上 下
58 / 69
{ 皇太子編 }

58. 遺されたもの

しおりを挟む
その笑いが……他意のない心からの笑いだという事は理解できた。
あの貼り付けたような微笑みと、悪意に満ちた嗤いを私に向けなくなってから……彼は常に、不機嫌に無表情だった。
でも今は……まるで子供のように無邪気に笑っている。

どう反応していいか分からず、戸惑うも、……徐々に自分が、途方もなく可笑しなことをしでかしたように感じ……頬が火照ほてる。
男はそれに気づいたように、またこちらを見て嬉しそうに笑う。

穴があったら入りたい……。

やがてその笑い声は、波が引くように小さくなった。
上目遣いで男の様子を伺うと……その目尻に浮かんだ涙を指先で拭い取り、今度はそれを見て、軽く笑う。

俯く視界の先で……ようやくいつもの落ち着きを取り戻した皇太子は……変わらず優雅に、だがどこか愉しげに、その長い指先で、奏でるように卓上を弾く。

「ルミリーナ……」

「!!」
肩が震え、咄嗟に顔を上げる。
先ほどの笑いが未だ残る、その口元。

「そう呼ばれていたな……なんだその名は……」

「……」
どうして?……この人が、なぜ私のその名前を知っているの?

「屋敷で、伯爵家の男にそう呼ばれていただろう」

「あっ! あのっ……そうです……竜の国で……名のないままでは不便でしたので、その名前を与えてくださったんです。伯爵令息も、そう呼んでくださいました」

「誰にその名をつけられた?」

「えぇっ?……いえ……あのっそれは……」

いつの間にか、男の顔から微笑みは消え、わずらわしげに首を傾げる。

「……お前は、そんな名ではない」

「……」

「スティーリア」

「……えっ?」

「お前の名は『スティーリア』だ。……お前の母が、死に際に遺した……お前の名だ」

先程の笑い声とは一転して、落ち着き払ったその声音。

「スティーリア…………その名を呼ぶ事は、これまで禁じられていた」

極めてゆっくりと、まるで何気ない日常の挨拶のような口調で語られた、とんでもない内容。

母の遺した……私の名前?
…………スティーリア?
俄かには信じられない。そんなことはありえない。心では否定するも……。

「??……は、母の事を知っているんですか?」

「ああよく知っている。……お前に似て、小柄な女性ひとだった」

「!!」
ガシャンッ

「ッ!!………教えてください! 母の事を教えてください!」

腕に痛みが走った……がどうでもいい、それよりも、何としても聞き出したかった。卓がなければ、手を伸ばして、その首元にしがみついて、問い正していただろう。

「……母は!……私のせいで亡くなったんですか?」

「いや、元の病弱さに加え、心労が祟ったのだろう。……お前の誕生まで耐え抜いた事は、医師に言わせれば奇跡だったそうだ」

「っ……」

「お前の母は、お前を授かったおかげで、処刑を免れた……スティーリア……お前には何の責もない」

こちらの焦りや動揺など気にも留めない、その穏やかな口調……。
憐れみを滲ませたその瞳からは、嘘偽りは感じない。
本当に?本当なの?
全て知りたい。お願いだから……。

「し……真実を教えてください! 母に、何があったのですか? は、母は……父に……弄ばれたのですかっ?」

「いや、私はお前の母に寄り添うセウェル叔父上の姿を知っている……。互いに想い合っていた。……だが、精人族が他種族と交わる事は固く禁じられている。……その禁忌を、一族の手本となるべき皇子が破ったのだ」

「……」

「本来であれば双方極刑に処される。……セウェル殿は……お前達の命を守る為に必死だった。そして……お前たちは極刑を免れ、叔父上は流刑となった……。それは、その時出来うる限りを尽くした、最良の結果だっただろう」

「そんなっ……」

「……そしてお前が産まれた。……叔父上にとっては、心の救いとなったはずだ」

もう……限界だった。
その言葉は、必死に張り詰めていた心の糸を容易く切った。
この皇城で目覚めてから、不安を感じるその度に、我慢し押し込めた涙……。なのにこれは、この気持ちは……込み上がった感情の一滴が、目に滲み、頬を伝った。
嫌だ!私は泣かないと、決めたのに。
嫌だ嫌だ。
両手で瞼をきつく押さえるも……容赦無くあふれる涙は、手の平に留める事も叶わずに……次から次に滴り落ちる。

