琉球お爺いの綺談

Ittoh

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怨霊の祓いと鎮め

気の行方 生き物の形状と寿命について

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 鬼とは、人の念を角の形となり、発現したモノである。つまりは、鬼と人には、それほど大きな違いは無い。角そのものは、角質が硬貨したモノということになる。

 狐狸に代表される、獣のあやかしひとならざるものは、本質として人が獣の形に変化したモノである。人とは、生物界の中で、強くて弱い生き物である。知恵というだけでなく、物を投げる肩の構造を得たことで、人は他の獣とは異なる強さを得たのである。

 しかしながら、知恵や宗教というモノは、人を獣から乖離させて自然を滅ぼし、自然から人を孤立させてしまった。老子が語る「無為自然」は、人が自然から乖離したことであり、在るがままの存在へ還ることを呼びかけた思想である。自然から孤立した人を自然へと還す、そんな思想が老子なのである。自然への回帰は、自然の在り様を人に遷すうつすことであり、自然の中で生きることでもある。

 老子の思想は、春秋戦国という殺伐とした殺し合いの中で、シュメールの王ギルガメッシュが為した「自然を滅ぼした行為」への反省として生まれたような思想に見える。

 自然の在り様に遷すうつすにあたって、狐に遷せば妖狐となり、狸に遷せば、妖狸となる。獣の形を拳として、拳法が生まれたように、獣形を遷すうつすことで、生まれたのが獣のあやかしひとならざるものということになる。術理として、獣を象形することから、拳理が生まれるように、獣の姿へ遷すうつすことから、獣理変成として獣人が生まれたこととなる。また、人は弱き生き物であり、走るに遅く、泳ぐのに遅く、飛ぶこともできない。そんな人の想いが念となって構築されると、走るに速き身体に変成し、泳ぐに速き身体へ変成し、飛べる身体に変成し、生まれたあやかしひとならざるものもまた現世うつつに竜やミヅチに鳳凰となって生まれる。

 気はエネルギーであり、身体から離れると魂という形になってしまうが、魂のままで維持できれば、霊という形で存在することができる。肉体が消失しても、霊には影響しないので、寿命と言う概念も消失する。気を巡らして、身体へ纏わせることで、身体年齢そのものから、寿命を減速させ、最終的に寿命消失も可能となる。ただし、消失するのは、寿命であって、死なないということではない。身体を失って、霊だけとなれば、身体が保有していた、生殖機能等も消失する。

 気を纏わせるのは、術理であり、法術や道術、陰陽術や仙術で可能な技術である。久米の仙人と呼ばれるように、妻と暮らし人として生きる間は寿命が経過して、仙道に還り仙術の術理に還れば、寿命が止まるという者達も居るのである。日ノ本では、仏教の僧侶であっても、肉食妻帯が行われていたのは、修行を行うことと、人として生活することは、乖離するという観念を基本とするからである。


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