2 / 2
第二話
しおりを挟む
「俺はクラース。これからよろしく、アレクセイ」
柔らかな栗色の髪の毛。穏やかな碧の瞳。
突然現れた自分という存在に緊張しているのか、その笑顔は少しぎこちなかった。
けれど。
会いたかった。ずっと会いたかった。
記憶よりもずっと幼く小さいクラースの姿。
泣き出したかった。抱きしめたかった。抱きしめてほしかった。
そのすべての感情を押し殺して、差し出された手を握った。
あたたかい───
クラースに最期に触れた日のことが蘇る。
少しずつ失われていく熱。大好きだった目は、自分どころか、もう何も映さない。
アレクセイは泣いた。物心ついてから初めて、声を上げて泣いた。
聞いたものの胸を締め付けるような慟哭だった。
その日からの記憶は曖昧だ。
感情と思考が分離されたような、自分であって自分ではない感覚がずっと続く。
おそらく、自分はあの日死んだのだ。
クラースが息を引き取ったあの日に。
クラースが存在しない世界など、何もかもがどうでも良い。
いや、クラースを取り上げたこの世界など、滅んでしまえばいい。
燃やして燃やして燃やし尽くして…そして狂った自分は、最期には自らの命を絶った。
血塗られた身体を捨て、魂だけになったとしても、クラースには会えることはないだろう。
あの優しく、清らかな義兄には……
そして、目が覚めた。
遠い記憶にある天井。
そっと手を動かしてみると、思った通りに動いた。
ただ、拭いきれない違和感がある。
ベッドから体を起こし、両の手を見る。
……小さい。
今度はベッドから降りて、部屋の隅にある姿見の前に立つ。
……予想どおり、幼い。
これは夢だろうか。それとも、今までがひどい悪夢だったのだろうか。
おそらく、そのどちらでもない。
記憶ははっきりとしている。
この体はまだ十にも満たない時分のようだが、この意識は成人したものだ。
それに、夢にしては五感が鮮やかすぎる。
鏡の前で思案していると、コンコン、と扉が叩かれた。
「あら、おはようございます、アレクサンドライト殿下。
もう起きていらしたんですね」
そう言いながら部屋に入ってきた、若い侍女の姿には見覚えがあった。
さすがに名前は覚えていないが。
「長い移動も本日でおしまいですね。お体は大丈夫ですか?」
優しく自分に話しかけながら、着替えをさせてくれる侍女のことを、
そういえば好ましく思っていたように思う。
「わたくしはこれでお別れですが……
グランヴィル公爵様のお宅には殿下とおひとつしか変わらないお嬢様と、
少し年上のご子息様もいらっしゃると伺っておりますから、きっと楽しくなりますよ」
グランヴィル公爵。
ドクン、と心臓が跳ねた気がした。
その名を忘れたことは一時もない。
グランヴィル公爵家、そしてその子息クラース。
これが夢でも、狂った末の妄想でも、それでもいい。
もう一度、あなたに会うことができるのなら───
* * *
身支度と軽めの朝食が済んだ後、馬車に乗せられて何時間経っただろうか。
窓から見える風景が見慣れたものになるにつれ、胸が高鳴る。
そして到着したグランヴィル公爵邸は、かつての記憶通り、歴史を思わせる重厚な建物ながらも、手入れの行き届いた花と緑で、柔らかな美しさを感じさせた。
つきそいの護衛に先導され邸宅の正面へ進むと、こちらも記憶通り、優しげなグランヴィル公爵夫妻の姿があった。
「初めまして、アレクサンドライト殿下。
長旅お疲れ様でございました。
私はこの地を治めておりますグラシス・グランヴィル。
こちらは妻のシャーリーと申します」
公爵に紹介されたシャーリーは、にこりと微笑みながら美しい所作で挨拶をする。
「初めまして、グランヴィル公爵、公爵夫人。
アレクサンドライト・ユリーカーです」
