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梅の実
しおりを挟む会社に来ると、甘い香りが漂ってきた。
少し早いけれど、桃かな。熟した桃の皮をむいてかぶりつくのは、美味しい。
小さい頃、切ってもらった桃でなく、まるまる一個の桃が食べたくてただをこねた。高いから、贅沢って言われていたけど頂き物で箱の桃を貰った時に、初めて許してもらえた。
俺だけの桃。嬉しくて、よーく選んで皮の赤みが多い美味しそうな桃を選んだ。
そうっと洗って、皮も手でむいて。頬張ったら、甘くて美味しくて。夢中で食べていたら、果汁があふれて、ぽたぽたと肘まで伝った。
慌ててタオルをよこしたお母さんが、膝に敷いてくれて、ほらねって顔をした。
知らなかったのは、かじりついた桃の味だけじゃなくて、桃の果汁は染みになることもだった。
普通に洗濯しただけのシャツには、ぽつぽつ茶色の染みが出来てしまい、早く漂白しなかったことがバッチリ分かってしまった。
あれから、子供心にかじりつくのは止めようと思った。
甘い香りは沢田さんの持つ紙袋からだった。まじまじと見ていたら、これ?と持ち上げてみせて手招きしてきた。
こくこくと頷いて、中味を見せてもらうことにした。
「ほら、いい香りでしょ」
紙袋の中には、きれいな緑と、黄色味を帯びた梅の実がぎっしりと詰まっていた。
「どうしたんですか、こんなに沢山。誰かに貰ったとか…」
わざわざ会社に持ってきているのは、途中で貰ったからに違いない。それとも、あげるほう?
「近所でね…もう梅干しに漬けるのも大変だからって貰ったのよ」
「お年寄り?」
「まぁね…」
「木の上のほうは届かないからって下のほうのだけね」
沢山なった実をもぎもせず、地面に落ちるに任せる気にはならないのだろう。
きっと何年も何年も梅干しにしたり、梅酒にした相棒の木だったのだろうから。
「香りが強いのは、熟してるからなのよ」
甘すぎない爽やかな香り。
「美味しそうな匂いですよね」
「青いまま食べたら毒よ」
まっすぐ射るような目をする。
「何も知らない子供が食べたら大変なことになる。実際には種に含まれる物質が引き起こすんだけど、呼吸困難やケイレンをおこすから」
「へー…怖いですね」
「分かってても、惹かれるよね…こんないい香りさせてちゃね」
息を吸い込んで香りを楽しむ。
「分かってたって、欲しいものってあるじゃない。手に入らないから欲しいと思うのかもしれないけど。欲しいと思うことも、憧れることも、きっとある」
言いようのない顔をする。
泣きべそをかきそうな、それでいて皮肉だと笑おうとするような。
こんな顔もするんだなって…
ふいにドアが開くまで、ほんの一瞬なのに、時間が止まったかのように長く感じた。
まばたきもせずに。
刻み込まれた表情がある。どんな恋をしてきたかなんて知らない。
でも、僕には今と未来があるから。
きっと笑わせてあげるよ。
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