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琉球お爺ぃ小話
戦国椿説景01 浪花港は、日ノ本最大の港湾設備となる。
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鎌倉武士は、一所懸命が御家人の行動を基本であり、根幹でもあった。しかしながら、貨幣経済の浸透は、鎌倉武士の生活に贅沢を齎し、自給自足の生活から離れるようになっていった。自給自足の生活から離れれば、鎌倉武士の生活は、田圃からの租税で賄うことが困難になる。結果として、鎌倉武士の生活が困窮していくが、一部の鎌倉武士は、所領から生糸や木綿といった商業生産物を産出することで、経済的に豊かになっていく。
「なにわ」に地盤を持つ御家人、渡辺家は初代綱以来、「なにわ」という商工業生産を基盤として、京洛という巨大消費都市を抱えて、強大な経済力を有するようになったのである。平安末期に平清盛が大輪田泊を整備して、港湾施設を拡張し、平家滅亡後は清和源氏多田源氏によって継承された。平安後期に大和川の掘削で遠浅になった堺湊や住吉津に代わって、鎌倉期に整備された木津川沿いの浪花港は、鎌倉期を通じて拡張工事が進められ、ミヅチ曳の帆無船だけでなく、大型帆走船の廻船も寄港できるように整備されていった。
東には、鎌倉幕府が直営する和賀江港があるが、小型船の多くは、和賀江ではなく江ノ島に寄港するため、和賀江港は、鎌倉水軍および日宋交易船や大型帆船の廻船が寄港する大型船専用に整備されていたが、西の浪花港は、大型船から小型の川船まで寄港地として使用していたため、「なにわ」の商業規模は鎌倉期から戦国期にかけて、日ノ本最大を誇る港湾都市となっていた。
鎌倉幕府が滅び、将軍が常陸の古河に逃れて、古河幕府を名乗り、京洛に足利が京洛の室町に室町幕府を開いた。室町幕府は、有力守護大名の権力抗争から、血族である鎌倉公方とも争うようになった。鎌倉幕府が滅び、今川幕府が日ノ本を制覇するまでの間を、一般には「戦国時代」と呼ぶようになった。
戦国期、停泊している三本マストの南蛮船が小さく見えるような明の大型ジャンク船が五艘停泊する傍で、小型の川船が荷替の作業をおこなっていた。京洛へ運び込む物資は、ほとんどが浪花港から川船に積みかえられて、淀川を遡上して京洛へ運ばれたのである。忙しそうに作業するモノ達には、人の姿だけでなく、兎耳したモノ達や、有角のモノ達が多く作業をおこなっていた。ちらほらと白人や黒人も作業していて、国際色豊かな上にあやかし色まで豊かな浪花港であった。
難波斎宮院のお膝元であり、戦乱が続く京洛に嫌気がさした貴族の多くは、「なにわ」に移住する者も多かったのである。「なにわ」は、日ノ本最大の商業都市であり、会合衆と呼ばれる評定組織が構築されていた。会合衆には、渡辺党の長を纏め役として、兎衆の長や鬼衆の長も入った、十数人の商人達を中心に構成されていた。
浪花港と住吉湊との間に、堀河を東に掘削する工事と、大和川からの水路を北に引いて水源とする工事が、住吉湊の浚渫工事と共に進められていた。大和川が掘削によって、土砂が流れ込み、住吉湊は浅瀬が増えるようになり、大船の着岸が難しくなっていた。大和川の水量を支流を引き込んで、墾田を開くと共に、拡大する浪花の水源としていた。
浚渫された土砂は、沖合の砂州に菱実型の白漆喰と共に積み上げられ、防波堤を形成していた。幾段か、沖合に向けて、菱実型の白漆喰で構築された、砂州が増えて島になった場所には、砦が築かれている所もあった。砦は、築山と共に築かれていて、阿多家の築山は、海面から30mあって、山頂は棚池が造られていた。3丈ほどの高さに積み上げられた、菱実型の白漆喰を外壁として、阿多家の築山は、水源として雨水を溜め込むのに使われていた。阿多家には、幾つか引き込んだ潮溜があって、大船に使われる稲荷塩釜が造られ焚かれていた。稲荷の塩釜は、海水を蒸留して、塩と一緒にニガリと蒸留水を生成する釜であり、瀬戸内の島嶼でも使われていた。
外壁の堤には、祠のような白漆喰の砲座が、祠のように幾つも造られて、大筒や鉄砲が据え付けられていた。平安末期に日ノ本に亡命した、水滸の英雄凌振が大筒を造り、相国清盛に献上したことで知られ、壇ノ浦の合戦で、御座船に搭載されて使われた。鎌倉期には、鎌倉水軍の大船には、大筒が2門から4門搭載され、元寇の海戦で、大いに元軍を討ち破った。
日ノ本の大船は、宋国船の造りを基本としているが、鎌倉期になると、竹筋白漆喰の構造船が、廻船を含めて、ミヅチ曳の帆無大船だけでなく、帆走大船を含めて、数百艘の大船が瀬戸内を中心に行き交っていた。
浪花港では、大型帆船を曳航するのもミヅチ衆の仕事になっていて、浪花港には数千人のミヅチ衆が働いていた。ミヅチ衆の多くは体重が数百貫になるモノも居て、陸上での棲家が限られるため、築山の砦を棲家としているものが多かった。白漆喰の築山は、ミヅチ衆や、稲荷衆の棲家ともなっていた。築山の傍らには、賀茂斎院の社が建てられて、斎院家から派遣された神薙の住まう館があり、築山で生産された塩は、賀茂斎院の司家に対しての寄進品であった。築山の砦には、賀茂斎院司家の家名が築山の名前となり、砦の名称として使われるようになった。阿多、鷺宮、吉祥院といった築山が、浪花の港湾に浮かぶようになった。