自分で発した声の高さに内心驚きながら、挨拶を返した。
これがもし…過去の世界なのだとしたら、自分は現在7歳のはず。
7歳としての振る舞いに、おかしなところはないだろうか。
そんな懸念をよそに、グランヴィル公爵は笑顔のまま、執務室へと自分だけを招いた。
そこで自分は、アレクサンドライトの名を隠し、以降はアレクセイと名乗ること。
グランヴィル公爵遠縁の子を預かるという体になる、という説明を受けた。
ひとつひとつの説明に頷くのは、見た目は7歳のこどもに過ぎない。
きっとすべてを理解できてはいないだろうと、公爵は思っていることだろう。
「これから私は殿下のことを、息子と思って接します。どうぞご了承ください」
「はい」
「……そしてあなたにもどうぞ、私たちを家族だと思って思って頂きたい」
過去にもかけられたであろう公爵のその言葉の意味を、今はじゅうぶんに理解できた。
アレクサンドライトはその身分故にあやうい立場だった。
幼い頃から各地を転々とし、実の父母の記憶もおぼろげだ。
仕える者たちは皆丁寧に接してはくれたが、心を許し許される関係ではなかった。
(寂しかったのだろうな)
この自分はまだ7歳。
しょうがないこととはいえ、成人の意識を持っている今は恥ずかしさも覚える。
落ち着ける場所を持たず、ひとりで過ごしていた日々。
それも今日で終わることを、自分はもう知っている。
「さて、そろそろ家族を紹介しましょう。
マーク、息子たちを連れてきてくれ」
公爵が部屋の外に控えていた使用人にそう命じ、5分ほど経っただろうか。
実際にはわずかな時間だったのだろうが、はるかに長く感じられた。
使用人が執務室の扉を開く。
逸る気持ちを抑えるため、静かに深く、息を吐く。
気が狂うほどに思い焦がれたクラース・グランヴィルと、その妹の姿がそこにあった。
柔らかな栗色の髪の毛。穏やかな碧の瞳。
突然現れた自分という存在に緊張しているのか、その笑顔は少しぎこちなかった。
けれど。
会いたかった。ずっと会いたかった。
記憶よりもずっと幼く小さいクラースの姿。
泣き出したかった。抱きしめたかった。抱きしめてほしかった。
そのすべての感情を押し殺して、差し出された手を握った。
あたたかい───
クラースに最期に触れた日のことが蘇る。
少しずつ失われていく熱。大好きだった目は、自分どころか、もう何も映さない。
アレクセイは泣いた。物心ついてから初めて、声を上げて泣いた。
聞いたものの胸を締め付けるような慟哭だった。
その日からの記憶は曖昧だ。
感情と思考が分離されたような、自分であって自分ではない感覚がずっと続く。
おそらく、自分はあの日死んだのだ。
クラースが息を引き取ったあの日に。
クラースが存在しない世界など、何もかもがどうでも良い。
いや、クラースを取り上げたこの世界など、滅んでしまえばいい。
燃やして燃やして燃やし尽くして…そして狂った自分は、最期には自らの命を絶った。
血塗られた身体を捨て、魂だけになったとしても、クラースには会えることはないだろう。
あの優しく、清らかな義兄には……
そして、目が覚めた。
遠い記憶にある天井。
そっと手を動かしてみると、思った通りに動いた。
ただ、拭いきれない違和感がある。
ベッドから体を起こし、両の手を見る。
……小さい。
今度はベッドから降りて、部屋の隅にある姿見の前に立つ。
……予想どおり、幼い。
これは夢だろうか。それとも、今までがひどい悪夢だったのだろうか。
おそらく、そのどちらでもない。
記憶ははっきりとしている。
この体はまだ十にも満たない時分のようだが、この意識は成人したものだ。
それに、夢にしては五感が鮮やかすぎる。
鏡の前で思案していると、コンコン、と扉が叩かれた。
