上 下
2 / 9
歴史if 小早川秀秋

旗幟鮮明の松尾山 1の章

しおりを挟む
さて、貴方は、小早川秀秋となって、1600年の関が原合戦まっただなかに転生した。
 選択肢は3つ。
  1.東軍に味方して、西軍へ突撃して、史実以上の成果を求める。
  2.西軍に味方して、西軍へ突撃して、史実を覆して成果を求める。
  3.このまま日和見を決め込んで、松尾山に居座る。

1.を選択した場合。
  戦闘になります「体」および戦闘に関する技能を加え、サイコロを一個振ってください。

合計値が、8以上であれば、成功となります。



 11以上で成功した場合

「吾こそが、秀頼公が後見人にして、豊臣長者である」
 そう言い切って、西軍の大谷吉継へ突撃した。松尾重元率いる鉄砲隊が撃ちかかり、本体の突撃を援護すると、秀秋は、先頭に立って、討ち入りを果たした。吉継の嫡子、吉勝を稲葉正成が討ち取り、気勢を上げて移動すると、脇坂、朽木らも続いて、西軍の主力である宇喜多秀家勢17000を横合いから突撃して切り崩すことに成功した。
 宇喜多勢が崩壊すると、西軍は、次々に潰走していって総崩れとなった。
 意気揚々と秀秋は、脇坂や朽木を含めて、福島正則や藤堂高虎らと共に、そのまま大阪城へと向かって進軍を開始した。

 京都では、中納言として主上へ拝謁し、大納言位を賜った。

 家康に先んじて、大阪城へ入城し、秀頼の後見人として壇上へ立ち、家康達東軍の大名達を迎えることに成功した。

 ここに、大納言秀秋の天下に向けた生き残り大作戦が始まる。



 9以上で成功した場合

 西軍の大谷吉継への突撃は成功したが、前衛に展開していた、松尾重元は手勢を率いて勝手に引き上げ、家老杉原重政もまた、離脱していった。
 宇喜多秀家は、凄まじい勢いで東軍を含めた秀秋勢を叩き返すように戦っていたが、隣で戦っていた小西行長が井伊直政の突撃で崩れ去ると、櫛の歯が削れるように崩壊していって、秀家自身も交代せざるを得なくなっていた。
 東軍がなんとか勝利をしたものの、島津義弘による敵中突破と家康本軍への突撃といった、史実どおりの展開となり、秀秋は勝利に貢献したものの、それ以上に活躍することはできず、佐和山城攻撃に加わることとなった。

 大阪城で秀頼と共に壇上に立った家康の下で、備前岡山57万石の大名となった。

 ここに、徳川幕府体制下での、大名小早川秀秋の生き残り作戦が始まる。



 6以下で失敗した場合

 大谷吉継、吉勝親子が、奮戦している中で、後方から一文字三ツ星の旗が、五七桐の旗と共に戦場へ現れた。大阪に居るはずの毛利輝元が、秀頼と共に戦場に到着したのである。秀頼参陣の報を受けて、福島正則、浅野幸長らは、戦意を失って後退していった。南宮山から安国寺恵瓊、吉川広家、毛利秀元らが突入し、池田輝政、山内一豊の軍勢を撃破した。
 家康は、戦況不利と見ると、引き鐘を鳴らすと共に、大きく撤退して本多忠勝らと大垣城へ入った。上田城での足止めを喰らっていた、徳川秀忠と合流して大きく反撃の体勢を整えることとなった。

 小早川秀秋は、裏切り者の敗残兵となって、松尾山の山中へ逃げ込んでいった。

 ここに、個人小早川秀秋の生き残り大作戦?が始まる。



 8以下で失敗した場合

 大谷吉継親子の奮戦によって、足止めをされている間に、南宮山の安国寺恵瓊、吉川広家、毛利秀元らが東軍に向かって突入し、池田輝政、山内一豊の軍勢と混戦状態に陥った。
 ここに、徳川家康は、本多忠勝を先頭に立てて、一気に前進し、西軍の弱点とも言える、小西行長隊へ襲い掛かり、撃破すると本多忠勝が宇喜多秀家に突撃を仕掛けて、切り崩して西軍崩壊へと導いていった。

 小早川秀秋は、大谷吉継勢との小競り合いに終わり、戦での大功をあげることはできなかった。大阪城で秀頼と共に壇上に立った家康の下で、越前北の庄15万石へ減封となった。

 ここに、徳川幕藩体制下で大名小早川秀秋の生き残り作戦が始まる。
しおりを挟む

処理中です...