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{ 皇太子編 }
68. 想いの果てに
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目の前で、平伏し懇願する女は、頑なにその顔を上げようとしない。
なぜだ?
なぜお前はいつも、地に伏せ下を向く? 私はそちらにいない。
その瞳に、何故私を映そうとしない……?
心を支配した情景が、脳裏に鮮烈に蘇る……古びた寝台で、両手を広げこちらを迎え入れたその姿。薄明かりの中で、この目に焼きついた微笑み。擦り寄せた頬の柔らかさ……。
だが……その時でさえ、お前の目に私は映っていなかった……。
「顔を、上げなさい……。立ちなさい……」
そのうなじの震えに合わせ、首飾りの留め具が揺れて、金属が床を擦る不快な音が耳に障る。
「逆らうのか?」
「お前は、どうしても……私を許さぬのだな。お前は、私が思っていたより随分と強情だ……」
「……」
「そうまでしてお前は……アイツの、竜王の元に帰りたいのか?」
途端、女が弾かれたようにその顔を上げた。
「??」
「お前を竜の国になどやらない。お前は死ぬまで、この皇城で、私の側で……私の妃として生きるのだ」
その顔から見る間に血の気が失せていく。
「あ……な、なぜ……?」
「お前は全く……。私が知らぬと思っていたか? 戴冠式の宴の席で、私はお前と竜王の一部始終を目にしていた……。微笑み合い、手を繋ぎ……踊っていただろう?」
「っ……」
口を小さく開くも、何の言葉も発せず、ただ戦慄く唇だけが、その心の動揺を映していた。
「いくら良好とは言えぬ関係でも、隣国の王の戴冠式だ……。皇国を代表し私が参列したのだが、そこで随分と愉快な事を見聞きした」
「奴はお前を妃に据えようとしていたが。お前は? お前までそのつもりでいたのか……? お前はまんまとその弱さにつけ込まれて……奴の財力と権力に絆されたのだろう。奴に縋るしかない状況で、それを愛と勘違いして。お前が奴に対して特別な感情を抱いたなら、それはっ! 奴の策略に嵌ったのだ……!」
「くっ、ハハッ」
言葉にすると、この女のあまりに愚直な性質を実感させられた。
易々と騙され……掌握され、疑念さえ抱かない。
女は微動だにせず、唖然とした表情のままこちらを見上げる。
「お前はアレの残虐な本性を知っているか? 私がお前に与えた痛みなど……奴の所業と比べれば、ほんの些細な罰に過ぎない。あれほど暴虐で残忍な奴はいない! なのに、なぜお前はアイツを選ぶ? アイツを欲する?」
瞬間、あの男の顔が頭によぎる……。
魔物の異常発生に伴う討伐を終え、歓喜に沸く群衆が、一瞬で水を打ったように静まり返り……さざなみのように道が開けた。
そこから姿を現した竜人族の唯一の王子は……魔物の血飛沫にまみれ、異様な様相を呈する隊列の先頭に立ち、凶悪な眼差しをこちらに向けた……。
「深窓の皇太子殿下……よくぞこの戦地まで、参られた……」
冷笑を浮かべ、明らかな皮肉と侮蔑を含んだその言葉に、反応する間も無く……あいつは身を翻し、振り向きもせず街を去って行った。
……あの時の言葉と眼差しは、思い出すたび腹の底で煮えたぎり、奴への憎悪となった。
父は、唯一の後継者である私を闇雲に出陣させる事はしない。
だが奴は、常にその先鋒に立ち、日々魔物狩りに明け暮れると聞く……。
私は、それが崇高な使命感と勇敢さから来るものではないと知っている!
あれは、ただ暴力と血に飢えた……人の皮を被った獣だ……!
「お前は……奴に騙されている! いったい何をされた? 何を与えられた?」
女は切なげにその眉端を下げ、首を振る。
「いいえ……あなたが何と言おうと、私の知る竜王陛下……いえ、カイラス様は……常に誠実に、私に向き合ってくれました。……私を救ってくれたのは、カイラス様です。ただ私を癒してくれて、愛してくれて、そして命を救ってくれたのは……カイラス様です……!」
「いいや! あいつはお前を救えない。幸せになど出来ない! 奴はお前の送還は望まぬと、そう言っただろう!」
「いいの! それでもいいんです! 私は……ただ彼に会いたい。ただ……一目会いたい、それだけなんです……!」
鋭さを増し、敵意を滲ませこちらを睨むその青の瞳に……心が締め付けられる。
「……諦めろ。あの男はお前には会わない。お前はアイツの唯一ではない。私だけが、お前に尽くし、お前を幸せに出来る、唯一の存在だ!」
女は身体をこわばらせ震えながらも、その瞳は鋭さを失わない。この女の脆弱さは、時に強固な決意に豹変する……。不快な予測が心に芽生える。これ以上は……!
「もう何も言うなっ!」
「いいえっ!……もし私がっ!……誰かの唯一の存在になれるなら……その誰かはカイラス様です。カイラス様意外に望みません!……決して、あなたでは……ありません……!」
徐々に、身体も心も冷え切っていくその中で……ただ一つの想いだけが、強烈な熱を発してその輪郭を際立たせた。
「分かった。もういい……お前は、私がどれだけ愛を伝えても、私の事を信じず、許さず……愛してはくれぬのだろう。……お前が、何と言おうと……私はお前を愛している。その事実は揺らがない。そして……私は、お前を手に入れるためなら……手段は問わない」
変わらず女は平伏したままに、こちらを見上げる澄んだ瞳が微細に揺れて……その心に生じた怯えを如実に映す。
手を伸ばし、赤く色づく頬に触れた。
女は身を反らせ離れようとするも、その顎を引き寄せる。
涙に濡れた唇も、瞳も……何もかもが抗い難い魅力を放つ。
これまで堪えてきた衝動が、凄まじい熱を帯びて沸るも……もうそれに蓋をする必要がないという事実が、存外の余裕を生んだ。
「ふっ」
笑いが漏れた……。先程までの煩わしさと心苦しさは跡形もなく消え去って、期待に胸が満たされる。
「はじめから、こうするべきだった。私らしくも無い、無駄な事に時間を割いた」
清流のように流れる、その細く滑らかな髪束を指先で掬い上げ、口付けた。
これとただ永遠と混ざり合い……快楽に浸る。
それが出来れば、手段などは関係ない。
「そこの者!……」
その呼びかけに、影に控えた従者が姿を見せた。
「薬師に伝えろ……例の薬を持ってこいと。あるもの全てだ……!」
荒げた声に、女の肩が大きく震えた。
両脇に手を添えその身体を空に持ち上げると、あまりの軽さに虚をつかれた。
あっけに取られ硬直した女が、我に返り抗うように腕を掴むも、何ら意味をなさない。
「いや、離して! 何をするの!」
その瞳を見つめながら、ふざけるように首を傾げ……努めて穏やかに笑いかけた。
「何も憂うことはない。幻想を見せてやる。……そして幻想のままに求めるといい。私はそれに応えるだけだ」
お前の精神が壊れれば、また都合がいい。
この皇城で、永遠に幻に浸って、生き続ければいい……私の側で。
その時こそ、思う存分慈しみ可愛がり……愛を伝えよう。
そのまま膝から抱え上げる。
「やっ、やめて! 降ろして!」
女はその両腕に力を込め、身体を引き離そうとするも、引き寄せるとあっけなく体制を崩し、肩に寄りかかる。
その身体から感じる生身の柔らかさ……抗うほどに、かえってその反動で密着することに気づいてはいないのだろう。
「誰か! 誰か! 助けて」
その無意味な叫びに失笑する……。
一切の罪悪感も抱かず……その断固とした拒否の姿勢が行動を後押しする。
何らいつもと変わらぬ足取りで、庭園を進む。艶やかな花々が道を彩り、水路が水の音を奏でる。全てが刷新されたように感じる風景と、そこに溶ける、澄んだ空気を吸い込んだ。
その時、一陣の風が身体を撫でた。
それは、たった一瞬、上空に吹き上げた小さなつむじ風だった。
……その異様な生ぬるさ。花を散らし、木の葉を巻き上げ、熱を孕んだその風がもたらした空気の変化に違和感を感じたその刹那! 異形の物体が足元をかすめた!
