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1巻

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 このままでは、閉店までの残り二時間であと二十人ほども入ればせいぜいというところだろう。さすがのさくらもため息をつく。

「これが銭湯の現実だったのね。霊泉の力も全然あがっていないわ」

 霊泉の力というのは、本来は地球そのものが持っているエネルギーだ。
 その噴き出し口が霊泉なのである。
 このエネルギーを浴びたり取り入れたりすることで、神やあやかしは力を得ている。
 ただ、地球の生命活動というのは自然現象だから、基本的にコントロールすることはできない。
 霊泉も同じで、あちこちに開いたり閉じたりするし、強弱もある。
『昭和湯霊泉』の場合は天然の霊泉とは異なっていて、霊泉の力は訪れる客の数とその満足度に比例する。簡単にいうと、たくさんの人がきてリラックスしてくれれば、それだけ霊力が上がるのだ。
 どうやって満足度を霊力に変換しているのかはみゆりにもさくらにも判らないが、そういうシステムが構築されているらしい。
 つまり、人為的にコントロールし、安定させることが可能な唯一無二の霊泉なのだ。
 しかし現状、客数はまったく伸びず、霊力も全然上がらない。霊力が上がらないから、当然、神様やあやかしが訪れることもない。これでは霊泉でも何でもなく、本当にただの流行らない銭湯である。

「さくらって、なんか人を招く神通力とか使えないの?」 
「さくは猫又よ。招き猫じゃないわ」

 身も蓋もないことを言って、さくらが後ろ足で頭を掻いた。
 ふうとみゆりがため息を吐く。
 と、そのとき、暖簾をくぐって客が入ってきた。
 みゆりのため息に文句を言ってやろうとしていたさくらだったが、すました顔で猫座りになり、普通の猫のフリをする。
 入ってきたのはずいぶんと疲れきった感じに見える女性客だった。
 年の頃ならば三十代の前半。おそらくはすごく美人なのだが、身にまとった倦怠感けんたいかんですべてが台無しになっている。
 無言のまま小銭をみゆりに手渡し、すーっと中に入ってしまう。
 なんだか奇妙な雰囲気に、礼を言いつつもみゆりが首をかしげた。

「ミントゥチよ」

 じっと後ろ姿を見送ったさくらが、聞き慣れない言葉を口にする。

「ミントゥチ?」
「アイヌのあやかしで、和人のあやかしに当てはめると河童あたりが近いといえなくもないわね」

 首をかしげたままの解説だ。
 ミントゥチというのはアイヌ伝承にある妖怪で、豊漁や幸運や慈雨を司る。
 若者に化けて婿入りして、その家に富貴をもたらしたりもする。
 しかし、機嫌を損ねると出て行ってしまい、とたんに家は没落するのだ。

「それならむしろ座敷童ざしきわらしのほうが近いんじゃない? 富貴ふうきをもたらすとか」
「座敷童は地妖ちようよ。水妖すいようのミントゥチとは成り立ちがまったく違うから、同一視はできないの」

 地妖は大地の力を根源とし、水妖は水の力を根源としている。あやかしとひとくくりにするのは、かなり乱暴な分類なのだそうだ。

「サメは魚類でシャチは哺乳類。全然違うわよね。それを、どっちも海に棲んでて獰猛どうもうなんだから一緒でしょってカテゴライズはおかしいわよね。あやかしを能力で同一視するのもそれと同じくらい危険なことなの」
「なるほど……」

 あやかしにとって、成り立ちというものはそれほど重要なのだろう。

「それにまあ、河童というのはあくまでもイメージよ。どうしても、かなりふわっとした解釈になってしまうのよ」

 アイヌと和人ではあやかしや神様に対する考え方がかなり違うため、完全にこういうのに似ていると当てはめることはできない、とさくらは続ける。

「カムイ。つまりアイヌ語の神って言葉には、おそろしいものって意味もあるし」
「そうなの?」
「ええ」

 アイヌの神話においては、完全に善なる神というものは存在しない。
 基本的に良いことと悪いことの両方を司るのだ。
 さらに神様とあやかしの境界も非常に曖昧で、有名なコロポックルなどはイメージ的にあやかしに近いが、立ち位置としては神の眷属けんぞくにあたる。