「あら、おはようございます、アレクサンドライト殿下。
もう起きていらしたんですね」
そう言いながら部屋に入ってきた、若い侍女の姿には見覚えがあった。
さすがに名前は覚えていないが。
「長い移動も本日でおしまいですね。お体は大丈夫ですか?」
優しく自分に話しかけながら、着替えをさせてくれる侍女のことを、
そういえば好ましく思っていたように思う。
「わたくしはこれでお別れですが……
グランヴィル公爵様のお宅には殿下とおひとつしか変わらないお嬢様と、
少し年上のご子息様もいらっしゃると伺っておりますから、きっと楽しくなりますよ」
グランヴィル公爵。
ドクン、と心臓が跳ねた気がした。
その名を忘れたことは一時もない。
グランヴィル公爵家、そしてその子息クラース。
これが夢でも、狂った末の妄想でも、それでもいい。
もう一度、あなたに会うことができるのなら───
* * *
身支度と軽めの朝食が済んだ後、馬車に乗せられて何時間経っただろうか。
窓から見える風景が見慣れたものになるにつれ、胸が高鳴る。
そして到着したグランヴィル公爵邸は、かつての記憶通り、歴史を思わせる重厚な建物ながらも、手入れの行き届いた花と緑で、柔らかな美しさを感じさせた。
つきそいの護衛に先導され邸宅の正面へ進むと、こちらも記憶通り、優しげなグランヴィル公爵夫妻の姿があった。
「初めまして、アレクサンドライト殿下。
長旅お疲れ様でございました。
私はこの地を治めておりますグラシス・グランヴィル。
こちらは妻のシャーリーと申します」
公爵に紹介されたシャーリーは、にこりと微笑みながら美しい所作で挨拶をする。
「初めまして、グランヴィル公爵、公爵夫人。
アレクサンドライト・ユリーカーです」
自分で発した声の高さに内心驚きながら、挨拶を返した。
これがもし…過去の世界なのだとしたら、自分は現在7歳のはず。
7歳としての振る舞いに、おかしなところはないだろうか。
そんな懸念をよそに、グランヴィル公爵は笑顔のまま、執務室へと自分だけを招いた。
そこで自分は、アレクサンドライトの名を隠し、以降はアレクセイと名乗ること。
グランヴィル公爵遠縁の子を預かるという体になる、という説明を受けた。
ひとつひとつの説明に頷くのは、見た目は7歳のこどもに過ぎない。
きっとすべてを理解できてはいないだろうと、公爵は思っていることだろう。
「これから私は殿下のことを、息子と思って接します。どうぞご了承ください」
「はい」
「……そしてあなたにもどうぞ、私たちを家族だと思って思って頂きたい」
過去にもかけられたであろう公爵のその言葉の意味を、今はじゅうぶんに理解できた。
アレクサンドライトはその身分故にあやうい立場だった。
幼い頃から各地を転々とし、実の父母の記憶もおぼろげだ。
仕える者たちは皆丁寧に接してはくれたが、心を許し許される関係ではなかった。
(寂しかったのだろうな)
この自分はまだ7歳。
しょうがないこととはいえ、成人の意識を持っている今は恥ずかしさも覚える。
落ち着ける場所を持たず、ひとりで過ごしていた日々。
それも今日で終わることを、自分はもう知っている。
「さて、そろそろ家族を紹介しましょう。
マーク、息子たちを連れてきてくれ」
公爵が部屋の外に控えていた使用人にそう命じ、5分ほど経っただろうか。
実際にはわずかな時間だったのだろうが、はるかに長く感じられた。
使用人が執務室の扉を開く。
逸る気持ちを抑えるため、静かに深く、息を吐く。
気が狂うほどに思い焦がれたクラース・グランヴィルと、その妹の姿がそこにあった。
0
お気に入りに追加
47
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