得体の知れないそれが影だと気付き、空を仰ぐも……澄み切った空には雲ひとつない。
気づけば女は微動だにせず、無言のまま顔を上げ、何かを見つめるその視線の先を追いかけたその時! 空気を震わす轟音と共に、凄まじい風が吹き付けた……!
それは、肌に砂粒を叩きつけ……目を閉じ、女を抱く腕に力を込める。
壮絶な悲鳴と破壊音が混じり合う中、鮮明に捉えたその言葉!
「魔物! 魔物の襲来だーーー!」
嵐のような風がやみ、目を開き飛び込んだ光景に絶句する。
薙ぎ倒された木々を踏みつけ、庭園を蹂躙する1匹の魔物……! それは空を覆い隠す程の巨大な両翼を広げ、禍々しい唸り声を上げ身体を震わせた。
一歩脚を踏み出せば、深い亀裂が地に走る!
これが、魔物だと? この巨体、翼、全てがあり得ない!
その身体を覆う無数の鱗が、陽光を弾き青光りする。深く裂けた口に並ぶ鋭利な牙、その奥は赤黒く、深淵の奈落を思わせた。
今まで目にした魔物とはまるで違う。悍ましくも生物としての原型を留め、知性さえ感じさせるその動き!
混迷を極める中で、目まぐるしく思考を巡らせる。ふと身体に感じた静寂に違和感を感じ見上げると、抱き上げた女はその魔物を一心に見つめていた……。
その横顔には戸惑いと驚きの色が浮かぶも、一才の恐怖は読み取れない。いや、むしろ、これは……
「カイ、ラ、スさま………」
女の呟きが耳を掠めた。
まさかっ!
視界に捉え切れぬ程の巨大な魔物は、こちらの一点を射抜かんばかりに睨みつけていた。
黒一色の身体の中で、その双眸は黄金の光りを放つ。
禍々しくも、闇に輝く恒神星のようなその眼差し! 否応なしに、男の顔が蘇り、全身を戦慄が駆け抜けるっ!
息を大きく吸い込んだ……!
「竜だーー!」
「カイラス様ーー!」
重なった2つの叫び声! それに呼応するかのように、竜は首をもたげると、牙を剥き出し咆哮を上げた!
空気を震わし、木を払い、石垣を破壊するほどの叫びに、猛烈な怒りを感じる。
女は竜に向けて、一心不乱に手を伸ばす。その表情に、胸を引き裂く痛みが走る。
解放すれば、その身の危険など顧みずあの竜に駆け寄るだろう女を、きつく両腕に抱きしめた。
低く唸り声が響き、その瞳が凶悪さを増す。
既にその目的は明白で有りながら、到底理解できないその暴挙!
「愚かな! 死にに来たか……!」
片足を踏み出した竜は、躊躇する事なくその鋭い爪を振りかざした!
一挙に神性を放出し、竜の背を越える障壁を作り出す。
振り下ろされた爪を光の壁が弾き、摩擦音が雷鳴のように轟く! 竜は間髪入れず、その巨体を反らし、反動をつけ激突するも、障壁は揺らぐ事なくその侵入を阻み、同時に凄まじい衝撃波が身体を揺さぶった!
何度目かの体当たりは障壁を弾き飛ばし、光の粒子が空に潰える……。
だが既に次の障壁が、その歩みを阻む。それは上空から竜の頭上目掛けて、落下した!
地を揺るがす衝撃に、竜は膝をおり、なすすべなく倒れ込んだ……!
遊色を放つ光が、その巨体を覆い尽くす。竜は、のたうちその首を上げようとするも、障壁はびくともせずその身を地に磔にする。
「神剣だ! 神剣をここに持て!」
こちらに駆け寄る兵士に向けてそう言葉を発した、その時……抗い逃れようと悶える女がびくりと身を震わして、動きを止めた。
何かに気づいたように、こちらを向いて……。目が合うも、女は呼吸さえせず、時間が止まったように感じたその刹那、悲痛に顔を歪め、狂乱の叫び声をあげた!
