上 下
15 / 18
倒幕異聞

鎌倉崩壊異聞6 日本は、いにしえより続く、最長寿国家です

しおりを挟む
<<<<<>>>>>
 組織というものは、そう簡単に変わらない。
<<<<<>>>>>





 日ノ本は、公式では紀元前660年より続く、世界最長寿国家だったりします。

 延々と人々が温故知新を繰り返した中で、世界で一番古くから続く会社もまた、日本にあったりします。

 組織体制というものは、そう簡単には変わらないし、変化させることで、問題が次から次へと噴出する結果ともなります。世界最古の国の宿命でもありますが、日本の法律というモノは、かなり難しいモノとなっていて、成文法でありながら慣習法のような運用をされています。

 新しい法律が制定された場合に、過去に制定された条文と整合性が取れなかったとしても、法律の条文が変更されることはありません。

 日本の相続で、嫡男相続が基本となったのは、江戸時代くらいからだったりします。古代日本では、末子相続、徐々に指名相続に代わって鎌倉時代に入ります。史実の鎌倉時代は、分割相続の結果として、御家人の困窮が酷くなり鎌倉幕府が崩壊していきます。「田を分ける=タワケ」という言葉が、「ばかげたことをする」になったのが、鎌倉時代なのです。

 現行法における財産を分与する形は、「田を分ける=タワケ」をする法律となりますので、世代が進めば進むほどに、田畑での収益で家族が維持できなくなります。これは、会社組織のビジネスでも同じで、株式保有者が、相続にあたって株を「田を分ける=タワケ」ように分与すれば、相続の結果として収益が低下することになります。

 不労所得が年収500万の家庭があり、夫婦と子供が1人居た場合、片親が亡くなった場合に片親と子供に半分づつ250万250万となる。年収500万であれば生活できるとしても、250万ではかなり厳しい結果となります。子供が2人になれば、子供の年収は125万となり、生活が困窮することになります。

 鎌倉時代は、親の財産をどのように分与するかは、親の権限となっていました。初期の鎌倉幕府は、源平合戦、奥州征伐、承久の乱と戦を繰り返すほどに、恩賞給与される土地が増えて収入が増加していきました。堆肥の利用など、農業技術も向上していて、単位面積当たりの収穫高も向上していた時代でもあります。

 こういったインフレーションの時代は、子供に分割して相続させたとしても、子供達がさらに活躍すれば、分割後であっても収益向上が望めたのです。

 「承久の乱」の後は、鎌倉幕府は敵が無くなり、恩賞給与の相手が消えます。おそらくは、恩賞給与が消えて、財産分与が生じるとなれば、未来の収入に不安が発生します。これが、北条家をして、有力御家人を次から次へと生贄にして、独裁政権を築いていく結果となったのです。

 北条家による独裁政権が確立してしまえば、今度は北条家への不満が高まり、北条家内部の権力闘争から、得宗家という流れが生まれています。それが終われば、今度は独裁権力となった北条家が、狙われる側へと変わっていきます。

 元寇は、こういった経済の流れを加速させただけで、本質的な原因ではありません。

 鎌倉時代は、あくまでも財産について家長によって、指名して分与されることが基本であり、理不尽な分与が行われたときに、鎌倉幕府に訴え出て裁決を受けていたのです。指名が複数である必要はなく、指名を単独相続とすれば、分与されることは無く、「田を分ける=タワケ」ということも無くなります。

 権利者である家長に財産譲渡の決定権があり、不服が生じた場合、鎌倉幕府に対して問注所への申し立てができる。鎌倉幕府の時代であっても、単独指名は可能であり、家長の権限を絶対化することで、一家一門に対する求心力を低下させず、一家一門の機能を強化することが可能となる。しかしながら、家長の権限が絶対化することは、相続争いを激化させることになる。家長は、相続争いを嫌えば、分家を増やす分割相続にして、お茶を濁すことになる。日本の場合は、温情が先に来ることが多いので、財産は分与されることが基本で、集中することで血族同士が争う方を嫌うことが多い。