「それにしても、あやかしのお客さん第一号だね。いまさらだけどちょっと不思議な気分」

 人間とあやかしが裸になってお風呂に浸かるというのは、考えてみるとなかなかシュールな光景だ。

「それこそが仙湯せんとうというものよ」

 みゆりの手のひらに、さくらが爪で字を書く。
 仙の湯と書いて仙湯。
 人間が温泉も銭湯も家風呂もまとめてお風呂と呼ぶように、あやかしは霊力回復が目的で浸かる温かい霊泉のことを仙湯と呼ぶという。
 べつに霊泉と仙湯に明確な違いはないのだと、みゆりは説明を受けた。

「ちなみに神隠しにあって名前を奪われた女の子が働かされてたのも仙湯ね」
「あれはフィクションでしょ。一応」

 ともあれ、アイヌのあやかしだろうと異国の神様だろうと癒やすのが仙湯の役目だ。
 森の中にある泉のように、どんな動物も争ったりせずに水を飲むのと同じである。

「けれど、ここはもう仙湯ではなくなってしまったようですね……」
「うわぁっ!」

 ぬっと現れた先ほどのミントゥチがいきなりさくらとの会話に割り込んできたため、みゆりは驚いて番台の上に立ち上がってしまった。
 酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせて、ミントゥチと壁掛け時計を交互に指さす。
 入ってからほとんど時間が経過していない、という類のことを言いたいのだが、驚きのあまり言葉が出てこない。

「ちょっと待って。ミントゥチ。仙湯じゃないとはどういう意味?」

 相棒の動揺に付き合わず、さくらが真剣な顔で問いかけた。

「いいんです……はもう消滅を待つのみです……」

 しかし質問に答えることもなく、彼女はがっくりと肩を落としてとぼとぼと『昭和湯』を出てゆく。
 そのまま消えてしまいそうな後ろ姿だった。
 ここはもう仙湯ではない。
 消滅を待つのみ。
 ミントゥチの発した言葉が、おりのようにみゆりの肩にのしかかる。
 なんともいえない感覚だ。
 後悔とも寂寥感せきりょうかんとも違う、絶対に好きにはなれそうもない感覚である。
 軽く首を振ってよく判らない気分を追い出した。

「あしだなんて、変わった一人称代名詞だったね。ギャル系なのかな?」

 自分のことをあーしとか呼ぶ若い子もいるし、などと、笑ってさくらに話しかける。

「気を遣ってどうでも良い話題を振らなくてもいいわよ。みゅり。どうやら事態はかなり深刻みたいね」

 ちらりとみゆりの方へと向けたさくらの顔は、りりしいまでに真剣そのものだった。

「あのミントゥチ、存在がなくなりかかっているわ」

 青い瞳に憂慮ゆうりょをたたえ、さくらがぺたんと猫座りした。
 白い身体から生えた尻尾が揺れる。
 まるで彼女の思考の軌跡をなぞるように。

「まずいわね。正直、新しい守り手ができたら、それだけで『昭和湯霊泉』は機能すると思ってた。さくの見込みが甘すぎたみたい」
「存在がなくなるってのはどういうこと?」

 難しい顔でぶつぶつ言っているさくらにみゆりが訊ねる。
 このままだと消滅してしまうあやかしがいるという話は聞いていた。
 それにはさくらが含まれているのだとも。

「そのままの意味ね。消滅してしまうわ。誰の記憶からも消えて、なかったことになってしまうのよ」
「もういっこ。守り手ができたら霊泉が機能するってのはどういう意味?」
「そこは、さくがどうして戻ってこれたのか、という部分にも関わってくるのだけれどね」

 そう言い置いて、さくらが語り始めた。
 あやかしが発生する要因はさまざまあるが、そのうちのひとつに願いというものがある。
 只猫ただねこだったさくらは死後、帰りたいと強く願った。
 もういちどみゆりに会いたいと。
 そして道南に住むあやかしたちは、『昭和湯霊泉』の復活を強く願った。
 消えたくない助けてと。
 このふたつの願いが合わさり、結晶化して、猫又のさくらが誕生したのである。

