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{ 皇太子編 }

66. 微笑み

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ただぼんやりと椅子に腰掛ける私の横で、召使が髪を結い上げ、装いを仕上げていく。
そしてその一歩先で、卓上に並べられた宝飾品と私を交互に見る男がいた。
目が合うも、黙ったままこちらを眺める。

「そうだな……今日は、こちらにしよう……」

男が私の後ろに回り込むと、その手に持つ首飾りが眼前を通り過ぎ、首元に冷たい金属が触れる感触、次いで留め具がかかる音……それは全ての装いが完了した合図だった。

私は今……一体どんな姿で、どんな表情を浮かべているのだろうか。
それを確認する事はできなかった。
ありとあらゆる物が揃えられたこの部屋には、唯一鏡がなかった……。
だが、もし鏡があったとて……あまり見たくは無かった。この男の艶めいた銀髪と、繊細な陰影を作る目鼻立ち……横に並べば、私の顔色悪く貧弱な姿形が際立ったことだろう。

差し出された手に、手を重ねながら、深く息を吐き立ち上がる。

体調が回復してから、連日私を着飾らせて、外に連れ出すこの人の、意図を推し量れずにいた。
まるで人形遊びのような……。いや、これじゃ首輪をつけられリードを引かれる犬と変わらない……。

庭園のガゼボに着き、従者に椅子をひかれ腰掛ける。
付き従う者たちは、準備を済ますと一様にお辞儀をし、場を離れた。
雲間から陽が刺して、周囲の陰影が一際濃くなる。

「顔色が、随分良くなったようだ」

眩しげに目を細めた男が、返事を待つようにこちらを見つめる。

「……はい。……皇太子様のお気遣いに、痛み入ります……」

「……スティーリア……」

瞬間、肩が震えた。
その名を呼ばれる度に、心臓が大きな鼓動を打つ。

「そのように、畏まることはない、スティーリア……もう少し、楽に話すといい……」

「そんな……畏れ多いこと……」

「納得できずとも……仕方がないだろう。この場も、お前と親交を深めるように……皇帝の命だ」

「……」

「ここで、決められた時間、共に過ごすだけでいい……各々好きなことをして……。それに、部屋に籠っているよりお前の身体にとっても良いだろう……」

「……はい」

「次からは、私の事も……名で呼ぶといい…‥」

「…………はい……」

男は流れるような所作で紅茶を口に運ぶと、次に先程従者から受け取った冊子を開き、目を落とした。

ここ数日間、午後の決まった時間になると……装いを新たにして、太陽が木立の上にかかるまでの数時間を、彼と過ごしている。
まるでこれまでもそうであったかのように、そしてこれからも続く当たり前の日常のように……目の前の男は少しの憂いも見せず……。いや、むしろこの状況を楽しんでいるようにさえ見える。
ぬるい風が吹きつけて、水辺にさざなみが立つ。
私はいつも、ここで何をするでもなく……時折、投げかけられる問いかけに答えながら……ただ時間が過ぎるのを待つだけだった。

美しく整えられた卓上の茶器や菓子……そして私のすぐ横には、刺繍用品や本がワゴンに並べ置かれていた。
あと少しで完成するその刺繍……でも、それを仕上げる気持ちには到底なれない。

小さくため息を吐き、横に置かれた本を手に取り、読み進める……。
ゆっくりと時間が流れる中……本の中盤、ページを捲って見開きに描かれた地図に釘付けになった。指先で地図に描かれた黒い線をそっとなぞる……。

その時ふと、静寂を感じて顔を上げて、思わず息を止めた。
高貴さの象徴のような、その紫紺の瞳……皇太子は……書類に書き込む手を止めて、こちらを見つめていた。
その瞳に、射抜かれ捉われたように……目も逸らせず…………徐々に息苦しさが増していく。
……男は僅かに首を傾げ、無表情のままに口を開いた。

「今は、何を読んでいる……?」

「あっ…………『交易路の開拓と発展』です。……先日ご案内くださった図書室で見つけて、お借りしております」

大きく息を吸い込みながら、努めて冷静に返答するも……息苦しさは一向に消えず、冷や汗が背を伝う。

「そうか……」

その唇が綻んで……涼やかに微笑むと、また視線を書類に向け、ペンを走らせた。
その口元には未だ、柔らかな笑みが浮かんでいる。


突如湧き上がった感情に、激しく心が揺さぶられる。
あなたが……なぜ、その表情を私に向けるの……? まるで善人のような、その微笑み……。
いつも狩りに向かう最中、貴族令息や従者に囲まれる中で、いつもあなたが浮かべていたその微笑み。

胸が鷲掴みにされたように……苦しくて苦しくて、必死に唇を噛み締め耐える……。

あなたは……知らなかったでしょう。
あなたは、気付いていなかったでしょう。
私が、どれだけその微笑みにすがっていたか……!

あなたに、どんな酷い事をされても……私には……あなたしか、いなかった……。
突然、あなたが雑木林に来なくなって……嬉しいはずなのに、苦しくて、不安で、たまらなく寂しかった。
だって、あなただけだった。私に声をかけるのも、私の事を見てくれるのも、どれだけ辛い目に遭わされたって……それでも私にはあなたしかいなかった!

毎年、春になって馬の蹄の音が聞こえたら、小屋から飛び出して……雑木林の影であなたの姿をずっと目で追っていた。

見る度、背が伸びて、いつも綺麗な服を着て。そして何より優しい笑顔を浮かべて、会話して、時折笑い声さえ響かせながら……。羨ましくて羨ましくてたまらなかった。
あなたに優しく接してもらえる人たちが……。
その微笑みが、欲しくて欲しくてたまらなかった……!
見つかるのが怖くて、影に身を潜めながらも……次第に、僅かな期待が芽生えた……。次会ったときは、私にも微笑みかけてくれるかもしれないって……。
あなたがふとした拍子に私を見つけて……優しく声をかけてくれる……。
ひとり、物置小屋の隅で丸まりながら……そんな想像さえしていた。

なんて……救いようのない惨めな期待……。
そんな妄想に縋るしかなかった、哀れな過去。
かつて抱いたその愚かな感情に……今は吐き気さえ感じる。

あの日は……最悪だった……。
記憶が蘇ってからは、今まで平気だった身体の汚れを堪らなく不快に感じて……できる限り服や身体の衛生に気を配った。
あの日も雑木林の側の古井戸の淵に腰掛けて……髪を洗っていた。
桶から水を掬い、髪を濡らし、手櫛で髪をとく……ただ無心でその動作を繰り返す……。
……だから……気付けなかった……。
何気なく顔を上げると、人がいた。
身綺麗な若者達が……揃ってこちらを向いて、私を見ていた。
その中に、一際目立つあなたを見つけて凍てついた!
あの時込み上げた羞恥心……!今も思い出すだけで、胸が抉れる。

淡い期待など吹き飛んで、ただひたすら恐怖した。いつもあなたが浮かべる微笑みが崩れて……また蔑みに満ちた目でこちらを見て嗤うのか、その予感に心が軋んで……必死だった。
だめ、慌ててはいけない、これ以上無様な醜態を晒してはいけない、走り去りたい衝動を抑えながら……ただ、隠れるように、雑木林の暗闇を求めて歩き続けた。

あの日の恥と後悔は、幾度も脳裏に蘇って……その度に、叫びたいほど苦しくなって。
もう2度と、誰とも顔を合わせたくなくて……自分の惨めな姿を晒したくなくて……小屋に隠れた。

そして……自覚した。
あなたが私に向けた悪魔のような態度……どちらがあなたの本当の姿かは分からない。
でも、少なくとも、私のことを『人』としては見ていない。そして、前世の記憶を取り戻し、人としての知性を手にした私が、そんな酷い仕打ちを受ければ、正常でいれないだろう。
そう思って、絶対にあなたに会わないようにしていたのに……。

白い花の濃密な匂いが、悪夢と共に鼻腔の奥に蘇る……。
……あの時、皇女に濡れ衣を着せられて、地面に伏した私の前に現れた、あなたを見て……愚かにも、一抹の望みを抱いた。
助けに来てくれたと……。

でも……あなたは容赦無く頬を打った……。
木に打ち付けて……首を絞めた……。
意識が薄れる中で……死を感じて……それはとても苦しくて、悲しくて……惨めで。

それまで、あなたは……私の体に暴力を振るうことはなかった……。
なのに、まるで虫ケラを踏み潰すように、躊躇なく、私を痛ぶった……。

目覚めても、倒れる間際、瞳に焼きついたあなたの顔が頭から離れなくて……!
あの時……私の心は壊れてしまった……。
地面に突っ伏し泣きながら……全ての感情が涙と一緒に流れ落ちて……寂しさも、悔しさも、もう何も感じる事はなくなった。
皇帝に呼ばれ、竜の国に送られると告げられた時でさえ、私の心は乱れる事なく、その役目を受け入れた。
ただ他人事のように……私は、静かに立ち尽くす私の姿を、遠くから眺めるだけだった。

だけど……。
ぼやけた視界の中……柔らかな輪郭を伴ってその姿が浮かび上がる。
春の陽射しのようなその微笑み…………私に語りかける穏やかな声……こちらを憐れみ労わる眼差し……。それは私の凍てついた感情を確実に溶かしていった。
そう……先生に出会って、生まれて初めて親切にされて……学び、本を読み、この世の事を知るにつれ、色のない世界が次第に色づいて……欲が芽生えた。
もっとこの世界のことを知りたいと……!

ある日、小鳥たちの囀りに、ふと窓辺に目を向けた。
……眩い木漏れ日の中で、風に揺れる木々が繊細な影を落とし、踊るように揺れていた……。目に映るもの、耳にするもの、全てが調和していた。

あの時初めて……この世界の美しさを鮮明に感じた。
そして、あの瞬間、他人のような目で見ていた自身の身体に、はっきりと自分の意識と感情が戻った事を感じた!
死にたくない、もっと生きていたい……!
理不尽な暴力も運命も、受け入れ諦めてはいけない!
強烈な生存本能が、私を突き動かした……!
あの時私に残された道はたったひとつ……逃げる事だった。
……ただ生きたい。
その一心だった……。
荷馬車に紛れ込み城を出て……出会った女性に、僅かな所持品と服を交換してもらった。
……なのに、ようやくあと少しで、城下の砦をくぐるところで……眼前に聳え立った光の障壁に阻まれた……。


そして……あなたから罰を受けた…………。

あなたは……いつも……私の心を容易たやすく壊す…………。



「どう……した……」

その声に我にかえると、こちらを真っ直ぐに見据える皇太子と目が合った。
何かに驚いたように、その目を見開いて……。
その問いかけの意味が分からないまま、目を逸らし俯いた視線の先……開いた書物のページが、まるで雨に打たれたように濡れていた……。

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