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お爺ぃ、よもやま噺
生成発展と「闘戦経」
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かの国は、「法」を持って、国を征することを求め、結果として「法」に従わぬ存在の生きる場を失った。
遥か西国は、「神」を持って、国を征するを求め、結果として「神」に従わぬ存在の生きる場を失った。
生成発展における最大の敵は、国や組織の中で、国や組織に従わない存在を許容することを認めないという、考え方そのものである。
和とは、正邪を確定させることなく、色と空の狭間に生きることを示すものなり。
例にあげるならば、原子力発電所が、是か非かという判断は、基準によって、是ともなるし非ともなる。是非を確定してしまえば、もう一方は存在できない。
また、目的が手段をすべて正当化することにはならないというのも、この考え方の内側に存在する。
目標が手段を正当化するのであれば、国家権力を持って、原子力発電所を停止を決定し、すべての発電所の廃炉を決定すれば良い。これが、目的が手段を正当化することである。
では、原子力発電所が無くなるとした場合、原子力発電所一つについて、千人万人の雇用を必要とするとして、原子力発電所が、太陽光なり風力なりと移行して、千人万人の雇用を消した場合、現在働いている人を雇用することや、その人たちが、店で買い物をして、支払うことで発生する利益にみあうことができる原子力発電所が現時点で存在する地域に対して、原子力発電所以外で地域貢献を可能とする手段は存在するとしなければならない。 これが、目的が手段を正当化した場合の弊害の一つである。
また、原子力発電所を廃止することは、廃棄された放射性廃棄物の一万年分の保管費用が、原子力発電所の廃炉を決定した瞬間より、負債として生じることとなる。これも、目的が手段を正当化した場合の弊害の一つである。
個人的に、原子力発電所を廃炉にすること自体に反対はしない。だが、廃炉によって発生する経済的な損失をどのように埋めることを想定し、向こう一万年におよぶ廃棄コストの支払いを誰に対して押し付けるのかについて、きちんと議論した上で決定するのであれば、原子力発電所を廃炉することも可能となる。
また、乱暴な言い方をすれば、原子力発電所というものは、廃棄までのサイクルを含めて考えれば、一万年という期間を対象とする発電所なのである。現在の製造者責任という考え方の主流に基づいて、原子力発電所を考えるのであれば、原子力発電所は、止めることそのものが、莫大な借金を国に背負わせるシステムであるということを、理解してから発言してもらいたいものである。
某アイドルグループの一人が、総理大臣を演じた時、国が失敗した特定の事業について、「国が破産しても、国が間違っていたのであれば責任を取らなければならない」と言った。言葉そのものは、正しいことである。目的が、手段を正当化して良いというのであれば、正しいことである。
ただ、現実に負担を押し付けられるのは、今を生きる人間ではなく、明日、明後日に生きる人間なのである。
世に生きる方々は、その生き様の中で、是と信じること、非と信じることに、命懸けて実現を目指しておられる方がいるのは事実である。是非を確定し、異なる存在を拒否することでは、いかに論理的な正当性があっても、結果として達成したことに対して矛盾が生じることを止められないのである。
「法」とは、その理念の中で正しい事であっても、「現実」との整合性を求められることである。この「現実」との整合性について、どこまでを是としてどこからを非とするかを一律に規定することはできない。よく、廚の方が言う、グレーゾーンとは、是非に在らざるモノであるが、「法」の理念そのものは、是非に非ざるモノを認めないことにある。
だからと言って、「法」が存在しないことで、倫理を保つことが可能かというのが是非の理はある。すべての人が、善人で在り、悪人が居ないのであれば、「法」を維持する警察が無くても治安は維持できるのかもしれない。
また、世界中に住まう人たちが、感情を排して、理知を持って、すべての国際問題について、解決する努力を千年話し合いの中でおこなっても、解決していくことを選べるのであれば、戦争そのものは起きないのかもしれない。そんな状況で張れば、「国益」を護る軍隊(自衛隊)という存在を維持しなくても、平和は維持できるかもしれない。
理想を追い求めることそのものは、決して誤りではなく、追い求め続けなければ、今、戦争やテロで犠牲になる人を減らしていくことはできない。
しかしながら、理や知を持って解決を目指し、様々な妥協や調整をおこなう中で、すべての人が納得できるような、調整を実行することは不可能である。妥協や調整による解決は、すべての人に不満を残す結果となる。
正直に言えば、それもまた「和」の本質である。「和」の本質と結果は、すべての人に不満を残すことを前提とし、不満を残しながらも、妥協と調整を継続し続けることを前提とする世界である。
救世主が嫌いなのは、救世主の行動と行為が必ず、救う者と救われない者を生じさせることにある。救世主というのは、全ての存在を救うのではなく、基準を規定し、規定に満たない存在を排除することにある。救世主が排除に使う規定がどのようなものであろうと、規定が変われば、救われる存在も排除される存在も変わってしまう。
「和」を選択するということは、全てに不満を残しても、全ての存在を認めることにある。