なぜだ?
なぜお前はいつも、地に伏せ下を向く? 私はそちらにいない。
その瞳に、何故私を映そうとしない……?
心を支配した情景が、脳裏に鮮烈に蘇る……古びた寝台で、両手を広げこちらを迎え入れたその姿。薄明かりの中で、この目に焼きついた微笑み。擦り寄せた頬の柔らかさ……。
だが……その時でさえ、お前の目に私は映っていなかった……。
「顔を、上げなさい……。立ちなさい……」
そのうなじの震えに合わせ、首飾りの留め具が揺れて、金属が床を擦る不快な音が耳に障る。
「逆らうのか?」
「お前は、どうしても……私を許さぬのだな。お前は、私が思っていたより随分と強情だ……」
「……」
「そうまでしてお前は……アイツの、竜王の元に帰りたいのか?」
途端、女が弾かれたようにその顔を上げた。
「??」
「お前を竜の国になどやらない。お前は死ぬまで、この皇城で、私の側で……私の妃として生きるのだ」
その顔から見る間に血の気が失せていく。
「あ……な、なぜ……?」
「お前は全く……。私が知らぬと思っていたか? 戴冠式の宴の席で、私はお前と竜王の一部始終を目にしていた……。微笑み合い、手を繋ぎ……踊っていただろう?」
「っ……」
口を小さく開くも、何の言葉も発せず、ただ戦慄く唇だけが、その心の動揺を映していた。
「いくら良好とは言えぬ関係でも、隣国の王の戴冠式だ……。皇国を代表し私が参列したのだが、そこで随分と愉快な事を見聞きした」
「奴はお前を妃に据えようとしていたが。お前は? お前までそのつもりでいたのか……? お前はまんまとその弱さにつけ込まれて……奴の財力と権力に絆されたのだろう。奴に縋るしかない状況で、それを愛と勘違いして。お前が奴に対して特別な感情を抱いたなら、それはっ! 奴の策略に嵌ったのだ……!」
「くっ、ハハッ」
言葉にすると、この女のあまりに愚直な性質を実感させられた。
易々と騙され……掌握され、疑念さえ抱かない。
女は微動だにせず、唖然とした表情のままこちらを見上げる。
「お前はアレの残虐な本性を知っているか? 私がお前に与えた痛みなど……奴の所業と比べれば、ほんの些細な罰に過ぎない。あれほど暴虐で残忍な奴はいない! なのに、なぜお前はアイツを選ぶ? アイツを欲する?」
瞬間、あの男の顔が頭によぎる……。
魔物の異常発生に伴う討伐を終え、歓喜に沸く群衆が、一瞬で水を打ったように静まり返り……さざなみのように道が開けた。
そこから姿を現した竜人族の唯一の王子は……魔物の血飛沫にまみれ、異様な様相を呈する隊列の先頭に立ち、凶悪な眼差しをこちらに向けた……。
「深窓の皇太子殿下……よくぞこの戦地まで、参られた……」
冷笑を浮かべ、明らかな皮肉と侮蔑を含んだその言葉に、反応する間も無く……あいつは身を翻し、振り向きもせず街を去って行った。
……あの時の言葉と眼差しは、思い出すたび腹の底で煮えたぎり、奴への憎悪となった。
父は、唯一の後継者である私を闇雲に出陣させる事はしない。
だが奴は、常にその先鋒に立ち、日々魔物狩りに明け暮れると聞く……。
私は、それが崇高な使命感と勇敢さから来るものではないと知っている!
あれは、ただ暴力と血に飢えた……人の皮を被った獣だ……!
