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{ 竜王編 }

37. ハンナの叫び

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ハンナは足早に廊下を進み、目的の部屋へと向かっていた。
つい先刻その身に降りかかった災難を思い出し身震いする。
陛下に呼び出され、問いかけられたあの質問……

「お前は彼女の傷跡を知っていたのか」

ただ淡々と発せられたその問い……でもそこには隠しきれない凶悪さが滲んでいた。
その横に控える侍従である兄は、不安気に、陛下と私の顔を交互に見つめた。
答えが気に食わなければ、酷い目に合わされるだろう……。

「はい。陛下からの宴席用ドレスが届いた際に、打ち明けられて……。それまでは存じ上げずにおりました」

兄は、陛下を心から尊敬し、崇拝しているようだが……私は同族とはいえ、怖くて近寄るのも嫌だった。
それに、陛下はルミリーナ様を大切に思いながら……じつルミリーナ様を困らせてばかりいる。
陛下から贈られたドレスを目にして、青ざめたルミリーナ様。
お可哀想に。ひどく恥じ入りながら、その傷跡を告白されて……
目にした時は血の気が引いて、その痛みを想像すると酷い吐き気がした。

どうりで、思い返せば……入浴はお一人で、ドレスのお着替えの際も、衝立越しに、ご自身で肌着を着用されていた。
でも馬鹿な私は、それが精人族の文化なのかと思い、ルミリーナ様に合わせていた。

結局、あの憎きドレスのスリット部分を隠すように、背中に沿って長いドレープをつけることになったが……
布地を手配する時間の余裕もなく……手持ちの中からルミリーナ様が選んだ布は、白く美しいドレスだった。
郷里から唯一持ち込まれたそのドレスを……むしろこれがいいと、迷いなく鋏を入れたルミリーナ様。
それなりに、うまく隠せたと思っていたが、所詮は付け焼き刃だったのか。

私の大事な大事なルミリーナ様。
初見の挨拶の時に、礼を言われた時は驚いた。
精人の姫というからどれだけ高慢ちきな女だろうかと想像していたのに。

いつも遠慮がちにこちらを気遣って……
私のとめどないお喋りに、穏やかな眼差しを向け真剣に聞き入ってくれる様子は……年の離れた姉のようだった。
でも臆病で頼りなげで……何かしてあげる度に、嬉しそうにはにかむ様子は……まるで幼い妹のようだった。
兄しか知らない私にとって、一度に姉妹ができたようで……次第に、心から大切に思うようになった。

「ルミリーナと、名前で呼んでもらっていいかしら?」
そう言われた時は、嬉しくて舞い上がった。


私の返答に、陛下は黙ったまま、しばらく考え……納得した様に頷くと、兄を連れ、立ち去ろうとした。
でもその時、咄嗟に口をついて出た言葉に、自分でさえ驚いた。

「あ、あのっ! 陛下! どうかルミリーナ様を叱らないでください。問い詰めないで下さい。
どうか、お願いします! きっと何かご事情があるはずなんです。ルミリーナ様は、本当にお優しい方なんです」

兄が、驚愕の様相で目を見開いた。
一方、陛下はこちらを見つめ……値踏みするように目を細めた。
恐怖で足が震えるが……後悔はない。

だが、陛下が発した言葉は、予想外のものだった。

「知っている……。
ルミは部屋で眠っている。
ドレスのままでは……苦しいかもしれん……。
様子を見に行ってやれ。」

先ほどの冷酷な雰囲気など微塵も感じさせず……優しささえ感じさせるその口ぶり……。

あっけに取られ返事できずにいる私の事など気にも留めず……踵を返し立ち去る陛下の横で……
まだ、落ち着きをなくしたままの兄は……あたふたと、首を切られる仕草をし、こちらを指差した。

竜人族の王の血筋の男達……その重たい愛故の、執着心と束縛は、時に最愛の人を苦しめる結果となることを……同族で知らぬ者はいない。
陛下がルミリーナ様の愛を得ようとする執念は、既に私の理解の範疇を超えている。

数時間前……舞踏会場の控えの間までお供した時、ルミリーナ様に慈しむような表情を向けた陛下。
あの時初めて、お二人の寄り添う姿を見た。
そして、ああも人は豹変できるものかと驚いた。
冷徹で、粗野で、傲慢な陛下が……巧みに偽の人格を作り上げ、ルミリーナ様の前でだけ、まるでその人そのものであるかのように振る舞う。

ルミリーナ様を好きになるのは仕方ない!
でも!偽の仮面をつけて、優しく振る舞い、物を与え、愛を囁き……その本性を隠したまま、彼女の愛を得ようとする魂胆には、納得できなかった。
まるでルミリーナ様を騙しているようで、信用ならない。

そもそも、精人族を嫌う者が多いこの地……兄以外の城の者全員が信用できなかった。
それにルミリーナ様は、人と関わることを極端に恐れ避けようとする……。

陛下の寵愛を得てから、日が経つにつれ……色々な変化が起きた。
食事は豪華になり、使い切れない程の手当てが渡されて、お付きの使用人も増えたが……
ルミリーナ様は、召使が掃除に入って来ただけで、押し黙り、小間使いがドレスを着せようとするだけで、緊張の面持ちで身体を硬くした。
過去に人から酷い仕打ちを受けて、よほど辛い目にあってきたのだろう……。
精人族の皇族の姫であるのに……何も持たず、欲しがらず、装うこともしないルミリーナ様。

そんなルミリーナ様が、信頼し、気を許す存在は、陛下でもなく……唯一私だけだった。

だから、特別の配慮をしてきた。
ルミリーナ様がご不在、もしくはご入浴の時のみ、召使の立ち入りを許し、食事の運搬さえ扉の前に置くように指示した。
そして、できることは全て、私がしてあげた……。
使用人のような仕事だって、ルミリーナ様のためなら何の苦にもならなかった。

陛下の重すぎる愛からも、他の者の悪意からも、ルミリーナ様を守ってあげられるのは……これまでもこれからも、私しかいない。

衛兵に、軽く会釈し、その後ろの扉を小さくノックする。
返事のない事を、聞き耳を立てて確認すると……音を立てないよう静かに扉を開けた。

途端、吹き抜けた夜風が頬を撫で、小さな違和感を感じた。
カーテンが風で翻り、月明かりが差し込む。
扉が大きく開け放たれた、無人のバルコニーが目に入った。
部屋に入り、ソファを横切り寝台に向かう。

燭台の灯りが消えた、薄暗い室内で……月明かりだけが、空になった寝台を照らしていた。
掛布は乱雑にめくられて……敷布が青白い光を放っていた。

「ル、ルミリーナ様!」
部屋中に響き渡る声で名を呼ぶも、返答はない。

心臓が早鐘を打つ。
隣接する浴室も、衣裳部屋も走って見て回る。

(いない……)

部屋の真ん中でただ唖然と立ち尽くした。
風が止み、カーテンがその重みで垂れ下がり、部屋が暗闇に覆われた。

その暗闇の中の沈黙が……徐々に恐怖となり空間を満たしていく。

この場の異常性と、ここにいるべき人の不在……それはひとつの結論を明確に告げていた。

「うっ……あっ」

声を振り絞る。
姫と侍女、いや、心を通わせ友人となった2人の……思い出が詰まった空間を……叫び声が切り裂いた。
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