スティーリア、母が遺してくれた私の名前……。
頭の中で何度も何度もその名を繰り返す。

「悲しいのか?」

首を振る。

「ならなぜ泣く?」

「っ……うっ……わかりません……」

「隠すな」

突然手首をひかれ、眩い光が瞼をさす。
目を開けると、しゃがみ床に膝をついた男が、こちらを覗き込んでいた。
男は何ら動揺する様子もなく無表情に……その紫紺の瞳に、惨めに泣く女の姿を映していた。
必死に手を引き顔を隠そうとするが、逆に強く引かれ、視界が露わになる。
今まで味わったこと無いほどの恥ずかしさと情けなさで混乱する。

「っ……、ぅあ……わたしはずっと……母は父に弄ばれたのだと……私を妊娠したせいで、父も母も罰を受けて、亡くなったと……っ…ぁっ……私の事を憎んで死んでいったと……そう思っていました」

途端、両手首を掴む力が一層強くなる。

「…………何を言っている?……お前の父は生きている」

「っ!……くっぅ………そんなのっ!うぅ嘘です!……死んだと聞かされました!」

「誰に聞いた?」

「幼い頃! 召使です」

「戯言だ。……遠い地で生きている」

「そんなっ!」

「……叔父上は、お前の母を……心から愛していた」

「……っ、うっ…………」

「そして……お前を同様に愛し、今でも想い続けているだろう……」

「……ぅっ……うっ…………」

父が生きている……。
私の父が生きている……私の事を想ってくれている?!
そんな……そんなあり得ないこと……。

前世でも、今世でも、父母の愛を得ることも、その両腕に抱かれることも無い、そういう運命を受け入れていた。
5歳で施設に保護された前世……飢えと痛みと恐怖に満ちたアパートの一室で……その小さな世界で唯一全てだった両親の、記憶の中で、私を見下ろすその顔は……塗りつぶされたように真っ黒だ。
今世では、記憶の片鱗にさえ残らぬままに、私のせいで、不幸な死を迎えたと思っていた。
親の愛なんて知らない! 私には必要ない! そう思って生きてきた! 
なのに……目の前に唐突に示された可能性、それがこんなにも嬉しいものだなんて……。

命をかけて産んでくれた母……そんな母と私を守ってくれた父……。
もし本当なら、本当に今でも私のことを想ってくれているなら……ひと目会いたい……。

「父に……っ、くっ……うっ……会いたいですっ………」

「それは……簡単には許されない事だ。……だが、方法はあるだろう……」

「うぅっ……」

抑え切れずに、嗚咽が漏れる。
胸が痛いほど締め付けられて……嗚咽を抑えようとするも苦しくて、息さえ出来ない。
でも、一体なぜ?何のために私はこれほど涙を堪えていたの?

目の前の男は、変わらずその瞳に私を映す。……じっと考え込むように、無表情のまま……。
私の父と母を知るあなたが……話す全ての事が、私を揺さぶる。
あれほど私を嫌い甚振いたぶっておいて、今なぜそんな表情で、私の頬をぬぐっているの?!
聞きたくても言葉に出来ず、ただ心で問いかけるままに涙が流れ落ちていく……それは全て男の手の平で受け止められ拭われた。
その瞳も手つきも、私を宥めるように穏やかだった……。

もう何も考えられなかった。
涙と共に、心に溜まった暗い何かが、流れ出て行くようだった。
それはあまりに楽で、心地よくて……思考を放棄して、込み上げるままに涙を流し、声が枯れるほど嗚咽した……。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

皇太子の子を妊娠した悪役令嬢は逃げることにした

葉柚
恋愛
皇太子の子を妊娠した悪役令嬢のレイチェルは幸せいっぱいに暮らしていました。 でも、妊娠を切っ掛けに前世の記憶がよみがえり、悪役令嬢だということに気づいたレイチェルは皇太子の前から逃げ出すことにしました。 本編完結済みです。時々番外編を追加します。

旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます

おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。 if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります) ※こちらの作品カクヨムにも掲載します

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

完結 若い愛人がいる?それは良かったです。

音爽(ネソウ)
恋愛
妻が余命宣告を受けた、愛人を抱える夫は小躍りするのだが……

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

処理中です...