「なにわ」の者達は、新たに造られた港を北港と呼ぶようになり、従来からある住吉湊を南港と呼ぶようになった。
「なにわ」に地盤を持つ御家人、渡辺家は初代綱以来、「なにわ」という商工業生産を基盤として、京洛という巨大消費都市を抱えて、強大な経済力を有するようになったのである。平安末期に平清盛が大輪田泊を整備して、港湾施設を拡張し、平家滅亡後は清和源氏多田源氏によって継承された。平安後期に大和川の掘削で遠浅になった堺湊や住吉津に代わって、鎌倉期に整備された木津川沿いの浪花港は、鎌倉期を通じて拡張工事が進められ、ミヅチ曳の帆無船だけでなく、大型帆走船の廻船も寄港できるように整備されていった。
東には、鎌倉幕府が直営する和賀江港があるが、小型船の多くは、和賀江ではなく江ノ島に寄港するため、和賀江港は、鎌倉水軍および日宋交易船や大型帆船の廻船が寄港する大型船専用に整備されていたが、西の浪花港は、大型船から小型の川船まで寄港地として使用していたため、「なにわ」の商業規模は鎌倉期から戦国期にかけて、日ノ本最大を誇る港湾都市となっていた。
鎌倉幕府が滅び、将軍が常陸の古河に逃れて、古河幕府を名乗り、京洛に足利が京洛の室町に室町幕府を開いた。室町幕府は、有力守護大名の権力抗争から、血族である鎌倉公方とも争うようになった。鎌倉幕府が滅び、今川幕府が日ノ本を制覇するまでの間を、一般には「戦国時代」と呼ぶようになった。
戦国期、停泊している三本マストの南蛮船が小さく見えるような明の大型ジャンク船が五艘停泊する傍で、小型の川船が荷替の作業をおこなっていた。京洛へ運び込む物資は、ほとんどが浪花港から川船に積みかえられて、淀川を遡上して京洛へ運ばれたのである。忙しそうに作業するモノ達には、人の姿だけでなく、兎耳したモノ達や、有角のモノ達が多く作業をおこなっていた。ちらほらと白人や黒人も作業していて、国際色豊かな上にあやかし色まで豊かな浪花港であった。
難波斎宮院のお膝元であり、戦乱が続く京洛に嫌気がさした貴族の多くは、「なにわ」に移住する者も多かったのである。「なにわ」は、日ノ本最大の商業都市であり、会合衆と呼ばれる評定組織が構築されていた。会合衆には、渡辺党の長を纏め役として、兎衆の長や鬼衆の長も入った、十数人の商人達を中心に構成されていた。
浪花港と住吉湊との間に、堀河を東に掘削する工事と、大和川からの水路を北に引いて水源とする工事が、住吉湊の浚渫工事と共に進められていた。大和川が掘削によって、土砂が流れ込み、住吉湊は浅瀬が増えるようになり、大船の着岸が難しくなっていた。大和川の水量を支流を引き込んで、墾田を開くと共に、拡大する浪花の水源としていた。
浚渫された土砂は、沖合の砂州に菱実型の白漆喰と共に積み上げられ、防波堤を形成していた。幾段か、沖合に向けて、菱実型の白漆喰で構築された、砂州が増えて島になった場所には、砦が築かれている所もあった。砦は、築山と共に築かれていて、阿多家の築山は、海面から30mあって、山頂は棚池が造られていた。3丈ほどの高さに積み上げられた、菱実型の白漆喰を外壁として、阿多家の築山は、水源として雨水を溜め込むのに使われていた。阿多家には、幾つか引き込んだ潮溜があって、大船に使われる稲荷塩釜が造られ焚かれていた。稲荷の塩釜は、海水を蒸留して、塩と一緒にニガリと蒸留水を生成する釜であり、瀬戸内の島嶼でも使われていた。
外壁の堤には、祠のような白漆喰の砲座が、祠のように幾つも造られて、大筒や鉄砲が据え付けられていた。平安末期に日ノ本に亡命した、水滸の英雄凌振が大筒を造り、相国清盛に献上したことで知られ、壇ノ浦の合戦で、御座船に搭載されて使われた。鎌倉期には、鎌倉水軍の大船には、大筒が2門から4門搭載され、元寇の海戦で、大いに元軍を討ち破った。
日ノ本の大船は、宋国船の造りを基本としているが、鎌倉期になると、竹筋白漆喰の構造船が、廻船を含めて、ミヅチ曳の帆無大船だけでなく、帆走大船を含めて、数百艘の大船が瀬戸内を中心に行き交っていた。
浪花港では、大型帆船を曳航するのもミヅチ衆の仕事になっていて、浪花港には数千人のミヅチ衆が働いていた。ミヅチ衆の多くは体重が数百貫になるモノも居て、陸上での棲家が限られるため、築山の砦を棲家としているものが多かった。白漆喰の築山は、ミヅチ衆や、稲荷衆の棲家ともなっていた。築山の傍らには、賀茂斎院の社が建てられて、斎院家から派遣された神薙の住まう館があり、築山で生産された塩は、賀茂斎院の司家に対しての寄進品であった。築山の砦には、賀茂斎院司家の家名が築山の名前となり、砦の名称として使われるようになった。阿多、鷺宮、吉祥院といった築山が、浪花の港湾に浮かぶようになった。
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