 鎌倉時代は、嫡子に権限を集中させるようになっても、分家を作ることを否定しているわけではないので、「田を分ける=タワケ」を行う家長が減らない。結果として、分割相続が増加して、困窮する御家人はやっぱり増加するのです。



 つまりは、変化そのものが10年を単位とするのではなく、百年くらいを単位にして変わっていくのです。



 お家騒動を許容しても、分割相続から単独相続という流れは、鎌倉時代から室町戦国と流れて、江戸時代になって確立していく制度です。「田を分ける=タワケ」という言葉が、悪い言葉になったのは、江戸時代からなのです。家長の権限強化は、権力抗争や相続争いを頻発させ、争いを鎮めるには、家長の権限を分割していく必要があります。家長の権限が分割されれば、相対的な権力が低下し、外圧に対応できなくなります。

 日本の江戸時代から第二次世界大戦までというのは、分割した権力が、一点に集中する流れであり、中央集権国家体制への流れとなります。第二次世界大戦後からの流れは、一点に集中した権力が、分割していく流れであり、分割が進みすぎた結果として、問題が山積するようになったのです。

 日本の政治というのは、日本そのものが動乱の時代となれば、中央集権化が進んで、日本そのものが安定すれば、権力分割が進みます。日本の場合の権力分割は、中央権力が地方に委譲されるのではなく、権力そのものが分割されていく形になります。困ったことに、中央権力の分割は、コストの増大を招くため、結果的にはとっても不合理な結果となります。日本で、行政改革が進まない最大の理由は、中央権力を分割して、行政コスト全体が減らずに増加するからです。行政改革することで、行政コストが増大するという現象が、日本では頻発します。

 大きい政府から行政改革を進めれば進めるほどに、日本の行政コストが増加して、行政コスト増大を嫌うと大きい政府へと戻っていきます。





<<<<<>>>>>
 日本の行政改革は、行政コストを削減しないで、行政コストを増大させる。
<<<<<>>>>>


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

なよたけの……

水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の番外編?みたいな話です。 子ども達がただひたすらにわちゃわちゃしているだけ。

平安の終焉、鎌倉の始まり

Ittoh
歴史・時代
 平安時代から鎌倉時代というのは、何年で切り替わりましたというモノではなかったのだと思います。平安時代を象徴する律令制度が、新たな制度に呑み込まれていった流れが、平安から鎌倉の流れを作ったのだと思います。 史上初めて武家として、天下を統一した源頼朝を宵闇鎌倉にて描きます。  平安の終焉を迎え、新たな日ノ本の始まりについてちょっと描いてみました。時間的な関係が、話の都合上史実とは異なります。 最初は、蛭ヶ小島で暮らしていた頼朝の話となります。

信濃の大空

ypaaaaaaa
歴史・時代
空母信濃、それは大和型3番艦として建造されたものの戦術の変化により空母に改装され、一度も戦わず沈んだ巨艦である。 そんな信濃がもし、マリアナ沖海戦に間に合っていたらその後はどうなっていただろう。 この小説はそんな妄想を書き綴ったものです! 前作同じく、こんなことがあったらいいなと思いながら読んでいただけると幸いです!

私訳戦国乱世  クベーラの謙信

zurvan496
歴史・時代
 上杉謙信のお話です。  カクヨムの方に、徳川家康編を書いています。

春恋ひにてし~戦国初恋草紙~

橘 ゆず
歴史・時代
以前にアップした『夕映え~武田勝頼の妻~』というお話の姉妹作品です。 勝頼公とその継室、佐奈姫の出逢いを描いたお話です。

【架空戦記】蒲生の忠

糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。 明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。 その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。 両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。 一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。 だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。 かくなる上は、戦うより他に道はなし。 信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

処理中です...