「お前は……奴に騙されている! いったい何をされた? 何を与えられた?」
女は切なげにその眉端を下げ、首を振る。
「いいえ……あなたが何と言おうと、私の知る竜王陛下……いえ、カイラス様は……常に誠実に、私に向き合ってくれました。……私を救ってくれたのは、カイラス様です。ただ私を癒してくれて、愛してくれて、そして命を救ってくれたのは……カイラス様です……!」
「いいや! あいつはお前を救えない。幸せになど出来ない! 奴はお前の送還は望まぬと、そう言っただろう!」
「いいの! それでもいいんです! 私は……ただ彼に会いたい。ただ……一目会いたい、それだけなんです……!」
鋭さを増し、敵意を滲ませこちらを睨むその青の瞳に……心が締め付けられる。
「……諦めろ。あの男はお前には会わない。お前はアイツの唯一ではない。私だけが、お前に尽くし、お前を幸せに出来る、唯一の存在だ!」
女は身体をこわばらせ震えながらも、その瞳は鋭さを失わない。この女の脆弱さは、時に強固な決意に豹変する……。不快な予測が心に芽生える。これ以上は……!
「もう何も言うなっ!」
「いいえっ!……もし私がっ!……誰かの唯一の存在になれるなら……その誰かはカイラス様です。カイラス様意外に望みません!……決して、あなたでは……ありません……!」
徐々に、身体も心も冷え切っていくその中で……ただ一つの想いだけが、強烈な熱を発してその輪郭を際立たせた。
「分かった。もういい……お前は、私がどれだけ愛を伝えても、私の事を信じず、許さず……愛してはくれぬのだろう。……お前が、何と言おうと……私はお前を愛している。その事実は揺らがない。そして……私は、お前を手に入れるためなら……手段は問わない」
変わらず女は平伏したままに、こちらを見上げる澄んだ瞳が微細に揺れて……その心に生じた怯えを如実に映す。
手を伸ばし、赤く色づく頬に触れた。
女は身を反らせ離れようとするも、その顎を引き寄せる。
涙に濡れた唇も、瞳も……何もかもが抗い難い魅力を放つ。
これまで堪えてきた衝動が、凄まじい熱を帯びて沸るも……もうそれに蓋をする必要がないという事実が、存外の余裕を生んだ。
「ふっ」
笑いが漏れた……。先程までの煩わしさと心苦しさは跡形もなく消え去って、期待に胸が満たされる。
「はじめから、こうするべきだった。私らしくも無い、無駄な事に時間を割いた」
清流のように流れる、その細く滑らかな髪束を指先で掬い上げ、口付けた。
これとただ永遠と混ざり合い……快楽に浸る。
それが出来れば、手段などは関係ない。
「そこの者!……」
その呼びかけに、影に控えた従者が姿を見せた。
「薬師に伝えろ……例の薬を持ってこいと。あるもの全てだ……!」
荒げた声に、女の肩が大きく震えた。
両脇に手を添えその身体を空に持ち上げると、あまりの軽さに虚をつかれた。
あっけに取られ硬直した女が、我に返り抗うように腕を掴むも、何ら意味をなさない。
「いや、離して! 何をするの!」
その瞳を見つめながら、ふざけるように首を傾げ……努めて穏やかに笑いかけた。
「何も憂うことはない。幻想を見せてやる。……そして幻想のままに求めるといい。私はそれに応えるだけだ」
お前の精神が壊れれば、また都合がいい。
この皇城で、永遠に幻に浸って、生き続ければいい……私の側で。
その時こそ、思う存分慈しみ可愛がり……愛を伝えよう。
そのまま膝から抱え上げる。
「やっ、やめて! 降ろして!」
女はその両腕に力を込め、身体を引き離そうとするも、引き寄せるとあっけなく体制を崩し、肩に寄りかかる。
その身体から感じる生身の柔らかさ……抗うほどに、かえってその反動で密着することに気づいてはいないのだろう。
「誰か! 誰か! 助けて」
その無意味な叫びに失笑する……。
一切の罪悪感も抱かず……その断固とした拒否の姿勢が行動を後押しする。
何らいつもと変わらぬ足取りで、庭園を進む。艶やかな花々が道を彩り、水路が水の音を奏でる。全てが刷新されたように感じる風景と、そこに溶ける、澄んだ空気を吸い込んだ。
その時、一陣の風が身体を撫でた。
それは、たった一瞬、上空に吹き上げた小さなつむじ風だった。
……その異様な生ぬるさ。花を散らし、木の葉を巻き上げ、熱を孕んだその風がもたらした空気の変化に違和感を感じたその刹那! 異形の物体が足元をかすめた!
