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{ 皇太子編 }

54. 後悔と罰 ※

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その安らかな寝顔と…………濡れて艶めいた口元に、まだ残る微笑みを眺めながら……静かに体が冷えていく。

それは悪寒に変わり、やがて身体を凍てつかせた。
その最後の言葉は……気付かせた。
女の作り上げた幻の一部となり、その役を演じさせられていたのだと……。
眼前を揺るがす程の衝撃と、味わったことのない屈辱感に、心が悲鳴をあげる。
後退り、壁にぶつかり、頭を抱え崩れ落ちた……。

ーーずっと、欲しかった。愛してるーー

自分の吐いた言葉が重くのしかかる。
全て本心だった……。
予想だにしない状況下で引き出された自身の本音は……矜持を抉り取り、心臓の奥深くまで突き刺さった。
胸元を抑え、その痛みをこらえようと鷲掴みにするも、声が漏れる。

「くっ……うっ………」

いや、違和感はあった。だがその小さな違和感に目を瞑り、ただ目の前の誘惑に身を浸らせた。
抗うことなど、到底出来なかった。

自分の浅はかな思い違いは、容赦のない刃となって、自尊心を切り裂いた。

絶対に気付いてはならなかった、この気持ち。

そして何より、知りたく無かったその事実。
この女は竜王を……愛していた!
そして、竜王も……あの背中の烙印に気付いて尚、欲し、必死に探し求めていた……。
二人は愛し合っていた!

これは、怒りか、悔しさか……湧き上がる感情の、気持ち悪さに耐えきれず、床に手を付き、えずく。

過去の記憶が次々と、苦痛と後悔を伴い蘇る。

初めて出会ったあの時……なぜ矢を射た! そっと近づき話しかけ、その小さな頭を撫でていれば。
髪を掴まれ、地面に突っ伏し助けを求めた時……苦しめるのでなく……手を差し伸べ、庇っていれば。
血を流した獲物ではなく、美しい贈り物をしていれば……
あの場所から、救い出していれば……
そうすれば、その瞳には私を映して……同じ笑顔と言葉で、口付けを交わしてくれていただろう……。

そして、その記憶の、終着点……。
あの日私は……お前に……取り返しのつかない事をした……。
私はこの部屋で!……愛を伝え、抱きしめたこの場所で、いったいお前に何をした!
思い出す事を、拒否するかのように、身体が震えるも……眼前には、かつてこの部屋で繰り広げたその光景が、容赦無く広がった。


あの日捕えられたお前は、やつれ、疲れ果てていた……。
……従順なお前が逃げ出すなど、誰も思っていなかった。
失踪に気づいた妹の報せを受けて、障壁で砦を囲い込んだのは私だった……。
大規模な捜索が行われ、それから、1日半が経ち、ようやく捕えられ、皇帝の前に引き立てられたお前は……町娘のようなボロに身を包み、必死に逃げまわったようで、あちこち擦りむき血を流していた。

「竜の国には、行きたくないのです」
逃げた理由を尋ねられ、そう応えたお前の声は震えていた。

「この国を出るまで、部屋から出ることは禁ずる。鎖に繋いでおけ」
皇帝に、冷たく告げられても、お前は縋るでも泣き喚くわけでもなく、ただぼんやりと俯いて、兵に連れられていった。

その夜、この部屋を私は訪れた。
ひっそりと……まるで、その行為の後ろめたさを充分に理解しているかのように。

その夜は、たった一つの小窓でも充分な程に……翳ることのない月が、部屋の隅々まで青く照らしていた。
寝台の縁に腰掛けて座る、その小さな後ろ姿を見た瞬間、胸が高鳴った。
心を落ち着け、ゆっくりと近づき、正面に立つと、お前は僅かに顔をあげ、私を見た。
目の下は赤く腫れ、やつれ、悲壮に満ちたその顔……。
従順で、優秀な姫を演じていただけで、お前の惨めさは何も変わっていない……そう思うと、安堵した。

お前を見るたびに湧き上がった不快な感情が、不思議にその時は心地よく感じた……。

ーーなぜだ……なぜ私はそう感じた?ーー

お前に会うまでは、”不快な感情”というものが自分の中に存在することさえ知らなかった。
雑木林で、お前の笑顔を見て感じた、あの不快感。
古井戸から立ち去るお前の後ろ姿を、目で追ったその時も……
完璧な所作で、優雅に振る舞うお前を見た時も……
その度、強烈な不快感に襲われた。

それは……今なら分かる。隠し封じ込め、それでもあふれた本心を……歪んだ感情にげ替えていたからだ。
……私は、お前の笑顔を妬み、うらやんだ……。
成長したお前の後ろ姿を追いかけたかった……。
美しいお前に触れたかった……。

ーーただお前が欲しかった!ーー

生まれて初めて、心から欲したものは……手に入れることの許されないお前だった。
だからこそ……あの時、ようやく手に入ると思った。
それがお前を苦痛で服従させる方法だとしても……。


「罰を与えにきた」
お前は私の手にあるソレが何かは知らずとも、その顔に、はっきりと不安の色を浮かべた……。

黒々としたその杖には、持ち手に発火の神具が取り付けられ……稼働と同時に、熱せられた黒磁石が、不気味に赤く輝いた。
<自戒の烙印><裁きの黒神>それら通名が意味する通り、罪人へ用いられるその刑具は、皇国では誰もが知るものだった。

大罪を犯した者は、その背に1本……どのような些細な罪でもそれが2度目であれば2本目を……そして3度目の烙印を受けた者には、処刑が待つ……。

ーー私は、なぜお前に、それ程の罰を与えようと思ったのか!ーー

その細い手首を掴み上げ、寝台の縁にうつ伏せにし、押さえつけた。

「夜は長い。反省するには十分だ」
記憶にある声は、おぞましいほど冷静だった。

「やめてっ!!!!」

ーー止めろっ! もうこれ以上は止めてくれ!ーー
両手で、顔を覆うも、脳裏に焼きついた女の姿体が、真っ暗な瞼の裏に鮮明に投影される。

「命令が出来る立場じゃないだろう」

神性を解放し、瞬時に広げた障壁で、全身を押さえ込む。
凝集された神性は、癒しを超えて、身体にひりつく痛みを与える。
お前は叫び喘ぎながら、敷布を掻きむしり、もがいていた……。

「どうかっ、どうか許してください!もう逃げませんから」

必死に首を上げ、こちらを振り向き、見上げ、懇願する……敷布に擦り付けたその唇から、血が流れる様に、釘付けになった……。
些細な事でその皮膚は破けると……手加減してやらねば、骨まで砕けてしまうと思った……。

障壁を解いても、もう抵抗する様子は無く、ただ悲痛に満ちた目で救いを求める。

ーーそれでも、私は……………ーー
当時の興奮は、今、罪悪感に塗り変わり、全身を蝕むように這いずった。

「いや、まだだ。もっと懇願すべきだろう? 違うか? 私の名を呼び、懇願してみろ」

「皇太子様! お許しください!」

「違うだろう? 私の名を知らぬのか?」

「イグニス様、どうか、どうかイグニス皇太子殿下!……もう絶対に逃げません! おっしゃる通りにしますから!」

……母が死に、誰の口からも呼ばれる事の無くなったその名前。
『皇太子』ではなく、自分自身のその名前。
縋り付くようにその名を呼ばれ……言い知れない快感を得た。

ーー瞬間、体に感じた唯一全ては、お前への征服欲だったーー

衝動のままに、その背に強く押し当てた。

「ああああああああああああ」

記憶の中の悲鳴と……現実で発した自分の叫びが重なった!
それは壮絶に鼓膜を震わせて……自らの叫びに、目を見開く。
激しい呼吸音と動悸までが、部屋中に反響しているようにうるさくて、必死に耳を塞ぐ……!

否応なしに、蘇る、肉の焼ける臭い……部屋を震わせたその絶叫!

「皇太子殿下! 如何いかがされましたか!」

通路に控える従者の声。

「来るな! 入るな!」
息絶え絶えに、絞り出した声は掠れ、喘ぎに混じる。

必死に、目を見開き、息を吸い込み続ける。
視界は光と闇の明滅を繰り返し……陰惨たる笑みを浮かべ、醜悪な杖を手にした男が、時を超えて、目の前に立っていた。

やがて……次第に、それは闇の中に溶け……後には灰色の暗がりだけが残された。

……もう、どれだけ時間が経ったかも分からない。

その間も……目の前の寝台の縁から、膝を降り垂らされた、その女の足だけは、微動だにせず……そこだけが別世界のように静謐な気配を放っていた。

ーーあぁ……思い出した……ーー
そもそもお前が生まれたことが1度目の罪
2度目は、私に背を向けた罰
3度目は、逃げた罰……いや、それらは全て建前だった……本当は、私を置いて竜の国へ去ってしまう事への罰だった。

立ち上がると、酷い目眩にふらついた。
必死に寝台に近づき、その姿を目に入れる……。

罰を受け、気絶したお前を神性で照らすと……それまで仄暗く見えたモノが鮮やかな赤色に変化した。まるで羽を切り取られた鳥のように、背中を血に染め横たわったその姿……征服欲は満たされて、今まで感じたことのない充足感を得た。目に焼き付けるように、時間をかけて眺めた後、この部屋を後にした……。

だが、そのいびつな充足感は、時間が経ち、冷え切った後……暗い塊になり心の一部を締めていた。
そしてお前に与えた罰は……今自らに跳ね返り、心に烙印を焼きつけた。

詫びて、お前の求めるままに罰を受ければ……許されるか?
いいや、お前は、絶対に許さない。
従順に受け入れ、従うそぶりを見せて、心では抗い続ける。

欲しくて欲しくてたまらない。

震える手を伸ばし、その頬に触れる……。

私の事を知りもせず、賞賛し羨望する奴らしかいない中、お前だけは……全く違う目で、私を見た。
恐怖、怒り、戸惑い、全てがありのままで、新鮮で……その瞳に映る時、私は自由でいれた。

……そう、だからこそ、お前が逃げる前に見せた、私への無関心と無表情には耐えられなかった……。

丸裸にされた、自分の愚かな思考……。
一度気付けば、呆気ないほど、全ての行動の説明がついた。

「あの時、お前が竜の国に立つことが決まって…………
お前の中で、ただ何者でもないまま、忘れ去られることが嫌だった……。
だから、その身体に、私の存在を刻みつけた……」

祈るように、その手を両手で握りしめ、思いのままを口にする。

「そして何も持たせず、竜の国に送り出した。お前が竜の国で惨めな扱いを受けることを望んだから……。辛い思いをすれば、この皇城が良かったと、まだ私と過ごした日々の方が良かったと、懐かしむ時が来るだろうと……」

最後の口付けのままに両腕を広げ、横たわるその姿。
幻の中で見せてくれた、美しい笑顔……慈しむような眼差し……柔らかな口付け。

それらは全て、この手を離れ、今また彼女の胸の内に、秘められた。

「私が愚かだった……」

私が愚かにも手放して……あの男が、手に入れたもの。
それは、自分にとって余りにも大切なものだった。諦める事など、出来るはずも無い。

彼女の心も……身体も……このまま奪わせてなるものか!

全てを、取り戻さなくては。
頭は冷静なままに、身体は火照り、昂る。
気を失い、深い眠りに落ちた女に、身体を重ね、その身を強く抱き締めた。

この身体の全てを食べ尽くし、自分の一部にしてしまいたい……。

その満たされることのない欲は……己の全ての嘘と虚栄を剥ぎ取って、底のない渇望の沼に沈めていった……。
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