日本の兵法「闘戦経」は、是非を規定せず、全てを認めることを目的とすることにその真価がある。
遥か西国は、「神」を持って、国を征するを求め、結果として「神」に従わぬ存在の生きる場を失った。
生成発展における最大の敵は、国や組織の中で、国や組織に従わない存在を許容することを認めないという、考え方そのものである。
和とは、正邪を確定させることなく、色と空の狭間に生きることを示すものなり。
例にあげるならば、原子力発電所が、是か非かという判断は、基準によって、是ともなるし非ともなる。是非を確定してしまえば、もう一方は存在できない。
また、目的が手段をすべて正当化することにはならないというのも、この考え方の内側に存在する。
目標が手段を正当化するのであれば、国家権力を持って、原子力発電所を停止を決定し、すべての発電所の廃炉を決定すれば良い。これが、目的が手段を正当化することである。
では、原子力発電所が無くなるとした場合、原子力発電所一つについて、千人万人の雇用を必要とするとして、原子力発電所が、太陽光なり風力なりと移行して、千人万人の雇用を消した場合、現在働いている人を雇用することや、その人たちが、店で買い物をして、支払うことで発生する利益にみあうことができる原子力発電所が現時点で存在する地域に対して、原子力発電所以外で地域貢献を可能とする手段は存在するとしなければならない。 これが、目的が手段を正当化した場合の弊害の一つである。
また、原子力発電所を廃止することは、廃棄された放射性廃棄物の一万年分の保管費用が、原子力発電所の廃炉を決定した瞬間より、負債として生じることとなる。これも、目的が手段を正当化した場合の弊害の一つである。
個人的に、原子力発電所を廃炉にすること自体に反対はしない。だが、廃炉によって発生する経済的な損失をどのように埋めることを想定し、向こう一万年におよぶ廃棄コストの支払いを誰に対して押し付けるのかについて、きちんと議論した上で決定するのであれば、原子力発電所を廃炉することも可能となる。
また、乱暴な言い方をすれば、原子力発電所というものは、廃棄までのサイクルを含めて考えれば、一万年という期間を対象とする発電所なのである。現在の製造者責任という考え方の主流に基づいて、原子力発電所を考えるのであれば、原子力発電所は、止めることそのものが、莫大な借金を国に背負わせるシステムであるということを、理解してから発言してもらいたいものである。
某アイドルグループの一人が、総理大臣を演じた時、国が失敗した特定の事業について、「国が破産しても、国が間違っていたのであれば責任を取らなければならない」と言った。言葉そのものは、正しいことである。目的が、手段を正当化して良いというのであれば、正しいことである。
ただ、現実に負担を押し付けられるのは、今を生きる人間ではなく、明日、明後日に生きる人間なのである。
世に生きる方々は、その生き様の中で、是と信じること、非と信じることに、命懸けて実現を目指しておられる方がいるのは事実である。是非を確定し、異なる存在を拒否することでは、いかに論理的な正当性があっても、結果として達成したことに対して矛盾が生じることを止められないのである。
「法」とは、その理念の中で正しい事であっても、「現実」との整合性を求められることである。この「現実」との整合性について、どこまでを是としてどこからを非とするかを一律に規定することはできない。よく、廚の方が言う、グレーゾーンとは、是非に在らざるモノであるが、「法」の理念そのものは、是非に非ざるモノを認めないことにある。
だからと言って、「法」が存在しないことで、倫理を保つことが可能かというのが是非の理はある。すべての人が、善人で在り、悪人が居ないのであれば、「法」を維持する警察が無くても治安は維持できるのかもしれない。
また、世界中に住まう人たちが、感情を排して、理知を持って、すべての国際問題について、解決する努力を千年話し合いの中でおこなっても、解決していくことを選べるのであれば、戦争そのものは起きないのかもしれない。そんな状況で張れば、「国益」を護る軍隊(自衛隊)という存在を維持しなくても、平和は維持できるかもしれない。
理想を追い求めることそのものは、決して誤りではなく、追い求め続けなければ、今、戦争やテロで犠牲になる人を減らしていくことはできない。
しかしながら、理や知を持って解決を目指し、様々な妥協や調整をおこなう中で、すべての人が納得できるような、調整を実行することは不可能である。妥協や調整による解決は、すべての人に不満を残す結果となる。
正直に言えば、それもまた「和」の本質である。「和」の本質と結果は、すべての人に不満を残すことを前提とし、不満を残しながらも、妥協と調整を継続し続けることを前提とする世界である。
救世主が嫌いなのは、救世主の行動と行為が必ず、救う者と救われない者を生じさせることにある。救世主というのは、全ての存在を救うのではなく、基準を規定し、規定に満たない存在を排除することにある。救世主が排除に使う規定がどのようなものであろうと、規定が変われば、救われる存在も排除される存在も変わってしまう。
「和」を選択するということは、全てに不満を残しても、全ての存在を認めることにある。
日本の兵法「闘戦経」は、是非を規定せず、全てを認めることを目的とすることにその真価がある。
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