得体の知れないそれが影だと気付き、空を仰ぐも……澄み切った空には雲ひとつない。
気づけば女は微動だにせず、無言のまま顔を上げ、何かを見つめるその視線の先を追いかけたその時! 空気を震わす轟音と共に、凄まじい風が吹き付けた……!
それは、肌に砂粒を叩きつけ……目を閉じ、女を抱く腕に力を込める。
壮絶な悲鳴と破壊音が混じり合う中、鮮明に捉えたその言葉!
「魔物! 魔物の襲来だーーー!」
嵐のような風がやみ、目を開き飛び込んだ光景に絶句する。
薙ぎ倒された木々を踏みつけ、庭園を蹂躙する1匹の魔物……! それは空を覆い隠す程の巨大な両翼を広げ、禍々しい唸り声を上げ身体を震わせた。
一歩脚を踏み出せば、深い亀裂が地に走る!
これが、魔物だと? この巨体、翼、全てがあり得ない!
その身体を覆う無数の鱗が、陽光を弾き青光りする。深く裂けた口に並ぶ鋭利な牙、その奥は赤黒く、深淵の奈落を思わせた。
今まで目にした魔物とはまるで違う。悍ましくも生物としての原型を留め、知性さえ感じさせるその動き!
混迷を極める中で、目まぐるしく思考を巡らせる。ふと身体に感じた静寂に違和感を感じ見上げると、抱き上げた女はその魔物を一心に見つめていた……。
その横顔には戸惑いと驚きの色が浮かぶも、一才の恐怖は読み取れない。いや、むしろ、これは……
「カイ、ラ、スさま………」
女の呟きが耳を掠めた。
まさかっ!
視界に捉え切れぬ程の巨大な魔物は、こちらの一点を射抜かんばかりに睨みつけていた。
黒一色の身体の中で、その双眸は黄金の光りを放つ。
禍々しくも、闇に輝く恒神星のようなその眼差し! 否応なしに、男の顔が蘇り、全身を戦慄が駆け抜けるっ!
息を大きく吸い込んだ……!
「竜だーー!」
「カイラス様ーー!」
重なった2つの叫び声! それに呼応するかのように、竜は首をもたげると、牙を剥き出し咆哮を上げた!
空気を震わし、木を払い、石垣を破壊するほどの叫びに、猛烈な怒りを感じる。
女は竜に向けて、一心不乱に手を伸ばす。その表情に、胸を引き裂く痛みが走る。
解放すれば、その身の危険など顧みずあの竜に駆け寄るだろう女を、きつく両腕に抱きしめた。
低く唸り声が響き、その瞳が凶悪さを増す。
既にその目的は明白で有りながら、到底理解できないその暴挙!
「愚かな! 死にに来たか……!」
片足を踏み出した竜は、躊躇する事なくその鋭い爪を振りかざした!
一挙に神性を放出し、竜の背を越える障壁を作り出す。
振り下ろされた爪を光の壁が弾き、摩擦音が雷鳴のように轟く! 竜は間髪入れず、その巨体を反らし、反動をつけ激突するも、障壁は揺らぐ事なくその侵入を阻み、同時に凄まじい衝撃波が身体を揺さぶった!
何度目かの体当たりは障壁を弾き飛ばし、光の粒子が空に潰える……。
だが既に次の障壁が、その歩みを阻む。それは上空から竜の頭上目掛けて、落下した!
地を揺るがす衝撃に、竜は膝をおり、なすすべなく倒れ込んだ……!
遊色を放つ光が、その巨体を覆い尽くす。竜は、のたうちその首を上げようとするも、障壁はびくともせずその身を地に磔にする。
「神剣だ! 神剣をここに持て!」
こちらに駆け寄る兵士に向けてそう言葉を発した、その時……抗い逃れようと悶える女がびくりと身を震わして、動きを止めた。
何かに気づいたように、こちらを向いて……。目が合うも、女は呼吸さえせず、時間が止まったように感じたその刹那、悲痛に顔を歪め、狂乱の叫び声をあげた!
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