を迎えた坐摩、量仁親王を迎えた住吉司が加わったことで六家となり、豊仁親王を迎えて、難波宮家が建てられたことで、大きく変化することとなった。特に、難波宮は、八十島祭祀の司であり、主上おかみの即位後に執り行われる大嘗祭と共に重要な祭祀を難波斎宮院が担うことになったのである。

 鎌倉幕府の崩壊は、直接として源氏政権が崩壊したわけではなく、常陸の古河に逃れた源頼之を旗頭として、北関東から出羽や陸奥といった奥州を基盤とした政権を構築していったのである。鎌倉幕府滅亡から今川幕府が成立するまでを、戦国時代と通称しているのは、各地で権威と権力を巡って、戦争を繰り返した時代であり、室町幕府、鎌倉公方、古河公方と政権が分裂していて統一政権が無かったためである。鎮西大将軍、征東大将軍、征夷大将軍といった、大将軍位が並列し、抗争を繰り返した時代でもあった。
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