悪魔の頁

kawa.kei

文字の大きさ
上 下
19 / 65

第19話

しおりを挟む
 はぁはぁと息を切らせながら一人の男が闇の中を彷徨っていた。
 左肩に力が入っておらず腕がぶらぶらと力なく揺れる。
 それには理由があった。 彼の左肩――肩甲骨の辺りに大きな傷があったからだ。
 
 肉がごっそりと抉り取られており、血液がじくじくと流れる。
 痛みが酷いがそんな事を気にしている場合ではなく、表情は険しく、視線には強い恐怖が宿っていた。
 残った右手で魔導書を構え、周囲を警戒しつつ走っている。

 今の彼は魔導書の第三位階を用いて悪魔との同調を行っている状態だ。
 それにより身体能力が大幅に向上し、感覚も常人を遥かに超える鋭い。
 強化された五感は周囲の変化を敏感に感じ取る。 小さな風切音。

 男は体を捻って回避行動を取り、一瞬後に彼の頭部があった場所を何かが通り抜けた。
 硬質な音が響く、ちらりと視線を向けると矢が地面に突き立っており、刺さった場所を中心に床が溶け始めていた。 彼の左肩の傷もこれが原因だ。

 少し前に歩いていると不意にさっきの矢による攻撃を受けて負傷。
 彼にとって幸運だったのは矢をすぐに引き抜いた判断をした事だ。
 本来なら無理に引き抜くと出血が激しくなるので、治療環境が整っていない状況では抜くのはあまり良い判断ではない。 だが、この矢に限っては早々に引き抜かねば彼の左腕は溶け落ちていただろう。

 山田やまだ 一郎いちろう
 それが彼の名前だ。 極々平凡な家庭に生まれ、平凡な職に就き、平凡な家庭を築く。
 これと言った特徴はないが、それなりに平穏に過ごし、子供にも恵まれた。

 そんな彼の平穏が崩れたのは少し前だ。 息子が失踪した。
 消えただけなら単なる家出で珍しいがあり得ない話ではない。
 だが、彼の息子は驚くべき事に何処から手に入れたのか拳銃で学生を三人射殺し、その後に警察官を二名射殺して姿を晦ましたのだ。 それにより、彼と彼の家庭は崩壊した。

 妻は逃げるように実家に帰り、彼も居辛くなって仕事を辞めて隣の県へと引っ越した。
 実家へ帰る事も考えたが、話を聞かせて欲しいと群がって来る取材の申し込みに両親を巻き込みたくなかったので一人で安いアパートを借りて住んでいる。
 
 誰もいない家に帰るのは虚しかった。 家族の居ない熱の消え失せた家は空虚だ。
 そんな精神状態では仕事に身が入る訳もなく、気が付けば平均以下の労働者といったレッテルを張られる始末。 だが、何もかもを失った彼にとってはどうでもいい。

 何故ならもう自分には何も残っておらず、後は朽ち果てるのを待つだけの退屈な人生が待っているだけ――その筈だった。
 山田は荒い息を吐きながら迷宮を走る。 彼の胸中にあるのは死への恐怖だ。
 失うものなど何もない。 そんな彼だったが明確な死の恐怖の前には諦観は単なる虚勢だったと気付かされる。 死にたくない。

 そんな純粋な渇望を抱き彼はこの状況から逃げ切ろうと必死だ。
 打開ではなく逃げる事を選択しているのには理由があった。
 彼の魔導書で呼び出せる悪魔は『52/72アロケル』。 ライオンのような悪魔で人間に比べて足が速い。 だが、追跡者は第三位階により能力が大きく向上した彼にぴったりと張り付くように追跡している。 恐らくだが、第二、もしくは第三以上の位階を用いて追跡しているのは間違いない。

 使い魔という猫のような生き物を召喚できたが牽制に繰り出しても瞬く間にやられるので出してもあまり意味がなかった。 徐々に追い詰められている事は自覚しているので、そろそろ思い切った手が必要だと考えている。 第四以上の使用。

 彼はそれを行う事の意味を理解していなかったが、有限の何かを支払うと理解はしていたので使用は控えるべきと考えていたのだ。 しかし、この追い詰められた状況下ではそうも言っていられない。
 山田はその場で足を止め、更なる力を使う事を選択する。 死の危険をリスクを負う事で克服するのだ。
 