6回殺された第二王子がさらにループして報われるための話
あめ
BL
何度も殺されては人生のやり直しをする第二王子がボロボロの状態で今までと大きく変わった7回目の人生を過ごす話
基本シリアス多めで第二王子(受け)が可哀想
からの周りに愛されまくってのハッピーエンド予定

悪役令息に転生したけど…俺…嫌われすぎ?
「ARIA」
BL
階段から落ちた衝撃であっけなく死んでしまった主人公はとある乙女ゲームの悪役令息に転生したが...主人公は乙女ゲームの家族から甘やかされて育ったというのを無視して存在を抹消されていた。
王道じゃないですけど王道です(何言ってんだ?)どちらかと言うとファンタジー寄り
更新頻度=適当
R指定はないけれど、なんでかゲームの攻略対象者になってしまったのだが(しかもBL)
黒崎由希
BL
目覚めたら、姉にゴリ推しされたBLゲームの世界に転生してた。
しかも人気キャラの王子様って…どういうことっ?
✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻
…ええっと…
もう、アレです。 タイトル通りの内容ですので、ぬるっとご覧いただけましたら幸いです。m(_ _)m
.

例え何度戻ろうとも僕は悪役だ…
東間
BL
ゲームの世界に転生した留木原 夜は悪役の役目を全うした…愛した者の手によって殺害される事で……
だが、次目が覚めて鏡を見るとそこには悪役の幼い姿が…?!
ゲームの世界で再び悪役を演じる夜は最後に何を手に?
攻略者したいNO1の悪魔系王子と無自覚天使系悪役公爵のすれ違い小説!

【蒼き月の輪舞】 モブにいきなりモテ期がきました。そもそもコレ、BLゲームじゃなかったよな?!
黒木 鳴
BL
「これが人生に三回訪れるモテ期とかいうものなのか……?そもそもコレ、BLゲームじゃなかったよな?!そして俺はモブっ!!」アクションゲームの世界に転生した主人公ラファエル。ゲームのキャラでもない彼は清く正しいモブ人生を謳歌していた。なのにうっかりゲームキャラのイケメン様方とお近づきになってしまい……。実は有能な無自覚系お色気包容主人公が年下イケメンに懐かれ、最強隊長には迫られ、しかも王子や戦闘部隊の面々にスカウトされます。受け、攻め、人材としても色んな意味で突然のモテ期を迎えたラファエル。生態系トップのイケメン様たちに狙われたモブの運命は……?!固定CPは主人公×年下侯爵子息。くっついてからは甘めの溺愛。

転生悪役モブは溺愛されんで良いので死にたくない!
煮卵
BL
ゲーム会社に勤めていた俺はゲームの世界の『婚約破棄』イベントの混乱で殺されてしまうモブに転生した。処刑の原因となる婚約破棄を避けるべく王子に友人として接近。なんか数ヶ月おきに繰り返される「恋人や出会いのためのお祭り」をできる限り第二皇子と過ごし、婚約破棄の原因となる主人公と出会うきっかけを徹底的に排除する。
最近では監視をつけるまでもなくいつも一緒にいたいと言い出すようになった・・・やんごとなき血筋のハンサムな王子様を淑女たちから遠ざけ男の俺とばかり過ごすように仕向けるのはちょっと申し訳ない気もしたが、俺の運命のためだ。仕方あるまい。
俺の死亡フラグは完全に回避された!
・・・と思ったら、婚約の儀の当日、「私には思い人がいるのです」
と言いやがる!一体誰だ!?
その日の夜、俺はゲームの告白イベントがある薔薇園に呼び出されて・・・
ラブコメが描きたかったので書きました。

有能官吏、料理人になる。〜有能で、皇帝陛下に寵愛されている自分ですが、このたび料理人になりました〜
𦚰阪 リナ
BL
琳国の有能官吏、李 月英は官吏だが食欲のない皇帝、凛秀のため、何かしなくてはならないが、何をしたらいいかさっぱるわからない。
だがある日、美味しい料理を作くれば、少しは気が紛れるのではないかと考え、厨房を見学するという名目で、厨房に来た。
そこで出逢った簫 完陽に料理人を料理を教えてもらうことに。
そのことがきっかけで月英は、料理の腕に目覚めて…?!
料理×BL×官吏のごちゃまぜ中華風料理BLファンタジー。ここに開幕!

囚われた元王は逃げ出せない
スノウ
BL
異世界からひょっこり召喚されてまさか国王!?でも人柄が良く周りに助けられながら10年もの間、国王に準じていた
そうあの日までは
忠誠を誓ったはずの仲間に王位を剥奪され次々と手篭めに
なんで俺にこんな事を
「国王でないならもう俺のものだ」
「僕をあなたの側にずっといさせて」
「君のいない人生は生きられない」
「私の国の王妃にならないか」
いやいや、みんな何いってんの?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる