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{ 皇太子編 }
58. 遺されたもの
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その笑いが……他意のない心からの笑いだという事は理解できた。
あの貼り付けたような微笑みと、悪意に満ちた嗤いを私に向けなくなってから……彼は常に、不機嫌に無表情だった。
でも今は……まるで子供のように無邪気に笑っている。
どう反応していいか分からず、戸惑うも、……徐々に自分が、途方もなく可笑しなことをしでかしたように感じ……頬が火照る。
男はそれに気づいたように、またこちらを見て嬉しそうに笑う。
穴があったら入りたい……。
やがてその笑い声は、波が引くように小さくなった。
上目遣いで男の様子を伺うと……その目尻に浮かんだ涙を指先で拭い取り、今度はそれを見て、軽く笑う。
俯く視界の先で……ようやくいつもの落ち着きを取り戻した皇太子は……変わらず優雅に、だがどこか愉しげに、その長い指先で、奏でるように卓上を弾く。
「ルミリーナ……」
「!!」
肩が震え、咄嗟に顔を上げる。
先ほどの笑いが未だ残る、その口元。
「そう呼ばれていたな……なんだその名は……」
「……」
どうして?……この人が、なぜ私のその名前を知っているの?
「屋敷で、伯爵家の男にそう呼ばれていただろう」
「あっ! あのっ……そうです……竜の国で……名のないままでは不便でしたので、その名前を与えてくださったんです。伯爵令息も、そう呼んでくださいました」
「誰にその名をつけられた?」
「えぇっ?……いえ……あのっそれは……」
いつの間にか、男の顔から微笑みは消え、煩わしげに首を傾げる。
「……お前は、そんな名ではない」
「……」
「スティーリア」
「……えっ?」
「お前の名は『スティーリア』だ。……お前の母が、死に際に遺した……お前の名だ」
先程の笑い声とは一転して、落ち着き払ったその声音。
「スティーリア…………その名を呼ぶ事は、これまで禁じられていた」
極めてゆっくりと、まるで何気ない日常の挨拶のような口調で語られた、とんでもない内容。
母の遺した……私の名前?
…………スティーリア?
俄かには信じられない。そんなことはありえない。心では否定するも……。
「??……は、母の事を知っているんですか?」
「ああよく知っている。……お前に似て、小柄な女性だった」
「!!」
ガシャンッ
「ッ!!………教えてください! 母の事を教えてください!」
腕に痛みが走った……がどうでもいい、それよりも、何としても聞き出したかった。卓がなければ、手を伸ばして、その首元にしがみついて、問い正していただろう。
「……母は!……私のせいで亡くなったんですか?」
「いや、元の病弱さに加え、心労が祟ったのだろう。……お前の誕生まで耐え抜いた事は、医師に言わせれば奇跡だったそうだ」
「っ……」
「お前の母は、お前を授かったおかげで、処刑を免れた……スティーリア……お前には何の責もない」
こちらの焦りや動揺など気にも留めない、その穏やかな口調……。
憐れみを滲ませたその瞳からは、嘘偽りは感じない。
本当に?本当なの?
全て知りたい。お願いだから……。
「し……真実を教えてください! 母に、何があったのですか? は、母は……父に……弄ばれたのですかっ?」
「いや、私はお前の母に寄り添うセウェル叔父上の姿を知っている……。互いに想い合っていた。……だが、精人族が他種族と交わる事は固く禁じられている。……その禁忌を、一族の手本となるべき皇子が破ったのだ」
「……」
「本来であれば双方極刑に処される。……セウェル殿は……お前達の命を守る為に必死だった。そして……お前たちは極刑を免れ、叔父上は流刑となった……。それは、その時出来うる限りを尽くした、最良の結果だっただろう」
「そんなっ……」
「……そしてお前が産まれた。……叔父上にとっては、心の救いとなったはずだ」
もう……限界だった。
その言葉は、必死に張り詰めていた心の糸を容易く切った。
この皇城で目覚めてから、不安を感じるその度に、我慢し押し込めた涙……。なのにこれは、この気持ちは……込み上がった感情の一滴が、目に滲み、頬を伝った。
嫌だ!私は泣かないと、決めたのに。
嫌だ嫌だ。
両手で瞼をきつく押さえるも……容赦無く溢れる涙は、手の平に留める事も叶わずに……次から次に滴り落ちる。
スティーリア、母が遺してくれた私の名前……。
頭の中で何度も何度もその名を繰り返す。
「悲しいのか?」
首を振る。
「ならなぜ泣く?」
「っ……うっ……わかりません……」
「隠すな」
突然手首をひかれ、眩い光が瞼をさす。
目を開けると、しゃがみ床に膝をついた男が、こちらを覗き込んでいた。
男は何ら動揺する様子もなく無表情に……その紫紺の瞳に、惨めに泣く女の姿を映していた。
必死に手を引き顔を隠そうとするが、逆に強く引かれ、視界が露わになる。
今まで味わったこと無いほどの恥ずかしさと情けなさで混乱する。
「っ……、ぅあ……わたしはずっと……母は父に弄ばれたのだと……私を妊娠したせいで、父も母も罰を受けて、亡くなったと……っ…ぁっ……私の事を憎んで死んでいったと……そう思っていました」
途端、両手首を掴む力が一層強くなる。
「…………何を言っている?……お前の父は生きている」
「っ!……くっぅ………そんなのっ!うぅ嘘です!……死んだと聞かされました!」
「誰に聞いた?」
「幼い頃! 召使です」
「戯言だ。……遠い地で生きている」
「そんなっ!」
「……叔父上は、お前の母を……心から愛していた」
「……っ、うっ…………」
「そして……お前を同様に愛し、今でも想い続けているだろう……」
「……ぅっ……うっ…………」
父が生きている……。
私の父が生きている……私の事を想ってくれている?!
そんな……そんなあり得ないこと……。
前世でも、今世でも、父母の愛を得ることも、その両腕に抱かれることも無い、そういう運命を受け入れていた。
5歳で施設に保護された前世……飢えと痛みと恐怖に満ちたアパートの一室で……その小さな世界で唯一全てだった両親の、記憶の中で、私を見下ろすその顔は……塗りつぶされたように真っ黒だ。
今世では、記憶の片鱗にさえ残らぬままに、私のせいで、不幸な死を迎えたと思っていた。
親の愛なんて知らない! 私には必要ない! そう思って生きてきた!
なのに……目の前に唐突に示された可能性、それがこんなにも嬉しいものだなんて……。
命をかけて産んでくれた母……そんな母と私を守ってくれた父……。
もし本当なら、本当に今でも私のことを想ってくれているなら……ひと目会いたい……。
「父に……っ、くっ……うっ……会いたいですっ………」
「それは……簡単には許されない事だ。……だが、方法はあるだろう……」
「うぅっ……」
抑え切れずに、嗚咽が漏れる。
胸が痛いほど締め付けられて……嗚咽を抑えようとするも苦しくて、息さえ出来ない。
でも、一体なぜ?何のために私はこれほど涙を堪えていたの?
目の前の男は、変わらずその瞳に私を映す。……じっと考え込むように、無表情のまま……。
私の父と母を知るあなたが……話す全ての事が、私を揺さぶる。
あれほど私を嫌い甚振っておいて、今なぜそんな表情で、私の頬を拭っているの?!
聞きたくても言葉に出来ず、ただ心で問いかけるままに涙が流れ落ちていく……それは全て男の手の平で受け止められ拭われた。
その瞳も手つきも、私を宥めるように穏やかだった……。
もう何も考えられなかった。
涙と共に、心に溜まった暗い何かが、流れ出て行くようだった。
それはあまりに楽で、心地よくて……思考を放棄して、込み上げるままに涙を流し、声が枯れるほど嗚咽した……。
あの貼り付けたような微笑みと、悪意に満ちた嗤いを私に向けなくなってから……彼は常に、不機嫌に無表情だった。
でも今は……まるで子供のように無邪気に笑っている。
どう反応していいか分からず、戸惑うも、……徐々に自分が、途方もなく可笑しなことをしでかしたように感じ……頬が火照る。
男はそれに気づいたように、またこちらを見て嬉しそうに笑う。
穴があったら入りたい……。
やがてその笑い声は、波が引くように小さくなった。
上目遣いで男の様子を伺うと……その目尻に浮かんだ涙を指先で拭い取り、今度はそれを見て、軽く笑う。
俯く視界の先で……ようやくいつもの落ち着きを取り戻した皇太子は……変わらず優雅に、だがどこか愉しげに、その長い指先で、奏でるように卓上を弾く。
「ルミリーナ……」
「!!」
肩が震え、咄嗟に顔を上げる。
先ほどの笑いが未だ残る、その口元。
「そう呼ばれていたな……なんだその名は……」
「……」
どうして?……この人が、なぜ私のその名前を知っているの?
「屋敷で、伯爵家の男にそう呼ばれていただろう」
「あっ! あのっ……そうです……竜の国で……名のないままでは不便でしたので、その名前を与えてくださったんです。伯爵令息も、そう呼んでくださいました」
「誰にその名をつけられた?」
「えぇっ?……いえ……あのっそれは……」
いつの間にか、男の顔から微笑みは消え、煩わしげに首を傾げる。
「……お前は、そんな名ではない」
「……」
「スティーリア」
「……えっ?」
「お前の名は『スティーリア』だ。……お前の母が、死に際に遺した……お前の名だ」
先程の笑い声とは一転して、落ち着き払ったその声音。
「スティーリア…………その名を呼ぶ事は、これまで禁じられていた」
極めてゆっくりと、まるで何気ない日常の挨拶のような口調で語られた、とんでもない内容。
母の遺した……私の名前?
…………スティーリア?
俄かには信じられない。そんなことはありえない。心では否定するも……。
「??……は、母の事を知っているんですか?」
「ああよく知っている。……お前に似て、小柄な女性だった」
「!!」
ガシャンッ
「ッ!!………教えてください! 母の事を教えてください!」
腕に痛みが走った……がどうでもいい、それよりも、何としても聞き出したかった。卓がなければ、手を伸ばして、その首元にしがみついて、問い正していただろう。
「……母は!……私のせいで亡くなったんですか?」
「いや、元の病弱さに加え、心労が祟ったのだろう。……お前の誕生まで耐え抜いた事は、医師に言わせれば奇跡だったそうだ」
「っ……」
「お前の母は、お前を授かったおかげで、処刑を免れた……スティーリア……お前には何の責もない」
こちらの焦りや動揺など気にも留めない、その穏やかな口調……。
憐れみを滲ませたその瞳からは、嘘偽りは感じない。
本当に?本当なの?
全て知りたい。お願いだから……。
「し……真実を教えてください! 母に、何があったのですか? は、母は……父に……弄ばれたのですかっ?」
「いや、私はお前の母に寄り添うセウェル叔父上の姿を知っている……。互いに想い合っていた。……だが、精人族が他種族と交わる事は固く禁じられている。……その禁忌を、一族の手本となるべき皇子が破ったのだ」
「……」
「本来であれば双方極刑に処される。……セウェル殿は……お前達の命を守る為に必死だった。そして……お前たちは極刑を免れ、叔父上は流刑となった……。それは、その時出来うる限りを尽くした、最良の結果だっただろう」
「そんなっ……」
「……そしてお前が産まれた。……叔父上にとっては、心の救いとなったはずだ」
もう……限界だった。
その言葉は、必死に張り詰めていた心の糸を容易く切った。
この皇城で目覚めてから、不安を感じるその度に、我慢し押し込めた涙……。なのにこれは、この気持ちは……込み上がった感情の一滴が、目に滲み、頬を伝った。
嫌だ!私は泣かないと、決めたのに。
嫌だ嫌だ。
両手で瞼をきつく押さえるも……容赦無く溢れる涙は、手の平に留める事も叶わずに……次から次に滴り落ちる。
スティーリア、母が遺してくれた私の名前……。
頭の中で何度も何度もその名を繰り返す。
「悲しいのか?」
首を振る。
「ならなぜ泣く?」
「っ……うっ……わかりません……」
「隠すな」
突然手首をひかれ、眩い光が瞼をさす。
目を開けると、しゃがみ床に膝をついた男が、こちらを覗き込んでいた。
男は何ら動揺する様子もなく無表情に……その紫紺の瞳に、惨めに泣く女の姿を映していた。
必死に手を引き顔を隠そうとするが、逆に強く引かれ、視界が露わになる。
今まで味わったこと無いほどの恥ずかしさと情けなさで混乱する。
「っ……、ぅあ……わたしはずっと……母は父に弄ばれたのだと……私を妊娠したせいで、父も母も罰を受けて、亡くなったと……っ…ぁっ……私の事を憎んで死んでいったと……そう思っていました」
途端、両手首を掴む力が一層強くなる。
「…………何を言っている?……お前の父は生きている」
「っ!……くっぅ………そんなのっ!うぅ嘘です!……死んだと聞かされました!」
「誰に聞いた?」
「幼い頃! 召使です」
「戯言だ。……遠い地で生きている」
「そんなっ!」
「……叔父上は、お前の母を……心から愛していた」
「……っ、うっ…………」
「そして……お前を同様に愛し、今でも想い続けているだろう……」
「……ぅっ……うっ…………」
父が生きている……。
私の父が生きている……私の事を想ってくれている?!
そんな……そんなあり得ないこと……。
前世でも、今世でも、父母の愛を得ることも、その両腕に抱かれることも無い、そういう運命を受け入れていた。
5歳で施設に保護された前世……飢えと痛みと恐怖に満ちたアパートの一室で……その小さな世界で唯一全てだった両親の、記憶の中で、私を見下ろすその顔は……塗りつぶされたように真っ黒だ。
今世では、記憶の片鱗にさえ残らぬままに、私のせいで、不幸な死を迎えたと思っていた。
親の愛なんて知らない! 私には必要ない! そう思って生きてきた!
なのに……目の前に唐突に示された可能性、それがこんなにも嬉しいものだなんて……。
命をかけて産んでくれた母……そんな母と私を守ってくれた父……。
もし本当なら、本当に今でも私のことを想ってくれているなら……ひと目会いたい……。
「父に……っ、くっ……うっ……会いたいですっ………」
「それは……簡単には許されない事だ。……だが、方法はあるだろう……」
「うぅっ……」
抑え切れずに、嗚咽が漏れる。
胸が痛いほど締め付けられて……嗚咽を抑えようとするも苦しくて、息さえ出来ない。
でも、一体なぜ?何のために私はこれほど涙を堪えていたの?
目の前の男は、変わらずその瞳に私を映す。……じっと考え込むように、無表情のまま……。
私の父と母を知るあなたが……話す全ての事が、私を揺さぶる。
あれほど私を嫌い甚振っておいて、今なぜそんな表情で、私の頬を拭っているの?!
聞きたくても言葉に出来ず、ただ心で問いかけるままに涙が流れ落ちていく……それは全て男の手の平で受け止められ拭われた。
その瞳も手つきも、私を宥めるように穏やかだった……。
もう何も考えられなかった。
涙と共に、心に溜まった暗い何かが、流れ出て行くようだった。
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