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お爺ぃ、よもやま噺
ヨブ記というのは、難しいというかねぇ
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ヨブ記は、旧約聖書の中では非常に特殊な内容である。神を信じるヨブが、子供を殺され、財産を失い、不治の病にかかる。救われる救われないという意味合いでは、救われているとはとても思えないのがヨブに対する神のミワザである。
ヨブ記の記述としては、財産を失い、子供たちを殺され、死病にかかる。それでもヨブは神を信じるという。主は与え、主は取られる。この世のすべては神のものであり、神に与えられた幸せなのだから、神に奪われることもある。これを受け入れることが、どのくらいの人々にできるだろうか。皆さんのコメントが欲しいものである。
逆説的に問いかけてみようか、財産が無ければ奪うことは出来ない、子供が居なければ子供は奪われない、健康でなければ病になることも無い。財産を得たことが神の恵みであり、財産を失うことが神の試練である。子供得たことが神の恵みであり、子供を失うことが神の試練、健康であることが神の恵みであり、病になることが神の試練。(試練という言葉は適当ではないと思うが、あまり良い言葉が思いつかなかった)
ヨブへの神の試練は、悪魔の誘いから始まった神の苦悩だったのではないだろうか。契約の名の下に恵みを与えた子らが、恵みを当たり前とし、神から離れていく。神の怒りを受ければ、許しを請い、神に近づく。神が与える安息は、神への傲慢となって返る。安息の中に神への感謝は薄く、試練の中に神への感謝は厚い。ゴスペルとは、そんな試練を越えた感謝の想いが歌となって人の魂をうつのだろう。
ヨブ記に描かれ、結果的に神がなすミワザが神のなすものであるならば、神への哀しみに繋がる。神が御子をキリストとして、死と復活を最後のミワザとしたのは、神の苦悩がなした結果なのだろう。人としてのキリストが答えたのは、恐らく神に何も為さないで欲しいということではなかったのではないか。
キリストという人間を描くとき、神と人の関係をどう描くかが一番の問題になるだろう。ちょうど、ジャンヌを介した神と人を描くことが難しいように。花が咲くも散るも、神のミワザという奇跡。人が生きるも死ぬも、また、神のミワザという奇跡であるのは事実。だが、それはあたりまえのように人の前に実在し、決して揺るぐことは無い。
されど、神のミワザという奇跡を、普段の人が感じることは無い。それ故に感謝は薄く、より自分にとって都合の良いミワザのみを求める。それが、人の業というものなのであろうか。物理現象も心理現象もすべてが神のミワザという奇跡となり、人がそのミワザという奇跡を生かすも殺すも自在となった今、人に架せられた十字架の重さをどのくらいの人が感じているのだろうか。
神の奇跡が、すべての物理現象であり心理現象を含めた森羅万象であるとするならば、貴方は神の奇跡に感謝するだろうか、それとも怒るだろうか。怒るだけでは、意味は無く、感謝するだけでも意味は無い。ヨブ記にせよ、人間万事塞翁が馬という故事にせよ、どのように捉えるかも知りたいものである。
ヨブ記の記述としては、財産を失い、子供たちを殺され、死病にかかる。それでもヨブは神を信じるという。主は与え、主は取られる。この世のすべては神のものであり、神に与えられた幸せなのだから、神に奪われることもある。これを受け入れることが、どのくらいの人々にできるだろうか。皆さんのコメントが欲しいものである。
逆説的に問いかけてみようか、財産が無ければ奪うことは出来ない、子供が居なければ子供は奪われない、健康でなければ病になることも無い。財産を得たことが神の恵みであり、財産を失うことが神の試練である。子供得たことが神の恵みであり、子供を失うことが神の試練、健康であることが神の恵みであり、病になることが神の試練。(試練という言葉は適当ではないと思うが、あまり良い言葉が思いつかなかった)
ヨブへの神の試練は、悪魔の誘いから始まった神の苦悩だったのではないだろうか。契約の名の下に恵みを与えた子らが、恵みを当たり前とし、神から離れていく。神の怒りを受ければ、許しを請い、神に近づく。神が与える安息は、神への傲慢となって返る。安息の中に神への感謝は薄く、試練の中に神への感謝は厚い。ゴスペルとは、そんな試練を越えた感謝の想いが歌となって人の魂をうつのだろう。
ヨブ記に描かれ、結果的に神がなすミワザが神のなすものであるならば、神への哀しみに繋がる。神が御子をキリストとして、死と復活を最後のミワザとしたのは、神の苦悩がなした結果なのだろう。人としてのキリストが答えたのは、恐らく神に何も為さないで欲しいということではなかったのではないか。
キリストという人間を描くとき、神と人の関係をどう描くかが一番の問題になるだろう。ちょうど、ジャンヌを介した神と人を描くことが難しいように。花が咲くも散るも、神のミワザという奇跡。人が生きるも死ぬも、また、神のミワザという奇跡であるのは事実。だが、それはあたりまえのように人の前に実在し、決して揺るぐことは無い。
されど、神のミワザという奇跡を、普段の人が感じることは無い。それ故に感謝は薄く、より自分にとって都合の良いミワザのみを求める。それが、人の業というものなのであろうか。物理現象も心理現象もすべてが神のミワザという奇跡となり、人がそのミワザという奇跡を生かすも殺すも自在となった今、人に架せられた十字架の重さをどのくらいの人が感じているのだろうか。
神の奇跡が、すべての物理現象であり心理現象を含めた森羅万象であるとするならば、貴方は神の奇跡に感謝するだろうか、それとも怒るだろうか。怒るだけでは、意味は無く、感謝するだけでも意味は無い。ヨブ記にせよ、人間万事塞翁が馬という故事にせよ、どのように捉えるかも知りたいものである。
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