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24>> 芽生える……
しおりを挟む最初の頃はクレアはただ日がな一日何もせずに過ごした。
天気が良い日は外で、天気が悪い日は家の中で。
義母の仕事は家事と内職だったので、仕事が一段落したらクレアを呼んで散歩をしたり話を聞かせたり絵本を読んであげたり一緒におやつを食べたりした。
太陽が沈みだし、空が赤みを帯びだした頃に義父が仕事から帰って来る。義父は家で少し休憩した後にワンの散歩も兼ねてクレアと一緒に外を歩いた。男の人と手を繋いで歩く。大きな手の温かさと自分の手が優しく包まれる感触。クレアはその内その時間を楽しみにするようになった。ワンは牧場犬という仕事から解放されたからか、楽しそうに駆け回る。クレアの顔を何度も見上げて嬉しそうに目を輝かせる。
義父が短い棒を投げるとワンが尻尾を振って追いかけて、そして同じ棒を咥えて戻って来る。クレアの前に。義父は最初の頃は「僕が投げたのに……」と眉を下げていたが、その内クレアの前に棒を落とすワンに合わせるように棒を拾っては投げていた。
楽しそうに笑っている義父とワンの姿をクレアはただ見る。何も言うことはなかったが、クレアの表情はとても穏やかだった。
クレアの口から「もうしわけありません」という言葉が出なくなった頃、義母はクレアに家事の手伝いを頼みだした。
最初は掃除から。義母が箒を使い、塵取りをクレアが担当する。洗濯物を干す時はクレアも一緒に干す。食事の時はクレアがテーブルにお皿などを並べる。洗い物を義母が洗う横でクレアが拭き、それを義父が棚に仕舞う。義父が本を出してクレアに読み聞かせた後はその本をクレアが元の場所に戻す。義父が薪を割ったらその割れた薪をクレアが拾って並べる。
クレアが何かをすると2人はクレアに「ありがとう」と言った。そうして時々クレアを優しく抱き締めた。温かく柔らかい他人の身体にくっつかれることがクレアは嫌ではなかった。
ある時、クレアは思い切ってワンに抱き着いてみた。もふもふふわふわとするワンの体毛は気持ちが良く、顔に当たるとくすぐったいだけではない不思議な気持ちになった。ワンの体温はクレアより温かく、気持ちが良かった。
「ワン!」
そう言ってワンはクレアの顔を舐める。それはちょっと嫌だったが、クレアはワンに抱き着いていると自分の頬が少しだけ柔らかくなる感触が分かった。
「………………わん……」
ワンの体毛に顔を埋めながらクレアはワンの名前を呼んでみた。それはとてもとても小さな声だったが、ワンの耳にはちゃんと聞こえた。
「ワン!!」
嬉しそうにワンは尻尾を振る。
その仕草が『喜び』なのだと、クレアは感じた。
◇
その日の夕方、クレアは自分の中の異変に気付いた。
「ただいま、マーサ」
「おかえり、ジン」
仕事から返って来た義父が義母にいつも通りの挨拶をした。
そして義父はクレアの方まで来ると、
「クレア、ワン。ただいま」
そう言ってクレアに微笑み、ワンの頭を撫でた。
いつものやり取り。
この場所に来てからほぼ毎日同じやり取りをしていた。なのに何故か今日は……
今日はなんだか鮮明に聞こえた気がした。
マーサ。ジン。
義母と義父の名前。
最初に会った時に聞かされた言葉。義母と義父がお互いに呼び合う名前。
もう、聞き慣れた音……
なのに何故か今日はその音が気になった。
いつもなら気にならないのに。
何故か今日は気になった……
「……おかえりなさい……、ジン……」
クレアは何となくそう言ってみた。
“おかえりなさい”はいつも言っていた言葉だった。そう言うのだと、教えられたから。だから馴染みの……ただ言うべき言葉、だったはずだった……
なのになぜだろう……その後に名前を言うだけで、なぜだかクレアの心臓が少しだけ強く鳴った気がした。
「……!」
クレアの言葉を聞いて義父は目を少しだけ見開いた。
驚いた顔。
クレアかそう思った時、義父の顔は花が咲くように変化して、泣きそうな、それでいて声を出して笑い出しそうな、でも泣き出しそうな、そんな、良くわからない顔をして、義父は笑った。
「……あぁ……
ただいま、クレア」
義父の声は震えていた。そしてクレアを抱き締めてくれたその体温は、本当にあたたかかった……
それから、クレアは義父と義母の名前を口にするようになった。
ジン。マーサ。
養父母はクレアに自分たちのことを父や母と呼ぶことを強要しなかった。2人はクレアが呼びたいように呼べば良いと思っていたし、何より『母親』との記憶にまともなものがないクレアに、『母』と呼ばせることには思うところがあった。まだ知っていることが少ないクレアが混乱してもいけないとも思っていたのもある。
そしてなにより、マーサもジンも『無理に母親や父親を意識しなくても、一緒に居れば、自然と“家族”になれる』と思っていた。
自分を父と思わなくてもいい。
自分を母と思わなくてもいい。
ただ、クレアの中で『家族』になれたら嬉しい。
クレアが自然と『頼りたい』と思える存在になりたい。
そう……2人は考えていた。
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