 ――<第四レメゲトン:アルス・アルマデル・サロモニス 52/72アロケル

 彼の決断に呼応するように魔導書の力で彼は人ならざる存在へと変化する。
 筋肉が大きく盛り上がり、真っ赤な毛が全身から生え、顔が人間のそれからライオンに似たものに変化。 足の筋肉が大きく盛り上がり、足裏が蹄のように硬質なものへ変わっていく。

 第三位階の時とは比べ物にならない力を感じる。
 自分が人間という枠を大きく飛び越えた事を実感した。 それによる万能感で恐怖を闘争心に変え、追跡者による怒りが湧き上がる。

 よくも今まで追いかけまわしてくれたな。 今度はこっちの番だ。
 そんな気持ちで彼は感覚を研ぎ澄ます。 少し遅れて風切音。
 矢による攻撃だ。 今の彼には躱す事は造作もなく、逆に音から発射位置を割り出して一気に突っ込む。 彼の腕は大きく肥大化し、人間を容易く引き裂く爪が生えている。

 たったの数歩で十数メートルを踏破し、鋭くなった嗅覚が敵の匂いを感知。
 いた。 後、数メートル。 位置がはっきりしたので後は引き裂くだけだ。
 強化された視覚は闇の奥に異物を見つけ出す。 悪魔の腕力で繰り出される一撃は敵を正確に捉え――

 「――!?」

 爪が引き裂いた手応えは明らかに人間のそれではなかった。
 山田は目を見開く。 彼が引き裂いたのは巨大な矢を十字にして上着を引っかけただけの案山子だ。
 なら本物は一体どこに疑問の答えは視線を落とした先にあった。

 男が一人、弓矢を構えた体勢で倒れ込んでいる。 
 山田がその姿を認識した瞬間、放たれた矢がその頭部を射抜いた。


 下顎から射抜いた矢は内包した毒によってライオンのような頭をジャムのようにどろどろに溶かす。
 頭部を失った悪魔は崩れ落ち溶けた頭部を伝うように胴体も同様に溶解させる。
 たった今、射貫いた獲物の末路に若干、顔を顰めた男は取り落とした魔導書を回収。

 そこまで手強い相手ではなかったが、勝手の悪さから仕留めるのに随分と時間をかけてしまった。
 彼の魔導書によって使役される悪魔は『14/72レラジェ』射抜いた者を腐敗させる毒矢を使う狩人だ。 その能力を用いて彼は獲物を追い詰め、そして仕留めた。

 男は魔導書を得てこの状況に身を置いてから早い段階で自らの魔導書を用いて他の参加者を狩ろうと決めており、仲間を増やそうといった気持ちは最初から存在しない。
 この悪趣味なゲームを仕込んだ主催者は明らかに参加者である彼等を殺し合わせようとしている。
 
 乗るのは業腹ではあったが、入念に準備された状況である以上は逃げる事は難しい。
 ならば可能な限り主催者の望みに沿い、隙を見つけてそれを射抜く。
 他の参加者には悪いと思うが、自分の命を優先している彼には迷いはなかった。

 男はグズグズと溶けつつある死体に背を向け、次の獲物を求めて歩き出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

平凡冒険者のスローライフ

上田なごむ
ファンタジー
26歳独身動物好きの主人公大和希は、神様によって魔物・魔法・獣人等ファンタジーな世界観の異世界に転移させられる。 平凡な能力値、野望など抱いていない彼は、冒険者としてスローライフを目標に日々を過ごしていく。 果たして、彼を待ち受ける出会いや試練は如何なるものか…… ファンタジー世界に向き合う、平凡な冒険者の物語。

三歳で婚約破棄された貧乏伯爵家の三男坊そのショックで現世の記憶が蘇る

マメシバ
ファンタジー
貧乏伯爵家の三男坊のアラン令息 三歳で婚約破棄され そのショックで前世の記憶が蘇る 前世でも貧乏だったのなんの問題なし なによりも魔法の世界 ワクワクが止まらない三歳児の 波瀾万丈

処理中です...