「つまり、あのミントゥチは、さくらの親みたいなものってこと?」
「親というと少し語弊ごへいがあるわね。あくまでも不特定多数の願いが要因だから」

 だからこそあやかしたちの願いを叶える、というのがさくらの存在理由のひとつだ。
 叶えるためにこそ、さくらはみゆりに霊泉の守り手になってほしいと願った。

「みゅりを利用したみたいな感じにきこえたらごめんなさい」
「そんなこと一ミリも思ってないから心配しないで。でも、私が守り手になっても状況は変わらなかったってことだよね」
「『昭和湯霊泉』は安定した霊泉だったの。おじいちゃんが入院して休業するまではね」

 多くの人が訪れることで霊力が上昇する。
 しかし『昭和湯』はいつでも千客万来だったのかといわれれば、そうではない。
 人々の銭湯ばなれが進むにつれ、ここも客数を減らしていったはずだ。
 みゆりの父も、その姉弟たちも、銭湯の厳しい経営を知っていたからこそ、あとを継ごうとしなかったのである。

「でも安定はしていたのよね?」
「そう。それこそが守り手の力なんじゃないかとさくは読んでいたの」

 だからみゆりに守り手たることを願った。
 仮に客数が少なくても、守り手がいればある程度は機能すると考えていたのである。
 しかしアテは外れ、消滅しかかっているミントゥチに霊力を補給してやることすらできないありさまだ。

「私に守り手の資格がないとか?」
「そういう話じゃないと思うわ」

 さくらが首を振る。
 みゆりの祖父である立花季太郞は、べつに霊能力者でも魔法使いでなんでもない。ただの人間だった。
 ふうむとみゆりは腕を組む。

「おじいちゃんの銭湯と私の銭湯、その違いってなんだろう?」
「まずは人間が違うわね。すえたろうとみゅりは別人だもの」
「そこは外して考えようよ。違うのは大前提なんだから」

 守り手が違うからダメということなら、話はそこで詰みである。どうしようもない。

「それ以外の違いは、じつはさくには判らないのよ。『昭和湯霊泉』に入ったこともないし」
「そりゃそうか。おじいちゃんの銭湯を経験してるのは私の方だもんね」

 只猫だった頃のさくらが銭湯に入れるはずもない。
 比べろというのも無理な話だ。
 むしろ幼少の頃とはいえ、みゆりは『昭和湯霊泉』を経験している。
 差違を挙げられるとすれば、それはさくらではなくてみゆりの方だろう。

「とはいえ、おじいちゃんのこと、なんにもわかんないんだよね」

 中学生から高校生になる頃には、すっかり足も遠のいてしまっていた。
 深い理由があったわけではなく、知らない人の前で裸になることに、なんとなく忌避感きひかんを抱くようになっただけだ。
 とはいえそれは思春期特有の感情で、大人になると普通にスーパー銭湯や温泉におもむくようになったけれど。

「そもそもおじいちゃんが霊泉の守り手だなんて知らなかったし」

 さくらと会うまであやかしに出会ったこともない。
 しかし季太郞は、あやかしや神様が訪れる日本で唯一の人工霊泉、『昭和湯霊泉』の守り手だった。
 あやかしの中に季太郞と知り合いだったものが一人や二人いてもまったくおかしくないだろう。先ほどのミントゥチも、かつての『昭和湯』を知っているような雰囲気だった。
 その一方で祖父がなぜ仙湯を経営していたのか、どうやって黒字にしていたのか、みゆりはなにも知らない。
 跡を継ぐ予定の人間が誰もいなかったから、知識も継承されなかった。
 考えてみれば、これだっておかしい。
『昭和湯霊泉』があやかしたちにとって必要なものであることを、季太郞は知っていたはずだ。
 霊泉の守り手として、この昭和湯が消滅してしまった場合の影響を考えなかったとは思えない。
 にもかかわらず子供たちに継がせようとしなかった。他から人を連れてくることもなかった。
 それはなぜなのか。

「でも、知らない知らないでは済まされないんだよね。ミントゥチを助けないと」

 消えかかっているあやかし。
 あれが将来のさくらの姿なのだと思えば悠長に構えてはいられない。

「そしてそれ以上に、短い時間でも喋ったことがある相手が消えちゃうってのは、さすがに寝覚めが良くないよ」
「さすがみゅりね。でも、あのミントゥチ、たぶん数日のうちに消えてしまうわ。さくがきたのに……」

 悔しそうに呟くさくら。
 あやかしたちの願いによって生まれたのに、あやかしを救うことができないとは、と。
 ひとりで抱え込むなと言いながら、みゆりはその背を撫でた。
 状況は厳しい。
 今すぐなんらかの手を打たなくてはならないのに、なにが有効打になるのか探す時間はない。八方塞がりだ。
 結局、とくに有効な策も思いつかないまま初日の営業は終わる。
 初日の来客数は五十七人。
 ミントゥチの問題、『昭和湯』の経営、頭痛の種を探すのに事欠かない滑り出しだ。


 そして翌日、みゆりはどちらの問題も熟慮する時間すら与えられずに開店準備に追われていた。
 銭湯というのはけっして暇な仕事ではない。
『昭和湯』の開店時間は午後三時だが、それまでずっと遊んでいて良い、というわけにはいかないのである。
 午前中のうちに浴室の床と浴槽をブラシがけして、男女五十席ずつある洗い場の鏡を磨き、固定式シャワーの吹き出し口を綺麗にする。さらに椅子と桶を洗って、積み重ねておく。
 浴室が終わったら、今度は男女別の脱衣所とロビーの清掃だ。
 これらの作業に四時間ほど。
 浴槽に水を張ったらボイラーに移動して、釜に火を入れる。
 適温になるまでの時間を利用して、銀行に両替に行ったり、必要なものの買い出しをしたりするのだ。
 そして開店時刻となったら、そこから午後十時の閉店までずっと番台に張り付かなくてはならない。
 夕食も客のいない時間を見計らって番台の中で済ませる。
 いつ人が来るかわからないうえに現金が置いてあるため、長時間席を立つわけにはいかないのだ。
 なかなかに過酷な労働環境なのである。
 とてもではないがのんびりと思索にふけっている時間はない。

「ちょちょいと考えて正解が思い浮かんだら良いのに」
「それはドラマや映画の中だけでしょ。簡単に解決できるなら問題だなんて言わないわ」

 みゆりのぼやきに応えながら、さくらがぴょんと番台に飛び乗った。
 良い知恵も浮かばないままに開店時間がやってくる。
 引き戸を開放して暖簾をかけ、開店前から待っていてくれた二、三人のご老体をみゆりは招き入れた。
 この部分だけ聞くと人気店のようだが、昔から、どこの銭湯でもどういうわけか一番風呂を狙う老人というのはいる。

「よう。出勤前にひとっ風呂……て、どうしたんだ? おふたりさん」

 しばらくして、暖簾をくぐって入ってきた倖人が、暗い表情のまま仕事をしているみゆりとさくらを見て首をかしげた。

「篠原くん……」
「ゆき……」

 揃って情けない顔を向ける。

「なんかあったなら喋ってみ?」

 彼は、さくらがことを知っているみゆり以外の唯一の人間である。
 周囲には新しい白猫を飼ったのだとしか思われないのだが、なんと倖人だけはこの白猫があのさくらだと気がついた。
 そのときのことを思い出すと、みゆりは少し笑ってしまう。
 東京の仕事を辞め、さくらと二人で再オープンのための準備をしているとき、倖人が『昭和湯』に遊びにきたのだ。
 陣中見舞いなどと称し、カクテルとつまみを持参して。
 そこでさくらと対面したのである。
 そして猫を見るやいなや、みゆりの手を引いて跳びさがった。

「妖怪変化め。立花に取り憑いてなにをたくらむ」

 みゆりを背後にかばいながらさくらを睨み、柏手かしわでを打って祝詞のりとを口にする。
 真剣そのものの表情だった。

「俺程度の力で調伏は難しいかもしれないけれど、立花には指一本触れさせないぞ」

 その様子を、かばわれたみゆりと睨まれたさくらが目を点にして眺めていた。
 さすが神社のせがれだなぁ、と。
 二人交互にあごをしゃくるのは、あんたがツッコミなさいよ、という無言語会話である。


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