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{ 皇太子編 }

52. 狩りと罠 ※

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それから数年が経ち、アレの存在さえ忘れかけた頃だった。

貴族の子弟を連れ、春を迎えた狩場に、馬で向かっていた。
午前の陽射しは暖かく、新緑に染まった森から吹き抜ける風が、体を撫でる。
馬の闊歩する規則正しい音に身を任せていると……後ろで蹄の乱れる音がして、振り向くと……皆一様に横を向いていた。

その目線の先……雑木林の側の古井戸に、腰を降ろす女がいた。
鬱蒼とした雑木林を背景に、日影の中で、その白さだけが異様に浮き上がって見えた。

その時、数年前の一時期、よく見かけていた、惨めな少女の存在を思い出した……。

こちらに気づくこともなく、横に置いた木桶から、手で水を掬い取り、髪を濡らす。
そして濡らした長い髪に指を通し……櫛で梳くようにゆっくりと滑らせる。
丹念に丹念に、同じ動作を繰り返す。
濡れた白い髪は、指の動きに合わせ、波打つと、光を弾いて艶めいた。

突然の馬のいななく声で、こちらに気づき顔を上げ、立ち上がった女は……あの時のでは無かった。

相変わらず華奢だが、水に濡れた髪が、その身体に沿って、柔らかな弧を描く。
長く伸びた手足は……少女を成長させるに十分な、年月を感じさせた。
相変わらず、身体に合わない粗末な古着を着てはいるが、それさえ、その成長を隠せるものでは無かった……。

透き通るような、その白い肌……青空を飲み込んだような青い瞳……果実を潰したような赤い唇……それは昔と同じようでいて、全く違う鮮烈な印象を受けた。

そして何より……その顔には、一抹の恐れも、動揺も浮かんでいなかった。

しばらくその場に佇み、何か考え込むようにこちらを眺めていたが……やがて踵を返すと、静かに雑木林の奥に立ち去った。

皇族や貴族に対し、極めて無礼な態度であったが、その姿が雑木林の影に溶け込んだ後でさえ、誰も何も言わなかった。

その後、狩りをしている最中もアレの姿が脳裏にチラつき、不快に身体がざわついた。
何の感情も見せず立ち去ったあの女。
あの瞳が写していたものは、私ではなく、集団だった。
目が合うことなど一切なく、ただ集団を認識していただけだった。

気づかなかったのか?
まさか、私を??

精人族の中でも、恵まれた容姿と体躯……どこにいても否応なしに注目を浴びてきた。
どこに視線を向けても自分をみつめる目があった。
それが当たり前であると同時に、煩わしく感じるほどだった。

だが……アレは私を見なかった。

空を仰ぐと、吸い込まれそうな程の青空が、視界を埋め尽くす。
上空を見据えたままに、ゆっくりと狙いを定め、矢を放った。
それは鋭く空を裂き、狙い通り、獲物に命中した。
その白い鳥は、矢が刺さった瞬間、鋭い鳴き声を上げ……抵抗するように、その羽を広げながら……落下した。

馬から降り、ゆっくりと近づく。

真っ白な羽毛を血に染めて、最後の命を振り絞り……もがき、鳴く哀れな鳥をじっと眺めた。
その必死な姿と鳴き声は、とても綺麗だった……。

その獲物は、また昔のように、アレの小屋の前に投げ捨てた。


それから数日おきに、執務の合間を縫って、雑木林を散策した。
少女が遊んでいた頃と同じ、変わり映えのしない雑木林。

ただ少女がいるだけで、水音がこだまするような軽やかな音と光で満たされたその場所には……陰鬱な森が拡がるだけだった。

何度足を運んでも、人の気配さえない。
数年前は、雑木林に立ち寄るたび、遊んでいる姿を目にする事が出来たのに……。
その女の住処に、自ら足を運ぶ事は憚られた。

やがてひとつの季節が過ぎ去って、ただ積み重なる不毛な時間に嫌気が差した頃……狩れぬなら、罠にかければいい。そう気付いた。

その召使は、指示通りの仕事をした。
それは簡単なことだった。
アレに妹の部屋を掃除させ……その装飾品をアレの住処に置く。
たったそれだけだった。

聞き慣れた妹の声が、夕暮れの森に響く。
皇族らしからぬその声音……だが、ここでは気に留める者はいない。
襟をただし、髪を掻き上げ、ゆっくりと息を吐き……小屋に向けて足を運んだ。

やはり、その姿は惨めで憐れだった……。
小屋から引きずり出され、地面に倒れ込むソレを見て、心地よい安堵感が胸に広がる……。

妹が何か叫んだが、女から意識が離せない。

今にも泣き出しそうなほど、その両目を潤ませながらも、女は挑むようにこちらを睨む……。
いつも怯え、泣き叫ぶしか出来なかった少女が……。
その瞳から、幼い頃とは違う、強い意志を感じ取った。

「違います。私は盗ってなどいません! 髪飾りには触れてもいません。誰かの策略です! どうか信じて下さい!」

……女の口から紡がれた、その言葉の羅列が……意外な程に『まとも』で驚いた。

話せたのか? あんな生活の中で、よく口がきけるようになったものだ。

悲壮に満ちたその声は、軽やかで……美しく耳に響いた。
まるで、あの時、射落とした鳥のように。

ふと、もっと鳴いて欲しくなった。
襟を持ち、自分に引き寄せ、その瞳を見つめながら、頬を軽く打ってみた。

衝撃に目を見開いた女は、唇に血を滲ませて……こちらを更に、鋭く睨む。

その瞳を覗き込む。
やはり何かが違う……。たった数年で、その身体の成長と共に、お前の心に何があった。
女は逃げようと身を捩らせたが、こちらに引き戻し、襟首を掴んだまま持ち上げた。

予想より、遥かに軽いその身体……片腕で軽々と持ち上げ、木に押し当てると、うめき声をあげる。
手をばたつかせ、必死に抵抗し腕をかきむしろうとするが、露ほどの痛みも感じない。

女の目から溢れた涙が、その頬を輝かせる……。

苦しそうに目を細め、喘ぎながらも、次第に力が抜け……両腕がだらりと垂れ下がった。

手の力を緩めると地面に崩れ落ち、倒れ込み動かない。
……気を失ったのか。

静まりかえった森に、耳障りな足音が響き……視界の端に、妹と召使の、慌ただしく走り去っていく後ろ姿が写った。

また視線を戻し、地面に倒れ込んだ女を眺める……。
土に広がる真っ白な髪は、幼い頃のように泥と垢にまみれた様子もなく……綺麗に梳かされ、波のように美しい流線を描いていた。

しゃがみ込み、赤みを帯びた頬に残る、涙の痕跡をなぞると……柔らかに、吸い付くような感触が指先を包む。
目尻に残った涙の粒を掬いとると、それは青い瞳の欠片のように、指先で煌めいた。

自分の唇に載せ、そわした舌先がその水滴に触れると、僅かな塩気を感じた。
もっと甘い物かと思ったが……それは残念なほど、ただの涙だった。

これからこの女は、私を見れば、また恐怖に慄き、逃げるだろう。
昔のように……この女の本来あるべき無様な姿で……。

目の前の、予測し得た、罠の結末……それは意外にも、期待ほどの満足感をもたらすものでは無かった。

その日以降、あれほどまでに、あの女に執着した自分が、愚かに思えるほど、また興味がなくなった。



だが、その翌年……今から一年前の事だった。
魔物の緊急討伐の支援軍の対価として、アレを竜の国に送り出すと決まった時……その姿を現したアレは……
アレはまた、あまりにもかけ離れた姿で、現れた。

恐れることも、怯えることも、反抗の意思さえ浮かばない……今まで目にしたこともない、無関心と無表情……。
あの時、私は……
アレの、その態度に苛ついて、腹が立って……
だが、既に竜の国に送られる事が決まった身……手出しする術もなく……
日に日に、募る焦燥感と、憤り。それは苦しくて苦しくて、だがどうにも出来ず……

いや違う、そうでは無かった。
アレは飄々とした態度でいながら、その実、心の内で抵抗し、惨めな運命を受け入れられずにいた。

……あの時、女は逃げ出した……。
捕えられたその姿は、ボロ布のようだった……
そして、罰を与えた……
それは与えて当然の罰だった……
アレはやはり無様に怯え、惨めな存在であるべきなのだから……
屈服させ、私への服従心を植え付けなければいけないと、そう強く感じた……。

だが、なぜ今、あの笑顔が浮かぶのか……。
この言いようの無い不安感……。

アレは、咎人としてのあるべき姿を損なった……
そう、アレの笑顔も幸福も、決してあってはならない事だ。
迷うことなど何も無い。

竜の国へ送り返すにしろ、またアレには思い出させねばならない。
どうあるべきか……アレはどうあるべきか……。

その時、息苦しく感じるほど狭い通路に、足音が反響し……思考が途切れた。
その足音が近づくにつれ、自らを取り戻すかのように、目の前が晴れていく……。

そうだ……私はアレから聞きださねばならぬ事が、幾つもある。

記憶を遡るにつれて芽生えた、気味の悪い感情が……とぐろのように身体に纏わりつくも……扉の奥で目を覚ましているだろうアレに向き直り、姿勢を正す。
するべき事は……明確だ。

乱れた呼吸は、既に整い、また穏やかに笑みを浮かべる……。

顔を伏せ、その額に汗を浮かべて、こちらの様子を窺う医師に向け……端的に命を下した。



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