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倒幕異聞
鎌倉崩壊異聞6 日本は、いにしえより続く、最長寿国家です
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組織というものは、そう簡単に変わらない。
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日ノ本は、公式では紀元前660年より続く、世界最長寿国家だったりします。
延々と人々が温故知新を繰り返した中で、世界で一番古くから続く会社もまた、日本にあったりします。
組織体制というものは、そう簡単には変わらないし、変化させることで、問題が次から次へと噴出する結果ともなります。世界最古の国の宿命でもありますが、日本の法律というモノは、かなり難しいモノとなっていて、成文法でありながら慣習法のような運用をされています。
新しい法律が制定された場合に、過去に制定された条文と整合性が取れなかったとしても、法律の条文が変更されることはありません。
日本の相続で、嫡男相続が基本となったのは、江戸時代くらいからだったりします。古代日本では、末子相続、徐々に指名相続に代わって鎌倉時代に入ります。史実の鎌倉時代は、分割相続の結果として、御家人の困窮が酷くなり鎌倉幕府が崩壊していきます。「田を分ける=タワケ」という言葉が、「ばかげたことをする」になったのが、鎌倉時代なのです。
現行法における財産を分与する形は、「田を分ける=タワケ」をする法律となりますので、世代が進めば進むほどに、田畑での収益で家族が維持できなくなります。これは、会社組織のビジネスでも同じで、株式保有者が、相続にあたって株を「田を分ける=タワケ」ように分与すれば、相続の結果として収益が低下することになります。
不労所得が年収500万の家庭があり、夫婦と子供が1人居た場合、片親が亡くなった場合に片親と子供に半分づつ250万250万となる。年収500万であれば生活できるとしても、250万ではかなり厳しい結果となります。子供が2人になれば、子供の年収は125万となり、生活が困窮することになります。
鎌倉時代は、親の財産をどのように分与するかは、親の権限となっていました。初期の鎌倉幕府は、源平合戦、奥州征伐、承久の乱と戦を繰り返すほどに、恩賞給与される土地が増えて収入が増加していきました。堆肥の利用など、農業技術も向上していて、単位面積当たりの収穫高も向上していた時代でもあります。
こういったインフレーションの時代は、子供に分割して相続させたとしても、子供達がさらに活躍すれば、分割後であっても収益向上が望めたのです。
「承久の乱」の後は、鎌倉幕府は敵が無くなり、恩賞給与の相手が消えます。おそらくは、恩賞給与が消えて、財産分与が生じるとなれば、未来の収入に不安が発生します。これが、北条家をして、有力御家人を次から次へと生贄にして、独裁政権を築いていく結果となったのです。
北条家による独裁政権が確立してしまえば、今度は北条家への不満が高まり、北条家内部の権力闘争から、得宗家という流れが生まれています。それが終われば、今度は独裁権力となった北条家が、狙われる側へと変わっていきます。
元寇は、こういった経済の流れを加速させただけで、本質的な原因ではありません。
鎌倉時代は、あくまでも財産について家長によって、指名して分与されることが基本であり、理不尽な分与が行われたときに、鎌倉幕府に訴え出て裁決を受けていたのです。指名が複数である必要はなく、指名を単独相続とすれば、分与されることは無く、「田を分ける=タワケ」ということも無くなります。
権利者である家長に財産譲渡の決定権があり、不服が生じた場合、鎌倉幕府に対して問注所への申し立てができる。鎌倉幕府の時代であっても、単独指名は可能であり、家長の権限を絶対化することで、一家一門に対する求心力を低下させず、一家一門の機能を強化することが可能となる。しかしながら、家長の権限が絶対化することは、相続争いを激化させることになる。家長は、相続争いを嫌えば、分家を増やす分割相続にして、お茶を濁すことになる。日本の場合は、温情が先に来ることが多いので、財産は分与されることが基本で、集中することで血族同士が争う方を嫌うことが多い。
鎌倉時代は、嫡子に権限を集中させるようになっても、分家を作ることを否定しているわけではないので、「田を分ける=タワケ」を行う家長が減らない。結果として、分割相続が増加して、困窮する御家人はやっぱり増加するのです。
つまりは、変化そのものが10年を単位とするのではなく、百年くらいを単位にして変わっていくのです。
お家騒動を許容しても、分割相続から単独相続という流れは、鎌倉時代から室町戦国と流れて、江戸時代になって確立していく制度です。「田を分ける=タワケ」という言葉が、悪い言葉になったのは、江戸時代からなのです。家長の権限強化は、権力抗争や相続争いを頻発させ、争いを鎮めるには、家長の権限を分割していく必要があります。家長の権限が分割されれば、相対的な権力が低下し、外圧に対応できなくなります。
日本の江戸時代から第二次世界大戦までというのは、分割した権力が、一点に集中する流れであり、中央集権国家体制への流れとなります。第二次世界大戦後からの流れは、一点に集中した権力が、分割していく流れであり、分割が進みすぎた結果として、問題が山積するようになったのです。
日本の政治というのは、日本そのものが動乱の時代となれば、中央集権化が進んで、日本そのものが安定すれば、権力分割が進みます。日本の場合の権力分割は、中央権力が地方に委譲されるのではなく、権力そのものが分割されていく形になります。困ったことに、中央権力の分割は、コストの増大を招くため、結果的にはとっても不合理な結果となります。日本で、行政改革が進まない最大の理由は、中央権力を分割して、行政コスト全体が減らずに増加するからです。行政改革することで、行政コストが増大するという現象が、日本では頻発します。
大きい政府から行政改革を進めれば進めるほどに、日本の行政コストが増加して、行政コスト増大を嫌うと大きい政府へと戻っていきます。
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日本の行政改革は、行政コストを削減しないで、行政コストを増大させる。
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組織というものは、そう簡単に変わらない。
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日ノ本は、公式では紀元前660年より続く、世界最長寿国家だったりします。
延々と人々が温故知新を繰り返した中で、世界で一番古くから続く会社もまた、日本にあったりします。
組織体制というものは、そう簡単には変わらないし、変化させることで、問題が次から次へと噴出する結果ともなります。世界最古の国の宿命でもありますが、日本の法律というモノは、かなり難しいモノとなっていて、成文法でありながら慣習法のような運用をされています。
新しい法律が制定された場合に、過去に制定された条文と整合性が取れなかったとしても、法律の条文が変更されることはありません。
日本の相続で、嫡男相続が基本となったのは、江戸時代くらいからだったりします。古代日本では、末子相続、徐々に指名相続に代わって鎌倉時代に入ります。史実の鎌倉時代は、分割相続の結果として、御家人の困窮が酷くなり鎌倉幕府が崩壊していきます。「田を分ける=タワケ」という言葉が、「ばかげたことをする」になったのが、鎌倉時代なのです。
現行法における財産を分与する形は、「田を分ける=タワケ」をする法律となりますので、世代が進めば進むほどに、田畑での収益で家族が維持できなくなります。これは、会社組織のビジネスでも同じで、株式保有者が、相続にあたって株を「田を分ける=タワケ」ように分与すれば、相続の結果として収益が低下することになります。
不労所得が年収500万の家庭があり、夫婦と子供が1人居た場合、片親が亡くなった場合に片親と子供に半分づつ250万250万となる。年収500万であれば生活できるとしても、250万ではかなり厳しい結果となります。子供が2人になれば、子供の年収は125万となり、生活が困窮することになります。
鎌倉時代は、親の財産をどのように分与するかは、親の権限となっていました。初期の鎌倉幕府は、源平合戦、奥州征伐、承久の乱と戦を繰り返すほどに、恩賞給与される土地が増えて収入が増加していきました。堆肥の利用など、農業技術も向上していて、単位面積当たりの収穫高も向上していた時代でもあります。
こういったインフレーションの時代は、子供に分割して相続させたとしても、子供達がさらに活躍すれば、分割後であっても収益向上が望めたのです。
「承久の乱」の後は、鎌倉幕府は敵が無くなり、恩賞給与の相手が消えます。おそらくは、恩賞給与が消えて、財産分与が生じるとなれば、未来の収入に不安が発生します。これが、北条家をして、有力御家人を次から次へと生贄にして、独裁政権を築いていく結果となったのです。
北条家による独裁政権が確立してしまえば、今度は北条家への不満が高まり、北条家内部の権力闘争から、得宗家という流れが生まれています。それが終われば、今度は独裁権力となった北条家が、狙われる側へと変わっていきます。
元寇は、こういった経済の流れを加速させただけで、本質的な原因ではありません。
鎌倉時代は、あくまでも財産について家長によって、指名して分与されることが基本であり、理不尽な分与が行われたときに、鎌倉幕府に訴え出て裁決を受けていたのです。指名が複数である必要はなく、指名を単独相続とすれば、分与されることは無く、「田を分ける=タワケ」ということも無くなります。
権利者である家長に財産譲渡の決定権があり、不服が生じた場合、鎌倉幕府に対して問注所への申し立てができる。鎌倉幕府の時代であっても、単独指名は可能であり、家長の権限を絶対化することで、一家一門に対する求心力を低下させず、一家一門の機能を強化することが可能となる。しかしながら、家長の権限が絶対化することは、相続争いを激化させることになる。家長は、相続争いを嫌えば、分家を増やす分割相続にして、お茶を濁すことになる。日本の場合は、温情が先に来ることが多いので、財産は分与されることが基本で、集中することで血族同士が争う方を嫌うことが多い。
鎌倉時代は、嫡子に権限を集中させるようになっても、分家を作ることを否定しているわけではないので、「田を分ける=タワケ」を行う家長が減らない。結果として、分割相続が増加して、困窮する御家人はやっぱり増加するのです。
つまりは、変化そのものが10年を単位とするのではなく、百年くらいを単位にして変わっていくのです。
お家騒動を許容しても、分割相続から単独相続という流れは、鎌倉時代から室町戦国と流れて、江戸時代になって確立していく制度です。「田を分ける=タワケ」という言葉が、悪い言葉になったのは、江戸時代からなのです。家長の権限強化は、権力抗争や相続争いを頻発させ、争いを鎮めるには、家長の権限を分割していく必要があります。家長の権限が分割されれば、相対的な権力が低下し、外圧に対応できなくなります。
日本の江戸時代から第二次世界大戦までというのは、分割した権力が、一点に集中する流れであり、中央集権国家体制への流れとなります。第二次世界大戦後からの流れは、一点に集中した権力が、分割していく流れであり、分割が進みすぎた結果として、問題が山積するようになったのです。
日本の政治というのは、日本そのものが動乱の時代となれば、中央集権化が進んで、日本そのものが安定すれば、権力分割が進みます。日本の場合の権力分割は、中央権力が地方に委譲されるのではなく、権力そのものが分割されていく形になります。困ったことに、中央権力の分割は、コストの増大を招くため、結果的にはとっても不合理な結果となります。日本で、行政改革が進まない最大の理由は、中央権力を分割して、行政コスト全体が減らずに増加するからです。行政改革することで、行政コストが増大するという現象が、日本では頻発します。
大きい政府から行政改革を進めれば進めるほどに、日本の行政コストが増加して、行政コスト増大を嫌うと大きい政府へと戻っていきます。
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日本の行政改革は、行政コストを削減しないで、行政コストを増大させる。
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