59 / 69
{ 皇太子編 }
59. 皇太子side. 交流
しおりを挟む
開かれた執務室の扉の向こうで……息を切らした召使を、従者が諌める。
何も聞かずとも分かる。薬の作用が切れる頃だ。彼女が目を覚ましたのだろう……。
あれから半日が経過するその間……全てを遮断して、ただ思考だけを巡らした。
そして今、迎えた分岐点で……当初の決意は揺らぐことなく、その目的を果たすための計図だけが、心に根を張る。
襟元を緩め、ゆっくりと息を吐いた。
その部屋は、皇族専用の居住区域の最奥にあった。
開け放たれた扉からは、寝台が見え、上半身を起こした人影は、俯いたまま微動だにしない。
奇妙な既視感のある、光に満ちた美しい部屋に……静かに足を踏み入れた。歩を進めるごとに、不快な緊張が高まり……思わず足を止める。
足元の白磁の床に広がった、ステンドグラスの色彩の影……翼を広げた祖先が地上に降り立つ、神話の一場面を目にしたその時、唐突に昔の記憶が蘇った。
あれは……この部屋だったのか。幼き頃、母に連れられ訪れたこの部屋で……ステンドグラスの影を飛び越え、戯れた。そして、あの書架から童話を選び、せがんだ記憶……。
ソファに腰掛け、母の膨らんだ腹に身体を寄せながら……本を読むその声に耳を傾けた。
部屋に置かれたソファの背を、ゆっくりと撫でる。くすぐるようなその手触りに、緊張が解けていく。
ここは、その時から時間が止まったように何も変わらない……。
ただ唯一、この部屋から消えた物……それは揺り籠だった。
かつて、末の皇子の部屋として整えられ、その主を迎えることなく閉ざされた部屋……。
そして、今この部屋にいるのは、その弟の死から数ヶ月後に生まれた女。
同じ年に産まれた皇族であるにも関わらず、片方は祝福の中で命を落とし、片方は産まれた時から冷遇され……二人とも、一度も胸に抱かれることなく母を失った。
寝台に近づくも、こちらの足音にも気づかず、女はただぼんやりと手の平を見つめていた……。
その表情は悲しげだ。
「何を考えている?」
悲鳴とともに、こちらを振り向いたその顔は、苦痛を感じたように顰められた。
覚悟はしていたが、胸が軋む。
目に焼きついた微笑みと、擦り合わせた頬と唇の感触を思い出す。
今すぐ手を伸ばし抱きしめて……思うままにお前に触れたい。その衝動を必死に抑え、拳を握る。
不安気に揺れる瞳を目の当たりにして、無力感に襲われる。
思わず顔を背け、執務室を出る際に従者に伝えたと同じ内容を、召使に告げる。
「この者に食事の用意を…………」
心を落ち着け、もう一度向き直り、問いかける。
「良く眠っただろう……。気分はどうだ?」
自分の言葉尻ひとつで、この女が恐怖を感じる事は知っている。だからこそ、言葉を選んで、落ち着いた声音で、極めて慎重に……。
「……あまり……良くはありません……申し訳ありません」
「……どこまで覚えている?」
困ったように眉が下がる……。
「……あの、あまり思い出せなくて、申し訳ありません……」
安堵するとともに、若干裏切られたようにも感じた。
その瞳は変わらず澄んだまま、何の嘘も滲ませない。
「いや、いい。……何か問いたいことはあるか?」
「……彼は、フォルティス様は?」
それはある意味、この女らしい質問だった。
弱者への配慮と慈悲……。だがお前は……奴から手荒な扱いを受けただろう。
奴への処遇について尋ねてみれば、罰さえ与える必要がないと言う。
心から心配するかのようなその表情、それが偽善であればまだ良いが、あの男への許しと寛容は、女の本心に違いなかった。
そして女が、男の名前を口にした事も、極めて不愉快だった。
真意を推し量ろうと瞳を凝視するも、続くその質問に、胸を刺される。
「それで……あの、わたしは……竜の王国には、いつ戻るのでしょうか?」
それは想定内の質問でありながらも……落胆した。
「……審議中だ。あちらにはもうお前が無事であることは伝えた」
一瞬、何か言いかけようとするも、口をつぐんだその様子に、暗い感情が刺激された。
その瞳を見つめながら、問いかける。
王城での暮らしについて……。
竜王について……。
女のカラクリ箱のような胸の内を、こじ開けようとするその質問。
だが、女は極めて慎重だった。
「…………今は側室ではなく、客人として置いて頂いております」
客人?その客人は、竜王と婚約を交わし、王妃となる者だろう……。
事実を話しながらも、そこに潜む真実を巧みに覆い隠す、その答え。
この女は、とても賢い……嘘を語らず人を騙す……。
「お前は、竜の国に戻ることを望んでいるのか?」
「……それが、私の義務ですから」
お前は、なぜ気づかないのだろうか……。
本音を巧みに隠しながら……だが、一番肝心な箇所が、随分疎かではないか。
簡単に真意を晒すその表情。やましさで瞳を曇らせ、時に動揺のままに声が震え、後ろめたさで眼を逸らす。
必死に取り繕いながらも、チラチラと困ったようにこちらを伺う。……途端に可笑しくなった。
「これからはお前がこの部屋の主だ」
「えっ?」
「もう誰も、お前に手荒なことはしない……」
掛布から覗く、爛れた右足首を掴む。
「っ……痛いです!」
青ざめた表情と、悲痛に満ちたその声に……過去の過ちが想起された。
「落ち着きなさい……」
手の平に集中し、緩やかに神性を解放する……。淡く煌めく光の粒子が、指と素肌の隙間から溢れる……。手の平に触れるざらついた傷口の感触が徐々に薄れ、足枷の青痣が白さを取り戻していく。
修練の一環として傷病者を治癒したことはあったが……自らの意思で初めて行うその行為。
この女に治癒を施す……それはえも言われぬ爽快さを伴った。その心地よさに身を委ね……神性を注ぎ続ける。
だがその愉悦の時間は、突如終わりを迎えた。
「いやっ! やめて!」
ひどく取り乱した様子で……勢いよく膝を曲げ、掛布に足を隠す。
瞳を潤ませ、息を乱し、頬を上気させる様子は……まさしく、あの古びた寝台で口付けを交わした姿だった。……その理由に気付く。
「お前は、神性に感応し過ぎるようだな……」
未だ耳まで真っ赤に染めながら、哀れなほど、恥いる様子に……思わず口元が緩む。
神性は癒しと共に幸福感をもたらすが、時に他種族においては、神性に過度に感応する者がいる。
至福に満たされ、強い快楽を得るその刺激に……あえて自傷し、治癒を求める者さえいると聞く。
お前に混じる人族の血が、その快感をもたらしたのであれば……悪くはないな。
ふと、自分も女の神性に直接触れたくなった。
「手の平をこちらに」
女は戸惑いながらも言う通りに……手を差し出した。
「神性を放出してみなさい」
「??……出来ません……」
「お前は神性があるだろう」
「それは……自分でも分かりません。いつも相手に触れて、願ったら治せたんです。何もない状態では……どうすれば良いのか分かりません……」
「ハッ」
自覚のないその偉才ぶりに感嘆する。神性解放に必要な通過儀礼さえ行わず……ただ強く願う気持ちだけで発現したのか……。前例のない強力で異質なその神性。だが、制御できぬのであれば、宝の持ち腐れだ。
修練し、自身の神性を操作できてこそ、それは真価を発揮する。
「見なさい……」
神性を凝集し、若干の余興を加えながら障壁をつくった。
柔らかに波打ちながら遊色を放つ障壁の向こうで……青の瞳が、食い入るようにこちらを見つめる。
「障壁だ……。神性は錬成するほどに、強力になる。修練し、極めれば、その形さえ自在に変化させる」
これが、罰を与えたあの夜に、お前を押さえつけ、痛みを与えたものだと言えば……その表情は失われるに違いない……。
光に透けて、柔らかに揺らぐこの障壁は……触れた肌に痛みをもたらし、破壊不能な強固さを持つ。
好奇心を露わにした瞳は、神性が形状を変えるたび、光を反射し輝いた。いつまでもその表情を見ていたかった。
迎えた終幕……驚き目を瞬かせる女の表情に、悦びを感じ微笑んだその時……唐突に顔を上げた女と目が合い、鼓動が早くなる。
女は眉間を寄せると、また視線を落とし……自身の手の平を見つめ、肩を落とした。
「どうすればいいのか……分かりません。どなたかにご教授いただけるならば……習得に努めます」
悩まし気に訴えるその眼差しに、なんともやるせない気持ちになる。
「いや、お前には……」
必要ないと言いかけて改めた。
「そうだな……ではそのように手配しよう」
「……竜の国に立つ準備が整うまで、自由に過ごすといい。何か望みがあるなら言いなさい」
途端、その瞳が明るさを増した。
「あの……準備などでお手を煩わせる必要はありません。以前のように、この身ひとつで……すぐに送り出して下さって、問題はございません」
(……必死だなっ)
その言葉を飲み込んだ。
遠慮がちに、こちらを気遣う口ぶりでいて……それが実のところ、当人の願いであることは明らかだった。
(そうまでして、竜王に会いたいか?)
そう問えば、どれだけこの女は取り乱すだろう。
だが……。それは女の胸の内に秘匿されるべき、不都合な事実だった。
この滑稽で、時に不快な駆け引き……互いに騙し合いながらも、こちらが真意を知っているという点で優位であった。
その事実は、思いの外、余裕を生んだ。
女の命運は、変わらずこの手中にあった……。
その時、扉が開き、食事を載せたカートが運ばれてきた。
「先ずは充分に食べなさい……」
そう声をかけ、未だ何かを訴えるように、こちらを見上げる瞳に背を向けて……不思議な充足感を味わいながら、部屋を後にした……。
迎えた2度目の……そして女にとって目覚めて初めての交流は……極めて満足な結果に終わった。
改めて、自身の気持ちを確信した。愛などという危うげで不確かなものが、確固とした形をもって自身の心を占めている。
彼女の表情が次々と頭に浮かぶ。不安、葛藤、恥じらい……全てが愛しくて、そしてそれら全ては私の一挙一動に委ねられていた。
彼女の愛が他者へ向けられていようが、それが目的達成の大きな弊害になるとは思えなかった。
叶わぬ願いを抱きながら、隠し、抗えばいい……ただ泣くしか出来ない赤子のように。
これからこの部屋は、いやこの皇城ごと……あの女の揺り籠にすればいい。
揺れていることさえ気付かぬうちに、心地の良さに泣き止んで……心から微笑み安らげるように。
それはおそらく遠くない未来のことだろう……。
……窓の外を飛び交う鳥の囀りが……通路にまで響いている。
最近、特に煩わしく感じていた鳥達の囀りが、今は不思議に愉快に感じて……静かに歩を進めながら、その音に耳を傾けた。
何も聞かずとも分かる。薬の作用が切れる頃だ。彼女が目を覚ましたのだろう……。
あれから半日が経過するその間……全てを遮断して、ただ思考だけを巡らした。
そして今、迎えた分岐点で……当初の決意は揺らぐことなく、その目的を果たすための計図だけが、心に根を張る。
襟元を緩め、ゆっくりと息を吐いた。
その部屋は、皇族専用の居住区域の最奥にあった。
開け放たれた扉からは、寝台が見え、上半身を起こした人影は、俯いたまま微動だにしない。
奇妙な既視感のある、光に満ちた美しい部屋に……静かに足を踏み入れた。歩を進めるごとに、不快な緊張が高まり……思わず足を止める。
足元の白磁の床に広がった、ステンドグラスの色彩の影……翼を広げた祖先が地上に降り立つ、神話の一場面を目にしたその時、唐突に昔の記憶が蘇った。
あれは……この部屋だったのか。幼き頃、母に連れられ訪れたこの部屋で……ステンドグラスの影を飛び越え、戯れた。そして、あの書架から童話を選び、せがんだ記憶……。
ソファに腰掛け、母の膨らんだ腹に身体を寄せながら……本を読むその声に耳を傾けた。
部屋に置かれたソファの背を、ゆっくりと撫でる。くすぐるようなその手触りに、緊張が解けていく。
ここは、その時から時間が止まったように何も変わらない……。
ただ唯一、この部屋から消えた物……それは揺り籠だった。
かつて、末の皇子の部屋として整えられ、その主を迎えることなく閉ざされた部屋……。
そして、今この部屋にいるのは、その弟の死から数ヶ月後に生まれた女。
同じ年に産まれた皇族であるにも関わらず、片方は祝福の中で命を落とし、片方は産まれた時から冷遇され……二人とも、一度も胸に抱かれることなく母を失った。
寝台に近づくも、こちらの足音にも気づかず、女はただぼんやりと手の平を見つめていた……。
その表情は悲しげだ。
「何を考えている?」
悲鳴とともに、こちらを振り向いたその顔は、苦痛を感じたように顰められた。
覚悟はしていたが、胸が軋む。
目に焼きついた微笑みと、擦り合わせた頬と唇の感触を思い出す。
今すぐ手を伸ばし抱きしめて……思うままにお前に触れたい。その衝動を必死に抑え、拳を握る。
不安気に揺れる瞳を目の当たりにして、無力感に襲われる。
思わず顔を背け、執務室を出る際に従者に伝えたと同じ内容を、召使に告げる。
「この者に食事の用意を…………」
心を落ち着け、もう一度向き直り、問いかける。
「良く眠っただろう……。気分はどうだ?」
自分の言葉尻ひとつで、この女が恐怖を感じる事は知っている。だからこそ、言葉を選んで、落ち着いた声音で、極めて慎重に……。
「……あまり……良くはありません……申し訳ありません」
「……どこまで覚えている?」
困ったように眉が下がる……。
「……あの、あまり思い出せなくて、申し訳ありません……」
安堵するとともに、若干裏切られたようにも感じた。
その瞳は変わらず澄んだまま、何の嘘も滲ませない。
「いや、いい。……何か問いたいことはあるか?」
「……彼は、フォルティス様は?」
それはある意味、この女らしい質問だった。
弱者への配慮と慈悲……。だがお前は……奴から手荒な扱いを受けただろう。
奴への処遇について尋ねてみれば、罰さえ与える必要がないと言う。
心から心配するかのようなその表情、それが偽善であればまだ良いが、あの男への許しと寛容は、女の本心に違いなかった。
そして女が、男の名前を口にした事も、極めて不愉快だった。
真意を推し量ろうと瞳を凝視するも、続くその質問に、胸を刺される。
「それで……あの、わたしは……竜の王国には、いつ戻るのでしょうか?」
それは想定内の質問でありながらも……落胆した。
「……審議中だ。あちらにはもうお前が無事であることは伝えた」
一瞬、何か言いかけようとするも、口をつぐんだその様子に、暗い感情が刺激された。
その瞳を見つめながら、問いかける。
王城での暮らしについて……。
竜王について……。
女のカラクリ箱のような胸の内を、こじ開けようとするその質問。
だが、女は極めて慎重だった。
「…………今は側室ではなく、客人として置いて頂いております」
客人?その客人は、竜王と婚約を交わし、王妃となる者だろう……。
事実を話しながらも、そこに潜む真実を巧みに覆い隠す、その答え。
この女は、とても賢い……嘘を語らず人を騙す……。
「お前は、竜の国に戻ることを望んでいるのか?」
「……それが、私の義務ですから」
お前は、なぜ気づかないのだろうか……。
本音を巧みに隠しながら……だが、一番肝心な箇所が、随分疎かではないか。
簡単に真意を晒すその表情。やましさで瞳を曇らせ、時に動揺のままに声が震え、後ろめたさで眼を逸らす。
必死に取り繕いながらも、チラチラと困ったようにこちらを伺う。……途端に可笑しくなった。
「これからはお前がこの部屋の主だ」
「えっ?」
「もう誰も、お前に手荒なことはしない……」
掛布から覗く、爛れた右足首を掴む。
「っ……痛いです!」
青ざめた表情と、悲痛に満ちたその声に……過去の過ちが想起された。
「落ち着きなさい……」
手の平に集中し、緩やかに神性を解放する……。淡く煌めく光の粒子が、指と素肌の隙間から溢れる……。手の平に触れるざらついた傷口の感触が徐々に薄れ、足枷の青痣が白さを取り戻していく。
修練の一環として傷病者を治癒したことはあったが……自らの意思で初めて行うその行為。
この女に治癒を施す……それはえも言われぬ爽快さを伴った。その心地よさに身を委ね……神性を注ぎ続ける。
だがその愉悦の時間は、突如終わりを迎えた。
「いやっ! やめて!」
ひどく取り乱した様子で……勢いよく膝を曲げ、掛布に足を隠す。
瞳を潤ませ、息を乱し、頬を上気させる様子は……まさしく、あの古びた寝台で口付けを交わした姿だった。……その理由に気付く。
「お前は、神性に感応し過ぎるようだな……」
未だ耳まで真っ赤に染めながら、哀れなほど、恥いる様子に……思わず口元が緩む。
神性は癒しと共に幸福感をもたらすが、時に他種族においては、神性に過度に感応する者がいる。
至福に満たされ、強い快楽を得るその刺激に……あえて自傷し、治癒を求める者さえいると聞く。
お前に混じる人族の血が、その快感をもたらしたのであれば……悪くはないな。
ふと、自分も女の神性に直接触れたくなった。
「手の平をこちらに」
女は戸惑いながらも言う通りに……手を差し出した。
「神性を放出してみなさい」
「??……出来ません……」
「お前は神性があるだろう」
「それは……自分でも分かりません。いつも相手に触れて、願ったら治せたんです。何もない状態では……どうすれば良いのか分かりません……」
「ハッ」
自覚のないその偉才ぶりに感嘆する。神性解放に必要な通過儀礼さえ行わず……ただ強く願う気持ちだけで発現したのか……。前例のない強力で異質なその神性。だが、制御できぬのであれば、宝の持ち腐れだ。
修練し、自身の神性を操作できてこそ、それは真価を発揮する。
「見なさい……」
神性を凝集し、若干の余興を加えながら障壁をつくった。
柔らかに波打ちながら遊色を放つ障壁の向こうで……青の瞳が、食い入るようにこちらを見つめる。
「障壁だ……。神性は錬成するほどに、強力になる。修練し、極めれば、その形さえ自在に変化させる」
これが、罰を与えたあの夜に、お前を押さえつけ、痛みを与えたものだと言えば……その表情は失われるに違いない……。
光に透けて、柔らかに揺らぐこの障壁は……触れた肌に痛みをもたらし、破壊不能な強固さを持つ。
好奇心を露わにした瞳は、神性が形状を変えるたび、光を反射し輝いた。いつまでもその表情を見ていたかった。
迎えた終幕……驚き目を瞬かせる女の表情に、悦びを感じ微笑んだその時……唐突に顔を上げた女と目が合い、鼓動が早くなる。
女は眉間を寄せると、また視線を落とし……自身の手の平を見つめ、肩を落とした。
「どうすればいいのか……分かりません。どなたかにご教授いただけるならば……習得に努めます」
悩まし気に訴えるその眼差しに、なんともやるせない気持ちになる。
「いや、お前には……」
必要ないと言いかけて改めた。
「そうだな……ではそのように手配しよう」
「……竜の国に立つ準備が整うまで、自由に過ごすといい。何か望みがあるなら言いなさい」
途端、その瞳が明るさを増した。
「あの……準備などでお手を煩わせる必要はありません。以前のように、この身ひとつで……すぐに送り出して下さって、問題はございません」
(……必死だなっ)
その言葉を飲み込んだ。
遠慮がちに、こちらを気遣う口ぶりでいて……それが実のところ、当人の願いであることは明らかだった。
(そうまでして、竜王に会いたいか?)
そう問えば、どれだけこの女は取り乱すだろう。
だが……。それは女の胸の内に秘匿されるべき、不都合な事実だった。
この滑稽で、時に不快な駆け引き……互いに騙し合いながらも、こちらが真意を知っているという点で優位であった。
その事実は、思いの外、余裕を生んだ。
女の命運は、変わらずこの手中にあった……。
その時、扉が開き、食事を載せたカートが運ばれてきた。
「先ずは充分に食べなさい……」
そう声をかけ、未だ何かを訴えるように、こちらを見上げる瞳に背を向けて……不思議な充足感を味わいながら、部屋を後にした……。
迎えた2度目の……そして女にとって目覚めて初めての交流は……極めて満足な結果に終わった。
改めて、自身の気持ちを確信した。愛などという危うげで不確かなものが、確固とした形をもって自身の心を占めている。
彼女の表情が次々と頭に浮かぶ。不安、葛藤、恥じらい……全てが愛しくて、そしてそれら全ては私の一挙一動に委ねられていた。
彼女の愛が他者へ向けられていようが、それが目的達成の大きな弊害になるとは思えなかった。
叶わぬ願いを抱きながら、隠し、抗えばいい……ただ泣くしか出来ない赤子のように。
これからこの部屋は、いやこの皇城ごと……あの女の揺り籠にすればいい。
揺れていることさえ気付かぬうちに、心地の良さに泣き止んで……心から微笑み安らげるように。
それはおそらく遠くない未来のことだろう……。
……窓の外を飛び交う鳥の囀りが……通路にまで響いている。
最近、特に煩わしく感じていた鳥達の囀りが、今は不思議に愉快に感じて……静かに歩を進めながら、その音に耳を傾けた。
39
お気に入りに追加
367
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
悪役令嬢に転生したので、やりたい放題やって派手に散るつもりでしたが、なぜか溺愛されています
平山和人
恋愛
伯爵令嬢であるオフィーリアは、ある日、前世の記憶を思い出す、前世の自分は平凡なOLでトラックに轢かれて死んだことを。
自分が転生したのは散財が趣味の悪役令嬢で、王太子と婚約破棄の上、断罪される運命にある。オフィーリアは運命を受け入れ、どうせ断罪されるなら好きに生きようとするが、なぜか周囲から溺愛されてしまう。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
【書籍化確定、完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
もう長くは生きられないので好きに行動したら、大好きな公爵令息に溺愛されました
Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユリアは、8歳の時に両親を亡くして以降、叔父に引き取られたものの、厄介者として虐げられて生きてきた。さらにこの世界では命を削る魔法と言われている、治癒魔法も長年強要され続けてきた。
そのせいで体はボロボロ、髪も真っ白になり、老婆の様な見た目になってしまったユリア。家の外にも出してもらえず、メイド以下の生活を強いられてきた。まさに、この世の地獄を味わっているユリアだが、“どんな時でも笑顔を忘れないで”という亡き母の言葉を胸に、どんなに辛くても笑顔を絶やすことはない。
そんな辛い生活の中、15歳になったユリアは貴族学院に入学する日を心待ちにしていた。なぜなら、昔自分を助けてくれた公爵令息、ブラックに会えるからだ。
「どうせもう私は長くは生きられない。それなら、ブラック様との思い出を作りたい」
そんな思いで、意気揚々と貴族学院の入学式に向かったユリア。そこで久しぶりに、ブラックとの再会を果たした。相変わらず自分に優しくしてくれるブラックに、ユリアはどんどん惹かれていく。
かつての友人達とも再開し、楽しい学院生活をスタートさせたかのように見えたのだが…
※虐げられてきたユリアが、幸せを掴むまでのお話しです。
ザ・王道シンデレラストーリーが書きたくて書いてみました。
よろしくお願いしますm(__)m
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる